sincekeさん 妹尾義郎について 2005,4,18,

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「透徹せる反省は、きっと人に無常観を与へるものであらう。無常観は、必然に人に親愛の生活をささやくものである。透徹せる反省は、きっと人に縁起観を与へるものであらう。縁起観は、必然に人に相互扶助、共存共栄の道を悟らしめるものである。」(妹尾義郎『昭和維新』 昭和3年)

 sincekeです。ぶしつけに大量のメールを送りつけてしまい、申し訳ありません。何もいやがらせではありません。日本に妹尾義郎という人物がいたと知り、興味を持ち、少々調べてみました。その私が思いついたこと、考えたことを長々と書き連ねたものです。お忙しい中、私の独り善がりな文章を全部読むのは、かなりしんどいことであることは承知しております。急を要する事項はまったくございませんので、私の文章を読むのは、一番最後に、なるべく後回しにしてください。読みやすさの便宜を考え、分量をいくつかに分けて送っております。お暇なときに、消閑の具として、どうかご笑覧ください。

 この文章を書いた動機は、保守的・正統的仏教であると言われる、スリランカ等の上座部仏教のことを知ってから、また佐藤哲朗さんの『大アジア思想活劇』などを読み始めてから、日本の歴史上の仏教徒のことや、国家と仏教とのかかわり、等についても、いろいろと考えなくちゃいけないのかな、と思い始めてきたことです。いつもどおり、私のメールは、ちゃんとした手紙や『意見交換』の形にはなっておらず、全部自分の思い込みで、ひとりつっぱしっています。

 今回参考にした書物は以下の通りです。

稲垣真美『仏陀を背負いて街頭へ−妹尾義郎と新興仏教青年同盟−』(岩波新書 1974年)

稲垣真美編『妹尾義郎宗教論集』(大蔵出版 1975年)

大谷栄一『近代日本の日蓮主義運動』(法蔵館 2001年)

寺内大吉『化城の昭和史 ニ・ニ六事件への道と日蓮主義者(上)(下)』(毎日新聞社 1988年)

松本史朗『縁起と空−如来蔵思想批判』(大蔵出版 1989年)

先に要約を掲げておきます。

<要約>(1)仏教徒である妹尾義郎が戦中、戦争協力せずにすんだのは、妹尾が差別相と釈尊の人格への恋慕を重視していたからである。(2)法華経信者には、個性的な人が多い。法華経は釈尊への恋慕の爆発だった(3)田中智学だってそんなに悪い人ではない。石原莞爾。芥川龍之介。ヨハネ・パウロ2世。仏教はむつかしい。キリスト教もいいな。

ー以上が全体の要約です。いま、私の脳裏には、都会のルールを弁えない、鬱屈を抱えた田舎の文学青年が、せっせと田舎の片隅でわけのわからない「作品」を書き溜めては、「中央」の出版社に原稿を送りつけて、編集者の人から「またあの変な青年から『作品』が送られてきちゃったよ。まいったなあ、もう」と困惑されている情景が思い浮かんでいます。


 妹尾義郎(1)−赤い仏教徒、現る−

 妹尾義郎は、大正・昭和期の仏教運動家である。肺結核で一高を退学したあと、法華経信仰に打ち込むようになり、大正5年、郷里で日蓮主義讃仰会を結成した。その後上京し、本多日生に師事。昭和4、5年ころまで、日蓮主義の布教活動を続けるが、次第に社会問題に関心を持つようになり、昭和6年、ついに日蓮主義と訣別。釈尊の人格を讃仰し、かつ、資本主義打倒を目指すことを綱領とする、左翼色の強い仏教団体−『新興仏教青年同盟』−を昭和6年に結成する。言ってみれば、ここに「赤い仏教徒」が誕生したことになる。戦前戦中、日本の仏教諸団体が、すべて戦争協力へとなだれこんでいった中で、ただひとり妹尾だけが、国家や戦争に抗した仏教徒であったとも言われる。妹尾自身は「アカになったのではない」「釈尊の精神に還っただけだ」と主張するが、結局、その活動を当局に睨まれることになり、特高警察にしょっぴかれてひどい迫害を受けたこともある。思うに、この迫害と、他の仏教徒の完全な無視こそが、その後の妹尾の思想を必要以上に「左傾化」させたのではあるまいか。

戦後1960年(昭和35年)、妹尾いわく「念願の」、日本共産党への入党を果たした。そして、その翌年に死去。享年72歳。

 と、妹尾義郎の生涯をまとめてみて、すぐに疑問に浮かぶのは、なぜ妹尾は「赤い仏教徒」になったのか? ということである。乱暴に分類すれば、妹尾は昭和6年を境として、右翼的な「日蓮主義」から、左翼的な「新興仏教青年同盟」へと「転向」したのである。それはなぜなのか。すぐに思いつくのは、妹尾が生まれつき、社会の矛盾に目をそむけることのできない性格だったから、というものだ。二つ目は、当時『デモクラシー』や『マルクス主義』等の「左翼思想」が流行っていたので、他の知識人と同じように、妹尾もそれに「かぶれて」しまった、というものだ。この二つの理由は、そのどちらもが妹尾にあてはまると思う。しかし、ここで、私は三つ目の理由を考えてみたい。すなわち、妹尾の仏教「理解」そのものが、その後の妹尾の行動を生み出したと考える視点である。それでは一体、妹尾義郎は仏教をどのようなものと考えていたか。

