ネルケ無方さん <続き>意識について(まだ平行線) 2006,4,18,

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拝復

昨日、安泰寺で桜の花見をしました。まだ三部咲きでしたが、とてもきれいで、谷間を見下ろせる段々畑の上でキャンプファイヤーを炊いて酒を飲みました。どこから持ち出したのか、夜中までトランペットを吹いたりギターを弾いたりしていた参禅者もいました。

お忙しい中で、ご返事をいただき、ありがとうございます。残念ながら、添付されたファイルを開けることはできませんでした。それでも、さっそく私の感想を書かせていただきます。

1)平行線をたどってしまっています。済みません。

「意識が発生するのは、記憶の働きができて、自分を対象化して(ノエマ自己の発生)、それをチェスの駒のように動かしてみながら可能な対応とその予想される結果をシミュレートする反応が誕生した時だと思います。」
私がどうしても分からないのは、記憶の働きができて、ノエマ自己が発生しても、これは条件反射が複雑になっただけではないか?という疑問です。単細胞のように、外への刺激に単純かつ直接に反応するのではなく、中への刺激へも反応し、中・外への反応自体へも反応し、反応の仕方自体を調整したりしますが、フィードバックがいくら複雑になった所で、結局巨大なコンピュータにしか見えません(そのために、コンピュータにも意識があり得るかという議論もありますが、曽我さんならどう思われるでしょうか)。私は、コンピュータがいくら複雑に動いても、脳みそ並みのシミューレートができても、例えコンピュータのいわばノエマ自己が発生したとしても、意識がなくてもいいような気がします。
人間の胃腸が食べ物を消化している時はもとより、体が自らの血糖値・心脈数・呼吸その他の生化学的バランスを自動的に調整しているホモエシュタシス(Homoestasis)という、体内の記憶のようなものをも必要としているはずの非常に複雑なプロセスが意識を必要しないのに、どうして「起きようか・・・いやあ、まだ眠い・・・」というくだらない自己問答に意識が必要なのか、未だに納得できません。

また、この間の曽我さんのメールにもありました「Aをしようと言う思いが意識に上る一秒の何分の一前に、もうすでAが脳内で決定されている」という研究発表が本当であれば、自由がないばかりではなく、シミュレ−ションをしたり選択するためには、やはり意識が無用の長物になってしまいます。「意識が」選択する前に、もうすでに選択が終わっていれば、意識の役割がないからです。ノエマ自己も同じく、意識の中でノエマ自己が発生する前に、脳内で(無意識で)ノエマ自己が発生しているとは考えられないでしょうか。

2・3・4)たしかにガイア理論や双生児を持ち出すと、複雑になりますが、これらの問題点を避けることは結局できないではないかと思います。

私の小指は私や私の身体を捕らえることはできません。手全体すら捕らえないのですから。私もノエシス自己と世界全体をどうもがいても、一挙に捕らえないのは同様、あたりまえです。
この比例で言いたいのは、小指にも手全体にも意識はない(と「私」が想定します)。世界全体にも意識はない(と「私」が想定します)。ではなぜ、「私」と仲間の人間、その他の進化した動物だけ?ということにもなりますし、「待ってよ・・・」ひょっとしたら私の小指も今、同じことを考えているのでは?という哲学的な子供遊びにもつながります。

「「霊」は、身体に縁起する意識の妄想であるから、意識の「身体に縁起する」という特徴、すなわち空間内の一座標を取るという特徴を引き摺っているのだと思います。」
茂木健一郎さんが「生きて死ぬ私」で問題視している臨死体験のばあい(Kuebler-Rossの研究をもとにしているようです)、「身体に縁起する意識の妄想」に過ぎないはずの「霊」は空間内の一座標を保つばかりではなく、その「空間内の一座標」(例えばオペの天井)から、身体の方から見えないはずのものをみてしまった等々の点です。あるいは「前世」の記憶の場合も、その本人が直接には知らないはずのことを「記憶」し、調べてみたら、過去に実際に起きていた等々という。これらの現象を「本当だ」と認めるのであれば、そう簡単には説明できないと思います。ウソだとしたら、説明は簡単ですが・・・。

「「霊」は、身体に縁起する意識の妄想」と言い切ってしまえば(私も実、そう片づけたいのですが)、身体が滅びれば当然「霊」はありませんし、前世の記憶や臨死体験は幻ですが、多くの発表がウソだと言うことになります。ウソかどうか、今の私には言い切れません。

「天地いっぱいの命」を「たいした物」ではなく、この一瞬、自分を生かしているいのち、だと思っています。今、この思いが浮かぶのも、この手がキーボードを叩くのも、この一瞬のいのちに過ぎないと思います。「天地いっぱいの命はたいした物だ」というより、むしろ逆に普段「たいした物」だと思い込んでいる「私・私の意思・私の思い・私の努力」はたいしたことなく、曽我さんいわく「その都度その都度の反応」に過ぎません。

