齋藤留さん <続き>科学的方法について 2006,2,19,

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曽我 逸郎 様

前略

《無我なる縁起の現象に主体性はいかにして可能か》を興味深く読ませて頂きました。進化論の役割など、その通りだと思います。ただ、肝心なところ、即ち「主体性の発現」と言われる時に想定されて居られることの内容が、残念ながら曖昧にしか理解出来ませんでした。

この一文を切っ掛けに色々考えた末、前のメールを補足する意味で、科学から何を理解できるかについて、科学的な既知の結果を基に私の考えを纏めて見ました。自己完結させるために長くなってしまいましたが、何時でも結構ですので目を通してご意見を頂ければ幸いです。

                              敬具

                平成18年2月19日   齋藤 留

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科学的方法について

1.現象と科学(その関係についての概観)

「もの」から全ての属性を取り去ったとき、残るのが「数」です。数学はその数の間に成り立つ関係について述べます。従って、全てのものから生じる現象は、数学で知られている多くの関係を満たさなければなりません。逆に、数学的に知られた一つの関係は、多くの現象の客観的な表現と見ることが出来ます。

数学的な関係は抽象的ですが、複雑で具体的な現象の背後にある原理を明確に提示し、多くの現象を普遍的な立場から理解することを可能にします。例えばリンゴの落下運動と宇宙の膨張が一つのアインシュタイン方程式で記述できることから、それらが同じ原理で起こることが理解できます。科学は様々な現象から普遍的な関係を見出すことを目指し、先ず分類することから始めます。

例えば、植物のことを理解しようとすれば、各植物の形や発芽の仕方など様々な特徴に注目しながら、似た性質を共有するものに名前をつけ、分類して行きます。そのとき注目するのは「対称性」です。黄と赤で色は違っても、その他の形質が同じであれば共にバラと呼びます。

対称性は、異なる側面を持ちながら、同時にそれらを一つに統一する不変な性質を表します。対称性で特徴付けられたものを一般に「相」と呼び、各相には異なる概念が、各概念には異なる相が対応します。人は常に変化しながらその人であり続けるのは、その人がその人固有の対称性を持つからです。

対称性に基づいて分類して行くと、植物は漫然と在るのではなく、下から順に門、綱、目、科、属、種と言うように階層的に分類されることが分かります。自然界の多様な現象はそれらを大雑把に見れば、素粒子、核子、原子、分子、物質、星、銀河、宇宙と言うように明確な階層構造を持ちますが、より詳しく見れば、例えば分子から作られる物質には更に多くの相があって、複雑な現象が展開されます。

その中でも、DNAと呼ばれる分子の相は、細胞、器官を経て生命を進化させました。脳と呼ばれる器官が更に高度な進化を遂げた結果、生命は個体を超えて相互に連携し、家族、共同体と言う新しい階層を発展させました。こうした社会現象でも、それらをDNAや脳に組み込まれた本能と言う見方で捉えれば、自然現象と言う側面から理解することができます。

人間の脳の言語野と呼ばれる部位に発達した組織は、意識に上る表象を言葉に変える能力を獲得し、都市、国家と言った複雑な相を発展させたと考えることが出来ます。この機能はそれ自身意味を持たない文字(音節)の組み合わせに一つの概念を付与し、文や文章と言った言葉より上の相構造を通して、感情や物語など意識の高度な相を表現することを可能にします。最も抽象的に表現されたものが、数学的な関係式に他なりません。

2.部分から全体へ(現象の背後にある普遍的構造)

自然現象から社会現象、心的現象に至るまで人間はこれらを詳細に観察し、言葉や数式を用いてその階層構造を明らかにしてきました。

1)決定論と非決定論

観察とそれに基づく思考が正しければ、各言葉の意味する概念は、それぞれの現象を忠実に反映していなければなりません。このことは全ての現象が、それらを観察し、抽象化している観察者と、観察される現象自体と言う、主客の2重構造を持って表れることを意味します。

自然、社会そして心的現象を単純化し、それぞれが原子、人、観念を要素とし、要素の間の相互作用を素過程としてそれらは成り立つものと考えて見ます。人は確信を持って月にレーザー光線を当てて距離を正確に測り、国の職業別人口分布を知り、読んだ本の概要を説明することが出来ます。それは月や国、物語の流れが多くの要素の集合であって、その中の一つの要素の違いは結果を変えない決定論的なものと考えるからです。

しかし、原子の中の電子の位置は確率的にしか決定できません。道行く人の職業を正確に当てることは難しいし、本の中の一つの単語が試験のときに思い浮かぶとは限りません。素過程ごとに要素は非決定論的にしか顕在化出来ず、全てを確信的に理解していた主体はそこに存在しません。そこに在るのは主客未分化の素過程そのものです。

2)相転移

上の例では現象を単純化して議論しましたが、同じことは異なる階層にある相の間で普遍的に起こります。水から氷が出来る過程では、無数の水分子が勝手に動き回ってるのが液相にある水で、水分子が相互に作用して硬く結合し、一つの固相になったのが氷です。この現象を水から氷への「相転移」と呼びます。

相転移は対称性の観点から理解することが出来ます。いま下の階層を成す相の要素は幾つかの属性を持ち、それ自身安定であるとします。各要素の属性を考慮に入れるとその集合が取り得るあらゆる状態の数は、要素の数又は属性の数が多い程急激に増加し、集合全体の状況は把握困難になります。そこで、各要素に注目することを止め、それらの統計的な振る舞いを調べる必要があります。

