山崎清巳さん 般若心経について(続き 2) 2003,9,16,

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曽我逸郎様
心無罫礙 無罫礙故というところは、依般若波羅蜜多故と対句であるというところから、般若波羅蜜多と同じような意味で、涅槃に通じると思います。曽我さんに推薦してもらった「般若心経を梵語原典で読んでみる(涌井和著)」によると、「菩提薩埀の般若波羅蜜多によって、心に障礙を持ちながら安住している。心の障礙がないから恐れがない(涌井)」、それ以外では「菩提薩埀の般若波羅蜜多に安んじて、心を覆われることなく住している。心の障礙がないから恐れがない」となっているそうです。
この違いはコトバのつなぎ方の問題で、「ア」という否定辞の有無だそうです。この違いは、無病息災と一病息災の違い。そしてここは、般若心経を讚えるところですから、涅槃(ニルバーナ)に到達できるメチャクチャいいマントラだよ。はい買った買ったと、懸命に売っている。ここはそれほど重要だとは思えません。

般若心経の最も重要な部分は、序論の最後、五蘊皆空というところだと思います。次に空の内容を細かく説明する本論です。
前にも書いたように、般若心経は序論と本論と結論の三部構成になっています。序論は五蘊皆空まで、「度一切苦厄」は梵文原典にない。本論は舎利子から無智亦無得まで、その後が般若心経を讚える結論です。五蘊皆空の認識はそれほど難しくはない。いくら金を稼いでも墓場まではもっていけない。これくらいのことは誰でも分かると思います。もちろん分かったところで、懸命に稼いだ金を喜捨できるかどうかは別です。
般若心経の作者は、空の内容を細かく説明することを自分の手柄だと思っているようです。アリストテレスなどにも無についての記述はありますが、無の説明はたかだか無というものはない、あることの否定だというような説明だったと思います。しかし、般若心経の作者は、五蘊皆空で、色は空、空は色である(この部分は漢訳にありません)。色不異空 空不異色 色即是空 空即是色。「色→空、空→色」を少しずつ表現を変えながら三回も繰り返します。五蘊皆空からだと、四回も繰り返します。またサンスクリットでは「空シューニャー」が9回も出てくるところを見ても最も重要なキーワードだと思います。漢訳に「無」は21回あるのですが、「無」はキーワードになりません。無眼耳鼻舌身意 無色聲香味觸法の最後の意と法を削除すれば、五蘊皆空すなわち五つの感覚それ自体と感覚で得た内容は皆空である、となります。それ以外の部分は蛇足と言ってもいいと思います。
だからこの素晴らしいマントラ(呪)を唱えよう、というのが結論です。
「般若プラグニャー(ぷらっぎゃー)」と「識グニャー(ぎゃー)」
般若心経では、「般若」は必ず「般若波羅蜜多」として出てきます。また「般若波羅蜜多」は、副詞または形容詞として使われています。「識」は中立のコトバですが、「般若波羅蜜多」は非常に思い入れの強いコトバ、憧れても憧れても手の届かない高嶺の花というところでしょう。それに対して「識」はどこにでもある花。般若心経の作者は「般若波羅蜜多」に到達しなかったのでは。少数の恵まれた人を除き大多数の人は「般若波羅蜜多」を高嶺の花として受け入れる以外にないでしょう。だからありがたいマントラを繰返し唱えるのです。可憐な野の花も素晴らしい。「山路来て何やらゆかしすみれ草」は仏の教えを連想させます。
