安部さん 自分という現象について(続き) 2003,9,17,

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拝啓

いつもながらの丁寧なご返答ありがとうございます。

「なるほど」と思いながらも、「本当にそれでいいんだろうか?」という思いもあります。
一歩間違えば、無政府主義者やテロリストの主張と混同されかねない危険性もあるのでは?。
よほど慎重にならなければ。
欲望と執着と我執に満ち満ちたこの人間世界において、無我・縁起・無常を説くことは、唯一絶対の神の存在を説くことよりも難しいのでは?
いったいどうやって納得させるの?どんな方法で、何を頼りに。

その方法の一つをブッダが指し示したのかもしれませんね。

一神教に対する曽我さんの見解は、少し厳しすぎる感じがしました。
他の宗教(キリスト教やイスラム教など)について、私はほとんど無知なのですが、その人たちの中にも尊敬に値する人はたくさんいるのではないかと思っています。

仏教が「何ものにも執着しない」ことを目指すとすれば、一神教は「唯一絶対の神に執着?することを通して、己を虚しくし、それ以外の世俗的な諸々の執着を乗り越えていく為の仕掛けかもしれない」という気もしています。

しかし、一神教の人たちが神の名のもとに戦争をしていることも事実であり、批判されても当然だろう、とも思います。もちろんキリスト教国やイスラムの世界にもいろんな人がいるわけで、宗教の名のもとに戦争を肯定するのはその中のごく一部分の人だと思いたいのですが。

話は全く変わりますが、私は以前から「無我というのは言いすぎじゃないのか」、という気がしていて、いまだ変わっていません。「無我」というと「自分というものは全く無い」ということになってしまいませんか?しかし実際には我々は「肉体によって空間的に局所化された関係性の束」として存在していると思います。超能力者でないかぎり肉体を離れて何かを認識することはできないでしょう。自分という「存在」はないけれど、「空間的に局所化されたひとつの場所」、「関係性の束としての自分」は想定されなければ現実的では無いと思います。言い方の問題なのかもしれませんが、今だしっくり来なくて・・・。

文章力が乏しいので今日はこの辺で。
                      敬具
曽我逸郎 様
2003.9.17
安部


安部さんへの返事 03,9,27

拝啓

 返事遅くなり申し訳ございません。

 安部さんのご質問は、私の独り善がりに走りがちな屁理屈に、いつも現実世界を思い出させて下さるので、大変有難く、感謝致します。

 感謝しながら申し訳ありませんが、頂いたメールを分断して、初めから順番に思うことを書きます。

*「無政府主義者やテロリストの主張と混同されかねない危険性」

 無政府主義とはどういう主義か詳しくは知りませんが、国家の価値を絶対視しないということには同意します。社会が円滑にトラブルなく進むように取り諮ってくれる限りは、政府なり国家なりの価値(いわば道具としての価値)を、その限りにおいて認めます。しかし、「国家なくして国民の幸せはない、だから国民は国家に従え」と言われたとしたら、納得はできません。
 何度か触れましたが、返還直前の香港に数年住んでいました。天安門事件の後でもあり、香港の人達は、返還後北京政府の管理下になれば同じような境遇になるだろうと、返還を恐れていました。しかし、だからといって、香港政庁やイギリス政府に頼ったわけでもありません。それらが自分たちのことを本気で気に掛けてくれる、とも思っていませんでした。自分たち自身でなんとかするしかない。カナダに移住し、旦那だけが単身香港で金を稼ぐ家族もいました。別の人達は、中国本土にビジネスチャンスがあると考え、香港籍のまま、あるいは外国のパスポートを持って(人によっては両方を使い分けながら)、広州や上海に飛び込んで行きました。国とか企業とかは、自分にとって有利なもの、不利なものを選別し利用する対象である、香港の人達のそういうしたたかな考え方には、大変刺激を受けました。
 (我執のままに何でもしたたかに利用しろ、という趣旨ではありません。国家に対する身の置き方には、多様な選択が可能だという、それだけの意味です。あんまり関係のない話だったでしょうか?)