或る状態から出発して要素を互いに入れ換えれば属性の交換が起こり、集合はその状態を一般に変えます。もし或る状態が多くの入れ換えの組み合せに対して区別できない、即ち対称性が高いならば、その状態はそれだけ実現する頻度が高く安定していると言えます。こうして集合の状態全体を対称性と言う観点から特徴付けることが出来ます。

特に或る一つの対称性を持つ状態が圧倒的に高い頻度で実現すれば、集合はその対称性で特徴付けられた安定な一つの相と見做すことが出来ます。このような相は、要素が備えていた属性とは全く異なる性質を持ち、こうして上の階層が形成されます。一方、要素がばらばらに在る状態は最も対称性の低い状態と言えます。

3)生成と消滅

要素が沢山あり、その一部分から上の階層の相が一つ出来たとします。その相に取り込まれた要素が外の要素と入れ換わってもやはりその相で在り続けるならば、その相はより安定であると言えます。必要なたんぱく質が充分在る環境では、細胞や動物は代謝を繰り返して自分を絶えず再生し続けます。

このような相の在り方は、要素が入れ換わるごとに相の前の状態は消滅し後の状態が生成された、と見ることが出来ます。この生成消滅が続く限りその相は在り続け、それが止まればその相自身が消滅すると考えることが出来ます。

要素が充分沢山あって上の階層の相が多数作られ、それらが生成消滅しながら更に上の階層を形成します。そのとき、DNAのような自分を複製する機構は効率的に上の階層を生成します。心的現象であっても、記憶や知識は互いに影響しあいながら時々刻々新しい情報で置き換えられ、上の階層の新しい感情や考え方が形成され続けると考えることが出来ます。

物理現象の基礎となる素粒子の場合、その要素の源は真空です。真空はそれが強く歪めば、そこに大きなエネルギーが集中して素粒子と反素粒子の対が沢山生成されます。宇宙創生時のビッグバンはこうして起きました。素粒子の運動は、空間のある点でそれが生成された次の瞬間にそれは消滅し、同時にその隣の点に新しく生成されるという素過程が繰り返される現象と同値です。こうして、生成消滅し続ける過程は、部分と全体が相転移をしながら共存する現象の普遍的な在り方であると言えます。[0]

3.現象の公理論的な意味(現象の演繹的な再構成)

これまでは、観察された多くの現象からその背後にある規則を帰納的に考察してきましたが、次に、これまで曖昧に用いられた言葉を定義し、帰納的な結果を演繹的に再構成することによって、何が新しく見えて来るのか考えて見ます。

1)集合と数

任意の「もの」(または「こと」)の集まりは、それらを「要素」とする「集合」、要素を持たない集合は「空集合」と呼ばれます。

集合 Sn が集合 Sm を要素とするとき、Sm は Sn の「部分集合」と呼ばれ、その包含関係を Sm ⊂ Sn と表します。Sk が Sm と Sn を要素とする集合ならば Sk = Sm ∪ Sn と表します。

要素が異なるならば、それらは異なる「属性」を持つ、と言います。属性を持たない要素の集合から成る包含系列 S0 ⊂ S1 ⊂ S2 ⊂ S3 ⊂ ・・・に於いて、全ての隣り合う包含関係 Sm ⊂ Sn について Sn = Sm ∪ S1 であり、且つ S1=1 ならば、集合 S0 ∪ S1 ∪ S2 ∪ S3 ∪ ・・・ は「数」、Sn は「数 n 」、S0 は特に「ゼロ」と呼ばれます。

2)相

集合 S の要素を一定の規則で別の要素に置き換える操作を S の「変換」、変換により得られる集合を S の異なる「状態」と呼びます。変換はそれを変換前の要素の消滅に続く後の要素の生成と見ることも出来ます。それはまた要素の間の属性の交換の組み合わせと見做す場合には、要素の「相互作用」と呼びます。

或る集合に変換を繰り返して得られる状態の集合 S に、更に変換を施しても再び S を得るならば、S をこの変換で閉じた「相」、その要素の数をその相の「状態数」と呼びます。相 S の状態が任意の変換の下で不変な属性を持つならば、S はその変換の下で「同一性」を保ち、「対称」であると言います。

同じ要素から構成された2つの相 Sa, Sb について、対称性を保つ属性の集合をそれぞれ a,b とし、a⊂b ならば、相 Sb は Sa より「対称性が高く」且つ「安定」していると言います。

或る相の可能な状態の中から一つの状態が選び出されることを、その状態の「顕在化」と呼びます。安定した相では特定の状態が顕在化する確率が高く、選択に対して決定論的と言えます。それに対して独立した要素の集合では、各要素の属性で指定される状態の顕在化は非決定論的です。

3)意識

集合全体をその集合の要素として含む集合は特に「自己言及型集合」(または「ラッセル集合」)と呼ばれます。

自己言及型集合 S の部分集合で S を含まないものを「客体」、含むものを「主体」、主体の要素を「意識」と呼びます。客体に依存する意識を「外的意識」、しないものを「内的意識」と呼び、それらの顕在化を特に「認識」、顕在化された意識を「記憶」と言います。[1]

認識された主体 S1 は認識している主体 S2 の要素なので、包含関係 S1 ⊂ S2 が成り立ち、またそれぞれの状態数 n1, n2 については大小関係 n1 < n2 が成り立ちます。

認識を繰り返して得られる主体の包含系列 S1 ⊂ S2 ⊂ S3 ・・・ の順序数を「時間」、或る時点から見て状態数の増加(減少)する側に在る意識を「未来」(「過去」)の意識と呼びます。

顕在化されない意識の集合を「無意識」、その中で起こる意識の間の相互作用を「精神活動」、内的意識の間の相互作用を特に「思考」と呼びます。思考の結果として顕在化した意識を「観念」、特にそれが或る対称性の下で閉じた観念であれば「概念」と呼びます。[2]