 妹尾が、日蓮主義時代の昭和2年に書いた「本尊論批判」という文章がある。「本尊論」とは、大正時代末から昭和にかけて、日蓮宗や日蓮主義内部で盛んに議論された一種の仏教教義論争である。簡単に言えば、日蓮宗の信徒は、いったい何を「ご本尊」として崇めればいいのか、という話だ。今のわれわれから見ればほとんどどうでもいいような話であるが、妹尾がこの論争において批判していた対象、怒っていた対象がどういうものなのかを探ってみることで、その後の妹尾の思想の変遷や行動、あるいは日本仏教における妹尾の位置、などを考えてみる一助としたい。

 当時の仏教、あるいは日蓮宗は、十三宗五十六派と言われるほど多くの団体に分かれ、明治初期の廃仏毀釈後の仏教衰退の中で、田中智学(国柱会)や本多日生(顕本法華宗)らのいわゆる日蓮主義運動が、日蓮の名のもとに仏教を復興・統一し、さらには国民思想をも統一することを目指していた。

大谷栄一『近代日本の日蓮主義運動』によると、日蓮主義の最盛期は大正時代の第一次世界大戦ごろのことであり、それでも会員数が五百人とか千人程度というぐらいで、今まで思われていたほど田中智学らの「ファシズム思想」が戦前の国民に大きな影響を与えていたわけではなかったようだ。さて、そのような状況下で、妹尾義郎は初めは田中智学の著作に感激して智学に会いに行くが、大正終わり頃には本多日生に師事しており、昭和2年「本尊論批判」というこの文章も、本多日生の教えを奉じ、日蓮主義の立場から相手側の清水龍山(日蓮宗)の本尊論を批判したものだ。それでは批判されている対象、清水龍山の本尊論とはどういうものだったか。

これは、教義的には「人法不ニ本尊論」と言われるものらしいが、ややこしいので私が適当に要約すれば、マンダラのまんなかに「南無妙法蓮華経」と書いてそれを本尊として拝む、というものだった。妹尾の引用によると、清水龍山のそれは「南無妙法蓮華経の七字は曼荼羅の中央にあるが故に主体なり、本佛なり」という主張であり、「法界的本佛が完全に表象されぬから南無妙法蓮華経を本尊とすべし」という主張である。この理解に妹尾は我慢がならなかったらしい。妹尾の師である本多日生は、徹底した本佛実在の「人本尊論」の立場であり、「南無妙法蓮華経」ではなく「釈尊」を本尊とすべし、「今や日蓮門下の信仰は揺れて居る。それは実在の人格者たる本佛を忘れたからである」とも、また日頃から、「仏教は釈尊に還れ」とも主張していた人物だからである。

妹尾は「曼荼羅の中央だから本尊」「釈尊より南無妙法蓮華経の七字」という清水龍山の考えを批判し、それを正統な「日蓮教学」ではない、むしろ「天台的だ」とする。そして言う。「曼荼羅の中央なる南無妙法蓮華経は、本門の教主釈尊の毎自の悲願の流露したる慧光慈熱であって、断じて寿量本佛の名号ではない」「かくの如く観じ来ると、日蓮聖人の本尊観はあきらかに釈尊中心の帰依三宝の意識信仰であります。」「従って本化の本化たる所以は十界互具一念三千の義理でなく、その基礎の上に立ったる三宝式であって、詳言すれば、統一せる佛宝、統一せる法宝、統一せる僧宝のこの一乗的三宝を意味するもので、更に、これを統一したる釈尊の人格こそ三世十方を貫く唯一の中心価値と信仰し認識することなのであります。」と(いきなり戦前の文章の引用が続くので読みづらいでしょうが、以後この調子で続きますので慣れてください)。

 最後の文の「信仰し認識する」という言い方は、法華経などによく出てくる「信解(しんげ)」を言い換えたものだろう。ここで妹尾は釈尊への信仰を重視している。天台宗は「智」や「観」を重んじたが、日蓮はそれらを否定して「信仰本位」の立場を確立した。日蓮の信仰意識は常に「個性的・渇仰恋慕の常住」であった、と言っている。妹尾は、マンダラを掛け軸にしてその前でお経を読んだり変な妄想に浸っている当時の(今も)仏教徒の姿に我慢がならなかったのではないか。この一年後に書いた妹尾の『昭和維新』という文章になるが、「閻浮第一の本尊を床の間に安置する曼荼羅や、その前に合掌唱題する形式にのみとどめてはいけないのだ。まことに、佛陀のみ名による信愛の行為そのものにまで展開し体験せねばいけないのだ。」とも言っているからだ。

そして私はここに、最近読み終えて深い印象を受けた、松本史朗『縁起と空』の議論を無理やりひっぱってきて、ここにあてはめてみたい。『縁起と空』も妹尾義郎の本も、筆者(sinceke)が最近せっかく図書館から借りてきて一生懸命読んだ本だから、返却する前にどこかで一度は使ってみたい、という手前勝手な欲望があるのは事実である。さて、松本『縁起』によれば、仏教には昔から「縁起思想」と「如来蔵思想」との対立があり、釈尊が悟られたのは、この世に実体はないという「縁起観」のほうであり、世界に「基体」を認めるような如来蔵思想は仏教ではない、ということだ。そしてこの日本という国では悲しいことに、常に「如来蔵思想」のほうが優勢になってしまう、と。私はこれにはなるほどと思ったので、妹尾義郎と清水龍山の対立に、すぐさまこの「縁起派」と「如来蔵思想派」の対立をあてはめて見てしまった。

