本多 靜芳さん 親鸞は絶対他力ではなく行道を説く。 2006,3,18,

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曽我様

本日、初めてHPを拝見しました。
HPよりも、先に和ばあさんとのやり取りに、行きました。
「小川一乗」で検索していてのことでした。

結論からいえば、とても大きな示唆を受けたので、お礼と、私の受けた示唆がもしかしたら、曽我様と共有できるのかとも思い、ご報告するものです。

興味をもったのは他力と梵我一如的他力の説明の部分です。
本来の他力について、曽我様は、

「次にAの他力の考えを考えます。@の釈尊の教えとの最大の違いは、主体的努力を否定する点です。「我々は、徹頭徹尾弱いダメな人間である。正しい努力など不可能だ。ただ執着のままに悪を為すのみ。まれに善いことをしたとしても、自分がしたのではなく、たまたまそのような縁があった巡り会わせにすぎない。徹底的に弱いダメな人間である私が、なにか善いことをしようと主体的努力を考えたとしても、それは我執を増すだけ、かえって状況を悪くさせ、浄土を遠ざける。だから、一切のはからい(努力)を停止するにしくはない。しかし、このようなまったくダメな弱い私でも、阿弥陀如来は必ず救うと誓ってくださった。なんとあり難いことか。ただもう阿弥陀様の誓願におすがりするばかりだ。」
 ダメな私とはまったく次元の違う阿弥陀様が、一方的な慈悲で救ってくださるのであり、阿弥陀如来は、弱い私とは対極的なまったく異質な絶対的な他者です。
 梵我一如が自分を本来善なるものと考え、他力思想が自分をダメなものと考え、両者の見方は正反対であるにもかかわらず、ともに努力、はからいを停止すべきだと考えるのは、興味深い点です。」
とご指摘下さってます。

さて、私は浄土教を学んできました。(私の場合は、西洋哲学を卒業してから、学士編入で仏教学部、そのまま修士、博士と進みました)
また、浄土真宗本願寺派の教団の人間です。
今、「教団教学と行信論」というタイトルで、伝統から変質した伝統教学(あるいは教団教学)の問題を考え、発表している立場の住職です。

私の学びからすると、Aは、むしろ、親鸞というより、覚如、蓮如などの系譜をもつ、伝統教学の立場の主張ではないかと思います。
その系譜を学ぶ伝統教学の主張では、他力を「絶対他力」(このような言葉は親鸞にはありません)という造語で呼び、それによって構築される教学では、衆生の側からの一切の能動的な関わりを認めません(つまり、主体的努力の否定です)。そして、その一番の問題点は、行理解にあります。
親鸞は、『教行証文類』「行巻」で、浄土教における成仏道、つまり行道は、「私が無礙光如来の名前を称えること」と明言しているにも関わらず、伝統教学では、それを認めず、行を名号といい、行によって信という深い気づき体験、目覚め体験が開発されるという親鸞の主張を否定、あるいは隠蔽し続けてきました。(それには、封建社会の中で従順な門徒集団を形成するなどの要因がありますが、ここでは触れません)
親鸞の主張によれば、私(煩悩具足であり、業縁の存在、つまり無常、無我の存在)の称名という行道によって、信証が開発されるということを言うわけであり、その行は私の称える念仏であるが、その南無(帰命)は、そのまま、本願からの招喚(めざめの世界へ招き喚ぶところ)の念仏として聞こえてくるという信心体験を重視しているといえます。
そこにおいて、まこと念仏は信心を開発し、信心は念仏の行道において成立するものです。

さて、ここから私が曽我様から啓発されたことを書きます。
もし、Aが伝統教学のいう主張であると認めていただければ、本来の他力(それを親鸞と仮に認めて頂く訳ですが)においては、人間の一切の行為が否定されているというより、むしろ、私の称える念仏の行において、常に積極的に私を覚醒させる出来事(注1)が私において目覚め体験として成り立つことであり、また、一度成り立ったその体験は、その人にとって、称名するところに、同じ体験を反復しやすくなるという行の特性も与えるものと思います。
かくて、親鸞における行とは、そこにおいて、自身を目覚めさせる体験を伴い、さらにその体験者(正定聚不退転)にとっては、念仏を称えるというところにその体験を比較的容易に想起させるという積極的意味があるのであったと思い至ったのです。(このあたりは、高尾利数『ブッダとは誰か』柏書房に触発され、ブッダの日々のあり方が、日常においても、自分のさとり体験を容易に想起できる行を重ねていたというくだりをもとにしています)