対称性に基づいてその概念の可能な全ての観念を構成できるならば、その概念は「理解された」と言います。[3]

4. 自分(公理論的な方法に基づく自由意思の構成)

自己言及型集合は、それ自身矛盾する数学的な概念ですが、「集合自身を要素として含む全ての集合の集合」 は矛盾を引き起こしません。一方「自分」を定義しようとすると必然 的に、例えば「それ自身について知っているもの」と言うように、自己言及型になり、そのままでは意味のある定義が出来ません。

1)固定した「自分」の不可能性

現在を時刻 T とし、S1 ⊂ S2 ⊂ S3 ⊂・・・⊂ ST を顕在化した主体の時系列とすれば、ST=S1=自分 のときこれは「自分」についての自己言及型系列です。もし ST を「現在の自分」、それ以外を「記憶の中の自分」として時系列を分断すれば、その系列に明確な意味を持たせることが出来ます。しかしこれは自分のスナップ写真を見ている自分と同じ意味にしかなりません。

顕在化しない無意識を上の包含系列に含め、連続な時系列を考えた場合には、主体の内 ST を除いた集合 {S(t) | t

こうして ST をそれ以前の主体から分離してもしなくても、このままでは意味のある「自分」を定義することは不可能です。しかしこれは「自分」を現時刻 T に固定できる、と仮定したことにより起こる矛盾です。この矛盾は、「自分」はそれを或る時刻に固定すると同時に自分でなくなる、と言うことを示しています。

2)意識し続ける自分

そこで「自分」とは、「それ自身を新しく意識し続けるもの」として見ます。新しく自分を意識し続けている限り、意識し続けている自分を意識していますが、その「自分」の部分を固定したものは最早「自分」ではなくなります。何故なら、それは新しく自分を意識し続けていないからです。[4]

このような「自分」は生成消滅を続ける心的現象に他なりません。「自分」は無意識的であれ顕在的であれ常に記憶や環境から情報を獲得し、そのことによって自分で在り続けることが出来ます。無意識の中で起こる現象は、外的及び内的な様々な意識が生成消滅している過程であり、顕在化した意識は記憶の中に非決定論的に生成された意識です。

無意識の中にはDNAを通して生命創生以来の歴史が刻み込まれており、このことからも一人の「自分」が孤立して存在することは不可能なことが明らかです。この意味で「自分」には近似以外の厳密な境界はなく、宇宙全体に必然的につながって始めて閉じることが出来ますが、宇宙自身も発展を続けることになります。

3)自由意思

それ自身を新しく意識し続ける自分は必然的に自分を未来へと延長し続けます。しかし記憶が有限な順序系列であるとするならば、過去から現在に至る時間も順序系列となり、過去から未来へと連続的に継続する時間の概念は得られません。従って、例えば睡眠中でも連続的に存在し、自分と共に経過する時間の概念は、客体で起こる現象の観察や思考を経て得られると考えられます。

或る行動のイメージが無意識の中で意識され、行動のプログラムが必要な神経に伝えらることによって動物は行動することが出来ます。もしそのイメージが偶々顕在化し、暫く後にその行動も認識されたならば、その行動の原因として自分の「意思」の存在を確信するかも知れません。未来に延長された自分の行動を決定する自由意思としてそれを概念化することも出来ます。

しかしこれはDNAの進化に何か目的や意図を想定するのと類似の誤った仮設であって、イメージの顕在化自体が非決定論的である限り、意図的な過程が起こる必然性はありません。決定論でないという意味で自由であることは、本当に自由である事を意味しません。5秒後にする行動を決める自由を今持っているとしても、何をするかはそれまでに偶々思い付いたものに限られます。立ち上がることに決めても、いざという直前に固い決心でそれを止めることが出来ます。然しそれを本当に止めるかどうかは、そのとき偶然閃くことになります。これは、選択できるが、何を選択するか決められない自由でしかありません。

これまでは、心的現象の最も下の階層に属する意識の振る舞いに基づいて議論してきた為に、意識のより高い相の果たす役割が正しく評価されていません。意識が顕在化する過程は常に非決定論的ですが、より高い意識の相に記憶される内容は、複雑なイメージや思想、感情、物語であり得ます。もしそれが本の著者の名前ならば、それから連動的にその人の思想、図書館なども頭に浮かび易くなるかも知れません。或る問いに関連する知識が多く記憶されていれば、正しい答えが浮かぶ頻度が増すでしょう。これらの例は記憶の量と質を向上させることによって、偶然起こる顕在化の頻度を制御できることを意味し、そこに自由意思の介入する余地があります。

より高い階層の意識は個人にとってそれだけ安定した意識と言えます。何が問題なのかすらはっきりしない難題に対して、様々な試行錯誤を繰り返し、ほんの一部ずつ分かる部分が現れて記憶され、それを何ヶ月も繰り返して或るとき忽然と全てが目の前に現れる、と言った経験は、最も高い意識のレベルで安定して記憶され、その後のあらゆる階層の意識の顕在化に強い影響を及ぼすことになります。

イメージされた或る目標を確実に達成する方法はなく、出来ることはそれに必要と思われる高い階層の意識を整えることですが、その準備自体は更に上の意識に依存します。例えば、眠らなければならないと言う意識が顕在化しても、続いて眠りと無関係な雑念も次々と顕在化します。雑念を減らすには部屋を暗くし、何度も百まで数え、等ということは学習することによって記憶されます。出来るだけ学習の機会を増す習慣をつける、と言う意識は上の方の階層に属する意識であって、各個人にとってはかなり高い確度で実行可能です。これが人間が持つ自由意思の限界です。

