齋藤留さん 科学と宗教 2006,2,2,

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曽我 逸郎 様

はじめまして。齋藤留と申します。

最近、神経生理学者ダマシオの著書を探してインターネットを検索したところ、貴兄のホームページにヒットし、ついでに幾つかの記事を拝見する機会がありました。それらの中に散見する言葉の端々から、仏教に於ける概念に科学的な概念を関連付けようとする試みが感じられ、共感するという意味で、意外でした。

私自身は仏教を学んだことがありませんが、それにも拘らず仏教と科学との関係について関心を持ち、悩まされて来ました。正確に言えば、悩むべきなのか不要なのかに悩まされて来ました。このような訳で「正法を学ぼうとする時に頼りになるのは、文献学的研究成果だけ」と言われてることには戸惑いを覚えました。

予定に反して長い文になってしまいましたが、以下がその概要です。もし、2文字のコメントでも頂けるなら幸いです。それは私に無限に有益な変化を齎すことになりますので、何卒宜しくお願い申し上げます。

1.宗教と科学は異なる次元の話なのか?

始めに、宗教と科学の歴史についての大まかな私見を述べます。

宗教や科学の様々な教義は、自然はどのように創られ、人は何故居るのか、といった素朴な問いに答えるモデルを提示することによって、自然に対する恐怖、未来に対する不安を人々から除く役目を果たし、その中の或るものは社会に広く共有され、人類の歴史を動かす原動力の大きな部分を担って来ました。

しかし不完全な教義はやがて信仰の体験を主体とする宗教、及び観念的な合理性を追求する科学とに明確に別れて歩むことになります。宗教は人々に、人が正しく生きていく為の動機や倫理規範を示す一方で、その人為的な教義は自らの集団を維持する方便としても機能し、その内に孕む矛盾の故に悲惨な闘争が繰り返されて来ました。科学は人々に安定した生活を保障する様々な道具を提供する一方、人類に破壊の道具をも齎しました。

科学を殺戮の道具として用いる時、そこには明らかに宗教が担うべき倫理観と他人への信頼の欠如が見られます。逆に、宗教の教義が闘争の根拠となり得る背景には、科学的な合理性の欠如が見られます。科学が倫理規範を欠き、宗教が合理性を排除する限り矛盾は解消されず、大量の破壊兵器を抱えながら、様々な対立を続けるいまの社会的な情況を回避することは出来ません。

本来共通であった問い、例えば「宇宙はどのように始まったか」に対して、宗教と科学が異なる答えを与えることは許されません。いま科学はこの問いに対し、地球の誕生以上に確実な説明を提示することが出来ます。残された最大の関心は、何故そのような宇宙は誕生しなければならないのか、という点に向けられています。然るにいま多くの宗教は、嘗ての原始宗教が抱いていた宇宙への関心を捨て去り、自らの教義とは異なる次元の話と見做し、科学そのものを突き放してはいないでしょうか。

一方で科学は、対立を繰り返す非合理的な無数の教義に目を奪われ、人間の内面の葛藤を救う宗教本来の力を軽視し、科学的な方法のみが全てを解決すると考えてはいないでしょうか。

以下、本論に入ります。

2.仏教から「仏」を取り去って見る

前述のように、私は仏教について素人です。しかしこのことは、私自身の中で仏教を自由に定義することを可能にします。そこで単純に、いま頭を掠めた2つのこと、一つは貴兄の文の何処かにあった「仏教は合理的である事と矛盾しない」ということ、もう一つは子供の頃に何処かで聞いて頭に未だに残っている「仏に逢ったら仏を殺せ」という威勢のよい言葉だけを根拠に「仏教は宗教ではない」として見ます。仏が居なくてよいなら、信仰する対象から開放されます。合理的な信仰は在り得ませんが、合理的な宗教体験ならばそこに対立するものは何もありません。