(注1:私は如来を出来事と受けとめており、伝統教学がいうような実体的対象的二元的な存在とは肯けないものです。これに関しては、では何故西に手を合わせるかというやり取りを曇鸞大師の謙虚な主張に私の立脚点を置きたいと思ってます。注、親鸞『浄土高僧和讃』『曇鸞讃』「(二三)世俗の君子幸臨し 勅して浄土のゆゑをとふ  十方仏国浄土なり なにによりてか西にある、(二四)鸞師こたへてのたまはく わが身は智慧あさくして  いまだ地位にいらされば 念力ひとしくおよばれず)

「しかしながら、我々人間は、置かれた状況・縁に単に決定論的に反応しているばかりではありません。我々は、自分という反応の反応の仕方を整えよう(戒)と努力することもできる。釈尊最後の言葉は、「怠ることなく修行を完成なさい」でした(大パリニッバーナ経、中村元訳)。釈尊においては、無我、縁起と、主体的な努力(はからい)とは矛盾しません。我々は、無常にして無我なる縁起の現象ですが、主体的努力が可能ですし、もし「これ以上苦を生み出すことはしたくない」と願うなら、釈尊の教えに則って、正しい努力(戒・定・慧、八正道)を重ねていかねばなりません。」
と曽我様は御主張してくれていますが、この修行、反復こそ、在家の立場で可能な称名念仏であろうと思えます。
これも伝統教学の主張では、凡夫に努力や修行はないといいますが、全くナンセンスだと思います。

それならば、

…現時点の私の仏教理解の総括…
 ◆11 釈尊の教えではない「仏教」
   「3、他力思想における梵我一如化タイプ
 本来の他力思想は、梵我一如型ではなく、また釈尊の教えでもないと思う。(この件はまだあまり踏み込んで考えていないので、機会を改めていずれ取り上げたい。)」
という曽我様の主張も矛盾なく受けとめられます。(つまり、もし曽我様が私の主張に賛同してくださり、伝統教学は親鸞の浄土教理解をもとにしながら、それを変節・屈折したものだということを受けとめていただければということです)

今、和ばあさんがお示し下さったように、伝統教学の学びをした人は、縁起・空・無自性の大乗仏教を受けとめにくい仏教理解をしやすいということです。
そして、むしろ、自然宗教的理解、あるいは二元的な神観念としての阿弥陀仏理解が蔓延しているように思いました。

言葉が足りず、私の中での納得でしかありませんが、私にとっては、今までの浄土教の学びを上記のような理解を通して再確認できることでした。
無論、釈尊が示した八正道や、その後の三学、六波羅蜜など行道の展開は種々ありますが、それを聞という行道で示したのが親鸞の浄土教理解であり、それに遡る、法然、善導、曇鸞、龍樹と示されているのが親鸞の七高僧の系譜であろうと思います。

また、念仏三昧という言葉がありますが、三昧とはサマーディ、統御、調節などの意味から、念仏という行道によって身心をコントロールするという意味が称名念仏にあり、それを親鸞は聞名念仏という信心体験に見出していたと思うことです。

仏教を広く、学ばれている曽我様からは浄土教を唯一にして確実な成仏道と受けとめる在家の立場の主張は愚かしく聞こえるかも知れませんが、ひと言お礼をいいたく、筆をとりました。

なお、サイト内の全文を読んでいる訳ではありませんが、「あたりまえのことを方便とする般若経」は、とても親近感をもって読めました。

私の申し上げた内容は稚拙な上、最後の部分にも書きましたように、浄土教の基本理解の相違によってはまったく誤解をされることもあります。
(むしろ、同じ真宗教団の内部の別の理解をする人たちからでしょうが) そういうことで、この私の意見は貴HPの意見交換の欄には不向きなものと存じます。

最後までお付き合いいただき、再拝いたします。
間違いをご指摘いただければ幸甚ですが、お忙しい日々をお過ごしのことと存じます。

ご無理のないようにしてください。

万行寺住職
武蔵野大学助教授
アーユス仏教国際協力ネットワーク理事
本多 靜芳
http://www7a.biglobe.ne.jp/~mangyoji/


曽我から  本多 靜芳さんへ  他力≒「縁力」?  2006、3、22、

拝啓

 メール頂戴しながら、返事遅くなり申し訳ありません。

 最初に謝っておかねばならないのですが、私は、浄土教のことも浄土真宗も親鸞のこともほとんど何も知りません。高校の日本史か倫社の教科書レベルです。そのくせ、知ったような口を利いて、まさに厚顔無恥(知)の見本です。なにとぞご寛恕いただいて、勘違いを正して頂けたらと思います。

