sincekeさん 前野隆司「受動意識仮説」 2005,4,8,

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 こんにちは、sincekeです。今回は、前野隆司『脳はなぜ「心」を作ったのか』(筑摩書房 2004年)という本を紹介させて頂きます。この本は、「私」という現象や「クオリア」の問題を、「工学系」の立場から解き明かしたというものです。とても面白く、仏教の「無我」を考えるのにも、ヒントになるかと思いました。

 私は今年の正月に、日本テーラワーダ仏教協会のスマナサーラ長老の文章に出会ってショックを受け、改めて仏教のことをもっと知りたいと思い、関連書物を図書館から借り出して読むようになりました。私は「縁起」や「無我」に関心があるのですが、どうも仏教には「無我説」と「輪廻説」が混在しているようです。私はこの二つは両立しないのではないか、と思っています。まだきちんと知識の整理ができたわけではありませんが。

 『ミリンダ王の問い』(平凡社東洋文庫)という本には、仏教徒のナーガセーナが、「無我」や「輪廻」をたとえ話で説明しているところがあります。ギリシャ人の王に理解させようとして、ナーガセーナは無我を「車のたとえ」で、輪廻を「ろうそくのたとえ」で説明しているのですが、私はこのたとえに満足することが出来ませんでした。『ミリンダ王の問い』は、仏教学者が「ギリシャ的思惟とインド的思惟の対決」と喧伝しているくらい有名な本なので、結構期待して読んだのですが、ミリンダ王がすぐに「もっともです、ナーガセーナよ」と納得してしまうのを読むと、「お前、それでも『ギリシャ的思惟』の代表か、もうちょっとしっかりしろよ」とツッコミをいれたくなります。

 こうした説明にどうしても納得できない人はやはり他にもいるらしく、インド哲学者の宮元啓一氏は、「このたとえはひどい。ろうそくの火を次のろうそくに移すのだったら、その前のろうそくの火には消えてもらわなければ、輪廻は説明できないはず」と述べておられます(宮元啓一・石飛道子『ビックリ!インド人の頭の中ー超論理思考を読む』(講談社 2003年))

 「いったい、無我や縁起って何なのだろう。自分や私がない、というのはどういうことだろう」と思っていたときに、前野隆司さんの『脳はなぜ「心」を作ったのか』という本に出会いました。読んで、驚きました。この本は、工学系の立場から「私」や「心」の秘密を解き明かした、と豪語しています。すごい。

 まずリベットという科学者の実験がおもしろかった。人間が、意識的に「行動しよう」と思う0.3秒前には、既に脳内で準備電位が発生しているという、驚くべき実験結果です。「私」の不思議さ、当たり前に「私は私である」と思いこむことの胡散臭さ、みたいなものに、ハタと気づかせてくれます。ここからいろいろな論理的帰結を引き出せるわけですが、この本にはたとえば次のようなことが書かれています。

 「私」という自己意識のクオリアは、進化の過程で獲得された「錯覚」だ。意識とは、脳内のニューラルネットワーク(小人たち)の連想ゲームを「川下で」受動的に受け止める働きにすぎない(これを『受動意識仮説』という)。私達が主体的に思考していると思っていることは、実は脳内の小人たちの自律分散処理を受動的に受け止めているだけのこと。脳神経学では、脳内の「小人たち」の活動を束ねている主体は何か、といういわゆる「バインディング問題」があるが、それは問題の立て方自体が間違っている。(前野隆司の)『受動意識仮説』に基づけば、数十年後には、人間よりも優れた心を持ったロボットがきっと作れる!

 私は、工学系の人というのは、「性格が明るくて、実験が失敗したりしても、なかなかへこたれない人たち」、というイメージ・先入観を持っています。前野隆司さんも工学系の人だけあって、読んでいるこっちまで楽しくなるほど、楽観的な未来を予見してくれています。たとえば、心を持ったロボットを作れるのは勿論のこと、将来は、心に欠点のないロボット、人間に優しく、慈愛に満ちたロボットなんかが作られるだろう、と予測したりしています。私も、著者につられて、もうすぐ「心」を持ったロボットができるかもしれない、とは思います。けれども、根が悲観的なのか、ロボットであっても、「心」である以上、貪・瞋・痴の「煩悩」が生まれることは避けられないのではないか、などと心配してしまいます。

 その他、注目すべきなのは、心の秘密を解くのに、ペンローズみたいに量子力学や素粒子の概念を借りてこなくてもいいよ、と言っていることや、茂木健一郎さんが「脳の機能局在の考え方だけでは、『私』という秘密は絶対に解けない」と言っているらしいが、そんなこともないよ、と言っているところです。仏教に興味を持つと、何か仏教って素粒子の世界に似ているなあ、と思うことがありますが、しろうと考えで、安易に仏教と物理学を結びつけるのはやばいかもしれない、と思いました。私はペンローズの「皇帝なんとか」という本を読んだことはありません。茂木健一郎さんの本は「脳の中の小さな神々」というインタビュー集を一冊だけ読みました。茂木さんは最近、禅僧と対談したりして、なんとなく仏教に近づいているような気もします。しかし、仏教者は、科学者が近づいてきただけですぐに喜んではならないだろう、と思います。「もっともです、茂木健一郎よ、もっともです、養老孟司よ」なんて言ってると、ついにはミリンダ王になってしまうかもしれないから。

 脳の機能局在、という話で私は思いついたのですが、「言語野」や「運動野」みたいに、「私は私である」という自己意識を生み出す機能が、脳のどこかに局在していて、いつかそれが発見されて「自我野」とか「アートマン野」と命名されるかもしれない、と思いました。ああ、とうとう見つけた、これが「私」だったのか、と。

 地平線上に近いお月様はやたらにでかく見えます。これは人間の目の錯覚だそうですが、錯覚とは、進化の過程で、生き残るのに都合がよかったから残ったのでしょう。「私は自己同一性をもって私である」という錯覚の一種も、そういう風に考えると、エピソード記憶や長期記憶を保持するのに便利だったので、生きるのに有利だから残ったのでしょう。しかし、「生きるのに都合がよかったから」というだけでこんなにも強固にされてしまう「我」って一体何なのだろうか? それがアートマンとかいって宇宙全体とつながる、とか、そんなことは、とんでもないことだ。また、「かけがえのない私」というもの、他の「私」とは取り替えのきかない「この私」なんて、あるのだろうか。

 とまあ、この本は、いろいろなことを考えさせてくれました。座禅しろとか瞑想しろとか言うだけではなく、人間と同じ心を持った「ロボット」を作ってみせることで、仏教の「無我説」を証明できるかもしれないな、あるいは少なくとも「アートマン説」を否定できるかもしれないな、などと考えて、ワクワクしました。

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【 2007,4,17,加筆 】
 この後、紹介いただいた『受動意識仮説』その他を読み、いろいろと刺激を受けた。考えたところを小論《ノエシス,クオリア,いつも化,意識,我執,ノエマ自己,努力,釈尊の教え》として掲載。

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