ですから、どうして

「反射、条件反射、執着と 発心・精進とは、生物進化の同じ延長線上にあるのではありません。発心・精進の反応は、獲得形質であり、DNAによって広がり増えるのではなく、よき縁・よきミーム(meme)=「他からの声」によって広がり増えます。」
になるのか、ちょっと分かりません(添付されたmif図は開くことができませんでした。) (曽我:上の曽我からのメールの図。gif で送り直しました。)

キリスト教の「善なる神様が宇宙を作ったのに、どこから悪が出てきた」と言う問題と同様、無始のトン・ジン・チという無明に過ぎないこの世界のどこから「他からの声」が響いてくるのでしょうか。反射の延長線でなければ、完全な他力本願になりかねません。
われわれ衆生は自由もなければ、無明に反射するしかないが、この無明をこえた「他からの声」に向かって努力することだけはできます。曽我さんが言いたいのは、そういうことではないでしょう?
キリスト教の場合、神様のお使いであった天使Luciferが神様に反発し(一体どうして?)、悪魔になったという説に無理があると同じように、どうして無明の延長線上、あるいは無明と表裏一枚に涅槃を考えるのではなく、別の次元で涅槃が考えられるのでしょうか。
無明の足掻きの成りの果て、その足掻きが止んだ状態として、涅槃を考えるべきではないでしょうか。あるいは無明から逃げることもなく、無明に流されることもなく、無明を無明として静かに見つめた状態。
無明を「正しい智慧の欠如」として定義づけると言うよりも、正しい智慧を「無明が無明として見える」と定義したらどうかと思います。なぜかと言えば、「正しい智慧の欠如」という無明から出発しますと、いつどこから正しい智慧が出てくるのか、英語で言えばまるでJack in the boxになってしまいます。そのために大乗仏教では無明にはすでに智慧の種が備わっているとか、無明と智慧を切り離すことはできないといっていると思います。

「ともかく、「私とは自由な主体などではなく、縁によるところの現象である」という自覚と、「努力、精進をすること」の両方が矛盾なく成り立たねばならないのだと思います。」
この二つを理屈上両立させるのは簡単ではないかと思います。14日のメールで引用した文でそれが言いたかったのですが、どうして仏道を修行しようとしているのか、結局のところで自分でも分からないのに、修行寺で毎日寝起きしている・・・その努力・精進こそある意味私の主体性の無さ・自由の無さを証明しています。「仏種縁起に随う」という言葉がありますが、これは一方すすんで凡夫の仏性のある証明にもなります。曽我さんは「縁による」と言っておられますが、「この一瞬のいのちによる」と言った方が、「縁起」ほど分析的ではありませんが分かりやすいと思います。

申し訳ありません。私の頭には全く整理がついていないため、いつこんな訳の分からない疑問をぶっつけています。

合掌
無方

 

曽我から ネルケ無方さんへ 無明・他からの声・正しい知恵 2006,4,23,

拝啓

 こちらの桜(ソメイヨシノ)は、15、16日の週末が盛りでした。久斗山は中川村よりやはり少し寒いようですね。眺望を満喫しながらおおらかなお花見をされたようで、うらやましいです。

 さて、たくさんのもっともな疑問を頂きました。本当は実証的な研究に基づいて考えなければいけないのだろうと思います。コンピュータに何ができるか、生物はどのような仕組みでどのように環境の変化に適応しているのか、実証的な研究はずいぶん積み上げられていると想像しますが、私にその知識はありません。愚昧な考察になるでしょうが、私的にはえてして試行錯誤の中で気づくこともありますので、素人の想像を書いてみます。

◆ コンピュータに意識があり得るか?

 シミュレーション(自分の可能な対応を比較検討して最適な選択をすること)は、コンピュータゲームのチェスでもやっていることでしょう。おそらく次の一手だけではなく、かなり先まで、、。だとすれば、チェスをするコンピュータには意識があるということになるのか・・・?
 そんなことはないでしょう。であれば、自分の対応をシミュレーションするだけでは、意識は生まれない。では、他になにが必要か?

 チェスをするコンピュータは、シミュレーションの際、はたして「自分」と「感じて」いるのでしょうか? 単に "Player A" と "Player B" の手を第三者的にシミュレーションして、Aに一番有利な手を打つだけ。「A は自分だ」という「意識」はもっていないでしょう。なにがあれば、「自分という意識」が生まれるのか?

