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自助グループとは?
用語集
自助グループを始めるには
Q&A
リンク集
気まぐれ
(とっても偏った)
用語集
(−_−;)
(このページの説明は、あをねこ個人の見解です。)
アスク(ASK)
アルコール薬物問題全国市民協会という特定非営利活動法人で、
アルコール依存症
を初めとする酒類に関する問題を初め、各種アディクション、
AC
の問題などに幅広く活動している。
アルコール依存症者を治療につなげるためのプログラム、
グ リーフワーク
やACの回復などの各種セミナーや出版活動も行っている。
アスクで発行している季刊誌「Be!」は非常に内容が充実しており、アルコール依存症、薬物依存症その他のアディクションに苦しんでいる本人、家族、援助関係者、教育関係者、ACにお薦めである。
アスクのサイトは、
リンク集
にあります。「アルコール依存症の予防と回復」のコーナーに掲示板があります。
アディクション
日本語では嗜癖という。コントロールの効かなくなった悪習慣のことで、次のような特徴がある。
対象にのめり込むことで気分が大きく変化する。
エスカレートしていく。
それがなければ自分が保てないように感じる。
健全な価値観が失われて行く。
本人は自分に問題があることを(例え気付いていたとしても)否認する傾向がある。
また、病気としてとらえた場合、次のようなことが言える。
慢性で進行性の病である。
放っておけば死に至る。
自助グループや専門の医療機関に繋がることにより回復可能である。
アディクト(アディクションにとらわれている人)に関わるときは、問題は、本人の性格や気質ではなく、病気であると言うことを理解し、振り回されないことが大切。
対象となる物質なり、行動なり、人間関係なりが人になんらか報酬(快感、万能感、高揚感、現実逃避)を与えられるものならば、何でもアディクションの対象となりうる。例:アルコール、麻薬、覚醒剤、たばこ、ダイエット、過食、買い物、万引き、放火、強姦、児童虐待、恋愛、セックス、ポルノ、アディクトへの世話焼き、テレビ、ゲーム、パソコン、パチンコ、ギャンブル 、仕事
アノニミティ(匿名性)
主に
12ステップグループ
の活動において匿名であること。
ミーティングで本名を名乗らないことも指すが、メッセージ活動の場や新聞やテレビなどのメディアに出るときなど外部に対して本名を伏せることも意味する。
アノニミティを守ることには、主に二つの意味があると考えられる。
ひとつには、グループ内でのアノニミティにより各メンバーの平等が保証される。
もうひとつは、アノニミティを守ることより、メンバーは無益なパワーゲームから解放される。アディクト、アディクトの配偶者あいは
AC
である私たちのほとんどは、同時に
共依存
の病にも罹っている。これは、私たちは病的なコントロール欲求や支配欲を抱えているということである。しかし、内部的にも外部に対しても匿名であることにより、グループを支配する余地は著しく制限されるし、そもそも支配することの意味がなくなる。そのため私たちは、グループ内でのパワーゲームでエネルギーを浪費させられることなく、回復に専念できるのである。
たとえば、次のような場面を想像していただきたい。自助グループのメンバーとしてどう感じるか、また、自助グループを初めて知る人としてどう感じるか。
メッセージ活動にグループを「代表」して参加することとグループの「一員」として参加すること。
新聞やテレビの取材で自助グループについて説明するのに本名で出ることと、匿名で出ること。
蛇足だが、アノニミティを守るために、グループ内の他の仲間に本名や連絡先を教えてはいけないと言うわけではない。これまで述べてきたことを理解した上で、自分で安全と思える範囲で自己の責任で連絡先などを教えるのは差し支えない。
アノニミティのほかにも12の伝統(12ステップグループで用いられている伝統)には、グループ内のパワーゲームを防止するための仕掛けがたくさんある。おそらく12の伝統がなければ、12ステップグループは今存続していないだろうというくらい重要だと思われる。