しかし、これはそれほど強引な見方ではないと思う。なぜなら妹尾の引用によれば、清水龍山はこんなことも言っているからである。「本佛は実に十界三千の諸法の能縁起(sinceke注:「縁起するもの」)の総体実在、十界三千の諸法は所縁起(「縁起されるもの」)の別相、事用、現象にして、法界一法として本佛の随縁分身散体ならざるなく、三千一塵として本佛の縁起、普賢色身ならざるはなしと立つる、本化不共我家独特の縁起論なり。」「此の佛は個性的ならずして法界的なり。即ち法界三千の総体なり父なり。法界三千は父なり子なり。茲(ここ)に生佛一体、父子一体、佛は能縁起の本体(父)にして我等は所縁起の別用(子)、即ち佛界縁起、事の一念三千の大曼荼羅は成立するなり」

−これが、清水龍山の縁起理解である。世界の基盤や根源として「法界」を立てて、そこから全てが流出してくる。「仏」は父であり「衆生」は子である。仏を中央にして世界の「全体」は「空間的」に、曼荼羅として現出し、調和している。このような考え方を、「如来蔵思想」というのではないだろうか。先に引用した清水の「法界的本佛が完全に表象されぬから南無妙法蓮華経を本尊とすべし」という言葉も、「言葉を超えた」ところに「法界的本佛」を立てるところが「如来蔵思想的」とは言えないだろうか。妹尾もこれでは「まるで旧約聖書にある天地創造の世界観」じゃないか、と反発している。そして私はこのあたりに、妹尾が後に日蓮主義を「御用宗教」と批判し、ついに師の本多日生とも袂を分かち、新興仏教の旗を掲げて、「仏陀を背負いて街頭へ!」というスローガンを掲げた「原因」があったのではないかと推測する。

 性急に結論を急ぐと、妹尾は、すべてが「一如」である「仏の世界」を信じ、かつ憧憬しながらも、世にある差別相、個別相にはつねに敏感であらざるをえなかった。『本尊論批判』で妹尾は「差別相」に関して、本多日生の文章を引用している。本多が日蓮の遺文によりながら、清水の佛界縁起観を批判するくだりである。「清水師の佛界縁起観は、ここにその中心意義をおかれたもののやうです。けれども、わが日蓮聖人は、この天台式な平等論では満足できなかった。さらに、進んで、本門の差別相、価値観を闡明するために、(ニ)においては価値観的質疑を構えて法界の平等相に対して差別相の波瀾を起こし、(三)によっては、法性の妙理(実相)の当処にさへも、「染浄の二法なる」差別相を認識し、従って、事相(諸法)に、相対立する悟の佛界と、迷の衆生界、ひっきょう迷悟十界の個性的、相対的なる差別相を認識せしめ・・・」という部分を妹尾は引用し強調するのである。

そして妹尾は続ける、「ここにおいて知らねばならぬことは、前にも言った「無性といふ性がないごとく」用(ゆう)(=現象)に先行する、或はこれより遊離し独立する実体(実相)はないのであって、体とは畢竟、さまざまなる用(ゆう)即ち差別的現象から抽象したる共通性平等性、即ち概念であり用の属性であり、内容であって、(・・・)そして、用(現象)は個性的相対的差別観であることである。」「一般は特殊の属性なのだ。法身報身は所詮、応身の属性となるべきだ。」「実在は個性的なのだ。」

 私は、妹尾のこうした「差別相」の重視と、それに加えて、妹尾のよく使う言葉である「釈尊への恋慕渇仰」こそが、後に妹尾を日蓮主義から離脱せしめかつ仏陀を背負いて街頭に立たしめた、その当体であったと言いたいのである。


妹尾義郎(2)−法華経の爆発−

 戦前の日本では、日蓮主義がちょっとしたブームだった。そして日蓮が依っていたお経は、法華経である。現在でも仏教系新興宗教団体の多くが、法華経に依っている。日本では、昔から人気のあるお経だった。さて、それでは、日本人にとって法華経とは何だったのか? これについて、最近では大角修『図説法華経大全』(学研 2001年)が私には読みやすかった。こなれた現代語訳に、法華経の「美しい」漢文書き下し文が併記されている。日本人にとって、ふりがなつきの漢文書き下し文が「綺麗」と思えるかどうかも、日本の仏教受容に関して重要なことであると思うので、私はこの編集スタイルを気に入っている。

 私は、ずいぶん前、美輪明宏の『紫の履歴書』を読んだときに、そこに引用されていた『観音経』が、それが漢字かな混じり文の言葉の配列であるがゆえに、きらきら輝いて見えたことを覚えている。さて、私が法華経の経文を読んで、もっとも重視するのは、「仏陀はほんとうは死んだのではなくて、隠れてただけ」ということを書いてある箇所である。すなわち、仏陀は完全な涅槃に入ってしまった、お釈迦様は死んじゃってもういない、と皆が思っているが、実はそうではない。仏は「実には滅度せず」と言う。そこから「恋慕渇仰」という言葉が飛び出してくる。仏は言わば「死んだふり」をしてただけで、衆生の「恋慕渇仰」が生じるのを待って、再び世に現れ出るというのである。

 「衆、我が滅度を見て広く舎利を供養し、ことごとく皆恋慕を懐いて渇仰の心を生ず。」「我、諸々の衆生を見れば苦海に没在(もつざい)せり。故(かるがゆえ)に為に身を現ぜずして其れをして渇仰を生ぜしむ。」「其の心、恋慕するに因って乃ち出でて為に法を説く。」・・・私は、法華経のこのくだりを読んだとき、ここで唐突に『2ちゃんねる』という掲示板の用語を使わして頂ければ、

