ネルケ無方さん 自力と他力は対立しない。(本多靜芳さんとの意見交換に) &意識について。 2006,4,14,

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拝啓

 先ほど貴HPの「意見交換」で本多静芳さんとのやりとりを拝読いたしました。

 曽我さんのお考えが、「実は他力(縁力)思想に近づいているのではないか」という予想だにしなかった気づきがあったと書いてありますが、建前として「自力」を主張している(とされている)禅の方でも以前からそういうことに気づき始めました。

 安泰寺HPに「参禅者心得」という処にある

 「ここでの坐禅や作務などは生活の一部分として行われているのではなく、むしろ一日二十四時間の生活は生きた禅の現れでなければならない。こうした毎日の生活の中で表現されるべき命の働き以外には、安泰寺の修行、禅仏教の教え、宗教的な生き方等は一切ない。また安泰寺で精神的な指導や心の安らぎ、浮世を離れた山の静けさや大自然に適った共同生活、真実の道や永遠の幸福のようなものを望んでいても、こういったものは皆無である。
 安泰寺は自分自身の人生を菩薩修行として創造していく場所に他ならない。修行者は和合し、仲良く生活しなければならないのは勿論だが、他の援助を期待したり、教育されたりすることはないので、自分の修行は自分でしなければならない。いちばん大事なことは自分の方へ仏道を引き寄せるのではなく、自分の身も思いをも仏道の方へ投げ入れることだが、そのためには先ず自分は何のために安泰寺に来たのか、ここで何を修行しようとしているのか、をハッキリさせなければならない。
 自分が今生きているこの瞬間の命のほかに期待するものがあれば、必ず失望するであろう。自分をも人をも誤魔化さずに、私は一体何をしにここへ来たのか、と自分に問うてみられたい。」
 という文章は一見「他力本願」的な態度を否定していますが(「他の援助を期待しないで・・・、自分の修行は自分でしなければならない」)、実はこの文書の問いかけ(「何をしに来たのか」)でいいたかったのが、もしろ逆のことです。
 つまり、現に自分が安泰寺(あるいはどこでもいいですが、今・ここ・この自分がおかれている処)に来ていることは事実です。何をしに来たのか、正直なところ自分でははっきり分からなくても、「よき縁=自分をこえた力」によって今・ここに来させられているのは事実ではないか、ということ。
 「何をしに来たか」という問いかけでは、その人の主体性と同時に(表裏一枚の働きとして)その人の絶対に手の届かない縁の力への気づきをも呼び出そうとしていたのです。それが(願わくは)「自分の方へ仏道を引き寄せるのではなく、自分の身も思いをも仏道(=今生きているこの瞬間の命)の方へ投げ入れる」という方向転換へつながります。

 しかし、以前のメールで問題定義したように、全てが無我=縁起の働きの中にあるのに、そもそも実体もない・自由もない・何の存在意義も持っていないように思える「私という意識」はなぜそこに生じてきたのか、という問題が残ります。また、原始仏教の教典にも、その他、あちらこちらで見られる「前世の記憶」などなど、あれがウソ八百でないとしたら、無我=縁起の中でどう位置づけるか、という問題。
 10年前の私と今の私の間には「私」という実体的なつながりがないが、10年前の写真を見れば今と「同じ」人だ分かると同じように、前生・今生・来生も実体的な「アートマン」によって結ばれているわけではありませんが、何らかの形で輪廻転生が行われている、という説はおそらく曽我さんも納得しえないのではいないかと思います。少なくとも、私にはぴんと来ません。

 あるいは、単なる戯論に過ぎないのでしょうか。

 合掌  無方

 

曽我から ネルケ無方さんへ 2月18日拝受のメールへの返事もあわせて 2006,4,17,

拝啓

 4月も半ばを過ぎ、安泰寺では厳しい修行の日々が始まっているかと存じます。

 2月に頂いたメールへの返事をようやく仕上げようとしていたところに、また新たなご意見を頂戴いたしました。いつも間の抜けたタイミングの返事になってしまい、申し訳ありません。

 まず、2月のメールへの返事から。

1) そもそも何で「意識」があるのか?

