HeBaさん 「無我と縁起の理解の仕方」村長の仕事は確固たる主宰者でなければできないのでは? 2014,3,3,

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曽我逸郎様へ

はじめまして。私はもうお迎えも近い齢で大急ぎで仏教を学ぶべくあちこちのサイトを覗きこんでおります。たまたま御ブログに達し、しばらく勉強させていただいたおります。実践的でわかりやすい説明で大変ありがたく拝読しております。
首長さんというたいそうご多用な要職にありながら、人間の本性にかかわる仏教の教えをていねいに具体的に解説くださるご努力に敬意を表します。

ごあいさつのついでで恐縮ですが、一点質問をお許しください。

まず最初に率直に本音を言います。乱暴な言い方になりますがお許しください。
私は釈迦仏教を学ぶほどに、何と内向きの自己欺瞞型の教えなのかという疑念に付きまとわれています。
「悪いものは悪い」と言わず、常に「お前の考えが浅はかなのだ」とたしなめられ、外に向く問題意識を抑え、ひたすら自分の心を鎮めることを教える。そのような少々現実離れの教えのようです。伸びそうで伸びない仏教の敷衍は、ここらあたりにも原因があるのかな、とも感じます。

本題に入ります。話を分かりやすくするために曽我さまの現在の職務を例にとります。失礼をお許しください。
曽我さまは、村長という要職にあります。
組織を束ね、掌握し、規律を制し、指揮し、管理する。村民の生活状態を把握し、インフラ整備をし、生活環境の保全をし、教育し、健康管理し、もろもろの予算を組み、執行する。その他議会対策、対外的折衝、などこのほかにも余人には気の付かないあまたの懸案、対処事項があるでしょう。これらはすべて村長としてなすべき当然の仕事として村民から付託された義務であると同時に、権限でもあります。
曽我さまがこれらの仕事をするということは、確固たる主宰者としてこれらの仕事に執着をもって対処するということですね。逆に言えば執着なくしては対処できない仕事です。一般的な言い方をすれば、「人間は生きる執着にすがって生き延び、生き繋いできた」と思います。執着あってこそです。
こう考えると、あって当然(なければならない)の執着と、吹き消すべき執着と二通りに分けることができるのではないでしょうか。一切皆苦で全ての執着を捨てるのは現実的でないと思われます。
曽我さまの説明に何度となく出てくる、「『私』は確固たる主宰者として存在しているのではなく、その都度その都度の状況に応じた反応である」という表現がありますが、村長さんの仕事にこの言葉を当てはめるのははなはだ不適当だと思われます。あえて言うならば、村長さんは確固たる主宰者としての自覚をもって対処していただきたいわけです。

ここでもう一つの疑問が出てきます。
「『私』は・・・・その都度その都度の状況に応じた反応である」ということについてです。
歴史というものを振り返った時、そのときどきの偉人の行跡や、人々の生存や文化財の痕跡、経過を確認することができます。この理解の仕方は、そのとき「誰」かがいて行跡や痕跡を残したわけですが、そのときの誰かは事例ごとに人格をもった実在の人物(たち)であったということです。つまり「その都度その都度の状況に応じた反応」という存在ではなく、人格を持った歴史にまつわる実体的存在であったと理解したほうが自然だと思います。今の曽我さまになぞらえて言わせていただければ、「曽我村長さんは、中川村の行政の主宰者として任期中一貫して村民の付託にこたえるべく職務に携わっていただいた。」ということになろうかと思います。
このことについてもやはり仏教的に、「・・・・その都度その都度の状況に応じた反応である」ということになるのでしょうか。
たぶん取るに足らない妄言、愚問の類なのでしょうが、私にとっては無我・縁起を納得するための大きな引っかかりです。察するところ、ビジネスに従事されている方、勤務されている方は多分同じような疑問を持っていると思うのですが。
いつでも結構ですが、お時間の許す気の向いたときにご見解をお示しいただければ幸いです。
このブログの中でもし同様のテーマがありましたらそれをお示しいただいても結構です。