それは仏教とは何の関係もない、という批判を受けて即座に壊滅することは覚悟してますが、でも私はそれを意に介しません。多様な信仰の対象が発明される以前の、宗教と科学が未分化であった状況に戻るだけです。そこで、信仰する対象を排除した仏教を、改めて仏教と呼ぶことにします。仏教にはもともと信仰するべきものが無いのなら、そのまま変わりません。私が目指すものは、自分、自然、宇宙の全体的な理解ですが、科学はそれらを観念的に、仏教はそれらを体験的に捉えたものと云うことになります。

こうして科学と仏教は私の中で異なる方向を向いて対立するものではなく、一つのものの異なる側面となります。私自身についても、それらを自分自身を見る異なる捉え方として矛盾なく受け入れることが出来ます。しかし、科学と宗教に私が抱くこのような形での捉え方は、現代社会に於いて一般的であるとは思えません。何故でしょうか。

3.科学に関する2つの命題

宗教の各教義に固有な信仰体験は、合理的な科学的立場と相容れないだけでなく、宗教間の対立の原因となることは明らかです。このことは、宗教からその教義に固有で且つ人為的な信仰対象を排除することで一挙に解決します。一方、宗教的立場から見て、その立場に対立し、排除するべき科学的な立場の要因は、それが観念的であることだろうと思います。

私がそう考えるに至った根拠を、私が誤解して読んでいる可能性を承知の上で「あたりまえのことを方便とする般若経」の文から引用させて頂きます。例えば「自分という『存在』を世界から切り出して妄想し、そこに意味を与えようとする。しかし、もともとないところには、なにも載せられない。『何』の問いは不毛だ。」と言うことになります。

科学が合理性を指針に人や自然、宇宙について研究することに、現代的な宗教が異議を唱えるとは最早考えられません。すると上に引用した文で戒めているのは、描かれた蝶を蝶と思い、考察された自分を自分と思うことなのでしょうか。

1)「科学は全体を見ない」という命題について

ここからは、科学についての私の独断的な観点に立って、話を進めたいと思います。まず考えたいのは、「科学は分析的な自然の見方であって、全体を見ない」という命題です。これが上に引用した文の中の「自分を世界から切り出して妄想し」という部分に対応すると考えた場合、不都合が生じます。何故ならば、科学についての上の命題は誤りだからです。

科学は常に観察するものと観察されるものとを分離しなければ不可能でしょうか。そんなことはありません。まず差し当たり、客体を観察してその結果を記録しますが、観察する主体が客体に影響を与えないことは出来ず、更に観測すること自体が客体への影響をゼロにすることは原理的に出来ません。

一つの現象を正確に記述しようとすれば、これらの効果を無視することは出来ません。主体の影響を受けた客体自体は既に前の状態にはないばかりでなく、今度は主体の影響を受けた客体が主体に及ぼす影響も考慮に入れなければなりません。こうして一組の主体と客体の間でさえ、無限に続く影響の連鎖をすべて同時に取り込んで、始めて正しい現象の科学的理解が可能になります。主客の完全な分離は不可能故に自然界は総じて一体となり、その中に孤立した現象はもともと在り得ません。

それにも拘らず我々が人も含めて様々な現象を独立に経験することが出来るのは、自然がただだらだらと一様に在るのではなく、様々な相を成して階層的に在るからです。その背景に科学は美しい対称性を見つけ、各相ごとに成り立つ法則を発見して来ました。勿論、相と相の間には強い相関が在りますが、それらを「近似的」に独立なものと捉えることによって、我々が目にする一つの現象を全体の中から近似的に切り離して見ることが出来るのです。(素粒子、原子、細胞、人、星、宇宙、などは典型的な相ですが、詳しく見ればもっと多くの相が見えてきます。)

自然がそれで理解できたことにはなりません。相の階層を縦断的に繋ぐ理論が必要になります。普遍的な相転移の理論は、あらゆる相の間の関係を統一的に理解することを可能にします。物理現象に限れば、このような観点から150億年に亙る宇宙の歴史を理解出来るようになりました。更に進んで、宇宙(時空)そのものの創造を考えようとするとき、そこには2つの相、宇宙が「在る」か「無い」かしかありません。このとき、我々は宇宙の部分を全体から切り出して議論することすら最早出来ませんが、これも科学です。

