高橋哲夫さん 慈悲の心を送るほど自分の自我が守られる 2006,3,1,

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 こんにちは。お久しぶりにメール差し上げます。
 このところ「意識」についていろいろな投稿が続いておりますが、私には何か空虚な感じがしてなりません。
なぜならそれはただ文字面、議論のための議論でしかないように感じられるからです。「意識」が自分であることが忘れられているためだと思います。自分のものである「意識」を、自分から切り離して考えているからではないでしょうか。

 これからは「意識」ということばの代わりにもっとひろく「こころ」という言葉を使いたいと思います。なぜ「」付きの「こころ」にしたかは、漢字の「心」よりももっと広い意味で使いたいからです。

 今、私は生きています。では生きると言うことはどういうことでしょうか。なぜ生きているのでしょう。それは

       死んでいないから

簡単ですよね。ただそれだけです。では、死んだ私と生きている私とでは、どこが違うのでしょう。試しにわたくしに思い切り悪口を言ってみてください。生きていれば怒り出します。殴られたら殴り返します。何も食べなかったら、お腹がへります。でも死んだらこのようなことは起こりません。同じ肉体を持っていても、何も反応しなくなる。これが死ぬと言うことです。この刺激に対して反応する働き、作用を司るのが「こころ」なのです。

 ですから私の言う「こころ」は、感情や思考だけではなく、生命活動を支えるあらゆる働きを含みます。たとえアメーバであっても、個体を維持するために栄養をとり、自分が死ぬ前に新しい個体を細胞分裂で作り出しています。これも「こころ」の働きなのです。

 このため「こころ」には自分を維持しようとする強い働きがあります。逆に言えば自分の存在を脅かすものに対して反発し、攻撃します。また「こころ」に入り込む刺激は、自分の肉体からに限られます。そのため「こころ」の反応は、自己中心的にならざるを得ないのです。また「あたりまえのことを方便とする般若経」の見つめる練習のように、目からはいる刺激を限定してしまうと、刺激の変化がないと反応できないため「こころ」は自分で新たな刺激を勝手に作り出してしまう。これが妄想といわれるものです。さらにこの妄想を正当化しようとします。

 そして「こころ」には働きや作用しかないのに、それらを統括するものがあると妄想します。そこから私(自我)というものがあると考えてしまいます。

 私の言動は、すべて私の「こころ」によって行われます。ですから私にとって、私が存在できることが一番大事なのです。そのため私のする、あらゆることは、私のために行っているのです。そしてそれは必要であり、私にとって正しいことなのです。ですから、私はものすごいエゴイストです。強烈な自我を持っています。私にとって家族や社会よりも私自身の幸福のほうが大切なのです。

 今のひとびとは自分の利益のために交わりを結び、また他人に奉仕する。今日、利益を目指さない友は、得難い。
 自分の利益のみを知る人間は、きたならしい。犀の角のようにただ独り歩め。
         ースッタニパータ75−

 2500年も前に、お釈迦様もひとびとは皆エゴイストだとおっしゃっています。認めたくなくとも、今まで述べたとおり、生きている限り、人はエゴイストになるようになっています。そしてお釈迦様の教えもここから出発しています。

 エゴイストである私は、私が幸福であることを願っています。でもこれはことごとく裏切られてしまうのです。まわりの人に、私のために動いて欲しくても、かみさんは勝手なことをしているし、子供は言うことを聞かないし、部下は全然期待通りに動いてくれないし、上司は私の言うことを取り上げてくれないのです。強く言うとかえって反発を食らうのです。
それは相手もまたエゴイストだからです。相手も自分が一番大切なのです。だから相手を私の幸せのために動かそうとすると、反発するのです。こうやって私は幸せになろうとして、かえって争い、苦しみを作り出してしまうのです。

 では、エゴイストだから問題が起こるのであって、エゴイストをやめれば、問題は解決するのでしょうか。それでは私はどこに行くのでしょう。自分が生きている限りエゴは生じるのです。もしエゴをなくしたら自分は生きていられないのです。
自分を守ろうとする働きがなくなりますから、死ぬしかないのです。

 どうしたら自分を守れるのでしょうか。それは相手もエゴイストであることを認めるのです。

 私は私のために生きている。それと同じように、相手も自分のために生きている。もし私が相手に私の利益になることを求めたら、相手にとってそれは不利益になり、反発して私は利益を得られない。では、逆にこちらから相手に利益になることをしたらどうだろう。相手は喜んで、もしかしたら私の利益になることをしてくれるかもしれない。

 もし私が相手のためになることをしたら、相手もまた私のために何かをしてくれるのではないか。
 もし私が相手の立場を認めたら、相手もまた私の立場を認めてくれるのではないか。  もし私が相手を助けてあげたら、何かの時、相手も私を助けてくれるのではないか。  もし私が相手の幸せになることをしたら、相手も私が幸せになるようにしてくれるのではないか。

