ネルケ無方さん 苦、自己、凡夫と仏(続き) 2005,2,28,

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曽我様

 ご返事ありがとうございました。

苦について・・・

 「物足りなさ」のほかに「思うようにならないこと」という表現もありますね。
曽我さんと私の出発点は非常に似ていると思います。生きている意味の追求ですね。そして、曽我さんもそうだと思いますが、自分が死んだら自分の何かが何らかな形で生き残るはずがない(人の記憶の中とかではなくて)というと、生きること自体に意味がないのは当然です。先があればそこに「意味」が見いだせますが、先のないものに「意味」もあり得ないはずです。そこ「生きている意味は何だろうか」と考えていた子供の私は割と早く「死ねば同じだ、意味なんてないんだ!」という結論に達してしまいましたが、「意味がなければいっそう死んでしまった方がいいでは?」という疑問が浮かび上がり、「いや、焦る必要はない。いつでも死ねる」というストッパーがかかりますが、「生ききれず死にきれず」といったたいへん暗い青春を過ごしました。

二種類の苦・・・

 ここからは曽我さんと私の考えていることはちょっとずれてくるかもしれません。
言われていることはよくは分かるような気がいたします。生理的に不可避な苦と、私が自分で作っている苦の違い。まず、理屈上の一つの問題として、「私が自分で作っている苦」の「私」はどこにあるのか、という疑問です。諸法無我ならば、その「私」がどこにもいないはずです。しかし、そうであれば、「私」が「自分で」つくっている苦も、生理的苦とそれほど違わなくなります。この「私」は様々な生理的なファクターが(脳内で)働き合い、作り上げた妄想に過ぎないからです。もしそうであれば、「背中が痛い」という事実と、「背中が痛い」という気づきと、「この背中の痛さを何とかしなければ」という衝動的な思いと、「何とかしたいけど、どうにもならない」という悩み苦しみは、それぞれハッキリと違うものですが、「ここからここまでは致し方ないが、ここから先は滅させましょう」ということはいえなくなるのではないかと思います。

 去年「大法輪閣」から再出版された内山老師の「自己」という本があります。
私がこの本を読んだのはだいぶ前ですから、あまりよく覚えていませんが、最後の方で確かに四聖諦に触れています。苦・執・滅・道という風に、普通は「苦」から出発しやがて「道」によって「苦の滅」がもたされ、「涅槃」に入ると思われていますが、内山老師は確かにそういう平面的な修行過程ではなく、ここに「苦・集」している凡夫の私がいるが、同時に、平行に「滅・道」という天地一杯のもの(仏?)がある、という風に書いています。私がこれを最初に読んだとき、非常に物足りない思いをしたのは今でもよく覚えています。いくら「天地一杯」のなにかが「滅・道」を体得しようが何しようが、それがここで苦しんでいる「小さい私」に伝わらなければ、何の意味があるのだろうか、という風に。

 第一、「天地一杯の自己」「絶対の真実」ましてや「永遠の命」とかなんとかいうのは、曽我さんも言われるように「梵我一如型の思想」です。諸法無我ならば、この「小さい私」が実存しないだけではなく、「天地一杯の何か」も実存しないはずです。あるのは、「縁起」のみ。ただ、いま実践の立場から考えると、「嘘も方便」ではありませんが、やはりそういう「方便」もありかと思っています。哲学的に追求された場合、非常にかっこうわるくて恥ずかしい方便ですが。
 しかし「縁起」も「天地一杯のどうのこうの」も、理屈は全然違いますが、実践面から考えれば、まぁ、どちらでもいいではないかといういい加減な考え方に堕落(?)しています、今の私は。私にもすべての物にも実体はない、しかし(いや:だから)すべては縁起によってつながっている、ぶっつづきの現実である・・・これは禅の「縁起」や「無我」に対する考えだと思いますが、日常実践の中では充分生かして使える考えるのではないかと思います。

