妙真お松さん 迷いても身を持て識れば悟り 2003,8,27,

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身を持って知り得なくば 悟りと言えど迷いなりけり

迷いても 身を持て識れば 悟りなりけり
                       妙真


妙真お松さんへの返事 2003,9,12,

拝啓

 意味深なメールを頂戴しました。

 わずか2行の、しかも趣向を凝らした文体ですので、ご趣旨を捉えているか心もとありませんが、感想を送ります。

 初めに、私なりの文章で理解したところを書きます。

 迷いだ悟りだと世間では(or 曽我は?)騒いでいるが、肝心のところが分かっていない。悟りといわれるものでも、身を持って知ったのでなければ、それは迷いだ。迷いといわれるものでも、身を持って識ったのなら、それは悟りだ。

 まず細かな事から。「知る」と「識る」を使い分けておられますが、どう違うのでしょう? 私は、伝統的な「識」の捉え方は、「対象化し分けて知る分析的知」だと思っています。(意見交換のページ、7/26付けの山崎清巳様のメールへの返信を参照下さい。) しかし、それでは妙真お松さんの文脈にはそぐわないように感じます。妙真お松さんの込められている意図を教えて下さい。

 で、本題ですが、身をもって知ることが重要で、身をもって知ることが必要だ、というご意見には同感です。ただ、少し気になるのは、妙真お松さんは、言葉による学習、分析、思考をどのように評価しておられるのでしょうか?

 私は、言葉で学ぶことと身をもって知ることの両方が大切だと考えています。つまり、釈尊の教えは言葉によって学ぶことができる、と考えます。ただし、それを自分のこととして知るためには、「身をもって知る」必要がある。それは、例えていえば、人は誰だって自分がいつか死ぬ事を頭では分かっているけれど、本当には分かっていない、そのようなものです。釈尊の教えは、まず言葉できちんと理解されねばならない。その上で、それを自分のこととして本当に知るために身による修行をする。

 言葉による学習を否定して身による修行だけをすれば、身は実に雑多な体験するので、収拾がつかなくなります。「弥勒菩薩(あるいはマリア様とか)が降りてきてくださった。」「光に包まれて神の国(あるいはUFOとか)に行ってきた。」反対の方向もあり得ます。「食欲・性欲・権力欲、、どうあがいたって私は欲の塊だ、よく分かった、どうしようもない、これが私の真実だ、そのように生きるしかない、、、。」

 早まった結論を出さないために、まず釈尊の残してくださった教えを学ぶことが大切だと思います。

 ご意見お聞かせ下さい。
                      敬具
妙真お松 様
         2003,9,12,       曽我逸郎


妙真お松さんからの返事 「人は思う」 2003,9,12,

曾我さん。判断や理解は後から自然について来るもの。人が越えねばならぬ峠は”死”。”生きる”とは死ぬこと。死なないことには何も始まらず、諦めは明らめ。沈黙すれば世界があり、人には働きがあり、世界は様々な”糸”で絶えず紡がれております。

すべては夢、 虚しくも 愉しくも  夢なればこそ

                          妙真


再び、妙真お松さんへ 2003,9,12,

前略

 なにが仰りたいのか、よく分かりません。正直に申し上げてコミュニケーションが成り立っていないと感じます。

 三つの可能性があります。

 1) 妙真さんは、仰りたい事を分かっておられるが、わざと分からないように書いておられる。
 2) 分かっておられるつもりであるが、妙真さんも、実は分かっておられない。
 3) 妙真さんはちゃんと分かるように書いておられるが、曽我の理解力が欠如している。

 1)であれば、もう少し私にも分かるように書いて頂けませんでしょうか? 結論(?)だけ象徴的に語られても理解不能です。妙真さんが、どういう体験で、何を身をもって悟られたのか、具体的にお話下さい。御主張の前提・根拠ともども、手取り足取りお願いします。

                       草々
妙真お松 様
        2003,9,12,       曽我逸郎


再び、妙真お松さんから 「感性と愛」 2003,9,12,

判らなければそれが”ありのまま”です。判る人にはそれが”ありのままです。”感性が理解を生みます。理解で悟りには至りません。また同じことを私は書かねばならんのですか?愛がありますか?毎日書き続けて疲れているのです・・あしからずご免下さい。  妙真

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