ここで私の立場を言います。デカルトが好きです。デカルト以後にデカルトを越える哲学者はまだ誰もいません。アリストテレスも間違います。たとえば、「呼吸は体温を下げるためだ」と言っています。その理由として、体温が高いと呼吸が激しくなる。運動の後や病気で熱がある時に呼吸は激しくなる。デカルトも間違います。たとえば、「血液は体温を運ぶ」と言っています。しかし、間違いを恐れてあいまいな表現しかしないのはもっと大きな間違いです。アリストテレスは「肯定か否定ができるように言え」と言っています。解析幾何学を始めたのはデカルトです。方程式で、未知数(x, y, z)にはアルファベットの後の方の文字を使い、既知数(a, b, c)にはアルファベットの初めの方の文字を使うというような規則を考えたのもデカルトです。「我思うゆえに我在り」これは同時代のガリレイの地動説と一緒に考えるべきマントラです。動かないと思っていた地球が動く、それでは最も確実なことは何か。必死になって確かな何かを探す。その結果が「我思うゆえに我在り」です。デカルト以後の哲学者は「我思うゆえに我在り」を越えるマントラを探しています。そしてまだ成功した哲学者はいないと思います。自分を探すときの指針は、論語の中の「子曰、吾十有五而志乎學、三十而立、四十而不惑、五十而知天命、六十而耳順、七十而從心所欲、不踰矩。」というマントラを私は参考にしています。四十而不惑を四十までは惑えと解釈します。このマントラには十五から七十まで、非常に長い期間の指針が示されていて好きです。
般若心経が好きなのは、適当に短いからです。それと幼少の頃、けがなどで痛いときに母が般若心経をあげてくれました。「南無阿弥陀仏」や「南無妙法蓮華経」と唱えるだけでも十分かも知れませんが、あれはちょっと短かすぎて、物足りない気がするのです。こんな短いマントラに心を込められるほど、まだ人間ができていないかもしれません。その証拠に学者によって好き嫌いがあって、好きな学者ならラテン語だろうとギリシア語だろうとサンスクリットだろうと頑張れるのですが、相性が悪いと日本語でも読めません。アリストテレスやデカルトは好きな学者で、カントやハイデッガーはあまり好きなれません。カントの純粋理性批判は日本語で読むのに20年もかかりました。
最後に優等生根性を捨てよう。我々日本人はついつい優等生根性を捨てきれません。いつも正解をしたい。100点を取りたい。他人よりいい点を取りたい。この頃から始めたのは81点主義。81点ならぎりぎり優の範囲です。これは1回の情報の往復により到達される正確さを目安にしています。本人は90点を目指す、相手も90点を目指す。すると往に90、復に90で掛け合わせて81です。この辺で我慢をして満足する。100点を目指すのは悪だ。情報が不正確だと思えば、相手に尋ねる。1回目で81、2回目、3回目と続けて行くと、100点以上の何かが獲得されるかもしれません。81点を超えて100点を目指しても努力の割に成果は上がりません。それも答が決まっていることばかりです。81点で満足すると余分な力は他に回すことができます。この観点からすると、曽我さんの般若心経または偽経は非常に興味深い読み物だと思います。そして曽我さんの般若心経を100%理解するのは不可能だと思っています。
山崎清巳
追伸:サンスクリットについては、まだ辞書もなく、般若心経だけに限定しているので、意見を述べるほどには至っていません。辞書を入手し、語源なども調べた上で、般若心経のコトバに迫りたいと思います。