 要は、「苦しんでいる何か」が実存しているわけでもなければ、「執着している私」もありません。そして「苦を滅」するものも、「八正道」を歩むものもないのです。ただ、ただ、それでは理屈で終わってしまい何も始まりません。今、「私」が苦るしい、それは「私」が執着しているからです。しかし、それはそれだけの話であって、それ以上で以下でもないという、もっと広い視点から見た世界もあると思います。つまり、この「私」といっている、結局はいくつかのファクターの働き合いによって生み出された幻想に過ぎない物が勝手に苦しんだっていいではないか、という落ち着きです。

 安泰寺ホームページの2002年4月の「帰命」から引用します:

 『「花は愛惜にちり、草は棄嫌におふるのみなり。」
という道元禅師の有名なことばがあります。この言葉は普段、悟り(花)を追い求めるほど悟りは遠く逃げてしまい、煩悩(草)を切り捨てようと思うほど煩悩が深くなる、という意味合いで解釈されます。私はむしろこの言葉を「花が散るのも草が生えてくるのも己の思いと無関係である。物事が己の思う通りにならないのは現実であり、それだけでおしまい。」と読みたいのですが・・・』

 涅槃というものを彼岸で仮定してそれを追い求めれば求めるほど、私が苦しむ。苦しむまいと、この苦しみを滅しようと頑張れば頑張るほど更に苦が増してくる・・・私が言いたいのはそれだけではありません。「苦しみたくない、涅槃を味わいたい」という私の思いくるみを受け入れ、手放さなければならいというのは私の考えです。「受け入れ、手放す」というのは、「それはそれだけのこと、それ以上でも以下でもない」という落ち着きです。一の矢も二の矢もすべて「受け入れ、手放さなければならい」と思います。当然、その実践を続ければ、自動的反応の改変も行われてきます。しかし、完全に停止するかどうか?一時的には当然できますが、ずっと、死ぬまで?いや・・・

凡夫と仏・・・

 の問題に続くわけですが、凡夫が努力して仏になるという話は分かりやすいと言えば分かりやすいですが、現実にはなかなかそううまくいかないため、上座仏教でも大乗仏教でも「一生じゃ無理かも」というようなことになり、やがて「仏まで三阿僧祇劫」という気が遠くなるような時間単位まで出てくるわけです。結局、理屈としては物足りないが、沢木老師などに見られる「凡夫にして仏」、「仏と凡夫は同居」、「凡夫が自己を知りさえすれば、決して凡夫ではない。凡夫の内容は仏なんである。仏も仏ぎりではない。仏の内容は凡夫なんである。仏と凡夫と互い違い、違い互いになっていて、そいつが別のものでない」と言った言葉に深い味わいを感じ、そして自分なりに坐禅の実践を続けている内に、「やはりそうなのだ、そういう表現になるのだ」と納得し、次第に沢木老師や内山老師に対する疑問こそ「滅」してゆきます。もちろん、かれらだって凡夫です。

禅宗への疑問・・・

 私自身、「禅宗への疑問」は多々あります。しかし、上座仏教その他の宗教もしかりですし、今は坐禅に出会ったこと、沢木門下で出家得度を受けたことを本当に幸いだったと思います。上座仏教など、私はあまり知らないので批判など言うべき事はないと思います。10数年前、一回だけ10日ほどのビパッサナー瞑想リトリートに参加し、何冊かの本を読んだだけです。以前は方法こそ違うが、最終的は同じ山のてっぺんにたどり着くのでは、と思っていましたが、あまりにも違いすぎるところがあります、私の理解した限りで言えば。

 何が違う、あるいは疑問かといえば、まずあらゆる物事を観察し「これは苦であり、無常であり、無我である。ゆえに、私や私のものではない」という方法です。突き詰めれば、外界の一切のもの、この体も、この心も、みな私や私のものではないということになります。そして、それらのものへの執着が消え、涅槃を味わえます。ところが、「これは私や私のものではない」と観察する、あの「観察者」はどうなるか、というのが一つの問題。そこを手放さなければ、これこそ一番やっかいな「我執」ではないでしょうか。下手をすれば(そしてそういう風に修行を進めている人たちは実際にいるのです!)哲学者の独我論に陥りかねません。この体をも含めた世界はすべて実存しない。あるのは「観察者」だけだ・・・

