ネルケ無方さん 凡夫と仏 慈悲 (続き) 2005,3,6,

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曽我逸郎様

 ご返信、ありがとうございました。
 急かせているようでしたら、申し訳ありません。すぐ返事を出してしまうのは、今ならゆっくりコンピュータの画面に向かっていられるからです。豪雪の間、家族は嫁の実家へ逃亡し、寺での作務もありません。しかし、10日にNHK出演<曽我注記:3月11日(金)12:20〜 NHK「お昼ですよ」に出演されます。>のために東京に出かけてから、22日まで大阪で托鉢し、22日に家族も連れて寺に帰ってから次の冬まではなかなか理屈をこねる暇もなくなってしまいますので、私としては「今の内」ですが、どうぞ急がず焦らず対応してください。ちなみに、10日〜22日の間はこのアカウントではなく、ホームページからでもアクセスできる ***@***.co.jp へ返事をいただければ、大阪でも見ることが出来ます。

 まず、凡夫と仏の問題から入りたいと思います。

 『「仏とは・・・で、凡夫は・・・で、それが同居している、実は同じことだ」とか言われれば、なんらかのイメージを喚起できるかもしれませんが、仏と凡夫をただイコールで結ばれたのでは、「黒=白」と同じで、?です。』

 これは申し訳ありませんでした。言葉の壁もありますが、この点はもう少し説明すればハッキリさせることは出来ると思います。

 幽霊の照顧脚下ではありませんが、「私は凡夫だ」という気づきがありますよね。この時、気づかれる私は「凡夫」ですが、気づく私は「仏」です。「本当のバカは自分をバカだと思わない」と同じ道理で、丸ごとの凡夫なら「私は凡夫」という気づきも出来ないと思います。仏だからこそ、自分の凡夫性が見えてきます。そして、それを何とかしようと思ったりもします。ですから、修行が出来るのは、私が仏になるためではなく、そもそも仏であったからこそ出来る、と言われたりもします。そういう意味では、凡夫と仏は決して「同じ物」ではなく、英語で言う「two sides of one coin」ですね。

 先ほどの「私は凡夫」という気づきの場合は「凡夫」はいわば「内なら仏の側から見た自分」でしたが、その逆もあります。凡夫の私がこの「内なる仏」に気づき、凡夫性を改め、凡夫を止め、仏に向かおうということがあります。曽我さんもメールの中で「第二の矢」を与えることを停止しようとする自分、我執の反応の改変、戒などについて書かれますが、これはいずれもこの「凡夫が内なる仏に気づいて、それに向かおうとする」ことではないかと思います。表現こそ曽我さんとはだいぶ違いますが、実践上は似たようなことになると思います(毎日の修行生活)。内山老師は坐禅を「誓願と懺悔」という二行で形容していますが、この「誓願と懺悔」も私は当初非常に疑問に思っていたコンセプトの一つです。「坐禅って、無念無想の境地ではないの!?」というふうに。しかし「誓願と懺悔」とは、実はこの「凡夫と仏」のからくりを表していると思います。凡夫側から仏に気づいた場合、それは「誓願」になり、仏側から凡夫に気づいた場合、「懺悔」として現れます。「凡夫にして仏」「凡夫と仏は同居」とは、簡単に言えばこういうことではないかと思います。

 しかし、こんな程度の「仏」では曽我さんは物足りないかもしれません。少なくとも、15年前の私は非常に物足りないと思いました。「一発悟りを開いて、今までの凡夫を完全に止め、後は仏ぐるめの仏になることだ」と思っていたからです。私は今この「仏ぐるめの仏」は、理想としてはあってもいいと思いますが、現実にはあり得ないと思います。あったとしたら、茂木健一郎さんがどこかで書いているように、「悟りとは脳の中のネオ・フィリアの麻痺では?」という疑問が出てきます。人間が完全に仏になれるのは、植物状態になった時ではないか、という疑問です。もちろん、曽我さんが「期待・想像」している仏は決して植物人間ではないはずです。
 私がなぜ「完全凡夫でなくなった仏ぐるめの仏」を信じないのかと問われれば、まず一つの理由として、そういう「仏」に会ったことがないからです。たまたま今まであっていないだけかもしれませんが、どうも、どんなに深くジャングルの中に分け入っても、高い山を登って探しても、見つからない気がいたします。見つかるとしたら、「私は凡夫」という内なるささやかな「仏の声」か、あるいは大乗が想定している、一個人を越えた「永遠の仏」しかないと思います。しかし、後者は「一個人」を越えていますから、会うこと出来ません。前者は「凡夫にして仏」の自分自身です。