 おそらくは感情でしょうか? 人がゲームに勝つためには冷静な判断が必要で、感情は邪魔なのかもしれませんが、自分という意識をもつためには、感情が必要なのではないかという気がします。自信を持って言えるだけの分析はありませんが・・・。

 そして、感情は、その時々の状況に対応して全身をそれにふさわしいモードに収斂させる仕組みだと考えますので、感情が発生するためには、「どんな状況でも生き延びよう、有利に事を運ぼう」とする「もがき足掻き反応」が前提になると想像します。

 まとめると、もしもコンピュータに「もがき足掻き反応」があって(例えば、電源ケーブルがはずれたら、それでもなんとか電力を得ようと足掻くような)、さらに、感情を伴って自分を対象化してシミュレーションするようにプログラムされれば、コンピュータも意識をもつのかもしれません。

 映画「2001年宇宙の旅」に登場するコンピュータ "HAL" は、自分を守ろうと様々に手を尽くしますが、あそこまで行けばコンピュータでも意識を持つのでしょう。そんなコンピュータができるのか分かりませんが・・・。

◆ どうして「起きようか・・・いやあ、まだ眠い・・・」というくだらない自己問答に意識が必要なのか?

 シミュレーションの自己問答は、朝の布団の中だけではありません。設備投資をするか、しないか。家を買うか、賃貸で済ますか。夢を追って会社を辞めるか、生活の安定を取るか。デートに誘うか、やめておくか。我々は、さまざまなシミュレーションをし、決断をしています。読みがあたれば、「成功者」と呼ばれ、世俗的には有利な立場に立てます。事故で前頭連合野を損傷したフィニアス・ゲージ氏は、短絡的で感情的な性格に変わってしまったそうです。ノエマ自己によるシミュレーションがなければ、今とは違う自分をイメージして努力することができず、今の楽しみ、今の欲望に従うだけになると思います。
 もっともノエマ自己によるシミュレーションには悪い面もあって、それによって、執着は根深く狡猾なものになっていくのですが・・・。

◆ ノエマ自己も同じく、意識の中でノエマ自己が発生する前に、脳内で(無意識で)ノエマ自己が発生しているとは考えられないでしょうか?

 ノエマ自己によるシミュレーションは、常に行われているわけではないでしょう。我々のほとんどの反応は、習慣化した自動的反応になっています。難しい状況にでくわしたり、新しい環境で暮らし始めた時に、シミュレーションが行われる。自分の反応に改善の必要を感じている時も、同様でしょう。そして実際に反応がおこなわれ、その結果の反省から、さらに反応の改善がされていき、それが繰り返されて、或る程度反応パターンが出来上がると、後は自動的反応ですまされるようになります。
 既にできあがった反応パターンをそのまま生かせる度合いが低い場合はストレスは強く、反対に、習慣化した反応をさらにファインチューンするような改変の度合いの低い時は、ストレスが少ないのではないでしょうか。

 先日、独り言というのはなかなか興味深い現象だということに気づきました。独り言を言っている人は、それに気づいていない。「独り言言ってるよ」と指摘すると、その人は大抵きょとんとする。独り言は無意識の現象です。いうならば、独り言は、ノエシスがノエシスに語りかけノエシスが聞いている状態で、明確なノエマ自己は立てられていないように思えます。ですから、シミュレーションもノエシスだけで自動的に行われ得ると考えられます。無意識的なものから、ノエマ自己を立てた自覚的なものまで、シミュレーションにもいろいろな段階があるように思います。

 くっきりとしたノエマ自己が立てられるケースというのは、既存の反応パターンが適用できず、重大な判断が必要なケースで、その分シミュレーションが困難な場合でしょう。そして、選択肢がしばらくワーキングメモリ上に乗せられて比較検討されるその間だけ、ノエマ自己はノエシスの対象にされ続けるのではないでしょうか。ノエマ自己は、シミュレーションのモデルとしてノエシスによって仮構されているのです。けしてノエマ自己が、ああしよう、こうしようと考えるのではありません。その間、ノエシスによるシミュレーションは自動的に無自覚の内に何度も繰り返されます。ノエマ自己を保持しつつ、ノエシスは様々に試行錯誤し、やがて決断が行われますが、それらは無方さんのご指摘のとおり、意識に上る少し前に既に起こっているような気がします。



◆ 前世の記憶や臨死体験

 臨死体験については、通常とは違う死にかけの状態での体験ですから、普段とは異なる様々な反応が起こるのは当然だろうと思います。

 前世については、私は真剣に検討したことはありません。「私」というのは、肉体という場において、肉体に縁起して発生する現象だと考えますので、肉体が滅びた後も「私」が起こるとは思えません。仮に、なにか想像を超えたメカニズムで、死後にも「私」が起こりつづけるとしても、そのつど起こっては消える繰り返しが、延長するだけのことですから、たいした意味を持つことではないと感じます。

 私が輪廻転生説を嫌う理由は、それが、「そのつど縁起する私という現象」ではなく、「持続的実体的な私」を想定させてしまい、釈尊の教えを台無しにしかねないと思うからです。

◆ 無始のトン・ジン・チという無明に過ぎないこの世界のどこから「他からの声」が響いてくるのか?