 私が子供の時に考えていたのは、まさにそれです:
 「私は何か?」
 「『私は何か?』と問うているものこそ私か?」
 『いや、「『私は何か?』と問うているものこそ私か?」と問うているものこそ私か?』
 「いや・・・」

 観察する行為以外に、私というものがどこにもない。そこで16歳の時に坐禅と出会い、まず発見したのは「この体は『私の体』ではなく、『体そのまま私』」ということでした。そして、それまで一向に見ようとしなかった外界のすべて、結局この体と同様、私のもの、私と関係のあるものも関係のないものも皆、「私のもの」ではなく、「そのまま私」ということに徐々に気づき始めました(そしていまでもそういう意味での気づきの実践を毎日続けています・もちろん、ビパッサナーといういみでの「気づき」ではありません)。

 「私というものはどこにもない」というのではなく、「私でないものは何もない」ということです。

 ですから、凡夫を離れ仏になろうとは、全く思わなくなりました。

 以上、曽我さんへの返事です。私と曽我さんの考え方の違いは、おそらく、二の矢も受け入れるべきかどうか、という点にあります。私は「受け入れるべき」と思いますが、かといって、何をしてもいい、と言っているのでもありません。しかし、このあたりからは単なる「考え方」ではなく、「実践」の問題ですね。

 曽我さんの返事の中でちょっと気になったのは、仏の世界に対して
 「・・・と想像しています」
 「・・・と期待しています」
と言った箇所です。想像や期待ではだめだということは、曽我さんも当然ご存じだと思います(かといって私が仏の世界を見下ろしているわけではありませんよ、いうまでもなく)。

 私こそぶしつけに書いてしまいましたが、あしからず反論してください。
 待っています。

合掌
無方

(「無法」でも結構ですが、本当は「無方」です)
 (曽我注記:このメールの前の私からの返信メールでお名前の漢字を所々間違えておりました。大変失礼致しました。訂正しました。)


ネルケ無方さんから再び  2005,3,4,

曽我逸郎様

 言葉が多すぎるとよく言われますが、いくつかの点を付け加えさせてください。

「梵我一如」について

 曽我さんの考えと私の考えの違いで一番問題になってくるのは、やはり「梵我一如」のことだと思います。

 森があったとします。そこに楢、ブナ、槁、栗、栃、椛などが、生え、大きくなり、実を落とし、やがて枯れてゆき、生滅します。このそれぞれの木々の生滅のほかには「森」というものは、実際、無い。そしてそれぞれの木々も実際、個体として実在しているのではなく、縁起しているだけです。
 しかし、見方によれば、それぞれ縁起によって生滅してゆく木々は、「本当は」、一つの森の永遠の息づかいに過ぎない、という表現も出来ます。
 前者の方(「森なんて、どこにもない!」)は表現としてさっぱりして、気持ちいいかもしれません。後者は(「一つの永遠の森」)好き嫌いがあるでしょう。しかし、表現は違っても、実物は同じではないでしょうか。もちろん、「実物」といっても、なにか物があるわけではなく、現象の世界の移り変わりしかありません。

 私も「み仏のおん命」と言ったような表現はあまりすきではありませんが(一時的にアレルギー反応すらでました)、結局は、「実体のないたくさんの木々が縁起して生滅する」でも、「実体のない大きな森の永遠の息づかい」といってもいいではないか、と思います。もちろん、こういう「実体のない」はずのものがいつの間にかいかにも「実体がある」ように見えるのは問題ですが、これはあくまでも表現上(方便上)の問題ではないでしょうか。

「釈尊と大乗」について

釈尊と大乗の対比についていくつかの点

目的 ・(釈尊:)苦を吹き消すこと・(大乗:)絶対の自由の獲得

「絶対の自由とは、外因から完全に自由という意味であり、100%内因で動くということになる。この考えは、釈尊の無我=縁起の教えに反する。」と曽我さんは仰いますが、自由とは外因よりもまず内因から自由になることではないでしょうか、大乗においても?外因からも内因から自由であれば、それは「苦を吹き消すこと」にも通じると思います。ただ、自由とは、「何々から」の自由だけではなく、それよりも「何々へ」の自由(変な日本語ですが、英語で言えば free from と free to の違いですね)だと思います。です から、内外の苦から自由になるというよりも、内外の苦を自由に受け入れることだと思います。

瞑想のタイプ ・(釈尊:)サマタ+ヴィパッサナー ・(大乗:)サマタのみ?