     HeBa

 

曽我から HeBaさんへ 2015,1,20,

前略

 メールを頂戴しながら、実に長い間そのままになっておりました。申し訳ありません。

 仕事であれ、そのほかのなにごとであれ、なにかを成し遂げるには、無常=無我=縁起の反応であっては不可能で、主宰者がなければならないのではないか、との疑問を頂いておりました。大変遅くなりましたが、思うところを書きます。

 初めに、HeBaさんにはご理解いただいているとは思いますが、他の読者のことも考えて、念のためによくある誤解を解いておきます。
 無我(アナートマン。つまりアートマンは存在しないということ)とは、執着のないことではありません。有我なる人が執着を滅尽することで無我になるのではありません。執着の反応を繰り返す凡夫も、仏も、同じようにもともと無我です。仏は、「自分にアートマン(主宰者)などなかった、私はそのつどの反応だった」と気づいて、自分に執着することの愚かさ、不可能さを知った人のことです。凡夫は、自分が無我であるにもかかわらず、守り育てるべき立派なアートマンが自分にはあると妄想して、存在しない自分に執着するという不可能で無駄な努力を続けています。無理なことを無理やりしようとしているから苦を生むし、必死に努めれば努めるほど、生み出す苦は大きくなります。

 次に述べたいことは、無我なる縁起の反応であるといっても、我々はマッチを擦ったら火がつくというような単純な反応ではもちろんない、ということです。
 おそらく、条件反射ができるところまで進化していない動物は、DNAに書き込まれたとおりにそのつどの縁に対して生得的な反応をするだけでしょう。条件反射のある動物になると、個体ごとに経験によって反応パターンが変わるようになります。経験を重ねるほど、反応パターンはより精緻になり、そのつどの反応はそのつどの縁に対してふさわしい(すなわち、利害にかなった)ものになっていきます。たとえば、スレたブラックバスは、エサとルアーとを目ざとく見分けます。
 さらに進化が進んで、霊長類くらいになると、自分を対象として捉えることができるようになります。ある程度成長した人間では、対象化した自分を将棋のこまのようにさまざまに動かしてみて、その結果を予想するというシミュレーションが可能になります。そして、対象化した自分を実体視して、アートマン、立派な主宰者という妄想が始まります。
 ちなみに、自分を対象化し実体視するという反応は、常に行われているわけではありません。経験によってそれがふさわしいという状況になった場合だけ、自分の対象化、実体視が起こります。ところが、振り返った時にだけ現れる影のように、自分を対象化して捉えるときにはいつも実体的な自分がいるように思えるので、実体的な自分がずっと存在し続けていると考えてしまうのです。現実の私たちは、なにかに夢中になっていたり、ぼんやりしていたり、眠っていたりしており、他の動物たちと変わらないそのつどのシンプルな縁起の反応であることがほとんどです。あるいは、わざわざ自分を対象化しなくても、さまざまな縁を受けるたびに執着の反応がしょっちゅう自動的に起動してしまうほど、執着がしみついているといった方がいいかもしれません。
 ともあれ、自分を対象化し実体視してシミュレーションを積み重ねることで、私たちは高度に計画的に行動できるようになりました。それによって生存競争に有利に勝ち抜くこともできましたが、生み出す苦もとてつもなく大きくなってしまいました。行動は計画化され高度化されていても、もともとの動機は、動物的な欲望やプリミティブな我執のままですから、行動が大規模で長期的、計画的になった分だけ、苦の生産も大規模になるのです。戦争や搾取をお考えください。

