安部さん 自分という現象について(続き2) 2003,9,30,

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拝啓

かなり漠然とした私の意見に、いつも明確に答えていただきありがとうございます。おかげさまで、自分自身の考えも整理でき、新たな発見もあり、とても助かります。

まず「無政府主義者やテロリスト」についてですが、漠然と、「自暴自棄的な虚無主義者」をイメージして書きました。
ですから曽我さんの言う「自身の生の無価値さに耐えられないからこそ、とんでもない価値に狂する」タイプに近いかと思います。
世俗的な価値の虚しさや自分自身の虚しさに直面して、自暴自棄になり、あらゆるものを(自分も含め)を破壊してやろうと考えるニヒリスト。そういう人間が実在するかどうかはわかりませんが、心情的には多少理解できるような気もします。ただその人が唯一絶対の神やその他の価値を標榜しているのであれば、真のニヒリストとはいえないような気もしますが。

話は変わりますが、家に週に一回ほど、10年近く通い続けて下さっているキリスト教系のおじさんがいて、その人の言うことは私にはほとんど納得できないことばかりなのですが(しかし反論するととても話が長くなり、その人がそれで幸せならば、それでいいんじゃないかという思いもあり、ズルズルと続いています)、先日、旧約聖書の「伝道の書」の話になり、少し読み合わせしたのですが、とても興味深いところがありました。

「私は心の中で言った。『さあ、快楽を求め、幸福を得よう』。だが、なんとこれも空(へベル)であった。〜わたしはひそかに、葡萄酒によってわが肉体を楽しませようと試みた。〜そして人間が、天が下でこの短い一生に、何をするのが幸福かを見極めるまで、愚行に身をゆだねた。私は大きな事業をした。家を建て、葡萄園を営み〜人の子の悦楽のため多くの女性を囲った。こうしてわたしは、さきにエルサレムに都しただれよりも、多くの富と力を持った。もちろん智恵もまたわがもとにあった。わが目の欲求は何ものも遠ざけず、わが心の快楽は何一つ拒まなかった。〜さて、わがてによるすべての事業、骨身を削ったわが労苦の跡を顧みたところ、ああ、一切は空であり、風を捕えるようで、天が下に何の益するところもなかった。」

「伝道の書」 第2章人生の遍歴から抜粋 (中央公論社 世界の名著 前田 護郎 編集)

ここで空と約されているへベルという原語は、仏教的な「空」の概念とはだいぶ違い、はかない、空しい、つまらない、と言うほどの意味のようです。

世俗的な快楽を求め、富と智恵も手に入れ、欲しいものはなんでも手に入れたが、結局は空しかった。人間は自分の分をよくわきまえ、神を畏れて敬虔に生きる(人間としての楽しみを否定するわけではないようです)のが一番いい、ということが言いたいようです。(恐ろしく単純化してしまいましたが)
(私の解釈は間違っているかもしれないので、もしお手元に聖書があれば「伝道の書」のところを一読していただけるとありがたいです。たいして長くないので。)

世間や自分の空しさに直面して、神に出会う(神を持ち出す?)か、自暴自棄のニヒリストになるか、あくまで冷静に静観して心の平安を得るか(仏教?)は、本当に紙(神)一重なのかもしれませんね。

この「伝道の書」は、曽我さんが書いている1)世俗的な欲や執着の飽くなき追及、を経て2)世俗的な価値の空しさに気がつき、超越的な神を信奉するに至る、道筋のようにも見えますが、最初から超越的な神の存在を前提にしている節もあります。
しかし、「自分に宗教的価値を与えるため」に「世俗的な価値を否定している」ようには見えないのですが・・・。
この書の記述には、とてもリアルなところがあり、ある種の共感をおぼえます。仏教にも通じる部分があるようにも思うのですが、いかがでしょうか?