 私が思うには、そんな「完全な仏」なんて、なくてもいいではないか、ということです。前のメールでは「それはそれであって、それ以上でも以下でもない」というようなことを書きましたが、曽我さんの「あたりまえを方便とする」という表現を借りれば、「私は凡夫」という当たり前のことを当たり前に見ているのが私という仏であり、そういう仏で十分ではないかと思います。もちろん、「あたりまえ」といっても、先日の「ありのまま」同様、それが「それでいい」というのではなく、そこから「誓願と懺悔」が出てきますし、凡夫を内在している仏のダイナミックな修行が出てこなければ単なる屁理屈です(そうならないために、毎日の生活を仏道と心得ています)。

 今日はこの「凡夫と仏」の問題に絞りたいと思います。ひょっとしたら、曽我さんが考えている実践と私のそれは、それほどかけ離れていないかもしれません。表現こそだいぶ違いますが。ただ、ひとつの違いとして主張したいのは、「凡夫はどこまでも仏を目指して精進するが、仏はいつまでも凡夫を包んで捨てない」ということです。凡夫を完全に捨てれるなら捨てるべきだと思いますが、捨てれない物を「あたりまえ」として受け入れるのを「仏」だと思います。ですから、以前から繰り返しているよう、「花と草」のみではなく、それに対する私の「愛惜・棄嫌」という「第二の矢」も「それのみなり(それはそれであたりまえ、それ以上でも以下でもない)」として受け入れるべきだと思います。受け入れながら、「誓願」をたて、「懺悔」しながら修行すべきだと思います。

 最初に「凡夫と仏の問題から入りたいと思います」と書きましたが、「凡夫と仏の問題」で終始してしまいました。無理に話題を広げない方がいいかもしれないと思い、今日はここで終わります。ご返事は決して急ぎません。

合掌 無方


ネルケ無方さんから追伸 慈悲について 2005,3,6,

またまた追伸です・・・すみません。

先の「凡夫と仏」の問題で、曽我さんが最近定義されている「慈悲」の問題を思い出しました。慈悲はどこから出てくるのか、仏教の中から出てくるのか、あるいはそもそも自分の中に備わっているのか、といった問題。

「凡夫と仏」の問題に関連して言えば、我々は皆本来的に「仏(ブッダ=覚者=自覚を持つもの)」として、慈悲も備わっていると考えますが(これを「仏側の慈悲」と呼んでもいいではないかと思います)、それよりもはるかに強い(というか、表に出ているというか)のは、凡夫の自分が仏に絶えず包まれ抱かれていることに気づいたときに、自ずとわいてくる感謝の気持ちから出てくる慈悲だと思います。こちらは「凡夫側の慈悲」ですが、これを目ざましてくれるのは、あるいは仏教の修行でもあり、あるいはふっとでてきた「生かされている喜び」でもあり、仏教や宗教に限ったものではないでしょうが、生まれつきのものでもないと思います。

