篠原さん ヴィパッサナー瞑想 2005,3,2,

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曽我様

はじめまして、HP大変興味深く、読ませていただいております。

私は、最近ヴィパッサナー瞑想をやり始めた、超初心者の篠原と申します。
曽我様の小論文、まだ全然読めていないのですが、ブッダダーサ比丘の仏教の教え、についてのくだり、わたしのような者が言うのもちょっと失礼ですが、もっともな教えだと思いました。

なぜ、「異端」あつかいされているのでしょう?少し不思議に思いました。
さて、曽我様に少し教えていただきたいのですが

わたしは、ヴィパッサナー瞑想を始めてみて、私の中のあまりの妄想の多さにびっくりしました。
自分が習ったヴィパッサナー瞑想は、曽我様のHPに書いてあるやり方とは少しだけ違う箇所があって、「妄想」などがでてきたら、心の中で「妄想」とラベリングしてその事(妄想が入る事)じたいは、あまり気にしないでよいと習いました。

とにかく「妄想」や「考え」が浮かんできても、その事はちゃんと認識して、また歩行瞑想なら、足の裏の感触に、座った瞑想なら、お腹の膨らみやへこみに戻ってくればよいと習いました。

一日10分でも良いから、この観察を続けて心を浄化した後できれば、慈悲の瞑想をして終われば良いそうです。
これって、曽我様の体験された日本テーラワーダ仏教協会の10日間瞑想会とは、大分違うみたいですけど、もしかしてこのやり方ではあまり効果がないんでしょうか?

小論文でも、書かれておりましたがHPの趣旨とは違う事で申し訳ございません。
できれば、曽我様のご意見などお聞かせいただければ、嬉しいです。
それでは、失礼いたします。

篠原


曽我からの返事  2005,5,29,

拝啓

 返事遅くなり申し訳ありません。

 ブッダダーサ比丘を「異端」扱いしているのは、この私です。勿論、尊敬をこめて、、。

 ご近所のタイレストランや、バンコク在住の友人に尋ねてみると、皆口をそろえて「立派なお坊様」と答えてくれました。タイでは広く尊敬を集めておられます(残念ながらすでに亡くなられましたが)。
 ブッダダーサ比丘を「異端」と呼んだわけは、釈尊の教えの真意を求めて経典を批判的に読んでおられる点と、その結果、たとえば輪廻転生を否定するなど、普通のテーラワーダとはずいぶん異なることを言っておられるからです。ブッダダーサ比丘のこのような姿勢とその結果行き着かれた結論に、私は共感しています。
 <HP掲載にあたって加筆。ブッダダーサ比丘については、小論集を参照ください。>

 妄想については、「私には妄想が多い」というよりも、「私とは妄想のことだ」と言ってしまった方が、より現実に近いと思います。「私」があって、そこに妄想が沸いてくるのではない。縁によって次々と沸き起こる妄想、その妄想の連続こそが、普段私たちが「私」と呼んでいる現象です。日常の私たちは、そのつどつど、外の縁と内の縁が相乗して自動的に起こる反応・妄想の繰り返しです。そのことを仏教では、無常とか無我とか縁起という言葉で言い表してきました。そして、外の縁と内の縁に応じてめまぐるしく変転し続ける「私」を、わずかな主体性の幅の中でなんとか制して静謐に(安定的反応に)保ち、観察主体の側においても観察対象の側においても観察可能な状況を作り、観察を深めて、ついには、自分とは縁によるところの無常にして無我なる自動的反応=妄想の繰り返しであったと、腑に落ちて納得する。それが仏教だと思います。
 ヴィパッサナーもそのためのひとつの方法であろうかと思います。

 ヴィパッサナーについては、私も初心者です。しかし、書かれたものをあれこれ少しずつ読みかじってみると、いろいろな流派があるようです。呼吸の感じ方にしても、お腹の膨らみ縮みなのか鼻の穴のあたりなのか、大きくふたつに分かれるようです。皮膚感覚を重んじるグループがある一方、視覚的イメージを重視するグループもあります。また、その時々に沸き起こるもっとも顕著な感覚にサティを入れよ、というのもあれば、指定された体の部分のわずかな感覚に集中せよ、と教えるのもあるようです。
 書いておられることから想像すると、篠原さんはスマナサーラ長老の指導を受けられたのでしょうか? 同じ日本テーラワーダ仏教協会でも、スマナサーラ長老の指導とウィセッタ長老の指導とは、結構違いがあるように感じます。

 どのやり方が正しいのか、効果があるのか、私には判別する能力はありません。ブッダダーサ比丘は、「ヴィパッサナーは釈尊の当時にはなかった、後世開発された方法だ」とも言っておられます。私には、その真偽は確かめられませんが、いずれによ、瞑想などの修行にばかり頼ると危険ではないかと思っています。言葉によって学ぶことも大切だと思います。言葉による学習と自己観察・自己分析と、両方が補い合う必要がありましょう。

 自分が無常にして無我なる縁起の現象であると腹に落ちて納得するにはどうすればいいのか、自分なりに工夫しながら、あれこれ試そうと思いつつ、それさえもなかなか思うにまかせぬ近況です。

 返事が遅くなるかもしれませんが、またご意見ご批判お聞かせください。

                               敬具
篠原様
    2005,5,29,                曽我逸郎

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