アパリ(APARI)
アジア太平洋地域アディクション研究所の略称。
主な活動は、次のとおり。
薬物依存症などの、さまざまなアディクション問題に関する調査研究
薬物依存症者やその家族などに適切な回復プログラムを提供し、再発防止、回復支援、社会復帰をサポート
それらを支える人材育成
アパリのサイトは
リンク集
にあります。
アラノン(Al-anon)
アルコール依存症者の家族や友人のための自助グループ
アルコール依存症は、家族全体を巻き込む病気であるため、依存症者本人だけではなく、家族もまた回復していく必要がある。そのためのグループがアラノンである。
アルコール依存症
アルコール依存症については、とてもここには書ききれない。最近は新書などでも詳しく解説したものが数多く出ているので、そちらを参照してください。
アルコール依存症というと、いつも酔いつぶれていて、暴力的で家族からも見捨てられ、すべてを失った敗残者といった姿を想像されるが、実際には、曲がりなりにも家庭を維持し、社会生活もきちんと保っている「静かなアル中」がたくさんいる。「確かに酒の飲み方は少しおかしいけれど、きちんと会社にも行っているし、夫はアルコール依存症ではない。」と思われている例が意外に多い。
次のチェックポイントにひとつでも当てはまると問題飲酒者、ふたつ以上当てはまるとアルコール依存症と診断される(CAGE)。
今までに、自分の酒量を減らさなければいけないと感じたことがある。
今までに、周囲の人から自分の飲酒について批判されて腹が立ったりイライラしたことがある。
今までに、自分の飲酒について後ろめたいと感じたり、罪悪感を持ったことがある。
神経を落ち着かせるため、または二日酔いを治すために朝まっさきに飲酒したことがある。
アディクションの項でも書いたように、回復可能な病気である。しかし、アルコール依存症者の家族は、酒をやめさせようとしてさんざん苦労して失敗し、傷ついてきたため、回復可能であることを信じることができない人が多い。家族の飲酒によって困っている人には、まず自分が断酒会やAAなどの自助グループに参加して、回復者の姿を見ることをお薦めする。
たとえ、依存症者本人が直ちに自助グループにつながらなくても、家族が回復者の姿を見ることによって、希望を持つことができる。
個人的感想だが、回復者には非常に魅力的な人が多い。また自助グループは非常に暖かい雰囲気のところが多く、依存症者本人でなくても癒される思いがする。
イーエー(EA:イモーションズ・アノニマス)
AAの12ステップが、感情・情緒面の問題からの回復にも役立つことを発見した人たちによって始められた自助グループ。
自分自身に感情・情緒面の問題があると感じ、それから回復したい人ならば、誰でも参加できる。従って参加者には、アディクトもいればそうでない人もいるし、ACもいればACではない人もいる。それぞれの問題を抱えていても、参加者は全員平等である。
EAインターグループのサイトは、
リンク集
にあります。
イネイブリング
アルコール依存症
者の飲酒に困っているのに、結果として飲酒を続けることを助けてしまう行為。例えば二日酔いで出勤できない夫にかわって職場に風邪で休むと電話したり、よそで酒を飲んで他人に迷惑をかけるよりもと、自宅に酒を用意して飲ませることなどの行為である。このような世話焼きをしてもらうことによって、依存症者本人は、自分の問題に直面しなくて済むため飲酒を続けることが可能となる。
イネイブリングをしてしまう人をイネイブラーと呼ぶ。イネイブラーがすべて共依存とは、限らない。アルコール依存症を正しく理解していないために、イネイブリングをしてしまっていることも多いからである。
プロフェッショナルイネイブラーとは、専門職でありながら、アルコール依存症に対する理解がないため、飲酒を助長している人を指す。例えばアルコール依存症の治療が必要な患者に対して、飲酒を控えるようにと言う(本人にとっては、量が多くなければ飲んでもいいというお墨付き)内科医や、有効な援助をしないまま生活保護費(=酒代)を渡す生活保護のケースワーカーなどである 。