慈悲と凡夫と仏の問題、時間のある時でよろしいですから、いかがでしょうか。

合掌 無方


ネルケ無方さんから オウムと大乗 梵我一如 駒大「批判仏教」 2005,3,7,

ご返事も待たず、またまたのメールをごめんください。

3月4日に曽我さんの釈尊と大乗の比較について意見を述べましたが、

「叩き台として単純にするため多様性はすべて捨象した」

という文章が目に入らず、余計なことを書いたかもしれません。しかし、

「「大乗の一般的傾向」というより現代日本人の(つまりは、これまでの私の)仏教観としたほうがよかったかも知れない」

とありますが、「一般的傾向」とは何かがよく分かりませんので、ひょっとしたら本当に「これまでの曽我さんの仏教観」への自己批判に過ぎないかもしれません。この(自己)批判の言わんとしているところは少しずつ分かってきた気がいたしますが、それがそのまま現にある大乗仏教に当てはまるとは到底思えません。

先ほど臨済宗の禅文化研究所のHP(http://www.zenbunka.or.jp)でこういう文書を見つけました。

「彼らの言う「解脱」とは、自己を超えてその背後に何か客観的な存在として広がっている神秘的世界を体験してその神秘的能力を獲得することを意味している。かかる「解脱」観に根本的に欠落しているのは、そのような神秘的世界をあこがれ求める自己への反省の眼差しである。」

これは曽我さんが大乗(あるいはこれまでの自分?)に対する批判にも通用するような気がいたします。ところが、これは臨済宗からオウム真理教への批判です。だからといって、この批判がそのまま禅宗にも当てはまらない保証はありませんけど・・・。
そして、続きは、ちょっと長いですが

「彼らの眼差しはつねに自己の先へ先へと注がれ、その事によって、その眼差し自身が自己の業縛そのものであることに気づかず、自己の描きだす妄想と幻想の中へ迷いこむ。人間という存在はこれほどまでに業縛の深い我執の存在である。彼らはこの事実に気づいていない。彼らは、近代ヒュウマニズムという人間の業縛を破り超えようとして、別の人間的業縛の世界に深く囚われて行ったと言える。彼らが、自己の背後に諸種の神秘的超越世界を描きだし、それを体験しつくして絶大な神秘的能力をえようと努めれば努めるだけ、彼らは自己をひきずり人間的業縛をひきずっている。かつて人類はこのようなオカルト的な呪術宗教の段階を経験してきた。」

曽我さんが「梵我一如」の思想を嫌う理由は、この辺でしょうか?
続きはちょっと驚きです。

「そして、この人間的な業縛の深さに自身が気づいたとき、その時に、人類は真に宗教と言いうる世界に入ったのである。それは、人間として生きるかぎり我執の世界にさまよわざるをえない己れの在りように悲しみ、その悲しみの中に開かれてきた“祈り”の世界であった。“祈り”は、己れの我執を捨てさって、一切をつつみ生かす“永遠の生命”の許に諸共に生かされたいという人間の切実な願いの表明である。この時に始めて人類は、人間的な業縛をつつみ超える真に超越的なるものに出会ったのである。宗教の世界とは、こういう“祈り”によって開かれてきた世界のことである。
 しかし、「オウム真理教」には、この“祈り”がなく、人間の人間としての悲しみをつつみ抱く世界がない。彼らは「四弘誓願」の世界のあることを知らないのである。この事は、麻原には自らが説くマハームドラーの実践体験が根本的に欠落しているということによって象徴的に示されている。「オウム教団」は、現代社会において何らかの意味で“人間であること”の息ぐるしさを感じた者の集団でありながら、自己のその苦悩を“人間であること”の苦悩として受けとめ、その事によって始めて人間を人間としてつつみ抱く世界が開かれてくることを知らない集団である。彼らは超能力をえて“息苦しさ”を脱し“人間であること”を否定しようとする。」

なにが驚きかと言えば、臨済宗から「祈り」と「永遠の命」いう言葉です。道元禅はもとより、臨済宗でも単なる「無念無想」への盲信ではないと思います。内山老師のように「誓願」と「懺悔」の宗教だと言ってもいいと思います。
ただ、繰り返して申し上げているように、