もし特定の事柄に関する狭い範囲の知識や感情が沢山蓄積されているならば、その事柄についてのその人の発想は強く制限されていて、柔軟性を欠くかも知れません。このことは自由意思を制限する効果を生みます。

より高度な意識への進化は、DNAの進化と多くの類似点があります。素過程は純粋に非決定論的でありながら、高い階層に進むほど複雑になりながら各相ごとの安定性を持ち、しかも柔軟性を備えるという明確な構造を共有します。勿論これらは相転移しながら階層を構成するメカニズムを持つ、人間社会も含めた全ての現象に当て嵌まることは言うまでもありません。そのどれをとっても、進化の最終目標があるわけではなく、また完全に非決定論でも決定論的でもないことを示しています。これは常識と変わらない結論ですが、科学的方法は根拠と共にそれを確実に示すことが出来ます。

5.結び

以上で、私が知り得る科学的な方法に沿って、様々な現象の背後にある原理を推論してきました。ここで考察した現象、即ち「非決定論的に生成消滅を繰り返す相から決定論的な相への転移の機構」に限れば、素粒子理論で確立され、心的現象への応用[5]も始まっている量子場の理論が有効な理論的解析の根拠を提供すると考えられます。

然し現在の科学で未だに理解できていない2つの重要な問題には意識的に触れませんでした。それは、時空の量子化とカオス系の量子化の問題です。これらは、宇宙そのものが何故あるのかという問題に深く係わり、自然科学に残されたいま最も重要で難解、且つ興味ある課題です。これらが解決した時、どのような変更が必要になるのかは大変興味のある問題です。

多くの言葉や概念を、常識的なものや、各分野で慣用的に用いられているものとは異なって用いました。その代わり、それらは今回のこの議論の中では公理論的な定義の下で互いに矛盾のない様に努めました。

最後に、「意見交換」や「小論集」に議論されている多くのテーマについてはなにも述べませんでしたが、それらに触発されて以上の考察を纏めました。私自身の観点からそれらを今後考えて行ければよいと思っています。

脚注

[0]これは量子場の理論と呼ばれる 1970 年以降次第に広く理解されるようになった物理の一般的な考え方です。

[1]外的意識は、客体なしには意味を成さない意識であって、遺伝的に組み込まれた機能に基づく感覚や情動が、内的意識には感情や記憶が含まれます。これらの意識は常に明示的なのではなく、物理現象に於ける顕在化と同じく不意に頭に浮かぶのであって、それを此処では認識と呼びます。

[2]主体にとって思考自身は直接認識されない脳の過程であって、顕在的ではありません。或る観念が不意に浮かぶ事から、その原因として想定されるものです。

[3]犬は固有な幾つかの属性を持ち、或るものを見てそれを犬か、そうでないか判断できることが、犬を理解してることの条件です。ここでは児童心理学者ピアジェの見解を踏襲しました。

[4]結果としてベルグソンの純粋持続に近いと思いますが、ベルグソンの主張の正確な根拠は理解していません。

[5]日本の理論物理学者、梅沢博臣と高橋康が提唱しました。


曽我から 齋藤留さんへ  2006、4、6、

拝啓

 メール頂戴しながら、返事が遅くて申し訳ありません。

◆ まず宗教と科学と仏教について、頂いたメールで思ったことをまとめてみます。

 宗教と科学とが、それぞれ別のやり方で「自然はどのように創られ、人はなぜ居るのか、といった素朴な問いに答えるモデルを提示する」ものであるならば、釈尊の教えは、宗教でも科学でもなかったと思います。釈尊は、そのようなモデルは説かれませんでした。
 釈尊の意図は、苦の原因を教え、それを腑に落ちて納得せしめ、そのことによって苦を作り出すことを停止させることにあったと思います。自然や世界がどうあるかといった問いは、釈尊の教えにおいては余計なことでした。

 齋藤さんもおっしゃるとおり、釈尊の教えには、信仰すべきものはありません。そのような想像の産物を導入することなく、観察と洞察とによって、上記の目標を自ら達成し、合理的説明と実践的指導によって弟子達に目標を達成する方法を教えられました。
 教えの深さと合理性、客観性の部分で、釈尊の教えは現代の科学と通じる部分があり、それゆえ、科学は釈尊の教えを説明する方便として使えると思っています。

 ただし、釈尊の教えの核心(無我=縁起)について、腹に落ちて納得することは、科学によってでは難しいのではないかと思っています。例えば、「人は皆死ぬ」ということは十分わかっていても、「自分が現に今刻々と死に向かいつつある」ということはなかなか実感できない。そのことと同じように、変わらぬ価値をもった実体として、現象(なによりも自分という現象)を見る癖が染み付いた我々凡夫には、自分が無常にして無我なる縁起の現象であり、そのつどの縁への反応である、ということは、なかなか納得できません。
 齋藤さんは、2月19日のメールで科学的・数学的に生成と消滅を証明して下さいましたが、科学的・数学的証明をもってしても、他ならぬ自分がそのつど生成・消滅していることを実感することは難しいのではないでしょうか。

 無常=無我=縁起を腹に落ちて納得するための方法が、観察する自分と観察対象である自分を二つながら静謐な状態に保ち、自分を見つめること(瞑想)であったと思います。言葉による合理的説明を学ぶことは勿論重要ですが、それだけでは十分でなく、自己観察の実践的な努力も必要であろうと考えています。