エーエー(AA)
日本語にすると「匿名のアルコール依存症者(アルコホーリクス・アノニマス)」。アメリカで始まったアルコール依存症から回復するための自助グループ。
回復へのプロセスを示した独自の12ステップを用いている。また、グループの性格を定めた12の伝統というものもある。
AA JAPANのサイトは
リンク集
にあります。
エーシー(AC:アダルトチャイルドまたはアダルトチルドレン)
本来持っていた多くの力(当然与えられるべきだった愛情、健康な自尊心、世界への信頼感、才能、可能性など)を奪われながらも、生き延びてきた人。
ACの回復は、エンパワメントにある。多くを奪われてもなおかつ残っている力の芽を見つけだし、伸ばしていくことが回復である。力は他からは与えられるものではない。あなたは既に力を持っているのだ。今、あなたが生きていることが何よりの証拠だ。
もともとは、アルコール依存症の親の元で育って大人になった人を指していたが、今では、広く機能不全家族で育って大人になった人を指すようになった。
ACについても、とてもここでは書ききれない。たくさん書籍が出ているので、それらを参照していただきたい。ただ、一言言っておくと、ACは自己申告であるということ。一見健全そうな家庭で育っても、自分でACだと思えばACと名乗っていいし、逆にアルコール依存症の親の元で育っても、自分にはACの問題はないと感じれば敢えてACと名乗る必要はない。
なお、未だにACの事を心が子どものまま大人になってしまった人のように書いている書籍や、そう思いこんでいる人がいるが明らかな間違いである。
あなたが不幸になったのは親のせいかもしれない。しかし、あなたを幸せにするのはあなたの責任だ。
いくつかの補足
ACは、病気や障害を指す言葉ではない。
ACは、死ぬかもしれないような(実際、死んでしまった子どもも多い)過酷な状況下を生き抜いてきたサバイバー(生存者)である。ACという言葉は勲章であり、ネガティブな意味にとらえるべきではない。
原家族を生き抜くときに身につけてきたスキルをすべて否定する必要はない。例えば、あなたの完璧主義を生活のすべての場面で使おうとすると、あなたは、生きるのが大変になるだろう。しかし、あなたが仕事をやり遂げる上で完璧主義は、役立っているかもしれない。あなたは完璧主義をすべて放棄する必要はない。手を抜いてもいいところは意識的にほどほどに済ませることを学べばよい。要は、バランスを身につけることである。
信田さよ子さんは、新聞のエッセーでACについてこう書いてました。「現在の自分の生きづらさが親との関係に起因すると認めたひと」、「ACと自覚することは、親との過酷な関係を生き延びて、いまここに生きている自分を肯定することである。そして同じ苦しみを次世代に連鎖させないでおこうという、尊い意思の表明でもある。」
機能不全家族
子どもにとっての機能不全家族とは、ありのままの自分が受け入れられず、子どもとして当然受けられる保護が受けられないような家族である。
典型的なのは、親がアディクトであるような家族である。アディクトである親は、子どもを保護できないばかりか逆に子どもを利用することが多い。また、しらふのときは、子どもに優しくてもアディクションにとらわれているときには、態度が豹変しているときもある。このように親の態度が一貫していないために、子どもはひどく混乱してしまう。
また、アディクトではない方の親は、連れ合いの世話焼きにとらわれて、子どもへの充分なケアができないことが多い。子どもは、どちらの親からもはじき出されて、自分は、家族の中で存在価値のない人間だと感じるようになる。ACがアディクトである親よりもむしろ自分を守ってくれなかったもう一人の親を恨んでいることも多い。
子どもに対する期待が過剰である家族も、子どもにとっては「今のままじゃだめだ。もっと頑張らなければ存在価値はない。」というメッセージを常に送られているため、ありのままの自分でいることに罪悪感を持つようになる。