大乗において、「サマタのみ」ということはないと思います。天台の摩訶止観は「サマタ+ヴィパッサナー」そのものでしょう?それ禅宗がほぼそのまま受け入れたという解釈もあります。現に数息観や随息観は行じれられています。私が思うには、道元禅師は天台の摩訶止観を否定していますが、決して「観を捨て止のみ取る」というのではなく、止と観がまだ分かれていなかった「釈尊の本来の坐禅」に戻そうとしていたと思います。もちろん、釈尊の坐禅が道元禅師の考えていたそれであったかどうかは、別問題です(しかし、私はそうだと思います。

知のタイプ ・(釈尊:)主客のある分別知?・(大乗:)主客対消滅(主客未分)の無分別知

 この点は大事だと思います。曽我さんはあの釈尊についての「?」を今、どう考えられていますか。私は、すべての点について、「釈尊と大乗」ではなく「(パリ教典に見られる)初期仏教と大乗」というふうに解釈したいのですが、前のメールでも書いていたように、ヴィパッサナーですとどうしても「観察者」と「観察の対象」が残るはずです。
 大乗については、「無分別知」は「無分別の知」であり、けっして「無分別・無知」(居眠り・ポッケーとしていること)であってはいけないと言うことです。「無分別の知」は、無分別ですから、分別を否定したものではなく、分別をも無分別を含んでいます。それで初めて「無分別の知」といえます。

修行方法 ・(釈尊:)「私」というそのつどの反応の観察 ・(大乗:)計らい・分別の停止

「計らい・分別の停止」とありますが、「手放し」と言った方がいいと思います。上で申し上げたとおり、分別の否定ではありません。自由で言えば、分別「から」の自由でもあれば、「自由な分別」 でもあります。禅修行に限って言えば、たえず物事を分別しなければ、毎日を修行として生きることは出来ません。

考え方 ・(釈尊:)無我=縁起を知って、執着に引き摺られることのない 新たな反応パターンを築く。・(大乗:)客塵(執着・煩悩)を滅尽して 純粋な本来のあり方を回復する。

 「客塵(執着・煩悩)を滅尽して 」という表現には問題があると思います。禅で言えば五祖の元で六祖が言わんとしていったのは、本来滅尽すべき客塵がないということです。道元禅師で言えば、「心塵脱落」ではけっしてなく「身心脱落」ですね。ただ、ありのままでいいというと、これもまた違います。「ありのまま」については、下で書きます。

自己の捉え方 ・(釈尊:)自動的反応を起こし続ける多くのサブシステムで構成されている。自己の内側での反応に関心がある。・(大乗:) 内部構造のない単一単位体。 環境の中の点。 環境の中での自己のあり方に関心がある。

 どうして「内部構造のない単一単位体」でしょうか。唯識ほど自己の内部構造を問題にした仏教はないと思いますが。今でもすべての大乗仏教に唯識の影響は強いと思います。禅も含めて。「環境の中の点。 環境の中での自己のあり方に関心がある」はいえていると思いますが、どうしてそうなるかというと、そもそも「環境」と「自己」の境目が不確かだからです。いわゆる「自他一如」。かといって、自己の内部は問題外、とはいえないと思います。

外の自然に対して・(釈尊:)無関心・(大乗:)肯定・賛美  自然との一体化

 「一体化」というより、やはり「そもそも自分と自然を分かち離せることはできない」ということだと思います。逆に言えば、「自己」とは「観察者」という「無の一点」ではなく、無限無量です。