生命、人、心、といった自然界の様々な階層についても、やがて同じことが言えるようになると思います。科学が分析的手法を用いたとしても、それは科学の本質ではなく、一つの手段に過ぎません。科学に於いても、部分は全体と統一的に理解されるべきものであって、自然がそう在る限り、それを記述する科学も変わりようがありません。この点は明確にして置く必要があると思います。

2)「科学的に理解されたものは、自然の観念に過ぎない」という命題について

以上を踏まえた上で、こうして「科学的に理解されたものは、自然の観念に過ぎない」という命題に移ります。前に引用した文では、これもやはり「自分という『存在』を世界から切り出して妄想し、そこに意味を与えようとする」という部分に対応させて考えることができます。今度は、自分を含めた自然全体を考えている自分が、その世界の外に居るからです。手の絵を描いている手の絵をエッシャー自身が眺めているのと似ています。

数学に於ける不完全性定理は、ある数学的な理論体系について、次のことを言明します。

1)その理論が矛盾を含まなければ、その中には肯定も否定もできない命題が、必ず存在する。

2)その理論に矛盾が無いとしても、そのことをその理論体系の中で証明することは出来ない。

ここで少し大胆に、自然を矛盾なく記述する理論体系が一つ出来たとしましょう。矛盾が無いのであれば、私自身はその中に含まれていなければなりませんが、そのことをその理論の枠内で証明することは出来ません。即ち科学は「それ自身の枠の中で自然を完全に記述する事が出来ない」ことを自ら認め、「『何』の問いは不毛である」ことを知っています。

観察している自分を、観念的な「人一般」と見做し、私自身はそれを外から眺める傍観者とすることによって、不完全な自然を観念的に描写することしか科学には出来ません。そうして描かれた自然は、実在する自然とは何の関係もない妄想でしょうか。そうではなく、ただ「自然そのものではない」と言うことではないのでしょうか。そのものでないことは、怪物である事を意味しません。

4.仏教と科学は異なる次元の話なのか?

以上を踏まえて、最初の問いに戻ります。

宗教と科学を別の次元のこととして捉える習慣は、それぞれの持つ正当な意義を台無しにしてるように見えます。少なくとも、私が勝手に定義した仏教と科学に関して言えば、それらは異なる次元のものではなく、一つの実体を把握するときの2つの捉え方、体験的な、そして観念的な捉え方の違いに過ぎません。(勿論、身体としての私と、意識された私ではありません。生きてる私と、頭に描いた私です。)

例えば、ダマシオの意識に関する理論に当て嵌めて自分自身について考えたとします。延長意識の中で意識された自分が観念的である事は勿論ですが、原自己自身は体験的にしか捉えることが出来ません。それは永久に捉えられないのではなく、延長意識が消えたところに始めて体験的に見えてくるのかも知れません。

科学はそれが正しいなら、宗教体験が実際に起こる現象である限り、それを客観的に記述することが出来なければなりません。様々な科学的実験と観察はそれを示すために行われます。しかし、その観察は宗教的体験そのものでないことは明らかです。体験すること自体は科学の枠をすり抜けてしまいます。それは、科学が現象の記述である限り、不完全だからです。

では、宗教的な体験自身はどうすれば実践出来るのでしょう。「あたりまえのことを方便とする般若経」の中で「無我を、縁起を、空を見る」と表現されたものを、私は勝手に「体験」と読み換えて来ました。勿論それを私は体験的に知らないのですから、その言い換えが適切なのか、同じことを指しているのか、判断できません。もし正しいならば、観察することによってではなく、「座る練習と見つめる練習、さらに見ない練習を積むこと」を通して体験出来る、と言えることになります。