 「他からの声」というのは、パーリ中部 第43大有明経に出てくる言葉で、そこには、「正見が起こるためには二の縁があります。すなわち、他からの声、および正しい思惟です。」(片山一良訳、大蔵出版)とあります。「他からの声」は、天の声のようなものではなくて、たとえばアッサジから縁起法頌を聞いてサーリプッタが釈尊の弟子になったように、釈尊の教えを伝える言葉です。ですから、釈尊の教えに関する本やネット上のページも、「他からの声」です。それらを縁として、釈尊の教えに学ぼうとする人が増えていく。ですから、ドーキンスの言うミームにもあたると思います。

 凡夫は、動物が有利に生きるために自然に身につけてきたものの見方、「ものも自分も変わらぬ価値を持って存在し続ける」が染み付き、それに縛られ、苦を作り続けています。
 しかし、釈尊が、精緻な観察と深い洞察によって、無常=無我=縁起に気づかれ、「ものも自分も変わらぬ価値を持って存在し続ける」と思い込んで苦を作ることの愚かさに気づかれた。そして、それを教えとして説かれ、それが「他からの声」として語り継がれ、ミームとして広がって、2500年後の貪・瞋・痴で無明に染まった凡夫である私にまで響いてきたのだと思います。

◆ 「正しい智慧の欠如」という無明から出発すると、いつどこから正しい智慧が出てくるのか?

 無方さんは無明を実体的に捉えておられるのではないか、という印象を受けます。無明は、創造主(=神)でも万物の本源(=梵)でもありません。無明は、無明として存在するのではなく、単に「無常=無我=縁起を知らないこと」です。釈尊が、無常=無我=縁起に気づいて、そのことを教えてくださった。釈尊の教えに従って努力すれば、無常=無我=縁起ということを納得することができる。

 こういう比喩は、熱心な仏教徒の怒りを買うかもしれませんが、海辺に住むニホンザルのグループで、一匹のサルが、海の水で餌を洗うと砂をきれいに落とせるということに気づき、それは他のサルたちにも広まっていったそうです。
 かつて、人々は、大地は平らで、海は端で途切れ、滝となって落ちていると思い込んでいました。やがて、地球は丸い筈だと気づいた人が現れ、人々は半信半疑だったけれど、今では誰もがそう納得しています。「大地も海も平らだ」というのが、無明「ものも自分も変わらぬ価値を持って存在し続ける」にあたり、「地球は丸い」が、無常=無我=縁起にあたると考えられるのではないでしょうか。
 知らなかったことに一人が気づき、それが他の人に広まっていく。釈尊の教えも基本的には同様です。
 ただ、「ものも自分も変わらぬ価値を持って存在し続ける」という凡夫の思い込みは根深く、ここで挙げた二つの例ほど簡単には広がっていきませんが・・・。

◆ 無明=正しい知恵の欠如≒生命共通のもがき足掻き反応?

 私は、「無明とは正しい知恵の欠如だ」と言い、以前には、「生命に本源的な生き続けようとする強い傾向が根本無明だ」とも書きました。その後、「生命に本源的な生き続けようとする強い傾向」という言い方は、梵我一如的誤解を生じかねないと気づき、「生命共通のもがき足掻き反応」と言い換えましたが、無方さんは、「一体どれが本当なのだ、一貫性がない」とお感じかもしれません。少し、言い訳をさせて頂きます。

 まず狭く限定して言うと、「無明とは、無常=無我=縁起という正しい知恵を知らないこと」であると考えます。「無常=無我=縁起という正しい知恵を知らないこと」は、そのまま、「ものも自分も変わらぬ価値を持って存在し続ける、と思い込んでいること」と表裏一体です。そして、「ものも自分も変わらぬ価値を持って存在し続ける、と思い込んでいること」は、どんな状況におかれてもなんとか行き続けようともがき足掻く生命共通の反応に基づいて、生命が、千変万化する環境の中、すばやく適切な対応をして生存競争に打ち勝つために自然に発達させてきたものの見方である、と考えています。

 ですから、無明=「無常=無我=縁起という正しい知恵の欠如」=「ものと自分は変わらぬ価値を持って存在し続ける、と思い込んでいること」=「生命共通のもがき足掻き反応に基づく自然なものの見方」と考えています。

 『無明を「正しい智慧の欠如」として定義づけると言うよりも、正しい智慧を「無明が無明として見える」と定義したらどうか』というご提案をいただきました。  しかし、それだと、無常=無我=縁起という釈尊の教えの核心部分が、見えなくなってしまうのでは、と危惧します。

◆ 4/17の曽我のメールの図で、どうして途中で急にピンク色から黄色に変わるのか?そこで何が起こっているのか?