 このような問題については、仏教の伝統の中に参考にできそうな材料は見つけられないように感じます。またまた相変わらずの進化論ですみません。

 反射だけで状況の変化に対応しているうちは、動物は或る種の自動機械で、意識も感情もないと思います。条件反射が加わると、おそらくそのタイミングで感情が発生すると想像しますが、意識はまだ発現していないのではないかと思います。
 意識が発生するのは、記憶の働きができて、自分を対象化して(ノエマ自己の発生)、それをチェスの駒のように動かしてみながら可能な対応とその予想される結果をシミュレートする反応が誕生した時だと思います。「意識」は「ノエマ自己」の発生とひとつの出来事だと思います。
 なぜ意識があるかといえば、意識ができてみると、結果として状況への対応の幅が格段に広がり、条件反射だけよりもはるかに有利な対応がなされるようになり、生き残る確率が高まったからではないでしょうか。

2) なぜ人間一人に対して意識が一つ?

 上で述べたシミュレーションにおいて、複数の可能な選択肢を比較検討して、その中からひとつを選択・決断するためだと考えます。シミュレーションのためには、両立不能で互いに排除しあう選択肢を比較検討して、そのうちからひとつが選択されます。
 例えば、餌を食べているときに敵に襲われれば、@戦う A餌を咥えて逃げる B餌をおいて逃げる などの対応があり得ますが、体がひとつである以上、ひとつの対応しかなし得ず、その状況で二つ以上の意識があってもかえって混乱が生じるだけで、シミュレーションの利点が失われます。複数の意識をもつ動物がいたとしても、生存競争に勝ち残れなかったと思われます。千変万化し切迫した状況の中で、無理やりにでもひとつの選択に収斂させる仕組みを持ったものは生き残り、二つ以上の選択肢の間でフリーズしたものは天敵に食われてしまったことでしょう。

 また、神経学者のダマシオは、意識が生成してくる第一の基礎に「原自己」というものを置いています。「原自己」とは、中枢神経系によってそのつど把握された身体の状況(血糖値その他の生化学的バランスや、姿勢、運動の状況など)のことです。身体はひとつですから、例えばアドレナリンの濃度などもひとつの瞬間にはひとつの値でしょうし、原自己は、そのつどひとつでしかあり得ません。意識の生成の基礎である原自己がひとつであることが、意識がひとつである根拠のひとつであろうと想像します。
 (小論 《ダマシオ 「無意識の脳 自己意識の脳」 を読んで》、ご参照ください。 )

 ただし、一つの個体にひとつの意識というのは、そのつどひとつの意識という意味です。ひとつの意識が持続して一貫してひとつの個体にあるわけではありません。そのつどのひとつの意識が、入れ替わり立ち代わり発現しては消えているのです。

 「国家の意思」については、例えば戦争へとひた走っていく時など、その尻馬に乗る主張は調子に乗ってはしゃぎ、反対意見には強いプレッシャーがかかる。そういう一定方向へのトレンドは、あたかも「国家の意思」のように感じられます。意識とか意思と呼ぶべきではないかもしれませんが、個々の反応がたくさん集まって、ひとつの相が現れ、特徴ある結果が創発してくるという現象はあるそうです。

 ・・・・・・今、実は、「国家は、上に書いたようなノエマ自己によるシミュレーションを行っていないので、意識は持たない」と書きかけていましたが、まてよ、と思いました。政府、マスコミ、様々な研究所、たくさんの個人が、政策を提案したり、国の未来を論じています。
 我々の意識の場合でも、たいていは無意識の内に、すなわちサブシステムにおいて実行されているのですから、この点では同じことです。たくさんのサブノエシスがそのつどの縁に応じてそれぞれに発現し、せめぎあい、相互作用を繰り返し、ひとつ上の階層にあがる度に新しい傾向が創発し、どこかの階層でノエマ自己を駒のように使うシミュレーションが行われ意識が発現する。この仕組みは、少なくとも形式的には、国家や会社などにも当てはまるように思えます。

 国家に意識があるなどという考えは、ガイア理論のようにマユツバに響きますが、我々とは階層の違うことなのですから、分からないし、我々にはどうでもいいことだとも思います。ともかく、個人を超えた階層で、我々に対して強い影響力のあるトレンドが創発することは確かですし、それを創発させているのは、我々一人一人の反応の重ね合わせであることも確かですから、我々一人一人が、注意深く、執着の反応を押しとどめ、苦をつくるトレンドを起こさせないようにする他はないと思います。

 先のメールでは、「国家の意識」などというおかしな比喩を持ち出して、かえって問題をややこしくしてしまい、反省しています。

 ややこしついでに書き添えると、一卵性双生児の場合や、不謹慎ですが、結合双生児(シャム双生児)のさまざまな事例ではどうなのだろうかなどといった疑問も頭によぎりましたが、これも「国家の意識」同様に、捨置すべき問いでありましょう。

3) 体外離脱した「霊」は、なぜ空間に拡散してしまわず、ひとつの座標を取るのか?