私はキリスト教徒でもイスラム教徒でも無いので、明確な反論はできないのですが、一神教を「洗練された我執」と決め付けていいのかどうか、私にはわかりません。ましてマザー・テレサも同じ穴のムジナだといったら、そこらへんの普通のおばさんまで血相を変えて反論してくるかもしれませんね。慎重にならなければいけないと思います。
「神」がいるかどうかは、結局人間の判断能力を超えている事だと思うのですが、おのれの理解力や判断力の限界に気付くことが、一神教への入り口になりうるのかもしれませんね。
他の宗教については、もう少し慎重に検証して、仏教と一神教の共通点、相違点を探っていけたらと思っています。(これはあくまでも私のスタンスです。他の宗教には他の宗教の、仏教には無い、長所があるのではないかと思っています。)

無我に関しては、仰るとおり、漢訳の文字面に引き摺られているようです。私としては原語のまま、anAtman(アナートマン)や、英語でunself?(アンセルフ)、日本語訳するとしたら「不我」当たりがいいのではと思っています。
(ちょっと日本語の響きが情け無いけど)。
unluckyは日本語に訳すと「不運」であり、「無運」とは言いませんよね。
だから、anAtmanも「無我」よりは「不我」のほうがいいのでは?不満足、不十分、不一致など、不はその後に続く言葉を全的に否定しているわけではない。無は英語で言うとnothing,何も無いことになりますので、anやunとはニュアンスの違いが出てくるのではないでしょうか。「不我」であれば「自分というものの存在性をある程度認めつつ、その独立自存の一貫した存在性を否定する」仏教的なアナ−トマンと言う概念により近いのでは?いままで日本人で「不我」という訳を当てた人はいなかったのでしょうか。どうでもいいことに拘るようですが、日本語訳するなら、私は「無我」よりは、「不我」のほうが、より原語に近いと思います。(多分誰も採用しないと思いますが)
しかし、無我は、今まで永年使われてきた言葉で、それが仏教徒の中で、統一した理解になっているのであれば、それはそれでいいのかもしれません。

今回も、たいした深い考えも無く、だらだらと自分の意見を述べてしまいました。
こんなふうに考える奴もいるんだなくらいに、軽く受け流してください。

それではまた。
                           敬具
曽我逸郎 様
2003.9.30
安部


安部さんへの返事 2003,10,7,

拝啓

 前回のメールでは、安部さんにのせられて、一神教批判にまで戦線を拡大してしまいました。「仏教」の中でも苦々しく見ておられる方が多いであろうに、世界の主流である一神教まで敵に回すのは、身のほど知らずもいいところですね。

 ただ、言い訳すると、マザー・テレサにせよ、一神教にせよ、貶めてやろうと思っている訳ではけしてなくて、言いたいことはただ「釈尊の無我=縁起の教えは、一神教のレベルからさらにもう一皮剥いたレベルであり、人間の自然なものの見方(執着に導かれた見方)をより深く徹底的に究明した結果である」ということだけです。
 (やっぱり喧嘩を売っている事になるのでしょうか? 仏教徒としては当然の見解だと思うのですが、、)

 比喩的に言うと、海抜ゼロメートルの湿地帯で、欲望執着にまみれ足を取られながら、醜く争っているのが私の内面とすれば、マザー・テレサの精神は、ヒマラヤの高峰、白くたおやかに気高く穢れなく聳えておられます。そして釈尊の教えはというと、さらにもっと高いところ、希薄で寄る辺なき無我なる縁起の虚空のごとくに感じます。

> 「世間や自分の空しさに直面して、神に出会う(神を持ち出す?)か、自暴自棄のニヒリストになるか、あくまで冷静に静観して心の平安を得るか(仏教?)は、本当に紙(神)一重なのかもしれませんね。」(安部さん)
 おっしゃるとおりだと思います。行きつく先はまったく違いますが、出発点の差は、ほんの僅かでしかない。釈尊の教えを知る縁を得られた事に感謝しなければいけないと感じます。(はたして私はこの縁を生かせるのか?)

