masayuさん 小論「クオリアについて」を読んで 2005,3,2,

       ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

はじめまして、masayuと申します。

 まず、クオリアの定義についてですが、曽我さんの定義は、定義というよりは、クオリアの発生原理になっているように思えます。改めていうまでもないでしょうが、クオリアとは簡単にいえばある感覚から生じた質感であり、あるいは生々しさやリアリティのことですよね。
 ついで、クオリアの発生原理について、私が思っていることは、はじめは感覚器から生じるもっともピュアなクオリアが発生して、そのクオリアから想起される思考や感情による連鎖的なクオリアが生じる。五官による複数のクオリアが同時に発生し、融合し、さらにそれから思考や感情が生じ、クオリアがさらに発展変化していく、そんなイメージを持っています。
 ただ、我々は、曽我さんのおっしゃる「いつも化」によって、一番初めのピュアなクオリアは一瞬のうちに通過し、思考や感情によるクオリアに左右されていると思っています。私は、禅の悟りとは、その一番初めのピュアなクオリア、その生々しさを再発見することだと思っています。そういう意味で、クオリアという言葉は非常に便利ではないかと思っています。
 あと、曽我さんは、クオリアという言葉の守備範囲が広いとおっしゃっていますが、クオリアは、たとえば水に触れたときの「冷たさ」を感じたときの感覚です。曽我さんの文章に挙げている数々のクオリアの例で、それぞれの状況によって生じるクオリアは、クオリア自体の内容は異なりますが、なんらかの生々しさ、リアリティがあるということ自体には変わりはないですよね。その生々しさ、リアリティのことをクオリアといっていると思うのですが、いかがでしょうか。
 以上、思いつくままに、書かせていただきました。

masayu


曽我から masayuさんへ クオリアの前の「いつも化」 2005,3,13,

拝啓

 メール頂戴致しました。ありがとうございます。返事遅くなり、申し訳ありません。

 私は、釈尊の教えを考える材料、方便としてクオリア等を考えているので、それを専門に考える立場からすると随分トンチンカンなことを言っていることと思います。クオリア本来の意味は、masayuさんの仰るとおり「そのつどの感覚の生々しい実感」といったものだろうと思います。

 クオリアの生々しい実感は、組み合わさったり、「いつも」の処理がほどこされて、世界は「いつも化」され、現象は存在視され、「いつも」の価値を塗り付けられる。その結果、Aは毛嫌いされ、Bはちやほやされ、Cは・・・という「いつも」の自動的反応(執着の反応)が発動される。そのように私も考えます。

 ひとつ、masayuさんのメールを拝読して思ったのは、クオリアが出発点ではない、クオリア以前の反応もあるのでは、ということです。

 盲点の実験というのがあります。図を添付しました。左目で星を見て、ハートを盲点に合わせて下さい。ハートは見えなくなりますよね。でも、見えないというのは、暗い穴になるとか、真っ白になるということではありません。この図の場合だと、周囲と同じ黄緑色になる筈です。グレーの机の上で同じ実験をすれば、盲点はグレーになるし、赤い紙の上だと赤くなる。つまり、見えないところは、自動的に辻褄の合う情報で埋められるのです。私の下の娘は、「まわりがかぶさってくる」と表現しました。


 次は、青い太線の切れ目に盲点を合わせてみてください。線がつながって見えませんか? どうやら、盲点の上下に線があれば、一本の繋がった線のはず、と「考えて」、そのように補正してくれるようです。

 これら実験は、『脳の中の幽霊』(V.S.ラマチャンドラン、サンドラ・ブレイクスリー、訳:山下篤子、角川書店)にあったのですが、同書には、事故で1次視覚皮質を損傷して大きな暗点のある人で同様の実験をしたら、両方の線が、最初は徐々にやがてみるみる伸びてきて、やはりつながって見えたという事例も載っています。(他にも興味深い話がたくさんありました。)