 ところで、執着の対象としていたアートマン、つまり「実体的に存在する立派な主宰者」が妄想であったことが分かったとしても、それを駒のように使ってシミュレーションをして計画して行動するということができなくなるわけではありません。釈尊の教えは、ヒトデや犬猫のレベルに戻れというものではありません。執着の愚かさ、不可能さが納得された結果、執着が霧消し、執着のかわりに、もともとあったけれど執着の陰にあった慈悲が、根本動機になるのです。慈悲を動機として、シミュレーションをしてよく考え行動するようになります。
 その典型は釈尊です。釈尊は、仏になった後、弟子たちをどう導けば苦をつくらないようになるか、さまざまに工夫を凝らして、教えて下さいました。

 頂いたメールの最後に、なにかを成し遂げた偉人の人格についても触れておられます。これについては、何度も言及していますが、親鸞の有名な言葉で考えたいと思います。
 「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」
 歎異抄にある言葉です。親鸞が弟子、唯円に「人を千人殺しなさい。そうすれば往生できる」と言うと、唯円は、「私には一人だって殺すことなどできません」と答えます。それを聞いて親鸞は、「そうだ、分かっただろう。(悪人正機を曲解した本願ぼこりに走ろうとして)みずから悪事をなそうとしても、業と縁がそのように組み合わされなければ、それはできない。逆に、いいことをするのも自分がいい人だからではない。いいことも、悪いことも、なんであれ、自分の意志でするのではなく、業と縁の組み合わせによってどのようなふるまいもなされるのだ」と教えます。
 業とは、人が過去に行った反応の蓄積であり、それによって形作られた反応パターンのことだと思います。その人らしい特徴とか性格とは、これによって生まれます。条件反射の蓄積といっても構いません。人には、多くの条件反射の反応パターンが層をなして積み重なっていて、そこにそのつどの縁が作用して、反応パターンのどれかを起動します。その結果、善い行いや悪い行いやさまざまなふるまいが起こります。
 親鸞は絶対他力の考えなので、自力やはからいを否定しますが、釈尊は、戒や精進も説いています。業と縁の組み合わせですべてのふるまいが決まるなら、どうして戒や精進が可能なのでしょうか。
 それは、釈尊の教えもそのつどの縁となるからです。釈尊の教えも、いつも反応を起動するとは限らず、業と噛み合わずに「もよおす」ことなく過ぎ去る場合がほとんどかもしれません。しかし、人生にいきづまったりいろいろな経験をしたときに業と「もよおして」作用することも時にはあります。その結果、善きふるまいが起こる。そのようにして、今のふるまいがだんだんと善いものに整えられていけば、それが蓄積されて、未来における業も次第に善きものになります。これが戒の教えです。
 人格者とは、どのような縁にふれても、感情的にならず自制的にふるまい、苦を作る反応をしない(と目される)人のことです。戒の教えに縁を受け、今のふるまいを整えようとし続けることによって、人格者にもなれるでしょう。さらにその上、無常=無我=縁起を自分のこととして納得できたとき、それまで繰り返し執着の反応になって苦を作っていたいた自分自身の愚かさが痛感され、執着の反応パターンがしぼんでしまいます。その後には、慈悲が執着の制約から解かれて働き出す。これが釈尊の教えだと思います。

 HeBaさんの疑問に答えられたか分かりません。ご検討いただいてまたご意見お聞かせいただければ幸甚です。

                                草々
HeBa様
    2015年1月20日                     曽我逸郎
 

 

HeBaさんから 2015,1,21,

<ご回答ありがとうございました>

 混沌の中から目覚めた赤子が、まず認識するのは自分を取り巻くゆらぎの世界と自分自身です。
 ゆらぐ彼と我との存在を知り、感受し、認識し、思考し、哲学が始まる。
 自我があるがゆえに思考やふるまいが始まる。自我の無いところでは、思考もふるまいも生じない。
 私は人間の思考やふるまいの発端は、人間それぞれに自我があるゆえだと、シンプルに考えております。