「人間的な業縛をつつみ超える真に超越的」
「人間の人間としての悲しみをつつみ抱く世界」

といった「梵我一如」の臭いのする方便は使っています。それがいけないなら、どうしていけないのか、一度ハッキリと教えていただければ幸いです。

駒大の批判仏教にだいぶ影響を受けておられるようですが、私は駒大について先輩のしか知りませんので、まじめな追求のついでの世間話のつもりで聞いていただければ、と思います。彼ら駒大の批判仏教学者たちは、曹洞宗に雇われながら、長い間「学問ではダメだ!本を読む暇があったら坐禅でもしろ!」といわれてきました。しかし、そういう「坊主ども」だって、ろくには坐禅しないし、坐禅しても居眠りをこいでいるのはまた事実です。その反発として「批判仏教」が出てきたというのは言い過ぎかもしれませんが、少なくとも「批判仏教」の背景にこういった事実もあると思います。また、駒大の仏教学部の卒業生の話によれば、駒大は野球や駅伝はともかくとして、仏教が学べる所ではないそうです。

悪しからず・・・合掌 無方


曽我からネルケ無方さんへ 2005,3,9,

拝啓

 遅くなりました。3月4日から7日に頂いた4通のメールへの返信をお送りします。

1) 梵我一如 大きな森の息づかい

 世界の全体が、どこを取っても、無常にして無我なる縁起の現象であり、現象が現象に縁を与えて様々な現象が生成流転していることは、事実だと思います。釈尊の教えに反するものでもありません。
 ただ、自分の無常=無我=縁起を知る方法として釈尊が説かれたのは、世界の縁起に目を向けることではなく、自分がそのつど現象するそのプロセスを観察することだったのではないかと思っています。

 梵我一如思想、自分を大きな森の息づかいとして捉える事は、自分を「本来良きもの」として考えることに展開しやすいのではないでしょうか。「本来良きもの」であるのに、現実には悪がある。その悪は、本来的ではないもの、客塵、余計な計らい。人為的な計らいを停止すれば、「本来」の良さに立ち戻ることができる。これが梵我一如型の考えの一典型だと思います。

 しかし、私は、我々は本来的に執着の現象なのだと思います。無方さんも、子供の喧嘩をご覧になって、「子供が無垢だなんて嘘だ、子供だって我侭で意地悪だ」ということをどこかに書いておられましたね。生命発生のそもそもの原点からずっと一貫して、我々は執着の現象だった。自分という反応を継続し拡大しようとする反応です。その挙句、進化の果てに、自分を対象化し、実体視する我執の反応を追加した。その反応は、目先の状況に対応するためには有利に働いたけれど、そのために自ら苦を作るようになり、苦を自覚することもできるようになった。そして、ついに釈尊が、苦を作る原因は自分を実体視して守り育てようとする間違いにあると気付かれた。
 この間違い、自分の実体視は、自然な反応なのです。自然な反応の間違いを正すために、釈尊は、計らいを極めることを教えられました。いわば不自然な努力です。戒定慧の三学。八正道。不自然な努力を積み重ねることで、自然な間違いに気付くことができる。これが釈尊の教えだと思います。

2) 釈尊と大乗の比較 「絶対の自由」

 確かに、「絶対の自由」とは、「内因からの自由」でもあり、「執着からの自由」である、と考えることはできます。ただ、この言い方では、私の感覚では、「自由になった(なる)何か」をイメージさせてしまうように感じます。内因が客塵や煩悩として理解され、それを落し去ることで、明鏡のようにピュアな自分になれるというような、、。真意はともかくとして、そういう誤解をする人を生み出しかねないという気がします。

3) サマタとヴィパッサナー

 「大乗にはサマタしかない」と明言できるほどの研究をしたわけではありません。僅かの経験に基づく印象です。それ故、”?”をつけました。
 僅かの経験というのは、主に学生時代の臨済宗のお寺での座禅経験です。そこで教わった、というより、私がひとりで勝手に思い込んでいただけかもしれませんが、数息観から定を深めて何も考えない無念無想、主客未分を目指すのが座禅だと考えていました。
 数息観には「観」の字があり、元々はヴィパッサナーだったのかもしれませんが、少なくとも私の経験では、観察ではなく、ただ定を深める手段だったように思います。私の経験不足、勉強不足があるのかも知れませんが、、。