 一方、テロリストについては、想像する他ありませんが、そのためには人を殺しても、自分が死んでもいい、そういう強烈な価値を持っている人達のように感じます。もしそうなら、価値の自覚のない私とは対極にいる人達です。
 あるいは、テロリスト達は、自身の生の無価値さに耐えられないからこそ、とんでもない価値に狂するのかもしれません。もしそうなら、実はその心情は私とそう遠くないのかもしれませんが、、。
 ともあれ、テロリストを知らないので確たることは言えませんが、テロリストは、心底信じているか内心疑念を持っているかは別にして、確たる価値を標榜する人達であり、価値を否定する私とは、形式上対極であると考えます。

*「欲望と執着と我執に満ち満ちたこの人間世界において、無我・縁起・無常を説くことは、唯一絶対の神の存在を説くことよりも難しいのでは?」

 まったくおっしゃるとおりです。釈尊ご自身、成道の直後はそのようにお考えになり、教えを説かずにそのまま死んでしまおうと一旦は考えられました。

 「わたくしのさとったこの真理は深遠で、見がたく、難解であり、しずまり、絶妙であり、思考の域を超え、微妙であり、賢者のみよく知るところである。ところがこの世の人々は執着のこだわりを楽しみ、執着のこだわりに耽り、執着のこだわりを嬉しがっている。さて執着のこだわりを楽しみ、執着のこだわりに耽り、執着のこだわりを嬉しがっている人々には、<これを条件としてかれがあるということ>すなわち縁起という道理は見がたい。またすべての形成作用のしずまること、すべての執着を捨て去ること、妄執の消滅、貪欲を離れること、止滅、やすらぎ(ニルヴァーナ)というこの道理も見がたい。、、」(春秋社 中村元選集[決定版]第11巻 p444)

 聞く側の難しさのみならず、説く側である他ならぬ仏教それ自身が、この難しさに耐えきれず、執着におもねる教えに変質していきました。釈尊の教えは一切皆苦、諸行無常、諸法無我だったのに、常楽我浄を説く「仏教」まで生まれました。

 無我・縁起・無常を見つめ続けることは、本当にむずかしいと思います。

*「いったいどうやって納得させるの?どんな方法で、何を頼りに。その方法の一つをブッダが指し示したのかもしれませんね。」

 執着を楽しみ、耽り、嬉しがっている人に、無我・縁起・無常を説くことは、不可能なのかもしれません。成道直後の釈尊が考えられたように。
 しかし、執着を楽しみ、耽り、嬉しがっていても、無常の世、人はかならず苦に直面します。また仮に、すべてがうまく行って、あらゆる欲望を満たしたとしても、待っているのは退屈、すなわち生の無意味さに直面する事です。それでも人は、ごまかし続けようとします。しかし、ごまかしきれない人も居る。そういう人が、宗教に救いをもとめるのだと思います。そして、救いを求めるなら、釈尊は方法を用意して下さいました。

 その方法とは、戒・定・慧の三学です。
 執着の暴流に流されないように努め、自分の行ない、考え方に悪いパターンがつかないようにし、気持ちを静め、自分を観察し、釈尊が理路整然と説かれたこと(無我・縁起・無常)を正しくきちんと自分自身のこととして学ぶ。

 唯一釈尊のみが、その方法を見出し、示してくださいました。釈尊以外の方法を私は知りません。

*「他の宗教の人たちの中にも尊敬に値する人はたくさんいるのではないかと思っています。」

 同感です。例えば、マザー・テレサは、きっとすばらしい方だったと思います。お会いしたことはありませんが、、。反対に、無我だ縁起だとうるさく騒いでいても、私のように、なまけもので口先だけのショウモナイ人間もいます。

 でも、少し弁解させてもらうと、この議論には基準の混乱があると思うのです。

 私の主張には、「一切皆苦である、超越的な価値はない」という大前提が、まずあります。(マザー・テレサは同意されないでしょうが、あくまで私の前提です。)

