sincekeさん 「はじめまして」(感想) 2005,3,3,

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<はじめまして>

 縁起説から仏教を見る、という貴公のページのスタンスに共感し、お便り差し上げます。
 私は28歳男、現在、公認会計士試験合格を目指して専門学校に通っている者です。sincekeと申します。
 これまで断続的に仏教には関心を持ちつづけていましたが、いわゆる初期仏教に『目覚めた(?)』のは今年に入ってからのことです。
 きっかけはなんだったのか、よく覚えていませんが、おそらく以下のようなプロセスでした。

<曽我さんの文章を読むようになったきっかけ>

 まず、年末から年始にかけて、ドーキンスの進化論の本を読み直していました。大学時代にはずいぶん図書館の本を乱読していたので、ドーキンスの『利己的な遺伝子』などは読んだことがありました。そこでドーキンスを読み終わった後、ネットで進化論や創造説に関する掲示板(宗教と科学の対立とかが議論されていた)を探し当て、そこでの議論につきあっているうちに、佐倉哲さんという方のホームページでの仏教論にも触れました。

 私がそのとき考えていたのは、「仏教は進化論と対立しないのではないか?」「ドーキンスが言うような『進化の盲目的意思』って、仏教の無明のことではないのかな?」「サイエンスもいいけど、俺はこの漠然とした苦しみや不安から早くのがれたいなあ」、といったことでした。
 そこからあれよあれよという間に、スマナサーラ長老のテーラワーダ協会のホームページを見つけ、貴公の文章群とも出会い、この二ヶ月というもの、図書館で仏教関係の本を借り出しては読み、暇なときにはホームページ上に公開されているスマナサーラ長老の文章を読み、自分なりにヴィパッサナー瞑想を生活に取り入れてみたり、貴公のおっしゃるような「縁起してる自分」を感じられるよう努力してみたりと、気楽に、時には真剣に、仏教と関りあいつつある、という状態です。

<感想1>

 スマナサーラ長老のホームページ上の文章はこれまで三分の二くらい目を通しています。この二ヶ月ぐらいで、貴公の『偽経』の全部と『小論集』の三分の二くらいを読ませていただきました。
 はじめに読んだのは『偽経』です。これにはすがすがしい感動を覚えました。「透明でかすかな哀しみの入り混じった喜び」でしたっけ、ちょっと文学的な表現も多かったけど、世界や自分を縁起から見る、という理論的なバックボーンがあるんだろうと感じられて、「一応、信用できそうだ」と思って、時に、ふううむ、と感心しつつ、注意しながら読みました。

<感想2>

 最近、『意見交換』のところで、佐藤哲朗さんとのやりとりを見ましたが、私も仏教の輪廻説は「ないほうがいい」と思っている者です。
 今、手元には、図書館から借りてきた、中村元訳の岩波文庫版のいくつかの初期仏典がありますが、これらを読むと、やっぱり、初期仏典にも「生まれ変わり」があることを前提にしたような記述や、ブッダの言葉って結構あるんだな、と感じました。ブッダも一応、インド人が信じてた輪廻を認めているような気がします。いっそのこと、それがブッダの「歴史的文化的限界」だと考えてもいいのかな、と思っているところです。
 僕の父親は、現代の日本で「ブッダの生まれ変わり」と称する教祖が主宰する「幸福の科学」という団体の会員ですが、そうした個人史的事情もあって、現代の日本で輪廻説によってバカバカしい妄想をふりまいている人もいるということで、私自身は、「もう輪廻とか生まれ変わりとかはウンザリだ」と思っています。そういう事情もあるし、佐藤哲朗さんの言い方は、ちょっと「冷たすぎる」という感じがしました。
 何か、仏教の「内部」にいる人が、輪廻を信じられない人を「縁なき衆生は度しがたし」とでもいって、哀れむような口ぶりを感じました。もちろん、佐藤哲朗さんの『大アジア思想活劇』という文章は、興味を惹かれるので、機会と暇があれば読みたいと思います。