山崎清巳さんへの返事 2003,9,21,

拝啓

 般若心経についてのお考え拝読致しました。それに対する直接の意見・感想になっていないので恐縮ですが、前回のメールの後また少し考えてみましたので、ご一読頂ければ幸いです。

 般若心経の思想上のキイワードは、勿論 「空」であり「般若波羅蜜多」であると私も思います。しかし、後世に与えた実践上の影響は、「心無ゲー礙 無ゲー礙故」ともう一ヶ所、その言い換えの言葉を手掛かりにすると良く見えてくるのではないでしょうか。
 すなわち 「無智亦無得 以無所得故」がそれで、「心無ゲー礙 無ゲー礙故」はそれを総括し言い換えたのではないかと想像しました。つまり、<何も知ることがない(無智)、なにものも対象として把握することがない(無得)>、それが<心に妨げがないこと>だと言っているのではないでしょうか。9/9にお送りしたメールにならって言うと、「対象を分別する知がないことが、心無ゲー礙であり、般若波羅蜜多である」、般若心経は、こう主張しているように思えます。

 こんなふうに考えていた時、「覚りの境地」というホームページ (http://www.geocities.jp/srkw_buddha/index.html)を開いておられる方から、 http://www.maharshin.com/PDA/Hsingyou/singyo1.htmlというページを紹介して頂きました。サイト全体は、どうやらヨガのサイトらしく、その主張も仏教的ではありませんし、この般若心経に関するページも、読み方は私とは随分違います。しかし、梵文の対照という点に限っては便利なページではないかと思います。(本当は便利さに流されず、山崎さんのように自分でひとつひとつ読み解いて行かねばならないのでしょうが、、。)

 そのページで、まず「ゲー礙」にあたる箇所を見てみると、AvaraNa がどうやら元のサンスクリットで、Cologne Digital Sanskrit Lexicon (ネット上のサンスクリット辞書サイト。リンクページに記載あり)を引いてみると、covering , hiding, concealing とか an obstruction , interruption などとあり、「覆い、妨げ」といった解釈でやはり正解のようです。

 次に「無智亦無得 以無所得故」の部分を見ると、「智」と訳されているのは、jJAna、意味は knowing , becoming acquainted with , knowledge とあります。(esp.) the higher knowledge (derived from meditation on the one Universal Spirit) ともありますが、これは仏教ではなくバラモン教などの用例でしょうし、般若心経は般若波羅蜜多を最高の智としている点は疑いありません。従って、この「智」は、ありふれた広い意味での「知ること」(世俗知)を意味していると思います。

 「得」は、prApti。主な意味を拾い出すと、advent出現、occurrence発生、reach範囲、reaching到来、obtaining達成、acquisition獲得 等があります。「無智亦無得。以無所得故。菩提薩タ。依般若波羅蜜多故。心無ゲー礙 無ゲー礙故。」と続いていく文脈を考えると、「心に何かが現れること」、あるいは「得」のニュアンスを生かせば、「心、あるいは認識に何かを捉えること」だと思います。

 以上を踏まえて、般若心経の大意を赤裸々に意訳すると以下のようになります。

 観自在菩薩が「完成された、分別(識別)のない智慧」を深く行じていた時、五蘊はすべて空であると見きわめた。(「小乗」では智慧第一と称えられている)シャーリプトラよ。(お前達「小乗の徒」が一所懸命こだわっている)五蘊は空性なのだ。シャーリプトラよ。すべては空性なのだ。その空性の中では、(お前達が後生大事に抱えている概念であるところの)五蘊も六根も六境も十八界も順逆の十二支縁起も四聖諦もない。(そんなものに捕らわれるな。捕らわれなければ、)(さかしらに)知ることもなく、何かを対象とした認識もなく、(何かを分別して)捉えることもない。だから、菩薩の「完成された、分別(識別)のない智慧」に依って、心に妨げがなく、妨げがない故に、恐怖がなく、倒錯を離れた究極の涅槃がある。三世のすべての仏は、「完成された分別(識別)のない智慧」に依って、無上の正しい悟りを得た。だから、般若波羅蜜多の偉大なる呪文を知れ。云々。

 いかがでしょうか? 身も蓋もない解釈でしょうか? 通常の知(知られる対象・その背景・知る自分という、三つに分かれた構造を持っています)とは異なる般若波羅蜜多(三者の区別のない智。自他、世界を一挙に知る智)を主張する般若心経にストレートに結びつく解釈ではないかと思うのですが、、。
 (その意味では、本当は、「智」は jJAna ではなく、vijJAna のほうが、分析的知・分別知という意味が明確になったと思います。しかし、そうすると今度は五蘊の識と区別できなくなるので、より広い意味の jJAna が使われているのだと思います。)

 おそらく「むちゃくちゃな解釈だ!」と感じておられるのではないでしょうか。でも、般若心経を仏教史の流れの中に位置付けてみると、多少は賛同していただける度合いが上がるかもしれません。乱暴この上ない仏教史(?)ですが、お許し下さい。