 この図を作ったときは、このように考えていました。

 「ノエマ自己を構想してシミュレーションを行い、執着の反応をするのは、動物の進化上自然な結果であり、凡夫の子供も凡夫である。この反応はDNAに支配されている。
 それに対して、よき縁を得て発心・精進の反応が起こるのは、ひとりの個人に経験を縁として起こる出来事であり、DNAによって決まっているのではない。発心・精進する人の子供も発心・精進するとは限らない。
 従って、発心・精進の反応は、DNAによって決定されていないという点で、執着までの反応とは異なる。」
 しかし、メールでご指摘を頂いて、大変粗雑な見方をしていたことに気づきました。

 反射は確かにDNAに支配された、生物種として決まった反応です。個体差はありません。しかし、条件反射も執着も、それが可能となる仕組みは種として遺伝によってもたらされますが、何にどのように条件反射するか、執着するかは、その動物個体がどのような経験をするか(縁を受けるか)によって決まってきます。

 発心・精進の反応も、それが可能となる仕組みは、執着と同様にノエマ自己によるシミュレーションです。発心・精進が、執着と異なる点は、うまく生きようとする執着の反応がかえって苦を作ることに気づいていることです。誤解を恐れずに言えば、発心・精進は、執着よりワンランク質の高い「うまい生き方」を模索しています。

 発心・精進を可能にしている仕組みを仏性と呼ぶとするなら、それは執着を引き起こす仕組みと同じだと考えられます。すなわち、仏性=凡夫性。(思いがけず、大乗的な「煩悩即菩提」に近づいてしまったように感じて、とまどっています。)

 発心・精進の反応は、執着の反応よりも、うまく生きようとする「うまさ」のレベルがワンランク違うだけだ、と考えることも一面ではできます。しかし、発心・精進の反応が目指すものは、無常=無我=縁起を自分のこととして腹に落ちて納得し、執着の反応をなくする( or 制御する)ことであり、無常=無我=縁起は、動物が生き抜くために営々として培ってきたものの見方、「ものと自分は、変わらぬ価値を持って存在し続ける」を粉砕するものでありますから、発心・精進の反応と執着の反応とは、まったく方向が異なるものだと言うこともできます。

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 良い刺激を頂いたお陰で、今回もいろいろと考えることができました。このところ大乗的な言い回しに行き着くことが重なっており、自分でも意外です。

 お時間許す折にご意見お聞かせ下されば幸甚です。

                              敬具
ネルケ無方様
       2006,4,23,                曽我逸郎
 

 

ネルケ無方さんから 体外離脱体験 無明と無常=無我=縁起 2006,4,25,

拝復

「臨死体験については、通常とは違う死にかけの状態での体験ですから、普段とは異なる様々な反応が起こるのは当然だろうと思います。」
仰るとおり、当然です。茂木健一郎著「生きて死ぬ私」ではこう定義しています:
「「臨死体験」で本質的なのは、私たちの意識が変性しているということであって、それが「死」に近いかどうかということは、実は本質的なことではない。その意味では、「臨死体験」という名称は、誤解を生みやすいと思う。もちろん、脳が異常な生理的状態に置かれた結果、死に至ることはしばしば見られる。一方で、脳が異常な生理的状態に置かれると必ず死んでしまうというわけではない。その後実際に死ななくても、様々な奇妙な体験は起こる。従って、「臨死」ということが、体験の本質ではない。「臨死体験」は、あくまでも、体験者がまだ「生きている」時に体験することなのである。結論として、私は、いわゆる臨死体験は、「脳が異常な生理的状態に置かれた時、人間が経験する意識の変性状態」として捉え直すべきだと考える。」
しかし、そこで問題になってくるのは、花畑が見えたり光明が見えたりすると言った幻覚ではありません。茂木さんいわく:
「ところで、臨死体験、あるいはより一般的に意識の変容状態の本質を理解しようとする時、もっともやっかいなのが、いわゆる体外離脱体験である。 ケンブリッジ百科辞典第2版では、「体外離脱体験」について次のように解説されている。

 体外離脱体験(out-of-the-body experience)

 人々が、自分の意識がその身体から離れた場所に存在すると感じる体験。あたかも、実際に意識が身体から離れたように、自分の身体の周りの状況を認識する。体外離脱体験は、しばしば、日常生活の通常の体験と同じくらい強い現実感をともなう。

 体外離脱体験は、体験者が、フィッシャマンズ・ワーフのような、第三者にも原理的に「こんな感じの体験だったのかな」と追体験が可能な内容の体験をするところに特徴がある。しかも、その体験によって得られる情報は、通常の意識の状態では絶対に得られないような情報だ。もちろん、ここでは、体外離脱した時に見たものが、後に、関係者の証言によって、事実と合致していた場合のみを考えている。事実と合致していなかった場合には、単なる幻覚と考えれば良い。

 典型的な体外離脱体験は、次のようなものだ。
 

 ・・・この間、私は私の体を離れて医療チームを見下ろしているように感じた。もし、次のようなことがなかったら、単に頭を回る血が少なくなったために見た幻想だと思ったことだろう。私の周囲にはカーテンが張り巡らされていたので、病棟の他の部分を見られるはずがなかった。ところが、私は、医者が病棟に入り、まず他の患者を見てから、私の所に来たのをはっきりと見たのだ。私が、私のベッドの上からそのようなシーンを見られるはずがなかった。しかも、後にその医者は確かにその通りだったと言った。