 これに対する対応に三種類があります。

1) 娯楽や仕事に没頭して、超越的価値の不在から目を背ける。生理的・社会的等々の欲望の追求に励み、富や地位や名声を目指して、「執着のこだわりに耽り」、視野の隅に見え隠れする生の無意味さ(超越的価値の不在)を見ないようにごまかし続ける。

2) 超越的価値の不在を、世俗的価値・執着によって埋めることは不可能であると知って、宗教的価値でそれを埋めようとする。世俗的価値を追い求めることは否定される。それは、そうすることで自分に宗教的価値を与えるためである。世俗的価値を否定していても、自分に価値を与えんとすることであるから、洗練されてはいるが、我執の行ないだと言うことができる。(これが結局はうまく行かないという見解は、前回のメールで書きました。)

3) 自分が、無常にして無我なる縁起の現象であるとよく知って、あらゆる執着を吹き消し、不要な苦を作らず、人に与えず、価値のない生を平安に正しく生きる。

 仏教徒としては、マザー・テレサは(2)だったと思うのです、、。彼女の気高さと比べるべくもない自分の身を顧みると恥ずかしいのですが、、。
 私自身はというと、(3)を口にしながらも、自分のこととして本当には分かっていないので、執着に耽溺し、はしゃいだり怒ったり退屈したりしつつ、残り少ない時間を暇つぶししながら死に向かっている、そういう(1)の人間です。

* 「「無我」というと「自分というものは全く無い」ということになってしまいませんか?」

 おそらく「無我」という漢字の文字面に引き摺られておられるのだと思います。「無我」は、梵語では anAtman(アナートマン)で Atman(アートマン) の否定です。アートマンは、元来は英語の self にあたる再帰代名詞ですが、釈尊以前からバラモン教では「常住にして自由独立な主宰者」をいう概念でした。例えば、「人間には、本来の自分、自己の本体としてアートマンがあり、それは宇宙原理であるブラフマンと本来同一である」 そのような主張がなされていたそうです。
 ただし、釈尊が否定されたのは、そのような「高邁な」形而上学ではなく、我々が執着している「自分」です。普段無自覚の内に前提にしている「独立自存で一貫した確固たる私が居て、すべてを自分で思うままに取り仕切っている」という意識、そのような意識を釈尊は否定されました。「独立自存で自由で一貫した存在である、そんな<私>は無意識の前提(執着)にすぎず、本当は存在しない」 これが無我の教えです。

 無我を説かれたからといって、釈尊は肉体もまったくないと否定されたわけではありません。無我を説く時、釈尊は、人間を五蘊(色・受・想・行・識)に分解されました。この「色」が、肉体にあたります。五蘊のどれもが無常なる縁起の現象であることを観察させ、そこに独立自存の主宰者など存在しないことを示されました。肉体(色身)は、成長し、老いさらばえ、死に、腐り、分解される。肉体は、自分が無我であることを知るための観察対象のひとつです。

 既に何度も読まされてうんざりしておられるでしょうが、最後に、念の為もう一度、肉体と無我に関連づけて、私の考える釈尊の教えを書いておきます。

 あなたは、自分を、あなた自身とあなたのもの(肉体や資産や、、)を所有し、それらを思うがままに取り仕切る存在だと思っている。そして、そういう自分に執着し、自分を価値あるものにし、自分を守り強めようと争い、人を苦しめ、自分も苦しんでいる。しかし、そのような「自分」( self = Atman = 主宰者)はいない(無我)。あなたは、あなたの肉体や様々な出来事を縁としてできあがってきた反応のパターンによるところの、そのつどの反応なのだ。そのことをよく知って、反応の仕方を整え、我執を吹き消し、苦を滅せよ。そうすれば平安に生きることができる(ニルバーナ)。

 ご意見お聞かせ下さい。
                         敬具
安部様
      2003,9,27,         曽我逸郎

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