**さん 自分? 言葉のやっかいなところ 2013,1,

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(頂いたメールは、非公開です。)

 

曽我から **さんへ 2013,2,5,

前略

 いつも遅い返事で申し訳ありません。鋭い問題提起を頂きました。

 何事であれ、思い込んでいることが本当にそうであるのか探求しようとすれば、言葉を使わずにそれをすることはできません。

 しかしながら、言葉は、条件反射に由来するところの「いつも化」の産物であり、他ならぬ言葉そのものが私たちの自然な思い込みを反映し、また思い込みを生み出しています。或いは、言葉と私たちの自然な思い込みとは同じところに根ざす、という一面があります。
 このような本性を持つ言葉によって、言葉と同根・表裏一体である自然な思い込みを分析するということには、独特な困難さがあり、注意深く厳格にその困難さを克服しようとすれば、非常に「不自然な」言葉遣いにならざるを得ません。

 **さんから問題提起を頂いた「自分」については、その困難さが最も先鋭に現れる問いです。また釈尊の「無我」の教えのとおり、最も深い自然な思い込みであり、間違いを正して正しい認識・納得をすることが最も困難な思い込みでもあります。とは言え、決して複雑・難解なものではなく、身に染み付いた自然な思い込み、自然な見方から離れた見方をするのがなかなかできないというだけで、釈尊が教える見方そのものは大変シンプルなのですが…。

 世の中の事物が存在ではなく現象であることについては、(一部略)。そして、それら様々な現象の内、利害に関係するものは、条件反射の仕組みによって(私の言い方だと「クオリアによって」)カテゴリーとして捉えられ、それが縁となって、ふさわしい反応が起動されます。動物において条件反射で最初に捉えられるのは、餌か天敵だろうと思います。

 ヒトが最初に話す言葉は、「まんま」か「おっぱい」でしょうか。或いは「ママ」でしょうか。いずれにせよ「ママ」は非常に早い時点から言語化されて捉えられます。「ママ」の身体も、他の事物同様に物ではなく現象であることは(一部略)。
 しかし、「ママ」という言葉は、「ママ」の身体=色身を指しているのではありません。おっぱいをくれたり、だっこしてくれたり、いい匂いがしたり、叱られたり、そのような様々な「色身以上の何か」です。つまり、「ママ」の色身という場所でそのつど立ち上がってくる様々な現象がカテゴリーで捉えられて、「ママ」と名付けられるのです。釈尊が気づいたことは、色身を超えるなにものかとしてあらかじめ存在している「ママ」が、オムツを替えてくれたり、子守歌を唄ってくれるのではない、ということです。「ママ」の色身で、子守歌を唄う等々の反応が起こり、それらがクオリアによってカテゴリーとして捉えられ、「ママ」という実体が妄想され、それが主語として設定され、<「ママ」がまずいて、その「ママ」が子守歌を唄う、云々>というような思い込みが起こるのです。そして、そのように思うことには、普段の生活でなんの差し障りもありません。主語となる実体を妄想して仮設した方が、手早い情報処理やコミュニケーションが可能になり、却って便利です。

 「ママ」と同様なことが、「自分」においても起こっています。この色身で様々に起こされるそのつどの反応がカテゴリーで捉えられて、「私」という主語として仮設され、一貫して存在する実体的主宰者だと看做されます。「私」が考える、「私」が唄う、という風に。こういう捉え方は、いちいちそのつどばらばらの現象として捉えるよりも確かに便利ではありますが、大きな弊害も生んでいます。「自分」を実体視し対象として駒のように様々に動かしてみて試行錯誤し工夫するシミュレーションによって、そのつどの限定的な動物的欲望が、計画性発展性を獲得し、際限なく肥大することになりました。執着の発現です。その結果、生み出される苦も、動物的欲望とは比較にならない広範で深刻、甚大なものになりました。
 この大きな苦の生産を停止するために、釈尊が苦心され、ようやく見出されたのが、「自分」が存在するという思い込みは誤りであること、「私」とは、そのつどそのつど縁によって起こされる、一貫性も持続性もない反応の断続である、という発見だったのです。

 **さんは、わたしが「自分」という言葉を二種類の異なる意味で使っており、しかもまぜこぜに使っていると指摘しておられます。私の書き方の厳格さを欠いた手抜き部分に鋭く反応しておられるのだと思います。

 ご指摘を受け、意味するところの違いを以下のとおり明確にします。

 ひとつめの「自分」は、縁によって起こされる受身の反応としてのそのつどの「自分」です。受動態の「自分」です。それに対して、ふたつめのの自分は、日常の言語表現におもねて、能動態の「自分」、主語としての「自分」として言い表してしまいました。本当は二番目の「自分」も、縁によって起こされる受動態の「自分」として書き表すべきでした。
 「無常=無我=縁起を自分のこととして腑に落ちて知る」というのも、厳密には主語の「自分」が主体的に行うことではありません。もし主体的に行えるのであれば、「よし、では今から無常=無我=縁起を腑に落ちて納得しよう」と思えば、そうできる筈です。しかし、それはできません。様々な試行錯誤を重ねた挙句、条件が揃って機が熟し、そこに些細なことでもなにかの縁が作用し、「納得」という反応が引き起こされるのです。
 下の行の「観(自己観察)」も含めて、さまざまな修行実践、精進・努力も、非常に主体的なことのように見えるし、実際、通常日常の意味では「主体的」と言う方が普通ですが、突き詰めて厳密に考えると、やはり縁起の反応です。「今のような自分のあり方ではだめだ(今のような反応パターンのまま反応を繰り返していてはだめだ)」という思いがある(これは主体性によるのではなく縁起)ところに、釈尊の教えに触れ得た、という縁を受け、「精進せよ」という教えよって導かれた結果です。確かに「精進しよう」として精進するのですが、その「精進しよう」という思いが、厳密には「精進せよ」という教えによる縁起の反応なのです。
 ですので、二番目の「自分」も縁起の反応であり、ひとつめの縁によって起こされる「自分」の様々な起こされ方のバリエーションの内に含まれます。

 仏も凡夫も、無常=無我=縁起であり、そのつどそのつどの縁によって起こされる反応であることに違いはありません。
 ただ、凡夫の場合は、「私は立派な私であり、諸々を自ら采配している。私は大切な存在だ」という思い込みがあり、そのため縁への反応パターンが執着に導かれていて、繰り返し苦をつくっています。一方、仏の場合は、「一貫して存在して万事を主体的に主宰している「自分」など存在しない、私はそのつど縁によって起こされるそのつどの反応・現象だ」と知って、執着の愚かさが痛感され、執着の反応パターンが鎮まり、苦を作ることがなくなり、執着による制約から解かれた慈悲が新たな反応パターンとなり、苦を抜く反応になります。

 最後に「人無我法有」ですが、この言葉で**さんが言わんとされるところが私にはピンときていないので、頓珍漢な返事かもしれませんが、私は、人も法も無常であり無我であり縁起であり、現象である、と考えています。ただ、以前にも申し上げたかもしれませんが、世界の無常=無我=縁起は、苦の滅にはさして重要ではなく、これを過剰に重視することは、梵我一如型の考えに陥る可能性を生みかねません。この「私」の無常=無我=縁起をこそ突き詰めて見つめるべきだと思います。

 説明になったかどうか分かりません。ご不審の点あれば、またメール下さいませ。

                              草々
**様
     2013年2月5日                 曽我逸郎
 

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