◆ それから、科学が世界の全体を捉えようとするものかどうか、については、依然として、私は、科学は世界を様々に領域を分けて研究するものではないか、と思っています。
 ですが、今私が問題だと感じているのは、そのことよりも、かつて「あたりまえ・・・般若経」を書いた頃の私自身の立場、すなわち「世界の全体と自分とを一挙に知ろうとすること」です。これは、まさに梵我一如の境地を目指すことであり、釈尊の教えに反することだと思っています。

 当時の私の考えはこうでした。

 「自分を知ろうとしても、それは対象化された自分(ノエマ自己)でしかない。知ろうとする自分(ノエシス)こそが本当の自分であるはずなのに、それは、捕まえようとするたびに、するりと後ろへ逃げていく。その原因は、意識の指向性にある。対象化をする限り、そのつどの働きである自分(ノエシス)は知ることはできない。意識の指向性を停止することで、自分(ノエシス)も含んだ世界の全体を一挙に知ることができる。真の自分を知るためには、そういった宗教的体験が必要だ。」
 しかし、この考えは、屁理屈に過ぎません。意識の指向性を停止したとて、世界の全体が掴めるわけではない。「真の自己」が分かるわけではない。おそらくは、変性意識状態か、ダマシオの本にあった欠神的な状態に終わるのが落ちでしょう。
 そもそも、ノエシスを捉えようとすること自体が間違った問題設定であったと思います。釈尊は、単に「自分を知れ」とおっしゃったのではなく、親切にもさらにつっこんで「無常=無我=縁起」と教えてくださった。無常=無我=縁起を自分のこととして納得することが肝要であり、その方法は、意識の指向性停止体験ではなく、上に述べた「観察する自分と観察対象である自分を二つながら静謐な状態に保ち、自分を見つめること」だと考えています。

◆ さらに、自由意志についても、理解できているか心もとない部分はありますが、興味深い考察を頂きました。

 「心的現象は、非決定論的であり、よって意図的過程は起こりえない、自由はない」というご指摘は、自由と非決定論とを単純に結び付けていた私の発想とは反対ですが、成る程と思いました。

 「意識のより高い相に自由意志の介入する余地がある」というご意見については、まだピンと来ておりませんが、「出来るだけ学習の機会を増やす習慣をつける」ことによって、「イメージされた或る目標を達成する確度を上げる」というお考えは、私の考えに近いのではないかと思います。
 私の言い方ではこうなります。

 生物にはより「うまく」生きようとする自己駆動力があって、自然のまま、ありのままでは、その駆動力は、縁を受けるたびに執着の反応として発現している。反応のたびにその成果を参照しフィードバックすることによって自動的に学習が起こり、執着の反応は研ぎ澄まされ精緻化され、さらに「うまく」生きられるようになる。
 (数ある縁の内で最も影響力の強いものは、自分の縁である。今の自分の反応が、以降の自分の反応傾向を定める最大の縁である。「うまく」いった反応も、失敗した反応も、強い影響を残す。その結果、執着の反応は、精緻化され強化されていく。)
 しかし、千変万化する世界において、執着の反応はたいてい期待どうりの成果を上げられず、欲求不満を募らせ、苦を深めることになる。(小論「一切皆苦は快を含む。凡夫は執着依存症」参照ください。)
 また、万事「うまく」いっていたとしても、それはかえって生の無意味さを赤裸々にする。(出家前の釈尊が、おそらくそういう状態におられたと思う。)
 「うまく」いかない場合でも、「うまく」いっている場合でも、やがてある時、それまでとはまったく異質な学習が起こる。「執着の反応は、短期的には得をしているようでも、実はかえって苦を作り苦を深めているのではないか」という気づきが芽生え、「本当にうまく生きる」とはどういうことか、という問いかけが起こる。発心である。
 発心以降、自己駆動力は、執着の反応に加えて、精進の反応パターンが混じるようになる。教えを聞く機会を重ね、自分の反応を整え、自分を観察すればするほど、それが縁となり、習慣となって、精進の反応は強化されていく。
 縁について、ついでに申し添えれば、自分への縁だけではなく、他の人への縁もあると思います。
 パーリ中部 第43大有明経では、正見が起こるためにふたつの縁があり、その第一は「他からの声」だとしています。釈尊の教えを聞く機の熟した人に、タイミングよく正見の縁を発信する。ただ、私には誰が機が熟しているのか分かりませんから、こういうホームページで考えを書いて、私が皆さんからメールで縁を頂くのと同時に、誰かのよき縁になれればうれしいと考えております。

 今後とも引き続きよき縁を頂戴できますようお願い申し上げます。

                      敬具
齋藤留様
     2006、4、6、           曽我逸郎


齋藤留さんから  2006、4、7、

曽我 逸郎 様

とてもお忙しいところ、丁寧にご返事下さり大変有難うございました。

私の拙文に目を通して頂き、適切にコメントして下さったことに深く感謝いたします。私の表現が的確さを欠いたために、幾つか誤解を招いた点があるかも知れませんが、私としては大筋で多くのことを確認できたと思っています。以下には、多少の誤解を除く為に幾つか補足を致しますが、ずっと先であっても、何時か余裕のあるときに見て頂ければ、私としては大変有り難く存じます。また、これを曽我さんのホームページに載せることは想定しておりませんので、私信として受け取って下されば幸いです。

お忙しい折、ご自愛下さい。

          齋藤 留

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まず、「釈尊の教え」について、曽我さんは次の2点を明確に説明して下さいました。

@『宗教と科学とが、それぞれ別のやり方で「自然はどのように創られ、人はなぜ居るのか、といった素朴な問いに答えるモデルを提示する」ものであるならば、釈尊の教えは、宗教でも科学でもなかったと思います。釈尊は、そのようなモデルは説かれませんでした。』