 今、広松渉さんの「身心問題」という本を読んでいますが、最初の辺に(36ページ)に意識主体についておもしろい考察があります。意識主体をいくら探しても、意識されるのは「意識の客体」でしかあり得ないから、意識主体に当たることは出来ない。強いて言えば、「自己意識が自己意識を意識する」が、それなら「心と体を区別せずに、丸ごとの人間が自己意識をもつ」ともいえ、さらにすすんで「世界が自己意識をもつ」といっています。この考察をこれからどう発展させるか、まだ本を全部読んでいませんので分かりませんが、ここには「上座仏教」と「大乗仏教」の「自己」の考え方が非常によく表現されているような気がいたします。

ありのままについて

 この間の「花」と「草」で言わんとしていたことですが、花が落ちても惜しんではいけない、草が生えてきても「いや!」と思ってはいけない、というのが大乗であれば、なるほど自己の内部を問題にしない「環境をありのままに受け入れなさい」という協議になりますが、私は違うと思います。なぜならば、「ありのまま」のなかに「ありのままの状態ではいけない!」という自身の声も含まれているからです。つまり、「ありのままぐるめ」の「ありのままではなく」、「ありのままではだめだ」と内在しているありのままだからです。このパラドックスから修行のダイナミックさが出てきます。

 この間は「(行政問題などに)大いに取り組んで大いに苦しんでください」とか書きましたが、あれは決して皮肉ではなく、「第二の矢も喜んで受け入れてください」ということでした。第二の矢を放つべき出なければ、行政などに関われないからです。だからこそ「頭が下がる」とも言いました。


曽我から ネルケ無方さんへ  2005,3,5,

拝啓

 のろのろと書いているうちに、またメールを頂戴してしまいました。対応が遅くて申し訳ありません。
 本当は、昨日頂いたメールもふまえたお返事をお出しすべきでしょうが、2月28日に頂いたメールへの返事をほとんど書き終えておりましたので、とりあえずそれをそのままお出しします。昨日のメールへのお返事はまたしばらくお時間を下さい。錯綜させてしまって済みません。

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> 理屈上の一つの問題として、「私が自分で作っている苦」の「私」どこにあるのか

 確かに理屈で考えるとややこしくなりますね。ただ、私が思っているのは、例えば、いらいらして誰かに当たり散らして眉に皺を寄せているような場合です。怒っている時は、自分が怒っていることになかなか気付かない。でも、気付くことができれば、人にも自分にも苦を与えていることが分かる。そうすれば怒りは随分おさまります。理屈の上ではなくて、実際上の事として、人と自分に苦(第二の矢)を与えることは、停止することができると思います。勿論、凡夫ですから、いつも完璧にという訳にはまったくいきませんが、、。

> 諸法無我ならば、その「私」がどこにもいないはず

 私の無我の解釈は、「実体的なものとして存在していない」というものです。実体的存在ではなく、色身という場において、様々に繰り返される縁によるそのつどの反応・現象。それが私だと考えています。怒ったり、考えたり、笑ったり、退屈したり、腹をすかしたり、、、。しかも、ある瞬間の私という反応はひとつでさせなく、腹をすかしながら、退屈して、ぼーっと考え事をしつつ、鼻くそをほじくる、という具合に、いくつもの反応が立ち上がったり、消えたりしている。それらの互いに脈絡があったりなかったりする複数の反応が重なり合った現象が、私です。
 そして、私という反応のひとつの大きな全体的傾向、パターンとして、自分という現象を守り育てようとする我執があります。それは、あらゆる生命に共通の本性に由来し、それが人類が進化の果てに獲得した自己意識・自己の実体視という反応によって格段に強化された反応です。この我執の反応は、自分という反応を守り育て拡大することに目先のスパンでは貢献していますが、一方で第二の矢も強化・増大させ、凡夫は自分を苦しめ、互いに苦しめ合っています。
 これら一切の現象は、実体的な「私」が行っているのではなく、縁による現象が縁となって別の現象を引き起こし、様々な縁が重なりあり絡みあって起こっていると考えています。

> 天地一杯。 すべては縁起によってつながっている、ぶっつづきの現実

 私は、テーラワーダの徒ではありません。釈尊の教えに学びたいと思っているだけです。大乗同様に現在のテーラワーダも、釈尊から2500年の時を経て、それなりの変質をしていると考えています。そのため、テーラワーダ系の方からはご批判を頂いています。