どのような場合でも子どもは、自分は条件付きで家族にいられるのだという無意識の信念を持っている。「自分がいい子でいなければ」、「自分が父親の飲酒をコントロールしなければ」、「自分がかわいそうな母親を慰めてあげなくては」、「自分が親の期待に応えなければ」などといったものが、子どもの主な関心事になり、自分自身のニーズはおざなりになってしまっている。
機能不全家族になるかどうかの分かれ目は、親が子どもを自分の願望や期待をかなえてくれる道具と見るか、一人の独立した存在として見るかにかかっていると思う。
私の個人的見解では、機能不全家族=コミュニケーション不全家族である。機能不全家族では、すべからく健全なコミュニケーションが失われている。
コミュニケーション不全には、次のようなものが考えられる。
コミュニケーションそのものがほとんどない。
親から一方的に子どもにメッセージが送られるだけで、親は子供の気持ちを聞く耳を持たない(コミュニケーションはキャッチボールのように双方向的なもので、一方通行ではコミュニケーションしているとは言えない。)。
双方からメッセージが送られているが、きちんと受け止められていないため、ちぐはぐになっている。
言葉とその背後にあるメッセージが矛盾している。そのため、子どもは言葉を信じるべきか隠れたメッセージに従うべきか混乱してしまう。
直接のコミュニケーションがなく第三者を通した間接的なコミュニケーションが行われている(例えば、妻には冷たい夫が子どもにだけは優しい場合、妻が自分の希望を子どもを通して夫に伝えたりすること。)。
共依存
他人から依存されることによって自分の存在価値を感じられる、病的な人間関係への嗜癖のこと。
前出のイネイブラーは必ずしも共依存ではないが、共依存の人は皆イネイブラーである。なぜなら、相手が病気から回復して自立できるようになると自分が困るからである。ただし、意識的にそうしているわけではなく、無意識のうちに相手をコントロールして自分に依存するように仕向けてしまっている。
グリーフワーク
失ってしまったものを悼む作業。主に家族などを亡くしてしまった人の癒しのプロセスを指すが、ACが幸せであるはずだった子供時代にさよならを告げる作業もグリーフワークという。
通常、大切な人や物を失ったとき、「1.否認」、「2.怒り」、「3.悲しみ」、「4.受容」というプロセスをたどる。例えば、「1.あの人が死んでしまったなんて嘘だ。信じられない。」、「2.なぜ、私を残して行ってしまったのか。許せない。」、「3.あの人がいなくなってとても悲しい。何もする気が起きない。」、「4.あの人はもうここにはいないが、あの人と過ごした時間はかけがいのない物だった。それを大切にしてこれからの人生を生きていこう。」といったようなものである。しかし、失ったものがあまりに大きいとき、この一連のプロセスの途中で滞ってしまうことがある。そうするとその人の時間はそこで止まってしまって、先に進まなくなってしまう。この停滞を人為的に解消し、止まってしまった時計を再び動くようにするのがグリーフワークである。
グリーフワークをするために過去に立ち返ることがあるが、それは、今をよりよく生きるためであり、過去を変えるためではない。過去に起こった事実を変えることはできない。しかし、その事実の意味づけを変えることはできる。
再発
アルコール依存症の再発と再飲酒は、よく混同されるが、別の概念である。再飲酒は、再発の結果に過ぎない。
再発とは、再飲酒の前に見られる機能不全な行動の事を言う。例えば今まで出席していた断酒のグループに行かなくなったり、断酒仲間と会うことを避けるようになること、あるいは物の考え方が飲酒していた頃に戻ってしまうことなどである。
「回復のプロセスにいない人は、再発のプロセスにいる人である。」と言われている。回復が登りの階段だとすると、再発は下りのエスカレーターと言える。
再発してしまった人に対しては、適切に介入することにより、再び回復へのプロセスに引き戻すことが可能である。もちろん早期に介入する方が後戻りしてしまったものを取り返すのが容易である。再飲酒まで行ってしまうと、回復のプロセスを最初からやり直すことになってしまう。
