安部さん  「自分という現象について」について 2003,9,8,

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前略

小論集《自分という現象について》、興味深く読まさせて頂きました。
特に後半の「苦」についての記述はだいぶ考えさせられました。

〜諸行無常の世界の無常なる現象であるのに、永遠を求める生命。いくら永遠を求めたとて結局遠からず死ぬのに、すべての苦を最終的に承認するに足る価値はあるのだろうか?〜

〜すべての苦は、結局のところ何のためにもならない。〜釈尊は、生に意味を与える究極的な価値や目標を否定された。一切皆苦とは、一切の価値の否定なのだ。〜

〜このように修行すれば〜無価値な生を平安に生きることが可能になる(涅槃)。

実に明解で、厳しく、ある意味 「身も蓋もない?」見解だと思いました。(批判しているわけではありませんが)
このような見解を、教育委員会の人や、敬虔なクリスチャンが読んだら、どう思うのかなあなどと考えてしまいます。

私自身は今のところ「人生は無価値でも有価値でもない、無意味でも有意味でもない」というところで落ち着いています。
しかし、日常生活の中では、どっぷりと価値や意味に浸っております。

「自分とは何か」の問いに対しては
「他者や環境との関係性の総体が自分であり、この関係性を離れて、自分というものが単独で存在しているわけではない」
という答えを用意しています。曽我さんの見解とかけ離れてはいないと思うのですが、いかがでしょうか。

短いですが今回は簡単な感想のみです。おそまつさまでした。

草々

曽我逸郎 様

2003.9.8
安部


安部さんへの返事 2003,9,16,

拝啓

 早速に感想をお聞かせ頂き、ありがとうございます。

 「身も蓋もない?」とのご評価、批判とは思いません。私自身、自分の仏教理解の仮説を何度かこの言葉で形容したことがありますし、、。実は少し光栄にさえ感じています。
 「身も蓋もない」という評価は、普通の世間一般の価値基準から見た時の評価だと思います。世間一般の価値基準は、執着に染め抜かれています。一切皆苦、諸行無常、諸法無我という釈尊の教えは、執着を吹き消させる教えです。世間一般の価値からすれば、当然受け入れ難い「身も蓋もない」教えと評価されるはず。釈尊が説法を躊躇されたのも無理からぬことだと思います。
 (しかしながら、身も蓋もなければすべて正しい仏教というわけではありませんから、私の仏教理解の仮説は見当違いで、釈尊の教えとはまったく違う意味で「身も蓋もない」という可能性もありますが、、。)

 「身も蓋もない」の反対として、変な日本語かもしれませんが「耳触りのいい」というのを考えています。すなわち、世間一般の価値基準にとって心地よい思想、つまり執着におもねる思想です。たとえば如来蔵思想などはその典型でしょうし、良いことをすれば良い来世に生まれる、というのもそのひとつだと思います。

 理想的な(「最高の」という意味ではなく、「現実にはいない、一般的イメージを具現化した」の意味)教育委員会の人は、世俗的建前の世界で生きておられるでしょうから、「身も蓋もない」本音の話にはどう対応していいのか困られるでしょう。多分聞こえないふりをされるのではないでしょうか。
 一方、クリスチャンに限らず、唯一絶対神を信仰する人々は、そうすることによって自分に価値を与えようとしているのだと思います。唯一絶対神は、自分に価値を与えるための仕掛け、言いかえれば我執の仕掛けだと思います。神を自分の上に掲げ、それに向けて自分を引き上げようとする。それは、ちょうど、釣りの仕掛け、釣り針を自分の襟に掛けて、自分で自分を釣り上げようとするようなもの、けしてうまくいきません。うまくいかない焦りが、他の絶対神を信仰する人達への敵意になります。他の神の存在を許せば自分たちの神の唯一絶対性の虚構を暴きかねないからです。
 彼らからすれば、仏教徒は、神もなしに地の底で平安に生きる術を模索している連中にすぎず、おそらく哀れみの対象ではないかと思います。実際には同じ地平にいるのですが、、。反対に、我々仏教徒から見れば、彼等は我々と同様に自然な執着の虜であり、ただ陥っている執着の形が我々とは少し違うだけで、執着に捕らわれていることについては同じ、同病哀れむ同情の対象です。

  「自分とは何か」の問いについては、おっしゃっているとおりです。安部さんが「他者や環境との関係性」と書いておられるのは、まさに縁のことで、我々が縁起の現象である、ということは、「この関係性を離れて、自分というものが単独で存在しているわけではない」ということです。
 ただ、若干のニュアンスを付け加えさせてください。外との関係に加えて、内の関係もあると思います。
 我々は、環境の中の点、あるいはビリヤードの玉のようなものに留まらず、実体的な比喩で誤解を生みかねませんが、中途半端に水の入ってブヨブヨしている風船のようなものをイメージしています。外からぶつかってくる縁の影響は勿論受けますが、その影響は、その時だけに留まらず、自分の中で反響しつづける。新たな縁は、昔の縁の反響(業)と重なり合って、次の瞬間の私をつくる。戦争・天災・犯罪・重い病気、その他の外部からの強い縁は別にして、平穏な日常においては、自分の中で反響している縁の方が、外部からの新しい縁よりも大きく影響しているかもしれません。私の母は、随分痴呆が進んでしまいましたが、娘時代の断片ばかり話し、大昔の残響の中で生きています。座禅中に紡ぐ妄想も同じようなものだと思います。

 またご意見ご批判をお聞かせ下さい。

                        敬具
安部様
      2003,9,16,         曽我逸郎

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