<感想3>

 曽我さんの文章は、全部というわけではないけど、明晰で、わかりやすいと思います。わずかであっても、仏教について明晰に語ってくれる人がいるということは、私にはありがたいことです。
 評論家の宮崎哲弥さんの仏教論にも興味を引かれます。それもそういう文脈によってです。宮崎哲弥さんは、たまにしか仏教について語りませんが、瞑想とかで「身体が光の粒子みたいになる」だけでは駄目で、無我の理解には透徹した観察と思考が不可欠だ、と述べています。また、もし引退したら何をしますか、と聞かれて、「タイの森で、偉大な導師と呼ばれているブッダダーサのもとで修行したいな」などと答えています。私は、彼の文章を読んでいて、いろいろと他人の意見をうまいこと「相対化」していく手つきが、何か仏教っぽいな、と感じることが、ないではありません。たとえば、私は、片山一良訳、大蔵出版のパーリ語仏典を何冊か、図書館から借りて読みましたが、あそこにあった『梵網経』でしたか、ブッダが世間にあるいろいろな意見、ディッティを論理的に分析して、緻密に、64種類くらいに分類しておいてから、最後に「これらの意見すべてに、執着してはいけません」などというところ、条理を尽くして条理を越える仏教のやり方、ああいうのを私はちょっと思い出します。宮崎哲弥も、一度仏教論で一冊本書いてほしいような気もするけど、たぶん無理だろうなあ。

<感想4>

 曽我さんの文章には、ときどき、おっ、って思うようなうまい言い回しがあったりして、参考になります。たとえば、ブッダの涅槃は、自動的に回転する煩悩が消え去って、慈悲が自動的に発動するようになった状態だ、とか、ブッダは、塔のてっぺんに立つ人が、てっぺんに立ったまま、いっきに足元から塔を作り変えちゃったような離れ業をやってる感じ、といった表現です。全部、うろ覚えですが。
 このあたりは、共感します。私も、ブッダのことを考えると、そんなふうに思うことがあります。
 とにかく、曽我さんは、言葉に巧みだと思います。
 言葉のリミットを知っているからこそ、うまく言葉を使いこなせるのだと思います。それこそ仏教徒です。
 ブッディストたるもの、言葉に巧みじゃないとな。
 などと私は思っているものですから。

<疑問1>

 曽我さんって、お年はおいくつなんでしょうか。
 私と年齢の開きがどれくらいあるのか、ちょっと知りたいです。

<疑問2>

 先ほどの輪廻の話の続きですが、中村元さんがよく、「もはや生まれ変わることはない」と訳しているブッダの言葉、片山一良さんの訳になると、たしか「この状態の他にはない」となっていました。パーリ語はわからないけれども、原文は、英語でいうたら、never,other being とかいう漠然とした感じなのでしょうか。
 またブッダが悟りを開いたときに発する言葉で、中村元さんのでは「信仰を捨てよ」と言うところ、片山さんのほうでは「信仰を発せ」とかになってたような気がします。そこにはビルマ仏教の注釈があったけど、信仰の器をさしだせ、ブッダはそれを満たすであろう、というような解説だったと記憶しています。このへんの違いというのが、気になるところです。

<とりあえず>

 とりあえず、今回はこのくらいにしておきます。
 さようなら。


sincekeさんから再び 2005,3,7,

 会計士の卵のsincekeです。年齢はどうでもいいでしょうが、28歳です。2通目のメールをさしあげます。
 このメールは曽我さんに議論を仕掛けるようなものではありません。暇つぶしの長ったらしい雑談みたいなものです。お暇があるときに、ご笑覧ください。変わった奴もいるもんだ、くらいのお気持ちでお読みください。