A『釈尊の教えには、信仰すべきものはありません。』

私の記述が明確でなかった為に誤解を生んだかもしれませんが、曽我さんの見解について私が最も知りたかったのは、この2点の間の関係です。「宗教」というとき、それは何らかの信仰を伴うもの、と一般には理解されていると思います。その定義に従い、上の2点を同時に考慮すれば、「釈尊の教え」は「宗教」ではない、ということになるのではないでしょうか。知識が不足していたので、そのように言い切ることを避け、その代わりに「宗教」と「仏教」を分けて述べましたが、以前のメールで私が確めたかったのはその点です。すべての「宗教」から「信仰」の対象を除いたとしても、そこに共通に残るものが在ってよい筈です。それが人に安心を与えてきた「宗教」の源であると考えます。それに独自の「信仰」が付加されることによって、宗派間の争いが絶えないのではないかという気がします。「信仰」の対象ないしは特別な「経典」を重視するということは、「宗教」をモデル化するものと考えられないでしょうか。従って「釈尊の教え」はモデルではないことは明らかです。

一般に「科学」と呼ばれるものがモデルであることも明らかです。然しそれは様々な「宗教」が主観に基づくモデルであるのに対して、客観的なモデルです。この意味で「科学がすべてを明らかにする」と言う立場を私は強く拒否します。以前のメールでも、私は所謂「科学」を万能なものとして擁護するつもりは全くありませんでした。『科学的・数学的証明をもって自分がそのつど生成・消滅していることを実感する』とは勿論考えません。また、『科学が世界の全体を一挙に知ることができる』とも考えていません。寧ろ強調したかったのは、「科学」自身の中で科学の限界はきちんと証明されていると言うことでした。従って「科学は全体を一挙に知ろうとすればどこで躓ずくのか」を示そうとしました。「科学」について多くを書いたので誤解を招いたかもしれませんが、「科学」の持つ合理性の限界を説明することで「科学」に対する一般的な誤解を払拭することが目的でした。「科学」には「説明できないものが残らざるを得ない」ことを漠然とではなく明確に納得して頂きたかったのです。

以下に引用させて頂きますが、『無常=無我=縁起を腹に落ちて納得するための方法が、観察する自分と観察対象である自分を二つながら静謐な状態に保ち、自分を見つめること(瞑想)であったと思います。言葉による合理的説明を学ぶことは勿論重要ですが、それだけでは十分でなく、自己観察の実践的な努力も必要であろうと考えています。』という曽我さんの根本的な立場に私は当初から同意しています。以前のメールでは「体験的な捉え方」という表現でそれを「科学」の観念的な捉え方に対比させました。この表現は的確でなかったかも知れませんが「自己観察の実践的な努力」を意味したつもりです。その立場を尊重した上で、曽我さんの『正法を学ぼうとする時に頼りになるのは、文献学的研究成果だけ』というお考えに対し、曽我さんのホームページでは余り正確に論じられていないと思われた「科学の立場」について、前のメールで私見を述べた次第です。

結局、「文献学的研究」と「科学的研究」とは共に様々なモデルを研究するという意味で対等なレベルにあるのではないか、と言うのが前のメールの論旨です。「文献学的研究」からも、また「科学的研究」からも、それぞれの限界はそれぞれの中から自然に浮かび上がって来ると思います。両方のアプローチに対するこのような理解からのみ、『それだけでは十分でなく、自己観察の実践的な努力も必要である』と言う認識が対等に共有されるようになるのではないでしょうか。

「宗教」を尊ぶ人は豊かな心を持ち、「科学」を云々する人は狭い心しか持たない、と言う漠然とした見方があります。逆に、「科学」を尊ぶ人は合理的に考え、「宗教」を云々する人は非合理的である、と言う漠然とした見方もあります。このような見方は歴史に負うところが大きいですが、曽我さんはこうした立場からは遠いところに居られることを始めに理解し、関心を持ちました。『科学は釈尊の教えを説明する方便として使える』とも仰っています。私は「釈尊の教え」を「科学」が説明できるとは考えていません。「科学」自身の不完全さによってそれは不可能であることが数学的明確さを以って既に証明されていると思っています。しかし、更に踏み込んで、「科学」が「釈尊の教え」を説明する方便となり得るならば、具体的にどのような関係にあるかを積極的に明らかにすることは、こうした偏見に答えるのに「文献学的研究」と同じ位い必要なのではないか、というのが私の前回の主張です。

最後に、「意識のより高い相に自由意志の介入する余地がある」という私の説明について、ご指摘の通り曽我さんの見方に近いものと認識しています。然しそれはきちんとした説明が可能なものでなければなりません。より低い「相」からその上の「相」が生み出される過程自身は数学的な観点からは普遍的なものですが、それを具体的に意識に当て嵌める試みは未だ充分に成功しているとは思えません。然し、これが唯一の方法であろうと考える理由は充分あります。何時か簡明に説明出来ればよいと考えています。


曽我から 齋藤留さんへ  2006、4、8、

前略

1) 釈尊の教えは、宗教か?