このメールの最初から最後まで、饒舌を重ね、「あたりまえのことを説く如来」が強く戒める妄想に執着し、意味を付け、価値を測っている自分を、私はいま見ています。重ねた饒舌を全て捨て去り、結局「正法を学ぼうとする時に頼りになるのは、文献学的研究成果だけ」という貴兄の見解に対して私が述べたかった事は、これまでに人類が築き上げてきた「科学的成果からも『積極的に』学ぶことがあるのではないか」という感想に要約できるかも知れません。様々な科学的観点から、仏教の教義についての考察や意見交換を既に重ねておられる貴兄に、このような感想を述べることは恐れ多いことと承知して居りますが、敢えてメールを送らせて頂きます。

       齋藤 留


齋藤留さんから再び 2006、節分

曽我 逸郎 様

先程メールを送った後で、改めて「意見交換」を眺めて見たところ、02年12月10日の田村和廣氏宛メールの中で、仏教と科学について貴兄が明確にご自身の意見を述べて居られることに気付きました。それによって考えて居られることは凡そ理解できましたので、お忙しければご返事がなくても構いません。

仏教に馴染み易いものとして科学的な思考を肯定的に捉えて居られることは以前も承知して居りましたが、今回は更に安心致しました。結局、科学は「無我=縁起の理論的学習について、仏教を支援してくれる」ものという見方に立って居られる、と理解しました。

科学の役割が多様な自然界の現象をそれらの「原理から説明すること」だとした場合、科学は仏教の理解を支援する、という見解を得るのは妥当だと思います。

私自身は、科学が最終的に求めているものは、生きた自然、人、宇宙は何故このように在るのか、という問いに答えることだと考えています。これが「原理から説明する」こととどう違うのかを、一番明確な物理を例にとって説明したいと思います。

物理の役者は時空と物質です。時空の理論はアインシュタインがほぼ一人で完成しましたが、その指針となったのは次のことです。

1)普遍的に成り立つ(対称性)。
2)具体的な現象を正確に記述する。
3)無駄が無い。

時空理論ではまず1)について、時空の構造は互いに任意の運動をしている2人の観測者の立場を入れ換えても、物理現象が同じに見える(一般相対性)ことを要請します。既に知られていたニュートンの重力理論を特別な場合として含むようにして2)を満たし、その中で最も単純なものを選んで(10年以上に亙る苦労の後)得られたのがアインシュタインの方程式です。

方程式は要請された対称性を表現する物理量(いまの場合は時空座標)の間の数学的な(従って客観的な)関係式です。それは美しく単純ですが、それを見ただけでは具体的な物理現象は分かりません。各現象はその方程式を解いた時の解として得られます。方程式の解は沢山あり、アインシュタイン方程式の場合なら無限個ありますが、いま我々が住む膨張宇宙の解はそのうちの一つです。大事なことは、一つの方程式(対称性の要請)が、地球上の落下運動からブラックホールの存在、宇宙の構造まで、重力が関わる全ての現象を統一的に記述していることです。

物質の物理の方は、沢山の現象の観察からそれらの背後に在る対称性(ゲージ対称性)を発見し、上の3つの条件を満たすように現在の素粒子の統一理論が作られました。これら時空と物質の2つの理論は、互いに矛盾しているという意味で未完成ですが、宇宙誕生直後から現在までの150億年の歴史を理解するには充分正確です。

強調したかったのは、物理法則が単に各現象の背後にある原理について述べてるのではなく、有り得る総ての物理現象の背後にある原理について述べてることです。このことは、残された問題として、物理学は自然や宇宙がそもそも何故あるのかを問うことになります。これは昔、宗教が発した問いだったのではないでしょうか。

生命や心の現象は、物理と切り離して考えることは出来ませんが、多数の分子の有機的な複合体を理解するにはそれなりの見方が必要になります。しかしそれらを現象と捉える限りに於いて、科学として統一的に理解することは可能だと思います。

多少の見解の違いはあっても、既に充分ご存知のことを拙く説明し、大変失礼だったかと思いますが、科学の役割について異なる見方があり得るのではないか、という感想を述べさせて頂きました。

                            齋藤 留

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 (この後、斉藤さんから続きのメールを頂戴し、私からの返事はそちらに掲載しています。)

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