 煩悩を背負って、考え、意志を持って修羅場の生業をうごめき回っているのが人間のありのままの生きざまだと思っています。

 人間のふるまいはすべて原初から積み重ねられた経験知識による反応行動である、との曽我さまのご説明ですが、この説明にはやはり無理がある、と感じております。
 人間には単なる反応行動では説明できないすぐれた思考力、想像力、創造力が具わっており、それゆえに今日の人間社会の技術、文明、文化の発展、歴史があると考えます。つまりそれは人間は主体的にものを考え、行動する存在であることにほかなりません。
 ”無我”は釈迦教の最大のテーゼとされています。しかし、我々俗世の生活は、個々の存在を明確にしなければ成り立たない世界です。現実の俗世の生活で無我で過ごすことは不可能なことです。
 いわゆる修行者ではなく、世俗の生活者として釈迦教を理解し、生活の中で役立てようとすると、やはり本義からずれた解釈になってしまうように思います。それでいいのだと思っています。
 どうぞご容赦ください。

 ご回答を読ませていただき、ほぼ予想どおり、曽我さまの講義は浅学の私にとっては出口のない迷路に入り込むような難解さがあり、もう一度最初からゆっくり時間をかけて咀嚼してみたいと思います。

 このたびは、駄々をこねる我がまま子供のような質問に、真摯にお答えくだされありがとうございます。
 ご迷惑でしょうがまたのご指導をお願い申し上げ、
 ますますのご壮健を祈り粗略ながら御礼に代えて
             Heba

HeBaさんから 追伸 2015,1,25,

 待ちわびて、諦めかけていたところへいただいた曽我さまからのご返事でした。
 唐突なことに少々うろたえながら、前後繕う余裕もなく、お礼をのつもりでしたためた感想文でしたが、少々粗雑に過ぎてしまい興を削がれたことと推察し、お詫び申し上げます。貴重なお時間を費やしてご配慮くだされたこと、改めて御礼申し上げます。
 蛇足になりますが、なぜこのような質問を曽我様に差し上げたのであったか、釈明させてください。
 ご面倒でしょうが、以下、目を通していただければ幸いに存じます。

 私が釈迦の教えを知りたいと思うきっかけとなったのは、「釈迦は慈悲をどのように説いているのか」 という興味を持ったからです。  ウエブ上のその道の指導者にも尋ね、いろいろと根拠らしいものを探し求めたのですが、結論的にたどり着いたのは、「釈迦は、慈悲については言及していない」 ということでした。
 釈迦教の原典とされる初期仏教の経典を読み解くにあたっては、釈迦語録として信頼のおけると思われる最古の部分と、後の世に付加されたと思われる部分を峻別して読み解く、という定法があるようで、それによれば、スッパニパータの初めの部分に僅かに触れられている”慈悲”の部分は、後代の付加の疑いが強い、ということでした。探し求めていたものが、ないものねだりであると知って、非常に失望し、慈悲の説かれていない釈迦教をどのように理解するか、大きな難題になってしまいました。

 私は、曽我さまへの質問の最初に 「曽我様の講座は、実践的で解りやすい」 と申し上げました。曽我さまは仕事として住民の福祉や生活を束ね、他方では戦争や人権にかかわるいろいろな社会事象に積極的な批判的言動をなさっておられます。そのよって来たる所は、仏教の慈悲が根底にあると思うからです。今回の私に対する説明の中でも、そのことを説明されておられるのだと思います。
 慈悲が釈迦教のどの部分から出てくるのか、今でも私にとって最大の謎・興味です。このたびの質問の最大の興味は、そのあたりにあったと思います。
 曽我さまは 「もともとあったけれど執着の陰にあった慈悲が、根本動機になり、執着の制約から解かれて働き出す。」と仰っておいでですが、なかなか難しいロジックで簡単には理解できません。ともあれ、慈悲を重要なよすがとしてお考えだということはよく分かります。
 慈悲は人間の思行を方向付ける重要な要因である、そのように思います。
 語録に言葉があるかないかが問題なのではなく、無常の深い意味を汲みとって理解し、生きるよすがにする、それが大事なのだろうと思います。