回復の道は平坦ではなく、多かれ少なかれ行きつ戻りつするのが普通である。大きな目で見れば再発も回復の過程で通る道とも言える。どうして再発してしまったのか分析し、再発を防止することは必要だが、再発してしまったことで本人を責めない方がよいと思われる。
児童虐待
虐待は、英語のアビューズの訳である。アビューズの本来の意味は、力の濫用である。つまり、圧倒的な力を持つ大人が子どもに対して力を濫用することである。
私に言わせれば、児童虐待は、未来に対する犯罪である。虐待を受けた子どもの多くが子どもの頃は、なんとか生き延びても、大人になってから、いろいろな問題に苦しんだりする事などが非常に多いからである。
児童虐待をする親の多くが自分自身子どもの頃虐待を受けてきている。しかし、子どもの頃虐待を受けた人すべてが自分が親になったとき我が子を虐待するわけではない。これは、重要なことである。自分自身が虐待を受けてきたため、子どもを生むことを躊躇する人がいるが、あまり心配することはない。その理由は、ひとつにはその人には、(自分の親とはちがう)知識と経験があるし、虐待をしそうになったときに、サポートしてくれる機関や団体などに繋がる術があるからである。
子育ては、親だけが全責任を負うには、荷が重すぎる。本来子育ては地域全体で行うものである。群で子育てをするというのは、動物としてのヒトとしてもあるべき姿であろう。子どもにとって一番望ましい環境は、自分を慈しんでくれる大人がなるべく多く周りにいることである。
余談だが、戦争にいい戦争があるかどうかは、議論の分かれるところだが、すべての戦争は児童虐待である(先日ある本に「戦争は、政治の一形態である。」と書かれていたが、「政治の失敗の一形態である。」と言う方が正しいと思う)。
精神保健福祉センター
精神保健に関する総合的なサポートを行っている機関で、各都道府県に設置されている。もちろんアルコール依存症、薬物依存症などについての相談業務等も行っている。
長野県精神保健福祉センターのサイトは
リンク集
にあります。県内の断酒会及、AA、アラノンの一覧表などがある。
セルフエスティーム
健全な自尊心のこと。簡単に言えば、今このままの自分がかけがえがなくて一人の人間として尊重されるべき存在だという信念のこと。
アディクトや
AC
には、セルフエスティームが著しく欠けている人が多い。たいていの場合、機能不全家族で育ったことに起因するが、イジメや強姦などの犯罪に遭うことによっても、セルフエスティームは奪われる。
セルフエスティームの欠けている人の心の中の耐え難い空虚さを一時的に忘れさせてくれるものが、酒や薬物であったり、買い物であったり、痩せることであったり、恋愛であったり、ギャンブルであったりする場合、アディクションになる。しかし、アディクションからの回復は、まず酒なりギャンブルなりをやめることが先決である。「しらふ」にならないことにはセルフエスティームの回復も何もあったものではない。
また、他の「かわいそうな」人の世話をすることによって、自分の存在価値を確認している場合、共依存となる。
多くのACがアディクションにならないまでも、いろいろなことを頑張ってみたけれど、心の中のどうしようもない虚しさを埋めることができないと感じている。それは、セルフエスティームが欠けていることに起因する。セルフエスティームを育てていくためには、自助グループに参加するのが効果的である。そのほか、アサーティブトレーニングなどのワークショップに参加することも役に立つ。
底つき
自分が
アディクション
の対象にたいして、コントロール不能に陥っており、自分一人の力ではどうにもならなくなっていることを認めること。回復への第一歩とされている。
よく「本人が底つきするまで回復しない。」というのを誤解して、何もしないで本人が底をつくのを待っている例がある。たいていは、底をつく前に、命が尽きてしまう。しかし、周囲の人が適切に関わることによって、「底上げ」をし、より早期の状態で、本人を治療につなげることが可能である。底つきの時期が早ければ早いほど、本人にとって失うものは少ないので望ましいことと言える。ちなみにアルコール依存症に対する介入については