 ジョン・パーキンソンの体験、(『光の中の真実』より)

 私たちの通常の意識の状態では、ベッドに寝たまま、自分のいる病棟に医者が入ってくるところを見ることはできない。従って、体外離脱体験で、体験者がそのような通常は手に入らないような情報を含む体験をし、それが客観的事実と一致することが確認された場合、そのメカニズムは何かということが問題になるのだ。」

茂木さんは最後に
「もし客観的な事実と一致するような体外離脱体験が本当に存在するとしたら、それは脳と心の関係に関する私たちの通常の理解を根本的に覆すものであることは確かだ。」
と言ったきりで、これらの体験が本当かどうかは答を出していません。本当だったら脳と心がどうなるかと言う問題定義を出したまま、その後の追求がないように見えますが、これは一人の脳科学者の問題だけではなく、アートマンの問題にも関わってくると思います。脳から離れて心が存在できないのであれば(これは脳科学を始め、近代の常識です)、無我であることは当然ですが、果たしてそういえるのでしょうか。
「仮に、なにか想像を超えたメカニズムで、死後にも「私」が起こりつづけるとしても、そのつど起こっては消える繰り返しが、延長するだけのことですから、たいした意味を持つことではないと感じます。私が輪廻転生説を嫌う理由は、それが、「そのつど縁起する私という現象」ではなく、「持続的実体的な私」を想定させてしまい、釈尊の教えを台無しにしかねないと思うからです。」
同感です。上で茂木さんが引用している体験話はその釈尊の教えを台無しにしかねない典型ですが、こういった体験がそう簡単に片づけられるかどうか・・・まぁ、二の次の問題でしょう。
「「他からの声」は、天の声のようなものではなくて、たとえばアッサジから縁起法頌を聞いてサーリプッタが釈尊の弟子になったように、釈尊の教えを伝える言葉です。ですから、釈尊の教えに関する本やネット上のページも、「他からの声」です。」
それは分かりますが、われわれは「他からの声」に触れて発心・精進ができたとしても、そもそも釈尊は「他からの声」に触れることなく、自ら発心・精進・成道したと言われています。曽我さんが言いたいのは、「釈尊その他ごく少数の人間は自力で悟れるが、われわれ凡夫のほとんどは他からの声に触れなければ、発心・精進・解脱もできない」ということだけでしょうか。

私が問題にしたいのは、「他からの声」をよりどころにせず解脱された釈尊がそれをどうしてできたのか、ということです。「自力だ」というと、そもそも「もがき足かき」しかできなかった凡夫釈尊はその「もがき足かき」している過程のどこかで(その延長線上として)発心・解脱されて仏になったことになります。それがおかしいというのであれば、凡夫だったはずの釈尊もやはり何らかの形で「他からの声」に触れたことになります。しかし、これもおかしいのでは・・・