 ガクガク(((((゜Д゜)))))ブルブル  ・・・と心を震わせてしまった。いろいろな意味で。だってそうだろう。釈尊のこの言葉は、まるで恋人の心をもてあそぶかのような、あるいは、「弱い」衆生の心を見透かしたような言葉ではないか。

「貴方ってひどいわ! あたし貴方がいなくなったと思って毎晩泣いてたのよ。それなのに、私が心配するのをわかってて、そんなところに隠れてらしたのね。私、あなたは死んでしまって、ここにはもういない、と思ってた。いや、そう信じようとしてた。私、貴方のことはもうあきらめて、貴方の骨(舎利)を入れたこのペンダントをいつも肌身離さずもってたわ(怖い・・・)。それなのに、嗚呼! いつも瞼に思い浮かぶのは貴方の御顔ばかり。幾夜と、幾夜と、幾夜かが過ぎて、瞼を泣き腫らしている哀れなこの妾奴(わたくしめ)に、しかし、今晩とうとう貴方が現れてくだすった。ええ、わかってます。もう我が儘は申しませぬ。妾(わたくし)は貴方なしではいられません。貴方を永遠にお慕い申し上げます。貴方って、ほんとうに、憎らしいお人だと思うわ」、

 なあんてことを言わせるような内容ではないか。これに衝撃を受けた仏教徒は多かっただろうことは想像がつく。仏教徒の心を「見透かした」ような内容だからだ。「なぜ、現在のわたしの前に、仏はいまさないのか? なぜ、仏は完全に涅槃に入ってしまったのか?」「釈尊は天竺に生まれて、どうして、この日本国には現れないのだろうか?」 −このような疑問に、ことごとく答えてくれるのが、法華経だった。私は、このような意味で、法華経は、「釈尊への恋慕」が爆発している、と思っている。だからこそ日本でこんなにも流行した。平安時代後期の、「今様狂い」の後白河上皇だって、法華経のこのくだりを読むたびに、あるいは聴くたびに、思わず一掬(いっきく)の涙を流さずにはいられなかったのではあるまいか。それはもしかすると「仏教徒としてのせつなさ、哀しみ」ではなく、「日本人としてのせつなさ、哀しみ」だったのかもしれないが。

 私はここで石原慎太郎氏のことを思い出す。『法華経を生きる』という著作もある、現東京都知事・文学者であるあの石原慎太郎のことである。氏の政治回想録『国家なる幻影』という本の末尾に、「ふりむいてくれ、いとしきものよ」と銘打たれた一章がある。アメリカは権謀術数の渦巻く横暴な国ではあるけれども、政治家が国家に命をかけて働きかければ、必ずリスポンスの返ってくる国ではある。しかし、日本では、国家に命をかけて働きかけても、手ごたえのあるリスポンスが返ってこない。まるで、いくら呼びかけても振り向いてくれないつれない女のようである。

 そこで石原氏は、日本という国家に対して、「ふりむいてくれ、いとしきものよ」と呼びかけるのである。内奥で、国家なるものが既に「幻影」にすぎないかもしれぬ、という不安を抱きながら。私はこうした石原慎太郎氏の文学者的「弱さ」に共振し、ガクガク(((((゜Д゜)))))ブルブル(しつこい)となるのである。日本という国家は、完全に涅槃に入ってしまったのだろうか? ふりむいてくれ、いとしきものよ。国家への恋慕!

 しかしここで私の議論を、次のようにたしなめる言葉が当然予想される。「あんさんはまだお若いから、そないにレンボ、レンボって言いつのりはりますけど、レンボってそないにいいもんやおまへんで。あんさんが、道を誤らんように、ここで、ゆうときますけど、レンボゆうのはしょうみ、『痛い』もんや。ただ、痛い『だけ』のもんでっせ。これはわしらが言うてるだけのことやおまへん。最近では若いもんの間でも、レンボはストーカー予備軍やとか言うて、分が悪いんとちゃいまっか」

 −しかり、しかり、その通りである。たしかに、恋慕ちゅうのは、無条件にいいもんやおまへん。私が先に、妹尾義郎が仏教徒として「国家迎合」に陥らずにすんだのは、歴史的実在としての、釈尊の人格への恋慕渇仰があったからだ、と言ったのは、恋慕は個的であり、差別的、相対的、時間的であるがゆえに、マンダラのような空間的・汎神的・無差別的な全体性に埋没することを防いだのではないか、という意味で言ったのであるが、現実には、天国への恋慕、神への恋慕、によってテロに走る者も後を絶たない。

 大谷『日蓮主義運動』によると、大正時代、本多日生が日蓮主義宣布のため浅草に建てた「統一閣」に訪れたメンバーは、妹尾義郎の外に、血盟団の井上日召、「死なう団」の江川桜堂、国柱会入会以前の石原莞爾、などであり、寺内『化城の昭和史』には、5・15事件や2・26事件など昭和前期の血腥い事件や、テロリズムには、ことごとく日蓮主義者や法華経信者が関わっている、という指摘もある。寺内の小説風の作品『化城の昭和史』は、その題名を法華経の『化城喩品』の「化城のたとえ」から取っているのであるが、そこではやはり、寺内氏は、日蓮主義者たちが戦前に夢見た「国家」とは、「化城」にすぎなかった、つまりは「幻」にすぎなかった、と総括している。

