〜〜さん どう生きればいいか。何も考えないことか? 2005,6,10,

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 初めてパソコンでメールを書きます。どうか宜しくお願いします。
 僕は現在27才で無職です。中学生の時に吹奏楽部に入り、音楽を演奏することに感動し、音楽家になることを志しました。高校では合唱部に入り、音大で声楽を学び、卒業してから24才頃までは、ただひたすら歌手を目指して頑張っていました。私にとって音楽が全てでした。
 しかし24才になった頃、生まれて初めて彼女ができました。音楽が絶対だった私の心が少し揺らぎました。彼女とたくさん電話をしたので電話代がものすごく増えました。そこで2ヶ月間パン工場でバイトをしました。ものすごく働いたので月20万も稼ぎました。そして、その2ヶ月間は歌の練習をしませんでした。今までこんなに長い期間歌わなかったことはありませんでした。自分から歌を取ったら何もない、生きていけないとさえ思っていました。しかし、私は普通に生きていました。
 私は急に音楽をする気がなくなりました。そんなことよりもお金をいっぱい稼いで彼女と幸せに暮らしたいと思いました。お金をたくさん稼ぐには何か資格があったほうがいいなと思い、税理士の資格を取ることに決めました。最初の1年はそれなりに真面目に勉強してました。
 しかし2年目から急に税理士の勉強をすることが空しくなり勉強しなくなりました。勉強をしているふりをしながら小さな自分の部屋で空想にふける日々が始まりました。実家暮らしなので働かなくても生活できるのです。そして、その生活は今も続いています。8月にある試験が終わったら就職活動をして何でもいいから働くつもりです。
 空想にふけり始めてから現在に至るまでの約2年間。つらかった。毎日どう生きればいいか考えた。しかし答えは出ない。頭の中で色々考えても同じような言葉がぐるぐる回り続け、ただ頭が痛くなるだけ。無理矢理結論を出しても次の日にはそれは否定される。どんなに理論だった答えも理論により破壊された。
 『何も考えない』という結論は何度も出た。しかしすぐに不安になる。『何も考えない』ということを考える矛盾。『何も考えない』ことの正しさを理論だてようとする自分に苛立つ。
 私には難しい哲学的な考えは分かりません。ただ、この頭のモヤモヤを取りたいのです。頭の中でぐるぐる回る、無限の苦しみの連鎖はもう嫌なのです。とにかく私は何をすればいいでしょうか?やはりあれこれ考えるより座禅が1番でしょうか?
 座禅や見る練習、見ない練習で一番大切なことは何でしょうか?やはりとにかく何も考えないことでしょうか?

 思っていることを素直に文章にしたのでとても幼稚な文章になってしまいました。こんな私でよければこれからも末永く宜しくお願いします。


曽我から〜〜さんへ  2005,6,12,

拝啓

 メール拝受いたしました。

 「何をすべきか?」の問いに悩んでいた私自身の学生時代を思い起こしました。「あたりまえ、、般若経」の町から来た娘が語ることが、ほぼその頃の私のことです。

 今の私は、その頃からも、また「あたりまえ、、」を書いた頃からも、多少は進歩していると思っています。今から振り返ると「あたりまえ、、」は梵我一如的傾向を色濃く残していますし、特に「見ない練習」の背景には、対象化(意識の指向性)を停止すれば、自分を含めた世界の全体を全体として一挙に知ることができるに違いないという、愚かな期待がありました。

 学生時代、私も鬱々とした悪い状態にいたのですが、当時どのようにしてそこに完全に落ち込まずにすんだかというと、私の場合は、外の自然をながめることが救いになりました。特に、木立とか、鳥とか、雲とか、高いところにあるものを見上げて、気持ちを開くことが、、。これは、一時的な対症療法にすぎないかもしれません。でも、ずいぶん気持ちが軽くなりました。お試しください。

 対症療法ではなく根本から悪い状態を変えるのは、やはり無常=無我=縁起という釈尊の教えを理解することだと思います。それは、何も考えないことではなく、その反対に、よく読み、よく考え、よく観察することで達成されると思います。その過程の中には、自分という反応の反応の仕方を常日頃から整えること(戒)や集中力を高め自分という反応を乱れのない反応にすること(定)も含まれます。そのつどの風や薪(縁)にいちいち過剰に反応する紅蓮の炎(凡夫の日常的あり方)ではなく、風のないところで静かに燃えるろうそくの炎のように、自分という反応をしばらくでも静謐に保った上で、集中してよく観察して自分の理解を検証し、学び直し考え直し、無常=無我=縁起が自分のこととして腹に落ちて納得できるまで繰り返し検証するのです。

 自分が、独立自存の変わらぬ存在ではなく、周囲の現象とシームレスにつながり、入れ子になりながらダイナミックに変化している、縁によるところの無常にして無我なるそのつどの現象であることが見えてくれば、自分への執着は薄まり、同時に、自分という現象も、他の現象も、それを超えるもののない、はかなくも一回的なかけがえのない現象として、大切に思えてくるのではないかと感じています。

 検証してみて下さればうれしいです。
 その結果をまたお知らせ下さい。
                                  敬具
〜〜様
          2005,6,12,              曽我逸郎

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