つまり、「無常=無我=縁起を知らない」凡夫(成道前の釈尊)はそれをどうして知ってしまったのか、ということです。

法華経などの大乗教典のように、釈尊が仏=絶対者の相対的具現に過ぎないというのであれば、問題はそれなりに片づくのでしょうが、曽我さんの意図は違うはずです。

「無方さんは無明を実体的に捉えておられるのではないか、という印象を受けます。無明は、創造主(=神)でも万物の本源(=梵)でもありません。無明は、無明として存在するのではなく、単に「無常=無我=縁起を知らないこと」です。釈尊が、無常=無我=縁起に気づいて、そのことを教えてくださった。釈尊の教えに従って努力すれば、無常=無我=縁起ということを納得することができる。
・・・私は、「無明とは正しい知恵の欠如だ」と言い、以前には、「生命に本源的な生き続けようとする強い傾向が根本無明だ」とも書きました。その後、「生命に本源的な生き続けようとする強い傾向」という言い方は、梵我一如的誤解を生じかねないと気づき、「生命共通のもがき足掻き反応」と言い換えましたが、無方さんは、「一体どれが本当なのだ、一貫性がない」とお感じかもしれません。」
「無明とは正しい知恵の欠如」・「生命に本源的な生き続けようとする強い傾向が根本無明」と「生命共通のもがき足掻き反応」の間だけではなく、「生命共通のもがき足掻き反応」と「単に無常=無我=縁起を知らないこと」の間にも若干のギャップがあると思います。「知らない」から「反応」するのですが、「知らないことが無明」と「足かき反応することが無明」では違うはずです。「生命共通の反応」というと、これも実体的に聞こえてしまいます。
「『無明を「正しい智慧の欠如」として定義づけると言うよりも、正しい智慧を「無明が無明として見える」と定義したらどうか』というご提案をいただきました。しかし、それだと、無常=無我=縁起という釈尊の教えの核心部分が、見えなくなってしまうのでは、と危惧します。」
しかし、その無常=無我=縁起という核心(の想定)こそが今度、実体的な考え方ではないか、と疑問になります。私は無明から出発しなければならないような気がいたしますから、私の使う「無明」という言葉はどうしても実体的なニュアンスを持つようになります。曽我さんが(以前)「無明は正しい智慧の欠如」と言った時、逆に「無常=無我=縁起」を知る正しい智慧をベースに、無明をそこから(その欠如)として説明しようとしているように見えます。このアプローチ自体は大乗的ではないでしょうか。その点、私は無明・苦から出発しようとしていますから、小乗的と言われなければならないかもしれません。
「発心・精進の反応も、それが可能となる仕組みは、執着と同様にノエマ自己によるシミュレーションです。発心・精進が、執着と異なる点は、うまく生きようとする執着の反応がかえって苦を作ることに気づいていることです。誤解を恐れずに言えば、発心・精進は、執着よりワンランク質の高い「うまい生き方」を模索しています。発心・精進を可能にしている仕組みを仏性と呼ぶとするなら、それは執着を引き起こす仕組みと同じだと考えられます。すなわち、仏性=凡夫性。(思いがけず、大乗的な「煩悩即菩提」に近づいてしまったように感じて、とまどっています。)」
これが釈尊の成道を可能にしたメカニズムではないでしょうか。そうであれば、無明(無常=無我=縁起を知らないことでもよい)と正しい智慧がやはり直結しているように思います。ランクに大きな違いがあるにせよ。

「月を差す指はどれか?」

月は水の大小や形にかかわらず、海にも一滴の水にも宿ると言われています。私たちの目に映るのは、その水に宿っている月しかありませんから、水と月は本質的に違いますが、水を離れて月がないとも言えます。
月と指の例の場合は、どうしても指の向こう側に月を想定し、ある指はそれを指し、ある指はそれを指さないということになります。しかし、果たしてそうでしょうか。

合掌
無方

 

曽我から ネルケ無方さんへ  2006,4,23,

拝啓

 今年の春は肌寒い日が多いように感じますが、安泰寺では農作業もそろそろ本格化しているのでしょうか。

 さて、体外離脱体験については、無方さんも「まぁ、二の次の問題でしょう。」と書いておられますし、私も検討の材料がぜんぜん足りません。よって、これ以上の深入りはせず、棚上げにさせていただきたいと存じます。誰かがはっきりしたことを確固たる手法で明らかにしてくれるまでは、店晒しのままにしておくのが適切な対応だろうと思います。

・・・・・
 ご提起頂いた別の問題を考えます。

◆ 「他からの声」をよりどころにせずに、どうして無常=無我=縁起に気づくことができるか?

 これについては、それほど困難な問題だとは、私には思えないのですが・・・。
 ちょうど「大地は平らだ」と思い込んでいた人々の中に、「地球は丸いはずだ」と気づいた人が現れたように、十分あり得ることだと思います。

 もう少し分析すると、おそらくこういうことだと思います。

 私達のものの見方は、元来粗雑です。置かれた状況や必要にとりあえず対応できれば、それで良しとしている。それ以上突き詰めて見ることをせず、近似値で済ませている。例えば、畑を耕したり、土地の売り買いをしたり、旅行する分には、「大地は平らだ」と考えておいて不都合はありません。現に、大地は平らに見えていますし・・・。しかし、よくよく分析すると、平らだとするとつじつまの合わないこと、説明できないことが見つかります。それを「なぜだ」と懸命に考える。様々な現象を突き合わせ試行錯誤して、ついに「地球は平らではない。丸いはずだ」と気づく人が現れる。

 それと同様です。
 執着の対象も自分も、本当は無常=無我=縁起なのですが、私たちは「変わらぬ価値を持って存在し続けている」と捉えて対応しています。実生活上は、それで差し障りはないし、そう考えておくほうが世俗の生存競争の上では有利でさえあります。

 無常=無我=縁起と、「ものも自分も変わらぬ価値を持って存在しつづける」という誤った(さしあたり便利に使える)見解の関係は、例えていうなら、地動説と天動説の関係のようなもの、あるいは、相対論とニュートン力学のようなものだと思います。「ものも自分も変わらぬ価値を持って存在しつづける」は粗雑で近似的な見方であり、無常=無我=縁起は精緻な見方です。

・・・
 釈尊の場合で具体的に想像してみます。

 若き日の釈尊は、将来を保障された何不自由ない暮らしをしておられた。そのために、かえって生きることの意義や意味に悩み始めることになった。
 (不自由のない満たされた生活では、人は時間を持て余し、意味や目的に悩み始める。それは、私自身を振り返っても確かなことだと思います。出家前の釈尊もそうだったというのは、私の想像ですが・・・。しかし、どうして人は満たされた状態に安らげないのでしょうか? もがき足掻き反応は、満たされた状態でも、もがき足掻くということでしょうか?)