 たしかに、2・26事件の青年将校たちなんか、「幻の国家」ーというより、「幻の天皇陛下」への恋慕によって突き動かされているように見える。昭和天皇が「速やかに暴徒を鎮圧せよ」と激怒されているのも知らないで、「陸軍大臣告示」の「大御心を待つ」という言葉に「天皇陛下が我々の行動を理解してくださっている!」なあんて勘違いして大はしゃぎして、武士らしく終わりを清くしようと反乱将校たちが自決を決意した際にも、天皇陛下の「最後のお言葉」を頂こうと、勅使差遣を要望しては、遠く宮城を「目の玉うるうる」させて眺めやっている。天皇陛下のお答えは、「朕が股肱(ここう)の老臣を殺戮す。かくの如き凶暴の将校等、その精神においても何の恕すべきものありや」「自殺するならば勝手に為すべく、かくの如き者に勅使などもっての外なり」というものである。昭和天皇は、まったく正しく毅然とした態度で対応された。

 私が中学生のころ(1980年代の終わり)、昭和天皇が崩御されたが、そのときの私は友人といっしょに「天皇のまね〜」とか言って「お口ムニュムニュ〜」などと言って遊んでいたのであったが、そのときの私は、反乱将校たちに激高される若き天皇陛下のかかる御姿を知る由もなかった。私は子供の頃、昭和天皇はファーブル先生のような「植物学者」だと思っていたのである。地べたにしゃがみこんで雑草の種類を調べている昭和天皇の姿をテレビで見て、「ファーブル先生」の「仲間」なのかな、と思っていたくらいであった。

 寺内『化城』によると、江戸末期の禅僧・良寛にも、法華経についての『法華讃・転』という文章があり、意外なことに、あの『正法眼蔵』の道元までもが、法華経を座右第一の経典と礼賛しているらしい。良寛の『法華讃』には、法華経を讃嘆して、「実涙は痛腸のうちより出づ」と述べるくだりがあるという。この「痛腸」−すなわち「きりきりと痛むはらわた」、また「実涙」とは、いったい「誰」のはらわた、「涙」なのだろうか。仏陀の慈悲の涙なのか、2世紀頃に法華経を製作した大乗の徒の涙なのか、良寛の涙なのか、それとも日本人のきりきりと痛む「はらわた」だったのだろうか。


妹尾義郎(3)−無常から信愛へ−

 話を、妹尾義郎に戻そう。妹尾は『本尊論批判』を書いた後、だんだんと日蓮主義や日本の仏教総体にたいして疑問を抱くようになり、本多日生が、当時の共産主義の勢力の伸張に対抗するため、また国民の思想を「善導」するために「知法思国会」という組織を作った頃、「これでは御用宗教ではないか」と日記に書き付け、昭和6年には新興仏教青年同盟を設立している。この年は、非凡なる軍人にして法華経信者・石原莞爾が満州事変をくわだてた年でもある。

 妹尾は、『新興仏教の旗の下に』という雑誌を出して、そこで自分の現在の仏教理解について述べている。「従来の多くの宗教者、わけて既成仏教者は頑固にも精神主義を高調していったものだ。『いかに制度組織を改造したからとて、心が改まらぬは駄目である』と。だが、はたして心が改まらねば制度組織の改造は駄目だろうか?」と述べて、御用宗教化してきた従来の日本仏教を批判する。通常、仏教の教理からは、「社会改革」の思想などは、出てきにくいと思われる。インドのアンベードカルのように(『ブッダとそのダンマ』)、仏陀の教えの中に「政治性」を読み取る人物は、日本でも世界でも、かなり少数派だと思われる。

 しかし妹尾は、日蓮の「それ佛法を学ばん法は、必ず先ず『時』を習ふべし」という言葉を引いて、仏教は今や、個人の心の問題だけではなく、社会一般の客観的情勢を相手にしなければならないのだ、と力説する。妹尾は、仏陀の教えと共産主義すら、矛盾しないといって強引に結び付けているように思われる。

 「佛教は『我』と『我所』、即ち個我と私有とを否定して、『無我』と『無所有』とを説かれた教へである。」「迷いとは『我見』『我欲』で、したがって悟りとは『縁起』『無我』の認識にしたがって相互扶助・共存共栄の社会生活をすることであった。僧伽(サンガ)の理想はすなわちそれだがー」などといって、「資本主義打倒」の論理を仏教から引き出すわけだが、私は、かなり違和感を覚える。しかしそれ以外の妹尾の仏教理解は、私にはかなりオーソドックスなもののように思えた。オーソドックス(正統的)という言葉がやや不穏当とするなら、私の現在の仏教理解にかなり近いものを感じると言いかえてもよい。

 妹尾は、当時、仏教学界で定説となりつつあった「大乗非仏説」をすんなり受け入れている。法華経は釈尊の直説金口ではない。大乗仏典は仏教の発展形態である。したがって法華経のみが最高、と考えるのは間違いである。妹尾が準拠した、当時の仏教学の状況を私はよく知らないが、宇井伯寿や高楠順次郎の原始仏教の研究などを読んでいたらしい。

 宇井伯寿は、松本史朗『縁起と空』によると、縁起を「相依(そうい、そうえ)」と言い替えた人らしく、松本史朗は、日本人的な相互依存、もたれあいになりかねない宇井伯寿の縁起理解を批判しているみたいだが、妹尾は「相依相関」の縁起、というふうに、この言葉を使いまくっている。高楠順次郎は、人名辞典によると、昭和の初期に刊行された『南伝大蔵経』に深く関わった人物らしいが、妹尾が新興仏青を旗揚げしたときには、まだこのパーリ語仏典の翻訳は普及していなかったと思う(このへんの前後関係不明)。とにかく当時にあって、こうした近代の学問上の成果を吸収して論を立てている妹尾の態度には感銘を受けた(しかも「信仰」を保持して!)。