 そのような立場からの印象ですが、大乗は、自分を見ることよりも、外の世界・自然を見ることに傾いているように感じます。
 かく言う私自身、「あたりまえ、、般若経」では、外に自分を開いて、自分が世界の一切の現象とともに現象していること(共世界生成)を感取することが、無我を知り、縁起を知ることだと思っていました。しかし、この考え方では、自分の内に縁起のプロセスを見ることがなく、ビリヤードの玉のごとく、あるいは風に舞い水に流れる落ち葉のごとくに、縁のままに世界を生々流転していく一個の持続的な自分というイメージが残ってしまうのではないかと思います。

 一方、パーリ経典には、自然についての記述はほとんど見られません。この点は、大乗が山川草木を称えるのとは好対照です。釈尊は、自分という反応がどのようなプロセスで発現してくるのか、その過程をひたすら詳細に観察・分析されて、無常=無我=縁起という、それまで誰も気づかなかった前代未聞の発見をされたのだと思います。

> 「苦を滅」するものも、「八正道」を歩むものもない

 確かに実体として存在するものはありません。しかし、色身という場所で起こった反応は、色身に痕跡(縁)を残し、そこで起こるそれ以降の反応に影響(縁)を与えます。シナプスの可塑性などによって、、。
 詳しく考えると複雑なのではしょりますが、人間は、縁起の現象であるけれども、縁によって決定論的に決められた反応に従うだけではなく、経験の蓄積によって反応に一定の幅を持ち、その幅の中でひとつの反応を選択できる主体性を持っています。勿論、その主体性は、アートマンとかホムンクルスによるのではなく、記憶の参照とフィードバック回路によってシミュレーションを繰り返す反応によって可能になっていると考えます。そのような高次の反応プロセスによって主体的な反応が可能になっている。そのおかげで執着・欲望を途方もなく拡張することもある一方で、発心して仏道に励むことも可能になったのだと思います。

 例えば、戒は、自分という反応にいつも気をつけて、怒ったり怠けたり、良くない反応をしようとした or している時に、それを停止することですが、考えてみるとこの反応は不思議です。反応の連鎖の中の高次な反応が低次で基本的な反応の反応パターンによい癖をつけようとしています。言ってみれば、城の塔の上から足元の基礎を改築するようなものです。
 改めて考えると、このように大変不思議なことだと気付きますが、我々は、実は毎日こういう努力をしています。朝、もう少し布団の中にいたいけれど、頑張って起きるとか、座禅するのは面倒だけれど、何度か坐っている内にそれほどつらくなくなるとか、、。このように、自分という反応を整え、よい癖をつけようとすることは可能で、自ら苦を作り出すことは止めようと努め、八正道や三学に励もうとする反応に自分を導くことは可能だと考えます。勿論たやすくはありません。しかし、まさにこれは無方さんの毎日の生活であり、努力が可能なことは無方さんが一番よく御存知だと思います。

> 仏と凡夫は同居 凡夫の内容は仏 仏の内容は凡夫

 前後を知らないまま、無方さんのご紹介を読んだだけでこんなことを書くのは失礼かもしれませんが、このように言われると、仏とは、凡夫とは、どういう事を言っているのか、分からなくなります。仏・凡夫という言葉の意味を解体・解消して掻き混ぜておられるとしか思えず、積極的なメッセージがよく理解できません。
 「仏とは・・・で、凡夫は・・・で、それが同居している、実は同じことだ」とか言われれば、なんらかのイメージを喚起できるかもしれませんが、仏と凡夫をただイコールで結ばれたのでは、「黒=白」と同じで、?です。

 我々凡夫は、自分ばかりではなく人にも苦を与えています。そうでありながら、人の苦に対して感受性を持たないかのような人もいます。感じながら、それを無意識の内に押し殺しているのかもしれませんが、、。かく言う私自身が、時により、相手により、その人の苦に不感症なこともきっとありますが、、。
 ともあれ、人に苦を与えながら、そのことを気にせずにおれるなら、その人は(勿論私も)仏ではあり得ないと思います。凡夫と仏とは、この一点だけでも違っていると思います。