 懊悩する若き釈尊は、不自由のない生活に満足できない。なにかもっと違う、別の、意義ある生があるはずだ・・・。それを求めて、家を捨てた釈尊は、道を求める当時の人達の主流の考えに従い、アートマンを高めることを追求された。

 自らの最も内奥からのアートマンの声を聞くために瞑想し、さらにアートマン本来の働きを妨げる肉体の拘束を弱めるために苦行に励まれた。

 普通の苦行者なら、瞑想と苦行とがもたらす変性意識体験を、「我がアートマンは宇宙の真理と一体になった」などと梵我一如的に解釈して自己肯定に陥るところを、釈尊はひたすら冷静に観察なさった。確固たる自己の本体、不変の本体といわれるアートマンを想定することが、実は粗雑な仮定であり、自分はその時々の状況によって激しく変化していることをご覧になった。苦行の中だけではなく、日常の生活においても、自分が時々の縁に応じて様々に変化していることを観察された。観察を徹底していく中で、ついに、自分は一貫した存在ではなく、縁に応じてそのつど起こっているのだ、ということに気づかれた。
 同時に、「自分は価値ある存在である筈だ」という、それまで囚われていた観念の愚かしさにも気づかれた。
 その気づきをもって、世の人々のありさまを観察し、人々が「守り育てるべき自分がある」と思い込んで、怒り、恨み、妬み、悲しみ、勝ち誇っている様子をご覧になり、その愚かさを哀れだと感じられた。
 しかし、怒り、恨み、妬み、悲しみ、勝ち誇っている人々に、「守り育てる自分など無い。あなた方は、縁に応じてそのつど起こっているのだ」と語りかけても、聞いてはもらえないだろう、そう思った釈尊は、一度は無常=無我=縁起を説くことを諦めかけられるが、中には聞く耳を持つものもいるだろうと思い直し、教えを説くことを決意された。

 釈尊に起こったことは、このようなことだったのではないかと想像します。
 特別なことのない自然なプロセスです。安易な解釈をせず、自然に陥りがちなものの見方を突き抜けて、徹底的に観察するという点では、釈尊は天才的でありました。それまで誰も気づくことのなかった無常=無我=縁起に気づき、ありもしない自分を守り育てるために繰り返し苦を作ることの愚かしさに気づかれ、そのことを説いてくださいました。
 釈尊は、信じられないほどすばらしく偉大であったと思います。しかし、徹底した観察と深い洞察によって偉大だったのであって、超自然的なことは何一つなかったと思っています。

◆ 無明(無常=無我=縁起を知らないことでもよい)と正しい智慧は、直結しているか?

 直結という言い方が妥当なのか分かりません。もう少し詳しく言うと、こういうことだと思います。

 執着も、発心・精進も、同じもがき足掻き反応が、異なる現れ方をしたものである。

 無常=無我=縁起を知らず(無明)、粗雑なものの見方をして、「ものも自分も変わらぬ価値をもって存在しつづける」と思い込んでいる間は、うまく生きんとする駆動力・もがき足掻き反応は、執着の反応として発現し、くりかえし苦をつくっている。
 苦を自覚し、苦は嫌だと強く思ったときに、発心の反応が起こる。発心は、現状に対する拒絶であり、目指すべき方向は、おそらくまだ見出されていない。「他からの声」によって、目指すべき方向が与えられ、精進の反応が始まる。発心も精進も、苦から逃れようとする反応であり、執着と同様に、よりうまく生きんとするもがき足掻き反応の現れである。
 精進の結果、精緻なものの見方ができるようになり、無常=無我=縁起が納得されると、執着の反応による苦の生産は止まる(涅槃)。

◆ 月と指の例の場合は、どうしても指の向こう側に月を想定し、ある指はそれを指し、ある指はそれを指さないということになるが、果たしてそうか?

 私は、まさにそのように考えています。
 月とは、釈尊の教えの象徴であり、無常=無我=縁起のことだと思います。「仏教」の長い歴史の中には、無常=無我=縁起を釈尊の教えとして差す指もポツリポツリとあれば、梵我一如の様々なヴァリエーションを「仏教」として指し示す困った指もたくさんあります。
 (4,29加筆:つまり、「月を差す指」は「他からの声」と同義である。「他からの声」にも、正しく釈尊の教えを伝えるものと、間違いに導くものと、両方がある。私たちは、「焼いて、切って、こすって、それが金であるかどうかを吟味するように」、「他からの声」を十分に吟味して、釈尊の教えを伝えるものとそうでないものとを選り分けなければならない。)

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 長々とお付き合いをさせて申し訳ありません。お時間許せば、またお気づきの点、ご指摘をいただけると助かります。

                             敬具
ネルケ無方様
      2006、4、26、            曽我逸郎
 

 

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