<仏教の入り口>

 自分では結構自分のことを「ものを考える人」と思っていたのですが、曽我さんの『意見交換』のページに登場してくる方たちの文章を読んでいると、「みんないろいろと考えているんだな、おれには深い思索って向いてないのか」という思いに駆られました。
 でも、仏教との縁というのは、人さまざまで、私もここで、幼稚ながら、自分の経験をエピソード的につづることで、仏教にも別の入り口があり、何かの縁で曽我さんの文章や仏教に興味を持つようになった人間の、少し毛色の異なったタイプを提示できればいいと思い、書いてみました。

<そんなところから話が始まるの?>

 子供の頃、私はウルトラマンが好きでした。今思うと、ウルトラマンには、他のヒーロー、怪獣や仮面ライダーのような「人間臭さ」や「生々しさ」がないのも、よかったのだと思います。
 ところで、円谷プロのウルトラマンは『仏像』を参考にして作られている、という仮説が漫画家のみうらじゅん氏により指摘されています(いとうせいこうとの共著『見物記』シリーズより)。これにはわが意を得たり、という感に打たれました。
 私は高校時代、歴史教科書の資料集に載っていた弥勒菩薩の『半迦思惟像』の写真が好きで、授業中、昆虫めいた微笑を浮かべている少年のような肢体を持つ弥勒菩薩の仏像をじーっ、と眺めては、「こういう静かな思索っていいなあ」とひとりで恍惚としていたことがあったからです(私もへんなやつだが、どうせ思春期って変です)。私にとって、ウルトラマンと弥勒菩薩は、一つの線でつながってました。

 また、中学3年ぐらいから高校にかけては、自分の中にまた別の変な流れもありました。私の父親が「幸福の科学」という新興宗教に入っていて、私も中学3年から高校にかけて、一応それを信じていたのです。ということは、私はまず、ぱちもんのブッダに出会うところからスタートしたということになります(「ぱちもん」とはニセモノの意です)。

 さすがに大学入って少しだけ視野が広がると、「どうも変だな」と思い、憑き物が落ちたようにその信仰はなくなるのですが、困ったことに、そうなると今まで自分の積み上げてきたものは一体何だったんだということになり、大学入ってから恐るべき虚無感に襲われたのです。それから茫然自失と自暴自棄の生活が始まりました。

<インド旅行>

 大学生活ではそうして、「ひたすら途方に暮れる毎日」でありましたが、それでも、何人かの友人たちとの出会いがありました。しばらくしてその友人たちとインド旅行をすることになりました。そこで私はヒンズー教の聖地バラナシや、仏教の聖地ブッダガヤを訪れることにもなるのです。

 インドのヒンズー教の神様というのは、荒々しくて、血まみれで、脂ぎっているので、どうもなじめません。ガンジス川でガイドの少年が「リインカーネーションって知ってるか。輪廻転生のこと。リキシャーワーラー(人力車夫)は死んで生まれ変わったらリキシャーワーラーになる」と言っていましたが、どうもその口ぶりが観光客向けに洗練された言葉だったのと、カースト制を強固にするヒンズーに疑問を持ち、素直に聞けませんでした。

 その後に、ブッダガヤに辿り着くことになるわけですが、そこはとてもいい雰囲気でした。
 熱気むんむんの暑苦しいインドの中に、ひとつだけ涼しい風の吹く、別天地を見つけたような気がしました。
 ブッダガヤに私がいる間、何かの植物のいい香りがずっと漂っていたのを覚えています。私はそれを「沙羅双樹の花の香り」と呼んでいました。

 ブッダガヤに、ブッダの像がありました。血まみれで性欲まみれで荒々しいインドのヒンズー教の神様の中で、ブッダの像は、一人おだやかな顔つきをしていました。まるで田舎の粗暴な生徒が多いクラスに、「都会からきた転校生」が一人でポツンと座っているかのようでした。私は色々な思いがこみあげてきて、しばらく、その前にたたずんでいました。