 身も蓋もない答えですが、「霊」は、身体に縁起する意識の妄想であるから、意識の「身体に縁起する」という特徴、すなわち空間内の一座標を取るという特徴を引き摺っているのだと思います。人は、肉体の制約を完全に解かれた自分を想像することができない。

 体外離脱した「霊」が、空間に拡散せず、ひとつの座標を取るということは、「霊」なるものが、身体に縁起するそのつどの意識の妄想であることのひとつの傍証であると考えます。

4) 「もがき足掻き反応」=無明=仏のお命(天地いっぱいの生命)?

 繰り返しになりますが、「もがき足掻き反応」は、生命に共通する自己駆動力です。ノエマ自己を想定して可能な反応をシミュレーションする能力を備えた動物(凡夫など)においては、自然のままでは執着の反応として現れますが、よき縁を得て機が熟せば、発心・精進の反応としても現れるようになる、と考えています。


 ただし、これらの反応は、あくまで個々の生物(有情)において発現するそのつどの反応です。個々の生物を離れて、どこかに、あるいは遍満して、「命」があるわけではありません。個々の生物を離れて、「天地いっぱいの生命」を考えると、それはもう梵(ブラフマン)でしょうし、そのつもりはなくても、そういう誤解を生じやすい言い方ではないかと危惧します。

 また反射、条件反射、執着と 発心・精進とは、生物進化の同じ延長線上にあるのではありません。発心・精進の反応は、獲得形質であり、DNAによって広がり増えるのではなく、よき縁・よきミーム(meme)=「他からの声」によって広がり増えます。(図では色で区別しました。)

 無明については、「無常=無我=縁起を知らず、守るべき自分があると思い込んで、自動的に執着の反応を繰り返す無知」だと考えています。無明は、「無常=無我=縁起についての正しい智慧の欠如」です。正しい智慧がないために、「もがき足掻き反応」(生命の自己駆動力)は、執着の反応という「目先の得は得るけれどかえって大きな苦をつくる反応」として現れます。無明(正しい智慧の欠如)もまた、個々の生物の形質であり、個々の生物を離れて「無明」があるわけではないと思います。

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 次に、4月14日に頂いたご意見への返事ですが、小川一乗という浄土真宗系の先生も、道元と親鸞を正しく釈尊の教えを受け継ぐものとして並べておられましたし、曹洞宗と真宗は、相容れないように見えて案外互いに通じる部分があるのかもしれません。

 ともかく、「私とは自由な主体などではなく、縁によるところの現象である」という自覚と、「努力、精進をすること」の両方が矛盾なく成り立たねばならないのだと思います。

 ひとつだけ、気をつけねばならないことは、縁とは、なにかひとつの全体的な「たいしたもの」ではなくて、様々な些細なそのつどの縁であるということ。十分に警戒しないと、「大いなる弥陀の慈悲」とか「天地いっぱいの命」といった梵我一如的な考えに簡単に滑り落ちてしまいます。

 過去の自分と今の自分の間の持続性がなぜあるのかについては、ひとつは肉体(色身)という場の連続性によるということと、私とはそのつどの反応であるけれど、その反応にはパターンがあり、反応パターンは常に改変されているけれど、けして全面的にすっかり変わってしまうからではないということによると思います。

 そして、そういう一定の持続性が、現象をものとして捉える我々の生得的傾向によって「変わらぬ私」という観念となり、さらにそれが拡張されて、前世、死後生という考えを生んだのだと考えます。

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 経典にも基づかない勝手な思い込みを書き連ねました。しかし、自分では、釈尊の教えとも整合性があり、体系的でもあると思っているのですが、如何でしょうか?

                        敬具
ネルケ無方様
       2006,4,17,         曽我逸郎
 

 

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