 対象を明確に設定して観察することがあまり行われないことと、言葉によって学び考えることが毛嫌いされることとは、「仏教」の構造上、通底しているような気がします。
 そう考えると、インドやチベットの大乗では、言葉で学び考える傾向が強く残っていますから、サマタ偏重は、大乗全体と言うより、中国・日本の「仏教」だけの特色なのかもしれません。

4) 分別知と無分別知

 私は、無分別知は、「兎の角」と同じように、言語表現としてのみ可能であるけれど、現実にはありえないものだと思っています。意識の指向性停止による一時的な主客対消滅はあり得るが、それによってなにかの「知」がもたらされる訳ではない。またクオリアと言われるような、純粋経験の言語化不能の生々しさも、「知」と呼べるようなものではないでしょうし、釈尊の教えはそんなものではないと思います。

 釈尊の教えは、言語化可能なものだと思います。私の仮説で言語化すれば、、

 「あなたの執着するものは、あなた自身を筆頭に、すべて無常にして無我なる縁起の現象である。にもかかわらず、あなたは、それらを自分にとって変わらぬ価値を持った永遠の存在として捉え、それらに執着している。それらが、何よりあなた自身が、無常にして無我なる縁起の現象であることを見極めて納得せよ。そうすれば、執着は停止し、自ら苦を作ることはなくなる。」

 、、、となります。

 しかし、言語化可能であることと、言葉だけで分かるかどうかとは、別の問題です。ちょうど、「人は皆死ぬ」ということを誰もが知っているけれど、自分の死を切実に実感することはなかなかできないように、、。
 言葉で理解することは、八正道の第一、正見であり、いわば戯論のレベルです。それを自分のこととして、腑に落ちて納得するために、残りの七つの正道や戒定慧の三学が必要なのだと思います。「自分のこととして腑に落ちて了解すること」は、単なる分別知ではありませんが、いわゆる無分別知でもないと思います。

 観察者と観察対象のジレンマ(自分という現象を対象化して観察しても、それは対象化された自分であって、観察する主体の自分は観察できない)については、先のメールに書きましたとおり、確かに形式論理上はジレンマがあります。しかし、仏教は論理学ではないので、自分が現象している様を定において観察することで、自分が無常にして無我なる縁起の現象であることを実感を持って納得できるのであれば、それで十分だと思います。

 <分別をも無分別を含んだ知>、<分別の否定ではなく、分別「から」の自由、「自由な分別」 >、<毎日を修行として生きるために必要な分別>といった言葉から、無方さんの考えておられる「分別・無分別」を理解することは、残念ながら私には困難でした。

5) 外の自然か、内なるプロセスか

 本当は外とか内とかと分けることは、正しくないのでしょう。超越者の視点(そんなものがあるとすれば)から見れば、縁起の現象が重なり合って、さまざまな現象が起こっている。低次の現象がまとまって高次の現象となる。現象は無限の層をつくり、入れ子となり、ダイナミックに変化している。その中のあるレベルで起こっているのが私達でしょうが、そのレベルに線を引いて、上か下かを論じても意味はない。上も下も、等しく無我なる縁起の現象です。

 しかし、超越者ならぬ我々にとっては、我々より上の大自然(外)と下(内)のサブシステムとは、やはり異なります。
 確かに外の自然の変化から縁起を学ぶことはできますし、それがかつて私自身が「あたりまえ、、般若経」に書いた方法です。しかし、自然は我々にとって偉大な肯定すべきものとして映り、そこに縁起する現象として自分を捉えると、「本来よきもの」として自分を肯定することになりやすいと感じます。(衆生本来仏なり)
 それに対して、釈尊が説かれた方法は、自分という現象が起ってくるプロセスを観察することによって、自分が無常にして無我なる縁起の現象であると、価値評価を含まない事実として納得することだったと思います。内なる縁起のプロセスを見つめると、自分は執着の反応であることが見えてくるのだと思います。