 妹尾はまた、ダーウィンの進化論なんてもはや常識、というのである。嗚呼、昭和6年にして、既に仏教徒にこの言葉あり。今ごろになってドーキンス読んで「進化論と仏教は矛盾しない!」なんて鬼の首を取ったかのように吹聴している今の自分が恥ずかしい。戦前の日本人にとって進化論なんか常識だった、というのは山本七平の本などでは読んだことがあったのだけど。

 大正の終わりごろの知識人の間では、原始仏教とか大乗非仏説とか、法華経より阿含経のほうが釈尊の言葉に近いらしい、というような知識はほとんど常識になっていたようだ。例えば、昭和2年に自殺した作家の芥川龍之介はその遺書『或旧友へ送る手記』で、次のように書いている。「僕は紅毛人たちの信ずるように、自殺することを罪悪とは思っていない。仏陀は現に阿含経の中に彼の弟子の自殺を肯定している。曲学阿世の徒はこの肯定にも『やむを得ない』場合のほかはなどというであろう。・・・」などと書いている。

 芥川龍之介にとって、原始仏教は彼の自殺を後押しするものになってしまったみたいだが。なお、経典中の「自殺の肯定」とは、ゴーディカとかヴァッカリのことを述べているのだろうか。この問題にかんして、現代のスマナサーラ長老がホームページ上の質疑応答に答えて、「そんなこと仏教は言ってない。自殺は負け犬です。仏教は、自殺のことをそんな尊大な問題にはしていません」といったことを述べておられる。自殺なんて仏教ではあまり重大な問題にはしてない、といったあたりが本当なのだろうか。自殺となると、みんなすぐ、よってたかって余分な「意味づけ」をしてしまうから。

 「自業自得」に関して。当時は、貧困にあえぐ労働者にむかって、「要は心の問題です。自業自得だと思って耐え忍ぶことです」みたいなことを説教する坊主がいたらしい。もちろん、妹尾は誇張しているのだろうが。妹尾は、かかる無産者に忍従を強いる因果応報思想を打破する目的で、自業自得の「個人性」よりも「社会性」を強調する。

 次のように言う。「さて『自業自得』といへば、一個の個我が設定されて、それの輪廻による所業を『自業自得』とか『三世因果』とかよぶのだが、佛教の根本義が無我主義である限りは、その思想は当然、再吟味されなければならない。」「『自業自得』を正しく解釈するならば、『自業自得』の『自』は個的自我ではなく因縁和合して出来た社会的自我である」ーと、その「業」の「社会的因果性」を強調するのである。このあたりは社会改革者・アンべードカル博士の考えにも近いのではないか。

 妹尾には、「街頭に説かれる無我主義、従って、かの四姓の階級打破運動」ーこれが本来の仏教の姿だ、という言葉も見られる。仏教思想が、現実の社会的差別や苦しみを放置して人々に忍従を強いる、という批判は昔からあったのだろう。因果応報。個人主義。私は、因果応報の思想と、輪廻思想とのドッキングは、徹底した「自己責任の原則」の思想だ、とも思う。人間が悪いことしても、死んでも、生まれ変わってもそのカルマがその主体にくっついて、必ずいつか悪い報いをもたらす、という考え方なのだから。こうした、個人の自己責任の原則ということと、社会的因果との関係については、いろいろと意見が分かれることだろうと思う。このあたり、現代なら、さしずめ社会学者の宮台真司氏の本でも読まないといけないのだろうか。

 妹尾は、仏教は無神論であり、無霊魂主義であり、すなわち輪廻を認めず、無彼岸主義である、と断定する。ここまで言い切ってくれるとむしろさっぱりしていて気持ちがいい。仏陀はその件に関しては「無記」だったから、というのは何だか煮え切らない思いがするから。「佛教は現世にさえも『自我を認めず』といっておるのである。ましてや、死後の自我ー個的霊魂の不滅などはもとより釈尊は考えておられなかったのだ。したがって彼岸もないのである。いわゆる無我主義であり、空観であり、いっさいの存在はもろもろの機縁が和合してできた過程的存在である。」

 「根本佛教は本来アヘンではなかったのだ。結局、佛教は無神論である。」 面白いのは、当時でも輪廻の思想を、エネルギー不滅とか、遺伝とかを使って、「科学的に」説明しようとする人がいたらしいということだ。「生まれゆく子孫の生命は自我の延長だと弁じ」あるいは「物質不滅・エネルギー不滅論を引用して」、霊魂不滅説を支持し、「佛教の感化あるところ釈尊の霊は不滅だ」というふうに色々な説明で。しかし、これらは今言う輪廻のことではない、と妹尾は排除する。現代でも、遺伝子がずっとつながっているので輪廻のようだ、物質はめぐりめぐって生命を形作るので輪廻のようだ、という説明をする人がいるけれど、それらはやはり、「この私が生まれ変わる」という輪廻の思想とは別のものである。

 妹尾はまた、「倫理道徳の見地から霊魂不滅を要請する人」を批判して、「霊魂不滅論は努力の原因とはならない」と結論づける。これは「地獄へ落ちる」とかおどかしていないと、つい人間は悪いことをする、といった議論のことだろう。そうかもしれないが、そんなことはもういいではないか。歴史的な思想として子供達にそういう輪廻を教えるのはかまわないけれど、「昔の人は、こうした考えをもって人間としての倫理を守っていました。でも、君達は、もうそんなことを言われなくても、人に優しくできるよね」、と言って子供達を信頼してあげればいいじゃないか。仏教の無霊魂説、別の言い方もある。仏教は、霊魂があるとかないとか論じているのではなく、既にして「霊魂不滅の要請が不要」であったのだと。