 自閉的に自らの涅槃を求めることに安んじるのではなく、伴がらとともに慈悲の心で歩む、それが仏教の歩む道なのだろうと、改めて感じております。

 なんとも釈明にもならない蛇足になってしまいました。まだまだ理解が及ばず、恥ずかしい限りですが、それぞれの理解しやすい範疇で考えていくしかない、それが私の仏教理解の仕方です。
 どうぞご容赦ください。

 寒さ厳しき折ご健勝を祈って    御礼まで

    曽我さまへ
             1月25日    HeBa 拝

 

曽我から HeBaさんへ 2015,2,2,

前略

 返事を頂き、ありがとうございます。無我と慈悲について、疑問をお持ちなのだと理解しました。

 人類は、我を妄想することによってさまざまな事態にうまく対処してきました。進化による適応の一つであり、「我あり」という妄想は、極めて自然な感覚になっています。その反対に、「我はない、妄想だ」という考えは、とても違和感のある、理解しがたいものに聞こえます。
 他ならぬ仏教においても、無我は正しく理解され引き継がれてきたとは必ずしも言えません。たとえば、十二支縁起説です。十二支縁起説を批判するとは、恐れを知らぬ行為ですが、みんなで考えを深めるため、あえて提起してきました。十二支縁起における識の位置はあまりにも前すぎます。
 大愛尽経というのがあって、サーティという比丘の誤った見解が述べられています。サーティは、「識は流転し、輪廻し、同一不変である」と主張します。それに対して、他の比丘や釈尊は、「縁がなければ識の生起はない」と叱ります。その後、「眼ともろもろの色によって識が生起すれば、それは眼識と呼ばれます。耳ともろもろの声によって・・・耳識と呼ばれます。鼻と・・・」と解説されます。つまり、感覚器官とそれへの縁によってそのつど識が生起するのです。ところが、その後の段には、とってつけたようにつながりがないまま、おなじみの十二支縁起が説かれており、そこでは識は感覚器官などよりも前に置かれています。一つの経典の中で識の位置づけに矛盾があるのです。私の考えでは、「感覚器官への縁の刺激によって、そのつど識が生起する」というのが釈尊の本来の教えであり、そこに、後に成立した、「先に識あり」の有我論的傾向のある十二支縁起説が押し込まれたのだろうと推察しています。
 このあたりのことは、意見交換のページ、2009,10,21,chloeさんや、2012,4,16,泉清昭さんをご参照ください。

 さて、では、自我がまずあって思考やふるまいが始まるのでしょうか。この問いを厳密に考えるには、まず「自我」をきちんと定義する必要があるのかもしれませんが、いろいろな角度からさまざまに思考実験してみるほうがおもしろいので、わざとルーズにしておきます。
 自我の発生については、三つの時間スケールで考えることができます。
 まず、系統発生のどの段階から自我が生まれるのか。つまり、ゾウリムシ、イソギンチャク、ヒトデ、魚、カエル、トカゲ、イヌ、サル、ヒトとつながる動物進化のどの段階からなのか。この問題設定で参考になるのは、動物の行動学や生態学です。動物実験によると、自分を意識できるのは、霊長類のなかでもゴリラとか限られた種なのだそうです。
 次に、個体発生ではいつからか。つまり、人間が胎児から大人になっていく過程のどこで自我が生まれるのか。私の考えでは、自分をしっかりと対象として捉え、あるべき自分に自分を作り変えようとする危険な試みが思春期だと思います。個体発生において、自我がどのようなプロセスで生み出されるのか、参考にすべきは、発達心理学でありましょう。この分野の勉強は、やらなくてはと思いつつ、ほとんどできていません。
 最後に、一瞬一瞬縁によって反応が起こされている際に、自分という意識がどのように生じるのか。これは、脳科学や認知科学の範疇です。たとえば、ベンジャミン・リベットは『マインド・タイム』という本で、「人が何かをしようと思う400ミリ秒ほど前に脳の電位は変化している。行為にいたる一連の反応がスタートした後に意図は後付けで起こる」と書いています。(小論、<ベンジャミン・リベット『マインド・タイム』を読んで>を参照)。また、ダマシオの著作も大いに参考になりました。(小論、<ダマシオ『無意識の脳 自己意識の脳』を読んで>を参照ください。)