 この実験をする時、私達は、「そこにハートがある」とか、「線は切れている」とか、知っていた筈です。にもかかわらず、盲点のまわりの状況に合わせた情報の補充が、自動的に行われる。「こら、さしでがましい真似はするな! 線は切れているだろう! 俺は知っているぞ!」と、いくら自分に言い聞かせても、切れ目が盲点にある限り、線はつながって見えます。「私」は「私」に対して無力です。

 私(凡夫)という反応は、このような無数の自動的反応の上に乗っかった反応です。ただ口を開けて、勝手に下ごしらえされ味を付けられた料理を口に入れてもらっているバカ殿様のようなもの。「おいしい」とか「まずい」とか言う(クオリアを生々しく感じる)前に、そのつどの縁(刺激)は、既に自動的に「いつも化」されています。
 脚下照顧すれば、幽霊の如く足がないのではなく、無数の足がわさわさと無数に枝分かれしながら目の届かないところまで広がり伸びている。そのような目の届かない深みから上がってくる、下ごしらえされ味付けされた(価値の「いつも化」が施された)刺激(縁)に自動的に反応している現象、それが我々凡夫だと思います。色受想行識、眼耳鼻舌身意、さまざまな反応が、無数に組み合わさり積み重なって現象しているそのつどの無常にして無我なる縁起の反応、それが私達です。
 クオリアのさらに前に、私達が「純粋経験」を生々しく感じる前に、すでに情報の下ごしらえ・味付けは、かなりの程度済まされていると考えます。

 バカ殿様が、殊勝にも「これではいかん」と発心して、苦を作ることのないように、自分という反応から執着の反応をなくそうと努力し工夫する。それが仏教だと思います。
 仏教によって、無常=無我=縁起を腹に落ちて実感する時、改変される反応はどこなのか? クオリアより前か、後か、それとも両方か? そのあたりは、私もまだよく分かりませんが、、。

 またご意見ご批判お聞かせ下さいますよう、お願い申し上げます。

                               敬具
masayu様
      2005、3、13、               曽我逸郎


masayuさんから  2005,3,17,

曽我様

ご返信ありがとうございました。

 私も茂木健一郎氏の『意識とはなにか』を読みました。彼は、「電車に乗っていて『ガタンゴトン』という音の質感自体に注意が行き、周波数で分析してもその『ガタンゴトン』という音の質感自体には決して到達しないことを悟って」と、はじめてクオリアを意識したときのことを振り返っています。彼が、もし禅僧だったら悟った(くしくも違う意味で悟ったと書いてありますが)と思ったことでしょう。私は、この「ガタンゴトン」がもっともピュアなクオリアであると思っています。クオリアを発生させる情報源は、脳の電気信号、感覚器から情報を脳で加工したデータで、これは曽我さんが返信で書かれた例の通りだと思いますが、それはあくまでも器質的なものだと思っています。このクオリアは、曽我さんがおっしゃる自動的反応(煩悩)から生じるクオリアとは違うと思っています。
 補足をすれば、「ガタンゴトン」は「ガタンゴトン」と擬音化していますが、実際の「ガタンゴトン」は擬音化する以前の生々しいクオリアのことです。「ガタンゴトン」と擬音化した時点で、「ガタンゴトン」のクオリアは消滅してることでしょう。言葉を使う我々は、クオリアを対応する言葉に瞬間的に置き換えてしまいます。そうしないと、それについて考えることも、人に伝えることができないからです。私たちは、クオリアを感じながらも、次から次へと言葉に置き換えてしまい、クオリアを忘れてしまうのです。言葉に置き換えてしまえば、クオリアはもぬけの殻、用なしです。ですから、クオリアがことの発端であるというこは、「ガタンゴトン」を感じ、一瞬でもそこにとどまる以外に納得できないかもしれないと思っています。

masayu

意見交換のリストへ戻る  ホームページへ戻る  前のメールへ  次のメールへ