> 「これは私や私のものではない」と観察する、あの「観察者」はどうなるか (ヴィパッサナについて)

 この問題意識も、無方さんと私に共通するものだと思います。大変よく分かります。

 「自分を知るには、対象として見られた自己をいくら分析しても仕方がない。それは、ピンで留められた蝶の標本のようなものだ。生きて飛んでいる蝶をそのままに見なければならない。しかし、対象化された自己(ノエマNoema自己)は、けして今ここで働いている当の主体の自己(ノエシスNoesis)ではない。ノエシスをこそ見なければならないのに、目を向ける度にノエシスはノエマ自己に転じ、真のノエシスは無限に後へ逃げて行く。どうすればノエシスを知ることができるのか?」

 このジレンマの中で得たのが、対象化を止めればいいのではないか、という思いつきです。伝統的な言い方なら「主客未分」のことかと思います。
 「対象化するからノエマになる。対象化を止める。意識の指向性を停止する。そうすれば、対象として何一つ切り出されることなく、世界の全体が、自分も含めて、自他の区別なく一挙に顕わになる筈だ。」
 そのように考えて、学生時代は臨済宗のお寺で無念無想の禅を目指したりもしました。
 実際短時間であれば意識の指向性が停止することもあったと思います。しかし、それは単にしばらく自分という反応が停止した状態で、熟睡、全身麻酔と同じ、醒めた後に何かが変わるわけではない。

 そういう行き詰まった状態で、就職したこともあって、禅からは遠ざかってしまいました。ただし本による仏教の勉強は続けており、禅から、インド大乗(中観)へ、釈尊へと、段々と遡っているうちにヴィパッサナを知りました。

 まだ3回ほどの経験しかありませんが、私のヴィパッサナの理解は、「観察対象のある瞑想」です。観察の対象は自分という現象。自分という現象の一部分の現象している様をリアルタイムで真近に仔細に観察すること。例えばテレビで、ムカデやヒルの生態がクローズアップで映し出されると、体節の微妙な動きや体表のてかりの変化に、思わず引き込まれ、背中をゾクゾクさせながら見入ってしまいます。あのようなイメージで自分という現象の変化する様を集中して生々しく観察することで、自分が無常にして無我なる縁起の現象であることが納得できるのではないかと考えています。

 見る自分と見られる自分の問題については、確かに形式論理的には先に述べたジレンマがあるのでしょうが、仏教の実践上の問題としては、ともかく自分が無常にして無我なる縁起の現象であったと腹に落ちて納得できればいい。幽霊が脚下照顧して、自分に足がないことに気付き、自分が幽霊であったと知るように(日本の幽霊には足がないことになっています)、ノエシスがノエマ自己の生成変化をリアルタイムで生々しく感じとって、無常=無我=縁起を自分の事として了解することはあり得るのではないかと思います。ブッダダーサ比丘は、「ヴィパッサナは、釈尊の方法ではなく、後世開発されたものだ」と言っています。そのことも意識しつつ、しばらくは「定における自己観察」の可能性を追求してみたいと思っています。

 私のこのヴィパッサナーの理解は、ヴィパッサナの指導をしておられる方からは、おそらく「そんなのではまったくダメだ」と言われるでしょう。ヴィパッサナではないのかもしれません。学生時代の禅も、勝手な思い込みで行き詰まったのだと思います。

 なんにつけ、私の仏教理解は、まだまだ試行錯誤の実験段階です。仮説から推察していることについては、「期待する」とか「想像する」としか言うことができません。そのうち確認ができて、仮説に自信を深めるのか、仮説を修正or放棄せねばならないのか。ともかく、仮説を検証・深化させながら、すこしずつ釈尊のお考えに近づいて行きたいと考えております。

 そういう訳ですので、仮説を揺るがす厳しいご批判を賜りたく、今後とも宜しくご協力頂ければ幸甚です。

                            敬具
ネルケ無方様
        2005、3、5、
                          曽我逸郎

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