<「ごめんね、ブッダ」>

 まず心の中で思ったのは、「私はいろいろな流転があって、ここに辿り着きました」ということでした。自分の生活を省みて、何か恥ずかしいような気がしていたのです。

 私は、いつのまにかブッダの像の前で自問自答していました。
「あのう、お釈迦様。僕のこと怒っていらっしゃいますか」
 ブッダの像は、黙ったまま微笑を浮かべていました。当たり前です、仏像ですから。モノなのですから。
「でも、僕にも言わせてください。僕だって真面目に生きてきた。でも、大事にしようとしたものは、すべて壊れてしまうのです。なぜか。それがどうにもやりきれないのです」

 ブッダの像は黙って微笑をうかべていました。
「でも、でも、でもー」
 と自問自答を繰り返しているうち、ブッダの像の前に身を投げ出して大声で泣きわめきたくなるような衝動にかられました。でも近くには友人もいるので、こらえました。結局、ブッダの像の前を離れるときに、私は心の中で、
「ごめんね、ブッダ」
 とつぶやいていました。私が大学入ってから「この世界に意味や価値なんてどうせないんだ」と思って自暴自棄の生活をしてきたこと、これまでもブッダの教えに関していろいろと勘違いをしてきたこと、そうした諸々のことを含めて、ブッダに謝りたいような気持ちがしたのです。

<思いついたこと>

 ところで私は今、『意見交換』のページを下から順番に読んでいるところですが、やっと1999年の『意見交換』を読み終えて、2000年あたりにさしかかったところです。だからみなさんの議論の蓄積をちゃんと踏まえた考察ができないかもしれませんが、ここまで読んで、いくつか思うことがあります。

<無明について>

 1999年あたりの『意見交換』の欄で谷真一郎さんが唯識派の可能性について考察を深めていらっしゃいますが、私は唯識派の教説というのは、どうもとっつきにくいです。やはりアラヤ識というところでつまづきます。

 大学時代に、河合隼男というユング派の学者の本を読んでいたときは興味を持ったりしたのですが、今では、フロイトの無意識もユングの普遍的無意識もどうも嘘っぱちのように思えるので、それにも似たアラヤ識という概念に拒否反応を起こしてしまうのです。また、仏教の「無明」というのは、フロイトの無意識のようなドロドロとしたものであり、「無明」は宗教的な深さのあるものだ、と考えている方もおられるようですが、私は仏教を理解するのに、何も深層心理まで降りていく必要はないのではないか、と思います。

<無明は関係に宿る>

 私にとって無明とは、人間の深層心理にあるものではなく、「関係」によって生まれるもの、また明らかにされるもの、という感覚が強いです。
 熟さない言葉ですが、「無明は関係に宿る」とでも申しましょうか。
 私が人間の「業」や「無明」を強く感じるのは、他人との関係、世間との関係、自分との関係が破綻しそうになったり、うまくいかなくなったりするときです。そういうときに私は「根本的無明」という言葉を思い浮かべます。
 例えば他人を言葉で傷つけたりするのは、自分が他人を安易に『分類』してしゃべっているようなときに起こります。

 曽我さんの言葉を借りるなら、人間は進化の過程で「粗雑なパターン認識」しかできないような仕組みになっていると思うのです。動物が生きていくためにはそれでも充分なのでしょうが、そうやって世界に微細にはりめぐらされた「関係の網の目」を見落としていると、ときに痛い目に会うことがあります。他人との関係だけではなく、自然の美しさを見落としたりすることもあります。なんだか損した気分です。
 私は、「縁起の理法を理解する」というのは「関係を認識する」ことでもある、と思ってますから、このような解釈が出てくるのでしょう。

<ブッダは『帰ってきたウルトラマン』>

 仏教は出世間の道、凡夫を超える道を教えています。世間を越え、凡夫(man)を越える(ultra)のですから、さしずめブッダはウルトラマンと言ってもよいでしょう。けれど不思議なのは、仏教は悟ったらどうなるかというと、「ただの人」になるような気がするのです。ブッダが王子様から普通の人になったように。