6) ありのまま

 > 「ありのまま」のなかに「ありのままの状態ではいけない!」という自身の声も含まれている
 > 「ありのままではだめだ」と内在しているありのまま

 このような言葉で、無方さんは、煩悩や怠け心まで全肯定してしまうのを避け、修行や努力を可能にしようとされていると思います。でも、もしそうなら、そんなややこしい言い方をしなくても、「ありのままではいけない。あるべき自分に向けて努力しよう」と言えば、それでいいのではないでしょうか?

7) 凡夫と仏

 私も、「この人こそ仏だ」と思える人にはこれまで出会ったことはありません。今、地球上に仏がいる可能性は、地球外生命の可能性よりはるかに低いような気がします。
 それでもしかし、仏というあり方が絶対に不可能だと思えるまでは、どれほど困難であれ、可能性はあると思いたい。

 凡夫にも勿論、弱い部分ダメな部分があるのと同時に、やさしさなどのよい部分、努力し向上しようとする一面があります。そのお蔭で、執着に引き摺られ悪い反応を繰り返しながらも、「これではいけない」と自分を何とかしようと悪戦苦闘を続けるわけです。

 「死を完成するまでこういう努力を続けること。坂道に終わりはない。いくら登っても果てしない先まで続いている。もしそうなら、無限の中で、自分がどういう高さにいるのか問うても意味はない。今より少しでも登り続けること。それだけが私達のあるべき姿ではないか、、。 y座標の値より、接線の傾きこそが重要だ。」
 こんな風に考えたこともあります。しかし、これでは、三学の戒だけではないでしょうか? 定によって自分の反応に早く気付けるようになるから、定は戒の役に立つ一面もあるでしょう。戒のための定、、。しかし、そうすると、釈尊の教えは、畢竟戒なのか? 慧はどうなる?

 私は、自分が、釈尊の教え(無常=無我=縁起)を戯論のレベルでしか理解できていないという自覚を持っています。執着の自動的反応と時々の向上心の間で右往左往する凡夫です。
 しかし、ゴッホの描く糸杉のように、世界は燃え立つように現象しており、その中で私も燃え立ち、刻々と死につつある、そのようにはっきりと具体的に感じられるようになった時、私はどうなるのか? 今のままではないでしょう。ひょっとしたら、それが仏ではないか、おそらく、多分、、。

8) 慈悲

 慈悲については、小論「慈悲は仏教によって生み出されるのではない?」に書いたとおりです。極簡単にまとめておきます。

 慈悲喜は、執着と同様に凡夫が元々もっている自然な自動的反応である。しかし、凡夫においては、慈悲喜より執着の方が圧倒的に強力だ。慈悲喜は、執着の許す範囲でしか働かない。
 釈尊の教えに従って、執着の反応を弱めて行くと、慈悲喜は、執着による制約から解放され、徐々に活動の幅を広げて行く。
 慈悲喜と執着は、一応反対の反応だが、凡夫においては、両者が一体化することも多い。執着が慈悲喜を隠れ蓑に使うこともある。また、慈悲喜が、人に苦をもたらす者への怒り、憎しみに転じることもしばしば目にする。このような慈悲喜と執着が一体化した反応は、単純な執着の反応をはるかに超えた大きな苦を生み出しかねない。 無常=無我=縁起を完全に了解できて、執着の反応を根本的になくすことができれば、苦を作り出している者も縁起の結果苦を生み自らも苦しんでいることが分かり、苦を作る者にも慈悲の気持ちで対することができる。感情的・自動的反応をせず、よく見、よく分かり、冷静で正しい反応(捨)をすることができる。これが仏だと思います。

9) 「梵我一如」の臭いのする方便

 オウムは論外として、「梵我一如」を方便にすることは、何がいけないのでしょうか?