 これは定義の問題だと思います。超越的なものを立ててそれを信仰することが宗教である、とするなら、釈尊の教えは、宗教ではありません。
 しかし、私は、宗教とは人を苦から救うものだ、と考えているので、その意味では、釈尊の教えこそが宗教であり、数多ある「宗教」の内で、唯一の真の宗教だと思っています。

 しかし、釈尊の教えが、他の「宗教」と争わないかというと、その点では自信がありません。まずもって、釈尊の教えの中に超越的なもの(梵、真我およびその言い換え)を持ち込もうとする「仏教」は批判しなくてはいけないと思っています。また、それ以外の「宗教」を攻撃するつもりはありませんが、「超越的なものなど無用だ」という考えは、多くの「宗教」からは、神への冒とくだと受け取られてしまうでしょう。
 そういう危険性があることは、自覚しています。

2) 世界の全体的理解

 「科学は世界の全体的理解を最初から放棄している」と、私は思っています。齋藤さんも、同じ考えでいらしたのでしょうか。

 科学は、世界を部分に分けて部分ごとに分析し、それを増やしていくことで、知識を増やし、理解を深めてきました。しかし、このアプローチの仕方の故に、どれだけ進歩しても、科学は世界の全体には届かない。

 もっとも世界の全体的理解は、科学のみならず、人間には不可能なことなのかもしれません。変性意識体験によって、「真如を見た」とか「大いなる生命とひとつになった」とか言いださない限りは・・・

 釈尊の教えにおいては、「自分という反応がそのつどの縁にどのように反応しているか」、すなわち、自分とその周囲の目の見える範囲、耳の聞こえる範囲だけが重要であって、「世界の全体」は無用のテーマでした。

3) 文献学的研究と科学的研究

 言われてみれば、確かに両者は横並びの位置関係かもしれません。ただし、私にとっては、やはり文献学がメインにあって、科学はサブとして、文献学から学んだことに別の角度から光を当てて、理解を立体的に深めたり、イメージを明確にするのに役立っています。下の 4)に書くように、釈尊の教えの方便としては、科学の利用できる範囲はあまり広くありません。

 文献学と科学より高いところか深いところか分かりませんが、ともかく次元の違うところに 「観察する自分と観察対象である自分を二つながら静謐な状態に保ち、自分を見つめること」 があります。
 ・・・いや、瞑想で体験したり気づいたりしたことを、脳科学などの本からの刺激で解釈しなおしたりもしますから、現在の私は、どれが上とか下とかいうことはなくて、使えそうなものはなんでもありで利用している、というのが正直な現状かもしれません。

 以前「頼りになるのは文献学的研究のみ」と書いたのは、「伝統的であれ新興であれ、現在ある「仏教」教団の教義や坊さんの説法は、当てにできない」という気持ちからでした。しかし、これも若気の至りで、なんであれ玉石混交、ひどいのもあれば立派なのもあります。まとめてレッテルを貼るようなことはせずに、ひとつひとつ自分で吟味して学ぶべきものには学んで行きたいと、今は考えています。

4) 科学に釈尊の教えの何を説明できるのか

 釈尊の教えの目的は、「苦の生産を止める」ことでした。その方法は、自分が無常にして無我なるそのつどの縁起の現象であることを心底納得し、反応のパターンを執着のパターンから精進と慈悲のパターンへ変えていくことだと思っています。教えの核心部分は、無常=無我=縁起です。
 科学は、無常=無我=縁起の理屈の上での説明・理解に役立ちます。ダマシオの本などは、その典型です。

 しかし、苦の自覚や、無常=無我=縁起を自分のこととして納得することに関しては、科学はまったく役立ちそうもありません。もし科学がその役に立つなら、科学者は皆、聖者になっていたでしょうから・・・

◆ 「ホームページに載せることは想定しておりませんので、私信として」とありますが、先の2通と私の返事は、既に掲載しております。まずかったでしょうか? 今回のやり取りも掲載のお許しを頂きたく、よろしくご検討ください。

                             草々
齋藤 留様
        2006,4,8,             曽我逸郎


齋藤留さんから  2006、4、9、

曽我 逸郎 様

早速のご返事、大変恐縮致しております。

多くの点を丁寧に理解して頂きながら、中心となる論点について説明がまだ不明確だったことを反省しています。再三煩わすことになり申し訳なく存じますが、機を逃せば一層不明確になるのを避けるために、敢えてもう一点だけ補足させて頂きたく存じます。

               齋藤 留
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『1) 釈尊の教えは、宗教か?』についての曽我さんの見解はよく理解しました。私の危惧は、「宗教」と呼ぶことによって不要な誤解を招くのではないか、と言うことです。

『2) 世界の全体的理解』についての曽我さんの見解『科学は世界の全体的理解を最初から放棄している』には当初から同意しています。ただ、繰り返しになりますが、漠然と放棄するのではなく、「‘存在するものの総て’としての‘世界’を‘存在するもの’として合理的に捉えること自体が自己矛盾に陥る」ことは厳密な意味で既に証明されていることであり、そのことを理解することは大切だと思います。

『3) 文献学的研究と科学的研究』についての曽我さんの現在の立場も理解できました。学ぶべきものはすべて学ぶと言うお考えに共感いたします。

『4) 科学に釈尊の教えの何を説明できるのか』についての始めの『釈尊の教えの目的』に関する部分は、曽我さんのお考えの核心部分と認識して居り、深く尊重しています。しかし『苦の自覚や、無常=無我=縁起を自分のこととして納得することに関しては、科学はまったく役立ちそうもありません。』と述べられることについては、振り出しに戻った感じがします。

私が指摘したいことは、上の『2) 世界の全体的理解』のところで述べたように、「苦の自覚や、無常=無我=縁起を自分のこととして納得することに関しては、科学はまったく役立たないことははっきりしている」と言うことです。(このこと自体が「科学」の中で証明されていると言う意味では「科学は役に立つ」とも言えます。)科学についてこのことを漠然とではなく明確に理解することは、人間の思考とは何であるかを理解する上で重要な違いをもたらします。釈尊の時代に「世界の全体」は無用のテーマであったとしても、いまもそうではない様に思えます。多少飛躍した例になりますが、多くの科学者も含めて人が漠然と科学の限界を論ずるのであれば、目先の利益にのみ目を向けた「科学万能主義」に対抗することは出来ず、結果的に危険な世界を作り上げて行くのではないでしょうか。これは科学に対する認識の曖昧さから生じる重大な欠陥に見えます。私が始めにメールをお送りしたのは、こうした科学に対する漠然とした共感も反感も共に重大な危険を孕むのでないか、と言う危惧からです。