 ともあれ、一神教攻撃は本意ではなく、ただ釈尊の無我=縁起の教えを突き詰めたいというのが私の願いですし、安部さんにも御心配頂いておりますので、一神教についてはこれ以上触れないことに致したいと存じます。

 その他の点に、すみません、また個別に反応します。

*「ここで空と約されているへベルという原語は、仏教的な「空」の概念とはだいぶ違い、はかない、空しい、つまらない、と言うほどの意味・・」

 仏教の空も、英語なら void とか empty にあたり、本来は「内実がない」とか「空っぽの」という意味です。もう少し仏教的に言えば、「自性に欠ける」、「実体のない」。すなわち「無我である」。従って、縁によって発生し、変化し、やがて終わることになりますから、無常にもつながります。「へベル」については何も知りませんし、「つまらない」は感情移入が強すぎるように感じますが、「はかない」も「空しい」も、仏教の「空」からそれほど遠くないように感じます。

 空は、本来は現象世界のありさまを説く言葉だったはずです。「人は、自分やさまざまな事物に執着して苦しんでいる。しかし、それら執着の対象も、すべて空である。実体がなく、空しい。空であるとよく知って、執着を吹き消し、苦を滅せよ。」
 しかし、山崎清巳さんへのメールにも書きましたが、空は述語(シューンヤ)から名詞「空性」(シューンヤター)になり、現象世界を超越した「真理世界」を指すように変質して行きました。つまり、名詞化された空(性)は、「仏教」徒が対象として目指すべき「超越的価値」となったわけで、これもまた洗練された執着の一変形だと考えます。
 頂いたメールの文面から、安部さんも、かつての私と同様に、「空(性)の罠」に片足をつかまれておられるのかも、と感じた次第です。

*「anAtmanも「無我」よりは「不我」のほうがいいのでは?」

 anAtman の訳語は、無我と非我があるようです。非我を採る人の解釈は概ねこうです。
 「釈尊は、五蘊やその他のあれもこれも自分ではない、と仰った。その真意は、そんなものを自分だと思わず、真の自分を見出せ、という教えだ。だから見出すべき真の自分はある。」
 この解釈は、真の自分があると思いたい<我執の解釈>だと思うので、私は採りません。

 安部さんの「不我」という訳語は、私も目にした事がありません。試しにCologne Digital Sanskrit Lexicon で anAtman を引いてみると、こんなふうに書いていました。
 not self , another ; something different from spirit or soul ; not spiritual , corporeal , destitute of spirit or mind
 最初にでてくる「自分でない」や「別の人(物)」は、確かに「不我」がふさわしい訳かもしれません。ただ、このオンライン辞書は、サンスクリット語辞書であって、仏教辞典ではないので、仏教の anAtman を調べるには適当ではないようです。

 不我、不我、不我、、、。ウーン、、。耳馴れてしまえば不我でもいいのか、、、
 でも、「私は不我である」という言い方はOKかもしれませんが、「諸法不我」(諸々の存在は不我である)という言い方は難しいのではないでしょうか? やっぱり無我でないと、、。
 無我は、「我無し」と解せずに、「ムガ」という一語で考えていただいた方がやっぱりいいと思います。あるいは、「我無し」であっても「ワレ無し」ではなく「ガ無し」と。つまり、我(ガ)は、我(ワレ)ではなく、Atman という特別な意味だと考えていただく 。

 読み返してみて、今ふと思いついたのですが、この「無」は「欠ける」という表現が一番ぴったりくるのかもしれません。つまり、「欠我」。私は我に欠ける。諸法は我に欠ける。
 欠我、欠我、、
 結構いいところを突いた表現のように思えてきました。言わんとするところが理解してもらいやすい表現ではないでしょうか?
 どう思われますか?
                             敬具
安部様
          2003,10,7,             曽我逸郎

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