翌桧さん 大乗の空と釈尊の教え、日蓮 2005,11,12,

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曽我さん

現時点の私の仏教理解の総括…を拝読しました。
お忙しいと思いますが、教えて頂ければありだいです。

一点は、曽我さんは、最初大乗の空を尊重されていたと思いますが、最近ではむしろ、大乗仏教よりも、釈尊の教えの方が、より適切ではないのか、というふうに変更されたように思えるのですが、私も大乗仏教よりも釈尊の教えの方が自分自身の執着の除去のためには、よりよい方法なのではないかと思っていますが、そのような考えで間違いではないでしょうか。

二点目は、日蓮の南無妙法蓮華経が究極の一法だという教えに対して、懐疑的になっています。
The Teachings of Buddhaというホームページを拝見していて、この方は、曽我さんともお知り合いとのことで、この方の記されている内容に深く感銘しています。すなわち、「人によっては、方便のさらにその一部を、ゴータマ・バガヴァットの真の教えだと、思い込んだまま死ぬ人がいます。たとえば、臨終の際に、まだ「南無妙法蓮華経。」と口にしている人です。本人がそれでいいのなら、とやかく言うべきではありません。起こそうとしたけれど起きない子は、起こさなくていいです。勝手に寝ててもらってください。ゴータマ・バガヴァットの教えに目覚める縁に、至らないまま死ぬかもしれないというだけのことです。」と記されていることに共鳴します。

私も日蓮の教えは、釈尊の教えの一部分あるいは方便にすぎないのではないかと思っているのですが、南無…経と唱えることは釈尊の教えに反するのではないかと思うからです。一種の他力であり、自己修行回避の妄想ではないのかとさえ思ったりします。信仰はバクテイであり、釈尊の教えではないのではないかと思います。

曽我さんはこの点に就いてどのようにお考えでしょうか。
つまらない宗教争論をするつもりは毛頭ありません。私としては、仏教が自分自身に対して無執着をもたらすものではないかと思いますので、是非迷える私に対して曽我さんのお考えを教えて頂ければ幸いです。

                   翌桧


曽我から 翌桧さんへ 2005,11,19,

拝啓

 メールを頂戴いたしました。ありがとうございます。

 大乗か釈尊の教えか、という問題をいただきました。

 御提起を頂いてあらためて考えてみると、大乗を大乗として一括りにして考えるのは少し荒っぽいかな、と思えてきました。
 大乗にも釈尊の教えに近い良質のものもあれば、執着におもねる反仏教的なものもある。例えば、竜樹は、独特のスタイルではあるけれど釈尊のお考えの核心に近いことを言っているように思います。

 しかし、今、日本にあるものは、概して釈尊の教えからは遠く隔たっているような印象を持っています。日蓮の思想については、きちんと勉強したことがなく、表面的な印象に過ぎませんが、釈尊の教えとはずいぶん違っているように感じます。

 空についても、元々は「(自性を)欠いていること」という意味だったのに、いつの間にか、梵の言い換え、新しい呼び名になってしまい、永遠を妄想し自分を存在として肯定するための仕掛けにされてしまいました。あるいは、最近目にした奇妙な解釈としては、空を正しく「自性を欠いていること」と捉えながらも、それを克服すべき状態として否定的に捉え、その向こうに「空なる現象世界」を超越する単一不変な絶対的存在としての「涅槃」が存在している、と主張するものもありました。この場合の「涅槃」も、単に梵を違う名で呼んだに過ぎず、これらは等しく梵我一如の焼き直しに過ぎません。(「あたりまえ、、般若経」の「空」も、その典型です。)空は、あくまでも述語として捉えるべきでありますが、名詞・主語として捉えると、すぐさま実体視されて、梵の代役を演じ始める危険な言葉だと思います。間違った解釈を引き起こしやすい言葉だと思うので、なるべく使わないようにしています。

 凡夫も仏も等しく、無常にして無我なる縁起する空なる世界に縁起するところの、無常にして無我なる空なる現象です。無常=無我=縁起=空なる点において、凡夫も仏も変わるところはありません。(だからこそ釈尊も、供された食事にあたってお腹をこわされて亡くなられました。)ただし、仏はそのことを良く知って執着の反応を滅し苦を作ることがないけれども、凡夫は無常=無我=縁起=空なることを知らず、永遠や実体を妄想し、執着の反応を繰り返し、苦を作り続けている、それが凡夫と仏の違いだと思います。

 「縁なき衆生」に対しては、見捨てるのでもなく、力づくで意固地に対するのでもなく、慈悲と捨をもって、ふさわしい時に釈尊の教えを考えてもらえるよう心配るというのが一番いいあり方ではないかと思います。偉そうに言える私ではありませんが、、。

 南伝仏教については、大乗と等しく2500年の時間を経た分だけ釈尊の教えから変質していると思いますが、無常=無我=縁起を納得するためのプラクティスの体系としては、大乗では得がたいヒントを与えてくれるように思っています。私としては、大乗だ、南伝だとこだわらず、なにからでも(進化論とか脳科学とかからでも)広くヒントを頂いて、釈尊の教えを考えたいと思っています。

 ”The Teachings of Buddha” の山下宗純さんとは、数年前、私が2年間ほど名古屋にいた時に何度かお会いしています。その後二人とも名古屋を出てしまって以来そのままなので、なつかしく感じました。その後、ホームページはあまり更新されていないようですが、お元気なのでしょうか? お忙しいのか。消息ご存知なら教えてください。

 今後ともよろしくお願いいたします。
                         敬具
翌桧様
      2005,11,19,         曽我逸郎

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