ネルケ無方さん 涅槃、無方さんの仏教総括(続き) 2005,3,9,

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 明日からはしばらくコンピュータの画面に向かうことはないと思いますので、曽我さんに余計なメールを差し上げるのも一休憩になるでしょう。ご安心ください。

 曽我さんに刺激されて、私も一応の「現時点の私の仏教理解の総括」を著しようと試みています。自分のなかの仏教を論理的に整理し言葉で総括するのも面白いです。禅僧が日頃しない仕事です。

 曽我さんに見習って、私も「涅槃」から切り出しましたが、四法印までくると、一つの問題に気づき始めました。「バウッダ」のなかで三枝充悳さんは

『「諸行無常・一切皆苦・諸法無我の三法印」という、初期仏教を代表する最も重要なテーマとなる。さらに三法印は、「涅槃寂静」を加えて四法印になり、のちにはそれから「一切皆苦」がはずされて、「諸行無常・諸法無我・涅槃寂静の三法印」として落着をみる。」(バウッダ・138ページ)

 と書いていますが、松本史郎さんの「解脱と涅槃・この非仏教的なもの」も受けて、ひょっとしたら、「涅槃」は仏教の中心をなすものどころか、後から付け加えられた非仏教?という疑問すらわいてきます。

 曽我さんが批判仏教グループの方向で進むのであれば、いずれこの「涅槃」という「非仏教的な」概念も捨てなければならないのではないかと思います。あるいは、そろそろ「批判仏教批判」を徹底的に提唱し、駒大の方便なき学問を覆すべきかもしれません。

 いずれにしろ、「涅槃という方便」まで捨てるか、あるいはその方便を求めるのであれば、そこから発達したと思われる大乗仏教のいろいろな(スッキリしないが、それなりの役に立つ)他の方便も考えなおすべきだと思います。

 以下、私の総括の草案です

…現時点の私(無方)の仏教理解の総括…2005年3月9日(第1回総括)--

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◆1、涅槃

 釈尊は、「涅槃」や「解脱」を教えて下さったといわれているが、そういう「涅槃」や「解脱」さえ必要としない落ち着いた生き方を本当の涅槃や解脱とする。それを日本で身心脱落・只管打坐・修証一如という形で示してくださったのは、道元禅師である。

 涅槃・解脱とは、落ち着いており、リラックスしたあり方である。どこに落ち着くかと言えば、苦の最中に落ち着き、リラックスすることが涅槃・解脱というあり方である。

 道元禅師の言われる「生死はすなわち涅槃ありと覚了すべし」・「ただ生死すなわち涅槃とこころえて、生死としていとふべきもなく、涅槃としてねがふべきもなしこのときはじめて、生死をはなるる分あり」もまさにこのあり方を言い表している。

 つまり、涅槃は苦(生死)を内在し、苦もまた涅槃を内在している。問題は、苦を涅槃と心得てそれを受け入れるか、涅槃を「苦でない状態」として追い求めるか、ということである。ここを解決するためには、まず苦のからくりを見抜かなければならない。

◆2、苦のからくり

 我々が日常味わうのは生老病死の苦(dukkha)である。
 我々凡夫は、いつも満足せず、何か不満を持ち、これが必要だ、あれが欲しい、と騒ぎまわる。思いのままじゃない、気持ちに適わない、と言いつのる。時として欲望を達成してはしゃぐことがあっても、すぐに「もっと」と要求し、あるいは退屈し始める。一時の興奮をまじえながらも、総体として、一貫して不満をもち、怒り、苛立ち、妬み、悲しみ、絶望し、激しく揺れ動いているあり方、それが苦である。 つまり、「苦」とは「苦しみ」というよりも「物足りなさ」「どうしても自分の思うとおりにならないこと」である。どうして「物足りない」思いをするかといえば、そもそも「物足りよう」と自分が思っているからである。つまり、苦は外から来るものではなく、自分が自分で作っているともいえる。「物足りよう」と思うからこそ現実が「物足りない」と感じられ、「思うとおりになってほしい」と願うからこそ「思うとおりにならない」ことに苦しむ。我々はこの「物足りよう」という思いを物理的な執着の対象(金、車、家、等)、異性(性愛、恋愛、等)、友情、人とのかねあいにおける自分の地位(権力、名声、等)だけはなく、最終的に「生きる意味」・「絶対の真実」・「永遠の幸福」・「苦でない状態=涅槃」という対象にも向けている。そして、「苦でない状態」が得られないがために、益々苦が増していく一方である。では、どうすればよいのか。