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以上で説明できたのか自信ありませんが、幾分でも近付ければ幸いです。前回のメールで、それを私信にして下さるようにお願いしました。然しそれは曽我さんからの始めのご返事をメールで受け取り、ホームページにはそれが未だ載ってない段階でした。ご返事が載らないまま私からの返信が載れば、混乱するだろうと考えたからです。そこで、掲載は前提せずに前回はメールを送りました。とは言え、私として掲載が困ると言うことでは全くありません。曽我さんのホームページの主旨には強く共感しております。寧ろ、余り場違いな議論でご迷惑にならないかと言うことを心配しています。


曽我から 齋藤留さんへ  2006、4、10、

前略

 ずいぶん整理され煮詰まってきたように感じます。ありがとうございます。もし、まだ勘違いがあればご指摘ください。

 「釈尊の教えを宗教と呼ぶと、要らぬ誤解を招きかねない」とのご心配、そうかも知れません。私としては、釈尊の教えは、超越的なものを要請しない合理的な教えであり、かつ苦を生む反応をなくそうとするものであり、その二つの特徴さえ共有できれば、宗教であってもなくても、どうでも構いません。

 5通のメールを頂戴して、齋藤さんの問題意識は、こうではないかと思っています。

 「科学には得意とする領域と、対応できない領域とがあって、科学の限界は科学自身が明確にしている。科学の有効さと限界は正しく評価されねばならない。にもかかわらず、科学を頭ごなしに否定したり、全面的に礼賛したりする傾向が見られ、そのことが現代社会の問題のかなりの部分を生み出している。この問題を克服するためには、本来ひとつであったはずの科学と宗教の再統一、あるいは、補完関係を築くことが有効ではないか。」

 私は、現代のみならず人類の歴史を一貫して、社会の問題のほとんどの部分は、人が執着心によって生み出してきたと考えています。世の多くの人が、無常=無我=縁起を自分のこととして納得し、執着の反応に自ら気づくようになり、それを停止して、慈悲の反応の起こる頻度が上がるようになれば、理屈の上では問題のほとんどはずいぶん改善される筈だと思っています。
 ですので、頑なで申し訳ありませんが、やっぱり釈尊の教えが第一で、科学はその補助として考えております。

 もっとも、釈尊の時代でさえ、一部の例外的な弟子を除き、世の人々の多くは執着の反応をなくすことができなかったわけですから、現実には、いつまでたっても世の大半の人々は執着の反応を繰り返し互いに苦しめあう凡夫であり続けるのでしょう。残念ではありますが、そのことを前提にして、一番マシな社会システムを構築し、なるべく苦を作らず作らせぬ努力を継続するしかないのだろうと思います。

 主体性について、私は、「縁を受けて機が熟せば、人は縁によって必然的に努力する」と考えています。しかし、厳密な意味での主体性、つまり人間からの働き出しは、現時点では否定しています。我々は、縁によって引き起こされる現象だろうと思います。
 しかし、この件については、自分でもまだ考えが突き詰められていないと感じでおりますので、今後も、なにか着想がありましたらご教授頂ければ幸いです。より高い階層への相転移が繰り返されるうちに、主体性が発現してくるのかもしれないという考えには、発展の可能性があると感じています。

 今後とも宜しくお願いします。
                         草々
齋藤 留様
       2006、4、10、        曽我逸郎


齋藤留さんから 2006、4、11、

曽我 逸郎 様

前略

再度ご返事有難うございました。何回にも亙ってメールを送り、その都度丁寧に読んで頂いたことに深く感謝致します。私の説明が不的確だったために、随分と時間を費やさせてしまい、申し訳ありませんでした。私の言いたかったことの要点を要領よく纏めて頂いた上に、一つの考え方として理解して頂けた事をとても有り難く思っております。曽我さんの仰られる『やっぱり釈尊の教えが第一で、科学はその補助として』考えて居られる、その立場を私はその通り尊重しております。釈尊の教えは『苦を生む反応をなくそうとする』努力を意味し、それは直接科学が目指すものではないからです。

始めの3通のメールで私が饒舌に過ぎたことを反省してますが、それらは「科学」に対する一般的な理解の危険性を指摘する為でした。100年前に時空や宇宙は哲学の問題でしたが、今では最も厳密な科学の対象です。同じ様な意味で生命はもとより、心的現象も次第に精密な科学の対象となることは明らかです。そのような状況にあったとしても、人間が人間でなくなる訳ではなく、ただ様々な現象に対する知識が増えるだけです。

知識が増えることによって、絶対時間とか、神による人間の創造といった誤った観念から開放されたように、心的現象としての「自分」といった観念からも開放されるかも知れません。だからと言って「苦を生む反応がなくなる」根拠は全くありませんし、そう主張するとしたら馬鹿げたことです。ただ、不必要な観念は排除されるだろうと思います。それがどういうことなのかを明らかにしたいと考え、そういう立場の可能性を、前の3通のメールで述べた次第です。

何度もご返事有難うございました。引き続きホームページに寄せられる多くのご意見を参考に、勉強させて頂こうと思っていますので、よろしくお願いいたします。

                     草々

           齋藤 留

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