 そういう前提の上で、頂いたメールから私なりに理解したことを書いてみます。

 「曽我の言うような、はからいや努力を否定する他力思想は、教団教学であって、本来の親鸞の考えではない。教団教学は、能動的な関わり(はからい、努力)を否定するが、親鸞は否定していない。教団教学においては、行は、「名号」に矮小化されているが、親鸞における行は、「私の行い」であった。親鸞は、称名・念仏という「私の行い」によって、信という深い気づき体験、目覚め体験が開発される、と主張している。行は、「私の行い」であるけれど、同時に、「本願からの招喚」でもある。行によって、人は、気づき体験、目覚め体験を得ることができるし、その体験を反復して確認することができ、深めることができる。」

 如何でしょうか? 大体は理解できているでしょうか?
 概ね間違っていなかったとしても、実は、私としては、少々強引な解釈をしております。それは、以下の2点です。

  1. 如来とは、自分に対する他者として実在している人格的実体ではなく、私を覚醒させる出来事であり、さらに端的に言えば、私を覚醒させるさまざまな縁の集合を方便として阿弥陀如来というシンボルに収斂させたものである。阿弥陀如来が意味するところの本質は、さまざまな「よき縁」であって、人格的かつ超越的な他者ではない。
  2. 阿弥陀如来の「本願からの招喚」とは、さまざまなよき縁によってよき努力の反応(精進)が引き起こされることである。
 もしこの強引な理解を認めていただけるなら、私としては、他力について新しい目を開かれた思いがしています。

 A・Hさんやネルケ無方さんとの意見交換、また脳科学等からの推察などを経て、最近「無我=縁起であれば、主体性とか自由などは厳密には成り立ち得ない」という考えを持つようになりました。そして、今回メールを頂いて、主体性や自由の否定は、すなわち自力の否定であり、他力思想に近いのではないかと思い至りました。自分でも思いがけない気づきです。

 ただ、この「他力」は、阿弥陀如来(人格的他者)の力ではなく、さまざまなよき縁の力であり、「他力」という言葉をもじって言うなら「縁力」思想です。

 私の言い方で言い換えると、このようになります。

 「生命は、生き延び、拡大しようとして、もがき足掻く、そういう自己駆動力を本質的反応として備えている。ありのままでは、その足掻きの反応は執着の反応であり、いたずらに自他に苦を与えている。
 よき縁を得ることによって、もがき足掻きの反応が、部分的に精進(よき努力・行)として現れるようになる。残念ながら、もがき足掻き反応の全体が、執着の反応パターンから一挙に精進の反応パターンに変わるのではない。生命は多くの反応の組み合わせであり、殊に凡夫(人間)は極めて多くの反応の複雑な撚り合わせであって、その反応の複雑な撚り合わせの中に新たな反応パターンとして精進が芽生えるのである。
 精進という新しい反応パターンは、執着という古い反応パターンと繰り返しせめぎあい、せめぎあいを繰り返す中で、精進の反応パターンは、徐々に優勢になっていく。」

 本多さんのお陰で、最近の自分の考えが、実は他力(縁力)思想に近づいているのではないか、ということに気づきました。気づいてみれば、無我=縁起に基づいて自由や主体性を否定するなら、当然の帰結なのかもしれない、と思えます。しかし、自分では予想していないことでした。

 「自由や主体性は、無我=縁起であるが故にありえない。よって自力は間違いだ。他力(縁力)である。しかし、この他力は、精進(努力・はからい・行)を否定しない。他力(縁)によって、精進は引き起こされる。」

 この思い付きが、親鸞の考えに通じるものであるのかどうか、よく分かりませんが、思いがけない方向性のヒントを頂いたように思います。ありがとうございます。

 今後ともお気づきの点、よろしくご教授下さいますようお願い申し上げます。

                                   敬具
本多 靜芳様
          2006,3,22,              曽我逸郎

【追伸】 本文に書きましたとおり、私は他力思想に疎いので、HPではほとんど触れられていません。ですので、頂いたメールとこの返事をHP上に掲載させていただきたいのですが、如何でしょうか? 差し障りあれば、仮名でも結構ですが、できれば肩書きも含めて本名での掲載をご了解頂ければうれしいです。ご一考くださいませ。


本多 靜芳さんから  2006、4、1、

曽我様

返信、遅くなり失礼しています。
実は、春彼岸会であちこちに出講、それに続き、京都に行ったり(信楽峻麿先生の傘寿の記念講演)、ばたばたしておりました。

私とのやりとり、掲載していただいて構いません。

なお、今回のお便りに対する私の返信は、ちょっと待ってください。
それなりにお答えしたいのですが、まとまった時間がとれません。

どうかご海容下さい。

本多 靜芳

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