ASK
でセミナーや通信講座を行っている。
イネイブリングは、反対に「底下げ」をしているようなものである。身近にイネイブラーがいる限り、アディクトは、底つきしないで存分にアディクションにふけることができる。さんざんイネイブリングしておいて、どうしようもない状態になってから、「やっぱり私の手には負えません。」と言って放り出す前に、保健所や専門医などに相談することをおすすめする。
断酒会
日本生まれの断酒のための自助グループ
AAとの大きな違いは、AAは基本的に組織化されていないのに対し、断酒会は、各地域の断酒会に会長を置き、さらに県組織、全国組織を持っていること(単独で独立している断酒会もある)と、AAの参加者はアルコール依存症者本人だけであるのに対し、断酒会では、配偶者など家族も普通に参加していることである。どちらかが、優れていると言うことはない。むしろ、依存症者にとっては、選択の幅が広くなると言う利点がある。
全日本断酒連盟のサイトは
リンク集
にあります。
否認
あらゆる
アディクション
の特徴のひとつ。自分自身に問題があることを認めないこと。アルコール依存症の人は、自分の酒の飲み方に問題があることを認めないし、共依存の人は、自分の他人との関わり方に問題があることを認めない。理由は、簡単でもし問題があることを認めてしまうと、自分の楽しみ(「楽しみ」という言い方は、ふさわしくないだろう。アディクションにとらわれてしまった人にとっては、それが生きることのすべてなのだから)を放棄しなければならないからである。
アディクションからの回復は、否認を解いていくことでもある。しかし、幾重にも重なった否認の壁を取り除いていくことは、容易ではないし、時間もかかる。それでも、アディクションから自分の生を取り返していくためには、この作業を念入りに行う必要がある。アディクションは慢性の病であるので、この作業も一生のものとなる。
言い換えれば、アディクションからの回復とは、嘘で固めたこれまでの人生から、ひたすら正直になることである。
否認には、次のような種類がある。
単純な否認「私は酒なんか飲んでない。」
過小評価「多少酒を飲んでいるが、人に迷惑をかけているわけじゃない(本当は迷惑かけまくり)。」
一般化「男は酒を飲むものだ。」
合理化「仕事のつきあいで仕方なしに飲んでいるのだ。」
退行(子ども帰り)「どーせ、いつかは死ぬんだからいいじゃないか。」
攻撃「うるせえ。がたがた言うな。ボカボカ、ガッシャーン!」
平安の祈り
多くの12ステップグループでミーティングの終わりに唱和している祈り。なお、この中に出てくる「神」もそれぞれが理解している神である。
平安の祈り
神様、私にお与えください
自分に変えられないものを受け入れる落ち着きを
変えられるものは、変えてゆく勇気を
そして、二つのものを見わける賢さを
12ステップグループ
AA
及びAAの12ステップを一部改変した12ステップを使っている自助グループを総称して12ステップグループと呼んでいる。
主なところでは、AA、アラノン、
EA
、NA(薬物依存症者の自助グループ)、OA(摂食障害者の自助グループ)、GA(ギャンブル依存症者の自助グループ)などがある。
12ステップでは、「神」とか「ハイヤーパワー」などといった言葉が使われているが、特定の宗教と結びついているわけではない。「神」はそれぞれの個人が理解している神でいい。それは、人によってはキリスト教の神かも知れないし、仏陀かも知れないし、宇宙の物理法則かも知れないし、山や木かも知れない。ちなみに私にとってのハイヤーパワーは、老子の言うところの「道(タオ)」である。
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最終更新:2006年9月17日
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