 「お経には『渇仰恋慕』とかいてあるが、実践のない恋慕とてはないはずだ。僕は佛教精神を一言にして常に『無常から信愛へ』と考へておる。」「『四諦』『十二因縁』に対する専門的解釈についてはここでは省略するが、要するに、それは因果の理法とこれに則った無我イズムの実践による人類解放の教理なのだ。」・・・この「無我イズム」という、熟さない言葉には思わず微笑してしまった。エゴイズムとかマルキシズムとかに対抗して、妹尾は無我イズムといったのだろうか。

 現代なら何と言えばいいのだろうか。縁起主義者。パーリ語で、「・・に縁りて」というのはパッチャヤーというらしいから、縁起主義者=無我主義者=パッチャイスト?(友よ、飯を噴き出すことなかれ) ーそして、妹尾の学生時代の校長、新渡戸稲造の人格への恋慕、また乃木希典の人格への恋慕、などから続いているところの、大正教養主義的な「釈尊という人格への恋慕」は、新興仏教青年同盟の『綱領』第一項にちゃんと反映されている。「我らは人類の有する最高人格、釈迦牟尼仏を讃仰(さんこう)し、同胞信愛の教綱に則って仏国土建設の実現を期す」と。また『綱領』と同時に作られた『宣言』という文章には、「仏陀への渇仰」という言葉が二回ほど使われている。「我らの信ずる仏教は、必然の理に即しつつ、実践によって愛と平等と自由とを体証されたる仏陀への渇仰である」というふうに。

 「恋慕渇仰」のうち、「恋慕」という言葉が抜け落ちて、「渇仰」だけになっているのが少々気になるが、資本主義打倒!の勇ましい運動をやろうっていうときに、「恋慕」なんて言葉、そんな人間的に釈尊に恋々としているような、「女々しいこと」なんか言ってられるか、ということなのだろう。このような思想をひっさげて、妹尾は「仏陀を背負いて街頭へ! 農村へ!」と叫び始めた。これは寺山修司の「書を捨てて町を出よう」というスローガンよりかずっと痛切な響きを持っている。

 当時の、新興仏青講演会のビラのひとつには、『昭和のマルチン・ルーテル、熱血妹尾義郎、来たりきけ!!』という檄文が書かれてあった。妹尾義郎は仏教界のプロテスタントであったのかもしれない。しかしその成果が、その言動が、陰に陽に戦後の仏教界に吸収され生かされた、という話を私は聞かない。


妹尾義郎(4)−その他ー

 その他、日蓮主義者のことなどを書いてこの文章を終わりにします。稲垣『仏陀を背負いて』は、妹尾の新興仏青の部員が「仏式の結婚式」をあげていたのを田舎には珍しい斬新なスタイルだったろうと書いて、いかにも妹尾の新興仏青の活動が「モダン」だったことを言いたいそぶりを見せています。

 しかし、田中智学は既に、明治19年に『仏教夫婦論』という講演の中で、「仏教は死人を相手にするを止めて活きた人を相手にすべし。葬式教を廃して婚礼教とすべし」と主張しています(大谷『日蓮主義』)。そして、田中智学を信奉していた石原莞爾は、大正9年、妻への手紙の中で、「真に法華経的夫婦が国の単位となるのでなければ、私どもが熱望やまない法華経的国家が成立しないのです」と述べています(寺内『化城』)。

 これらを見ると、信仰によって夫婦が結びつき、その夫婦が国家の単位となる、という考え方は、かなりに「近代的」なものなのではないでしょうか。言いたいのは、モダンだったのはマルクス.ボーイだけではなかった、ということです。大正9年に、石原莞爾と宮沢賢治が、ほぼ同時期に、智学の国柱会に入会しています。

 宮沢賢治に関する著作もある、現代の見田宗介という学者は、「賢治はこのような倫理的恫喝にだけは弱い人間である」と言っているそうですが(寺内『化城』)、これは「善い」賢治を「悪い」智学から「救済」しようとする言辞なのでしょうか。私は、妹尾義郎の思想を分析するのに、松本史朗の『縁起と空』を使わせていただきましたが、この本の中で松本史朗氏が、「私は『差異』を重視したい」とおっしゃりながら、如来蔵思想批判=日本主義批判=戦前の国体主義批判=女性原理批判=梅原猛批判=中曽根康弘批判=聖徳太子の『和』の思想批判・・・、と、なにもかも「いっしょくた」にして批判されているところは、やや性急だと感じました。

 『縁起と空』は1989年の出版なので、時代の空気の反映もあるのでしょう、氏が現在どのように考えておられるのかは知りませんが、私は如来蔵思想だから、マンダラだから、すぐに国家権力に吸収される、などとは言えないと思います。妹尾の『本尊論批判』で取り上げた清水龍山の思想は「如来蔵思想的」と言えなくもない、と私は書きましたが、大正4年に清水梁山(当時52歳)という人が「日蓮宗では、天皇こそが本尊だ」と、「天皇本尊論」をぶちかましたとき、清水龍山(当時46歳)は「国体迎合曲学阿世」といって徹底的に批判していたのです。

 田中智学にしろ本多日生にしろ、妹尾が批判するように、その活動がすべて「御用宗教化」していたとは思えません。結果的にはそうなりましたが。智学は「能顕の日蓮仏教」と「所顕の日本国体」という言葉を使っており、東洋大学の西山茂氏は、こうした言葉により、「能顕の日蓮仏教と所顕の日本国体との間に、さらには、所顕の日本国体(在るべき日本)と現実の日本の姿との間に、深い溝、鋭い緊張が設定された」、という視点を提示されているようです(大谷『日蓮主義』)。