 仏教の悟りというのは、彼岸に行ったきり、ではなくて、こっちに戻ってきていつもと変わらない、普通の生活をしているような気配がいつもあります。禅の坊主が言う「花は紅、柳は緑」という言葉は、そうした「帰ってきた人」が発した言葉なのでしょう。また、そうでなければ意味がありません。
 曽我さんのいう「主客対生成、主客対消滅、主客対再生」というプロセスは、私の言葉でいうブッダの「帰ってきたウルトラマン」性のことを述べておられるように思います(真面目なんだか、ふざけてんだか)。

<ブッダは『トランスフォーマー』>

 「私は意識と身体の組換えを行った。人間のトランスフォーメーションを成し遂げた。もはや元の状態に戻ることはない」
 と宣言したのがブッダなのだろうか、とふと思います。
 しかし、猿から進化した人間に、そんな「ひとり遺伝子組み替え」のような離れ業が可能なのか、一度ダーウィン先生に聞いてみたい。

<煩悩>

 歴史的に、お坊さん達は「煩悩に悩む」というのは代表的なのは「性欲に悩む」ことだと考えてきたみたいだけど、それは本当か。岩波文庫の「テーラガーター」を読んでも、仏弟子の中で、町で美しい女性を見ているときに「わずらいであるという気持ちが起こり、悟りに達した」なんて述べている弟子がいますが、何か悟りのダシに女を使っているようで、どうもいい感じがしない。
 現代の若者の場合、性欲に関してはわりと淡白な人も多いのではないでしょうか。しかしそれでも煩悩はある。「生存の苦しみ」はある。

 私には、親鸞聖人のような、性欲のモンモンとした気持ちがあまりよくわかりません。いや、それは確かにあるけど、「煩悩即菩提」とかいって悟りのきっかけにするというのは、いかがなものか。
 氷が大きければ溶けたときの水の量が多いように、煩悩の量が大きければ、悟りの泉も広く深い、なんてことを言う人がいますが、それでは比較的、そのような煩悩の「薄い」私なんかは、どうしたらいいのか。
 『愛欲の泥沼』みたいなドロドロした世界を知らない私は、どうしたらいいのか。どうすりゃいいのさ思案橋。
 しかしそれでも私にも、仏教の教えは新鮮に響くのです。

<仏教の現代性>

 仏教が現代でも古びないのは、その教えの軸に「変化」という法則があるからだと思います。最初から「変化」を原則としている教えが、古びるはずがない。

 現代で若い人でも比較的仏教がわかりやすそうな気がするのは、生活水準が上がって今の若者はみんなクシャトリヤの「王子様」みたいな快適な生活を送っていて、しかもそれでも10人に1人、あるいは5パーセントくらいの人は、それでもなくならない「生存の苦しみ」をうっすらと感じ取っているからです。

 このことに関して、中村元さんは、仏教は、貨幣経済が進展する社会で、『都市的生活の否定態』として生まれた、と述べておられます。ブッダに帰依した人には都会の商人とか王様が多かった。
 それでは資本主義経済が発達した現代においてこそ、仏教の出番じゃないのか、と思います。

 仏陀の法輪の回転は、2400年以上続いていますが、現代の日本でも、世代なんて関係なく巡っていきます。これは不思議なことです。こうしてるうちにも、いろんな人が、自動車に轢かれるように、仏陀の法輪に轢かれていくのだと思います(思いたいです)。私も、不用意にぼーっと路上に立っていたら、知らぬ間に仏陀の法輪に「轢かれていた」クチですから。
 少なくとも後100年くらいは、仏陀の法輪は、回転し続けるのではないのでしょうか。

<終わりです>

 それではこのへんにしておきます。曽我さんもお体をご自愛ください。私は、筋金入りの「怠け大臣」なので、私のメールに関しては、ご返事のことなど、曽我さんも大いに怠けてくださって結構であります。
 私の文章が、思索の「箸休め」くらいにはなったでしょうか。それではまた。失礼致します。

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