従って自分を守るためには、相手を大切に守らなくてはいけないのです。エゴイストである自分を守るためには自己中心的なエゴを壊して、相手のエゴのために何かをしてあげなければならないのです。そしてエゴを無くせば無くすほど、エゴを抑えれば抑えるほど相手に対して優しくなれる。そして相手も私を守ってくれる様になるのです。

 つまり自分の自我を抑えて、慈悲の心を送れば送るほど自分の自我が守られると言うことです。

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 {あるとき尊師は}、サーヴァッティー市のジェータ林・「孤独な人々に食を給する長者」の園に住しておられた。
 その時コーサラ国王パセーナディは、王妃マッリカー夫人とともに、見事な宮殿の上にいた。
 そこでコーサラ国王パセーナディは、マッリカー妃に言った、
「そなたは、自分よりももっと愛しい人が、誰かいるかね」と。
「大王様。わたくしには、自分よりももっと愛しい人はおりません。あなたにとっても、ご自分よりももっと愛しい人がおられますか?」
「マッリカーよ。私にとっても、自分よりもさらに愛しい他の人は存在しない。」
 そこでコーサラ国王パセーナディは、宮殿から下りて、尊師のおられるところに赴いた、近づいてから、尊師に挨拶して、傍らに座した。傍らに座したコーサラ国王パセーナディは、尊師に向かって次のように言った。
「尊いお方様。ここで私は、マッリカー妃とともに、見事な宮殿の上にいて、マッリカー妃にこの様に言いました。・・・「そなたは、自分よりももっと愛しい人が、誰かいるかね?」と。そのように言われて、マッリカー妃は、わたくしにこの様に申しました。・・・「大王様。わたくしには、自分よりももっと愛しい人はおりません。あなたにとっても、ご自分よりももっと愛しい人がおられますか?」と。
この様に言われたので、わたくしはマッリカー妃に申しました。・・・「マッリカーよ。私にとっても、自分よりもさらに愛しい他の人は存在しない」と。」
 そこで尊師はこの事を知って、その時、この詩を唱えられた。
「どの方向に心で探し求めてみても、自分よりもさらに愛しいものを何処にも見いださなかった。その様に、他の人々にとっても、それぞれの自己が愛しいのである。それ故に、自己を愛する人は、他人を害してはならない」と。

 (ブッダ、「サムユッタ・ニカーヤ」(中村 元訳 神々との対話)第三編第一章第8節「マッリカー」)

むかし、「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いが、はやったときがありました。当時いろいろな答えが出ましたが、納得のいくものがありませんでした。でもここで解ったのです。自分を守るためには人に害を与えてはいけない。自我を抑えて、他の生命に対して慈悲の心で優しく接すれば、自分が守られるということを。

 曽我逸郎様
       2006年2月28日
                          高橋哲夫

   敬具


曽我から 高橋哲夫さんへ  釈尊の教えは取引ではない。 2006、4、12、

拝啓

 メール頂きながら、遅い返事で申し訳ありません。

 私は、釈尊の教えは取り引きではないと思います。自分を守るための教えではない と思います。

 確かに、ありのままの状態では、人はエゴイストであり、連続する執着の反応で す。それが、釈尊の教えによって、無常=無我=縁起を自分のこととして納得し、守る べきなにものもない、惜しむべきなにものもない、と納得し、固く握り締めていた手 をほどく。そして、守るべきなにものもないのに、なにもない「それ」を守ろうと自 動的反応を繰り返して苦をつくっている有情への慈悲の反応が起こる。そういうこと ではないでしょうか?

 自分に利益がかえってくることを期待して、人のために働いても、裏切られること はままあることです。凡夫は縁によってしばしばそういう反応となる。

 「エゴをなくしたら生きていられない。死ぬしかない。」と思うのは、エゴ、我執 の反応です。我執があってもなくても、人は刻々と死につつあります。同じことで す。
 ただ、我執があれば、その短い限られた命が、苦しみにまみれたものになる。そ ういう違いはあります。

 ご意見ありがとうございました。
                             敬具
高橋哲夫様
        2006、4、12、              曽我逸郎


再び曽我から 高橋哲夫さんへ  追伸 2006、4、12、

前略

 先ほどメールをお送りしてすぐ、慈悲について小論を書いていたことを思い出しました。

 そこでは、
1)「手元のパーリ経典を見る限り、慈悲は、修行者の悪しき反応を押し留めるための手段として奨励されているように読める。」ということと、
2)「慈悲は仏教によって生み出されるのではなく、元々凡夫に備わっているのではないか」
という見解を書いています。

 小論 《慈悲は仏教によって生み出されるのではない?》をご一読頂ければ幸甚です。

                             草々
高橋哲夫様
        2006,4,12,            曽我逸郎

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