1)釈尊
 人々は、無常=無我=縁起を知らないが故に、自分が自分を主宰していると思い込み(我執)、自分にとって望ましいもの、厭わしいものを固定的に捉え、自分を苦しめ、互いに苦しめあっている。無常=無我=縁起を本当に知ることによって、我執を含めた一切の執着を吹き消し、苦を抜くことができる。しかし、自分の無常=無我=縁起を本当に知ることは、非常にむずかしい。なぜなら、通常の我々の知は、主客の分かれた分別知(識)であるが、分別知では、自分を本当に知ることはできない。また、通常の知は、現象を存在として捉えるから、無常=無我=縁起を見ることができない。真に自分が無常=無我=縁起であることを知るためには、主客の分裂のない知が必要である。とはいえ、それを最初から一挙に目指すことも不可能だ。分別知によって自分を対象として観察し、分析し、自分が無常=無我=縁起であることを繰り返し確認する。そして、ある日、主客の対立のない知で自分の無常=無我=縁起を本当に知ることができ、苦を吹き消す事ができる。

2)部派仏教(「小乗」)
 「分析的でない知を獲得して自分の無常=無我=縁起を本当に知ることは、至難だ。我々にはできそうもない。しかし、様々な法を分析し研究することなら得意だ。」そう感じて、自分の無常=無我=縁起を知ることは諦めて、法の分析にかまけた。
 (在家の人々には理解し難い哲学に没入し、人々に苦からの救いをもたらさず、ただ偉そうに布施を求めた。)

3)大乗仏教
 僧院に閉じこもって法の研究にかまける「小乗」を批判。「小乗」への反発から、分析的知は覚りと相容れないと考え、個別の思考対象のない瞑想、無念無想のサマタによって、般若(主客のない知)の確立を目指した。
 (これには変質した「空」思想が貢献していると思います。本来の「空」は、「AにはAとしての自性はない」という意味であり、ほとんど無我=縁起と同じ意味だった筈です。しかし、次第に「Aも空、Bも空、CもDも、、すべては空。それゆえすべては等しい。空を知ればすべてを知ることになる。個々の事物を対象化せず、空すなわち全体を無分別知で知れば、一切知者であり、悟ることができる」というふうに発展(=逸脱)していきました。言葉を変えれば、本来は述語の「空」が、名詞の「空性」になり、<対象化>されていったとも言えます。漢訳般若心経で「空」と訳されているのは、最初の「照見五蘊皆空」以外は、すべて zUnya(述語の「空」)ではなく、zUnyatA(名詞化された「空性」)です。

 般若心経は、維摩経と同じように、「小乗」に反発する経として捉える時、その主張がはっきり見えてくると思います。色受想行識から苦集滅道までは、「小乗」の思想として否定されています。そして、「小乗」の分別知への反発のあまり、分別さえなくせば良いと考えているように感じます。結果的に、肝心の釈尊の教えは、たとえば無常も、無我も、縁起も、四聖諦も、ないがしろにされている。般若心経から時代を経て、大乗は、意地悪な言い方をすれば、<無分別知>ならぬ只の<無分別>へと転落して行ったのではないでしょうか。

 前のメールにも書きましたように、私としては、分別知を手掛かりにしつつ、一歩一歩般若(自分の無常=無我=縁起を本当に知ること)を目指すのが、正しい仏教だと思っています。

 ご批判頂ければ幸いです。
                     敬具
山崎清巳 様
         2003,9,21,     曽我逸郎

追伸1
 今回のメールでは、最終段階で無分別知が働くように書きましたが、ひょっとすると最後まで分別知なのかもしれません。今の私にそんなことは分からないし、また分かる必要もないと思います。ただひたすら(といってもサボってばかりですが)、自分を対象にして無常=無我=縁起を観察する。それしかありません。

追伸2
 コミュニケーションの掛け算でだんだん理解の割合が下がって行くように書いておられますが、逆に上がる事もあると思います。これまで何度も私は意見交換で思いがけない発見を頂きました。今回、心経の「極端な」解釈を思いついたのも、山崎さんのお陰です。感謝します。

追伸3
 *五つの感覚それ自体と感覚で得た内容は皆空である(山崎さん)
 → もっと重要なことは、「この私は空(=無常=無我=縁起)である」と知ることです。
 *デカルト以後の哲学者は「我思うゆえに我在り」を越える(ことに)まだ成功(していない)(山崎さん)
 → デカルトよりずっと前に、釈尊が成功していると思います。無我=縁起で。

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