 まず第一の理由は、仏教は無常=無我=縁起の教えであり、梵我一如とは相容れない、にもかかわらず、梵我一如を仏教として説くことは、本当の釈尊の教えから人々を遠ざけることになるからです。

 では、仏教を詐称しない梵我一如、つまり梵我一如教ならいいのか?

 私は、梵我一如は間違いで、釈尊の無常=無我=縁起の教えが正しいと信じます。梵も我も存在しない。
 しかし、梵我一如教の信者は、「梵も我も実在する」と言うでしょう。「私は現に梵を見た、梵に触れた、梵とひとつになった」と、、。どちらが正しいかは、残念ながら水掛け論にしかなりそうもありません。

 理想的な梵我一如教信者を思い描いてみます。
 自分が偉大な梵から生まれたと思い、根本のところでは自分を許し肯定しならがも、梵に比べてあまりにも小さな自分を自覚し、足るを知り、過大な欲は持たず、梵に感謝し、身の回りのすべてに対しても共に梵から生まれたものとして親しみ慈しみ合い、穏やかに満ち足りて暮らす。

 なんだか御伽噺の理想郷のようです。文明が発達する前のアニミズムはこうだったのかもしれません。しかし、狩猟採集の技術が進むと、足るを知ることはすぐに忘れられ、欲望は肥大する。日本にはあちこちに**供養という儀式があって、おびただしい数の生き物を殺しておきながら、年に一度、僅かのお酒とささやかな捧げ物をして手を二度打つと、たちまち罪・穢れは消え去るという便利な仕組みがあります。結局の所、梵我一如思想は、欲望をも肯定する思想に陥ります。それを示す端的な言葉が、「煩悩即菩提」でしょう。日本の時代劇ドラマには、「煩悩即菩提、色即是空じゃ」と言いながら女の人に襲いかかるお坊さんがしばしば登場します。

 自分の執着を肯定することにつながるという点に加えて、もうひとつ、社会的な問題点も梵我一如型の思想にはあると思います。社会や歴史の大きな力を無批判に肯定してしまうという傾向です。日本の「仏教」が、戦争に協力し差別に荷担してきたことは、御存知だと思います。そうした悪しき大きな流れをも、梵の発露とみなして肯定してしまう。
 梵我一如は、自分を甘やかす理屈付けをいくつも与えてくれる点で、よくない思想だと思います。

 一方、釈尊の教えであれば、執着を離れて現象を見極め、苦に対して鋭い感覚を保ち、慈悲喜のみならず捨も働いて、感情的にならず冷静合理的に、苦を生む動きに対して批判的でいることが可能であると考えます。

10) 駒大「批判仏教」の背景

 私は本を何冊か読んだだけで、駒大「批判仏教」の方々と直接の面識はありません。校舎さえ見たことがないので、おっしゃっているような背景があるのかどうか分かりません。ありそうな気もします。でも、あったとしても、芸術家や思想家や実業家の方々が様々な幼少期・青年期を過ごしてそれをトラウマやバネにしているのと同じで、別に構わないのではないでしょうか。評価は、背景よりもアウトプットに対してなされるべきだと思います。
 ともかく私にとっては、仏教に新しい角度から光を当ててくれたお蔭で、新たな視点を得ることができました。そのことは感謝しています。

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 春の到来と同時に修行と指導の日々に突入されるのですね。実り多い成果をお祈り致します。もしゆとりができれば、またご意見を頂戴できれば幸いです。
 屁理屈ばかりで日本の仏教に批判的なことを言っておりますが、実のところ、私には日本の仏教もよく知らないという意識もあります。日本の仏教について、ドイツ人のネルケさんに教えてくれと言うのも変かもしれませんが、はるかに私以上にそれを血肉化しておられると存じますので、頑固に凝り固まった私をほぐして頂きたく、今後とも宜しくお願い致します。
 明後日のテレビ御出演も楽しみにしております。

                             敬具
ネルケ無方様
        2005、3、9、
                          曽我逸郎

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