 慈悲に関するご質問も追伸でいただきました。私は、凡夫において、慈悲も、執着と同様にもともと備わっていると思っています。凡夫どころか、野生動物においても、仲間、あるいは異なる種の動物に対してさえ、助けてやる反応はそなわっており、そういうシーンをとらえた動画をいくつか見ました。ただ、慈悲と執着は競合する反応であり、凡夫においては執着の方が圧倒的に強いので、慈悲は執着の許容する範囲でしか働けないのだと思います。分かりやすく言えば、募金は、執着の許す金額で行われます。これについても、小論でもう少し詳しく論じています。《慈悲は仏教によって生み出されるのではない?》をご参照ください。

 古い文章の紹介ばかりですみません。ご一読いただいて、またご意見頂ければ幸甚です。

                              草々
heba様
     2015年2月2日               曽我逸郎
 

 

HeBaさんから 2015,2,3,

 ろくな素養もないままに、思いつくままの放言で、質問の態をなしていないところへ、再び懇切ご丁寧なご指導を下され、誠に痛み入ります。
 再び綿密なご指導くだされたことに対し、さらに勉強し、この一つ一つを咀嚼し、ご報告申し上げなければならないのでしょうが、質問冒頭にお断りしたとおり、間もなくお呼びのかかりそうな年頃なので、この期に及んであらためて典籍をひも解くほどの気力もなく、手近のテキストを頼りにささやかな知恵を得ながら楽しんでおります。またいつの日か改めてご質問をさせてください。

 と言いながら、また一点蛇足をお許しください。これは質問ではありません。例の私の呟きです。読み捨てていただいて結構です。

 曽我講義の最大の特徴である、例のゾウリムシ、イソギンチャクから始まり、ヒトにつながる動物の進化、生態系から説き起こす思考、反応の説明、これを読むたびに私の頭は袋小路の迷路に入ってしまうのです。人間の思行の態様を説明するのに何故ゾウリムシから説き起こさなければならないのか、と思うのです。
人間は独りで生存しているわけではない。我があり彼等がありその相互依存関係の中で感じ、考え、ふるまう。群れの中の一人として生きていくとき、我と彼はどのような関係であるべきか、我はどのように生きるべきか、それを考えながら生きているのが人間の倫理であり哲学なのだと思います。
 孤島でたった一人で生きていく、あるいは狼少年のように人間との接触を知らないまま成長する、そこにあるのはまったく人間としての知識、思考能力、哲学を持たない動物にすぎません。人間社会という群れの中の一人として生きているがゆえに、それを基盤として成長し、考え、ふるまうのです。これが私の人間存在の理解です。(wiki の”狼少年” を参照しました)

 先便で申し忘れましたが慈悲のこと。 慈悲はまさしく人間相互の依存関係から醸成される感情です。どこを照らすかも定かでない、灯台の光のような漠としたものではなく、我と彼があって初めてそこに慈悲の感情が生まれるのだと思います。
 上、またまた無知なるが故の放言であります。わざわざのご返事には及びません。

 ご親切なご指導感謝申し上げます。 ますますのご壮健を祈って。

     曽我さまへ
                         2月3日  HeBa拝

 

曽我から HeBaさんへ 2015,2,3,

前略

 残された時間がわずかだとの自覚があるなら、それだけ一所懸命になる筈だと思います。
 にもかかわらず、逆に、それを言い訳にして、釈尊の教えを楽しみの材料にしておられるのなら、ご要望のとおり読み捨てることにします。

                                 草々
heba様
       2015年2月3日                曽我逸郎
 

 

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