   道元禅師曰く「この生死は、すなはち佛の御いのちなり。 これをいとひすてんとすれば、すなはち佛の御いのちをうしなはんとするなり。これにとどまりて、生死に著すれば、これも佛のいのちをうしなうなり。佛のありさまをとどむるなり。いとうことなく、したうことなき、このときはじめて、佛のこころにいる。ただし心をもてはかることなかれ、ことばをもていうことなかれ。 」

◆3、苦とどうつきあうか

 苦の原因は、「物足りよう」という思い、つまり執着である。最終的には「苦しみたくない」という思いが苦の原因となっている。

 では、どうすればよいのか? 「物足りよう」という思いを止めれば、という簡単な解決方法もあるが、これは一時的には可能だとしても、永続的には不可能と思われる。なぜならば、「物足りよう」という思い自体が「私」という仕組みの中心をなしているからである。「私」が「物足りよう」と思うように出来ている。したがって、「物足りない思い」を必然的にする。言葉を換えれば、生命であることそれ自体が自分という反応を維持し拡大しようとする反応であり、我々の苦、執着、無明は元々そこに由来している。であるなら、生命であることそれ自体が、根本無明であり、原我執であるということもできる。ところが、(自分の脳に損害を与えない限り)生命であること自体を革新することは出来ないが、生命をありのままに受け入れることは出来る。そして、「苦を滅しよう」と思っても苦は増してゆくばかりだが、逆に「すべての苦を私は受け入れてもいい」と思ったとき、不思議ながらその「苦」は苦でなくなる。この時の落ち着きを「足るを知る」という。

   道元禅師曰く「ただわが身をも心をも、はなちわすれて、佛のいへになげいれて、佛のかたよりおこなわれて、これにしたがひもてゆくときちからをもいれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれ佛となる。たれの人か、こころにとどこほるべき。 佛となるにいとやすきみちあり。 もろもろの悪をつくらず、生死に著するこころなく、一切衆生のためにあはれみ、ふかくして、かみをうやまひ、しもをあはれみ、よろづをいとうこころなく、ねがふこころなくて、心におもうことなく、うれうることなき、これを佛となづく。またほかにたづぬることなかれ。」

◆4、四法印と四聖諦の構造

 「一切皆苦」・「諸行無常」・「諸法無我」・「涅槃寂静」を四法印という。元々仏教には「一切皆苦」・「諸行無常」・「諸法無我」の三法印しかなく、非常にさっぱいりしていたようである。それに後から「涅槃寂静」が加わり四法印となり、更に後になって最初の「一切皆苦」が外されてしまい、再び三法印になったと聞く。四法印の内容:

1)一切皆苦・我々の存在は満たされない存在であり、生理的に常に満足し切れないようにできている。

2)諸行無常・物事は移り変わってゆく。すべての現象は縁起しているとも言え、これは「流転」の姿である。

3)諸法無我・物事には実体がない。「私」もなければ「あなた」もない。どこにもつかみ所はない。

4)涅槃寂静・このつかみ所のない、満たされない流転の姿に、そのまま徹底して落ちつくことである。

以下略

合掌 無方


ネルケ無方さんから再び 2005,3,10,

ご返信拝受いたしました。
私が連日で突きつけてしまった空論的なメールに辛抱強く応対していただき、有り難うございます。意見交換はいろいろな枝道に入ってしまったようですが、曽我さんと私の理解の違いの根本をたどるには、おそらく理解の中身だけではなく、アプローチの仕方の違いが問題になってくるではないかと感じています。釈尊の毒矢の例でいえば、毒矢を与えられた事実に具体的にどう対応するか、医者(釈尊)と薬(法)の例でいえば、その薬をどう捉えるかというより呑みこむか、ということですね。

今度は私もしばらくじっくり考えます。今まであまり考えずに思いつくままに連発してしまい、申し訳ありませんでした。どうせ、理屈では曽我さんに適わないということは実感いたします。意見交換である以上、「適う・適わない」という問題では決してありませんが、理屈でも勝負できる自信のあった私にとっては、まあまあ悔しいことです(笑)。この3週間の間、曽我さんの試行錯誤(思考錯誤?)が私にも大きな刺激を与えたのは確かですし、これからもこの意見交換から学びたいと思います。

今後とも、時間のゆるす限り、よろしくお願いいたします。

合掌 無方

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