 大谷氏はこの本の最後のほうで、「現実社会と積極的に関わろうとする日蓮主義は、ややもすれば現実の国家を批判する契機を失っていった」、とまとめておれます。また、大正時代、第一次大戦頃に全盛期を迎えた日生・智学の日蓮主義はその後衰退し、ナショナリズムが再び勃興した昭和初期、智学の後にくる石原莞爾、日生の後にくる妹尾義郎、「彼らによって、日蓮主義の現実批判の言説と実践は継承された」、とも書いておられます。現代では、これくらいの大きな枠組みと実証研究の蓄積によって、戦前の日蓮主義運動も見ていかないといけないのだと思います。したがって、妹尾を読むとき、石原莞爾や満州国のことも同時に私の視野に入っていました。

 『仏陀を背負いて街頭へ』というスローガンも、妹尾の専売特許というわけではなく、既に日生の知法思国会のパンフレット(昭和5年)の片隅に、同じ言葉が見られます(大谷『日蓮主義』の注による)。おそらく、妹尾がそこから借用したのではなく、言葉が共通したのは、同じ時代の雰囲気・切迫感を両者が共有していたからではないでしょうか。

 妹尾には大正13年「日米問題と日蓮主義」という文章があり、当時、国民の間で憤激を巻き起こしていた、アメリカの排日移民法について触れています。妹尾は排日移民法が「人種差別だ」といって日本人が怒るのは当然のことだが、もっと冷静になれ、と呼びかけています。当時の日本国民の「義憤」は、今からは想像もできないくらいの、かなりのものであったようです。

 「或は国民大会はしばしば開かれて盛んに反米的世論を喚起し、或は志士青年の全国遊説となり、米貨非買の檄はあまねく宣伝され、為に米国製活動写真の如きは上映廃止となり、米国宣教師の脅迫さるるあり、嵩じては米旗窃盗の愚挙すら敢行するに至り、その間憤死者数名を出して国民的激昂はいよいよ嵩じ、・・・」、と妹尾はつづっています。当時の日本人にアメリカの国旗まで盗んだやつがいたのか、と私には少々ショックでした。

 最近の東アジアの情勢(上海反日暴動)などをテレビで見るにつけ、いろいろと複雑な気分になります。当時の日本人は、まさかアメリカの国旗を燃やしまではしてないだろうな、とつい心配になりました。妹尾はそこまで書いていないから、まあ、燃やしてはいないと思う。燃やして、ないんじゃないかな。まあちょっと覚悟はしとけ(さだまさし「関白宣言」の歌詞)。妹尾は、国民の義憤に理解を示しながらも、経済的に緊密な関係にあるアメリカとの開戦論、米貨非買などは不可なり、として輸出額や輸入額などの数字をもってそれを示しています。また、排日移民法には人種差別の要素だけではなく、アメリカの「保護主義」の立場があることも指摘してます。そして、人種差別反対という道義的主張には、「内に恥じざるところ」がなければいけないが、日本人にいまだ、中国人や朝鮮人や特殊部落に対する差別が残存していることをも同時に指摘しています。

 このあたりの妹尾のデータ重視や柔軟な視野の置き方は信頼できます。そして我らに米国を難詰する資格ありやなしや、と国民に自省を促します。その頃は妹尾は日蓮主義者だったから、北条氏が蒙古の使者の首をはねたことを日蓮が批判しているのを引用して、内なる問題を省みることのほうが重要であること、「米貨非買、国旗陵辱の如きは、すべてこれ使者刎頚(ふんけい)の愚挙」、と言い切っている。「内に責むるものは栄え、外に難ずるものは滅びる」、と。現代の国際情勢でも、この言葉を自戒としたいです。

 文中少し引用した芥川龍之介は、晩年仏教よりもキリスト教に惹かれていたようです。死の直前まで書いていた「西方の人」というのはキリストのことを書いた文章です。芥川らしく韜晦や理屈っぽいところの多い文章ですが、次のような箇所が、私は前から好きでした。

 「我々はあらゆる女人のうちに多少のマリアを感じるであろう。同時にまたあらゆる男子のうちにもー。いや、我々は炉に燃える火や畠の野菜や素焼きの瓶や厳畳に出来た腰かけのうちにも、多少のマリアを感じるであろう。マリアは『永遠に女性なるもの』ではない。ただ『永遠に守らんとするもの』である」

 「我々は風や旗のうちにも多少の聖霊を感じるであろう。聖霊は必ずしも『聖なるもの』ではない。ただ『永遠に超えんとするもの』である。」

 仏教に興味を持ち出すと「読むべき本」が加速度的に増えてきて、しかも理論が精密にできているので、簡単に人を救ってはくれないし、かなり「しんどい」ものである。この文章を書いていても、仏教はなかなか人間に「厳しい」ものだと思った。最近の『意見交換』の欄のネルケ無方さんの文章を読んでみても、やっぱり仏教って「強い人」のものだ、根性の腐った弱い人間を相手にするものではないのだ、という感が強くなりました。けれどもやはり苦しいときには「苦しいです、サンタマリア!」とうめき声を発せずにはいられないのが弱い人間の常。

 やっぱ俺じゃあ無理か、と心の中でつぶやきます。ヨハネ・パウロ2世も亡くなった事だし。俺、ここらでブッディストをやめて、キリスト教徒になろうかしら、と思っている今日この頃です。

(『妹尾義郎について』終わり)

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