ニックネームさん 苦・快・涅槃  2005,6,19,

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ふとネットを見ていたらこのHPに入りました。
興味深く見させていただきました。私も仏教思想にはかなり興味があります。
しかしすでに貴HPには先行の論文ややり取りが多数あり、とても一気には読めそうもありません。
今回は《一切皆苦は快を含む。凡夫は執着依存症》についてのみ感想と疑問を述べたいと思います。

>仏教の説かんとする苦は、「一時的な快」とか「一時的な楽」に対する「一時的な苦」ではない。涅槃に対するところの一切皆苦だ。一切皆苦は、「一時的な苦」のみならず、「一時的な快」をも包含しているのである。
>凡夫は、執着依存症の状態にある。快を楽しむことは、欲望・執着の一時的充足であり、一切皆苦の歯車をまわし、苦をさらに深める。これが「一切皆苦」の意味だと思う。(抜粋)
苦のみでなく、その反対の一時的な快も「一切皆苦」の流れの中にあるという考えには賛成いたします。しかしそう「一切皆苦」を定義すると、その反対の涅槃は苦も楽もない境地になってしまう気がします。その場合の涅槃とは感情のない状態なのでしょうか?もしくは一喜一憂しないような、囚われのない境地なのでしょうか?
次に上記の「苦」への鋭い考察を反対概念の「楽」に反対に当てることができるような気がします。つまり「一切皆苦」でなくなった状態が快(つまり涅槃)として追求できないかということです。(一時的な快は当然幻のようなものとなります)その際、「一切皆苦」は方便となります。

また、快不快、苦楽という問題は多分に価値的な要素を含んでいると思います。同じ分量の仕事がAにとっては辛く、Bにとっては楽であるようなことが度々あります。
「苦」という問題が価値の判断をベースに、もしくは一部でも関わっているかぎり、真理的なものと捉えられている無我や縁起には結びつかないのではないかと思うのです。真理とはどこにでも(たとえ人類が絶滅しても)妥当するようなものであるからです。上記のような現実を解釈するために仏教思想では業や輪廻の思想を、たとえ一般的としてではあっても(もしくは本当にそうであるとして)承認しているという風に私自身は考えています。

以上の疑問を抱きました。
長文申し訳ありません。もしも貴方様の返答が頂ければ幸いです。


曽我からニック ネームさんへ  2005,7,3,

拝啓

 返事が遅くて申し訳ありません。

 おっしゃるとおり、快と苦との間を右往左往しながら苦を深めていく凡夫のあり方が一切皆苦であり、そうではなくなったあり方が涅槃だと思います。ですが、涅槃は、感情のない状態ではありません。

 涅槃には、勿論、苦を深める一時的な快はないし、怒りや妬みや恨みなどもないはずです。でも、心を痛めたり、穏やかな満足はあると思います。

 昔、家族連れでにぎわう休日の公園で、駆け回る子供たちやお弁当を広げる家族を見渡しながら、ゆったりと歩く老婦人を見かけました。しっかりとしていると同時にゆるやかな歩調で、やさしい微笑みを浮かべながら人々の中を歩んでいくその姿には、神々しいという表現があてはまるような、不思議な深い印象を受けました。
 その老婦人が仏であり完全な涅槃にいた、とは申しません。しかし、ブッダダーサ比丘は、涅槃には一時的な涅槃もあり、浅い深いもある、といったことを言っておられます。その時のその婦人は、おそらく或る種一時的な涅槃にいたのではないでしょうか。苦を深めることのない、穏やかな、赦し、肯定し、受け入れ、人々の楽しみを喜ぶ気持ちだったのだろうと想像します。

 簡単に言ってしまえば、涅槃においては、慈悲喜捨、(捨が感情かどうかは微妙ですが、)少なくとも慈悲喜の感情がある、と考えます。

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 次に、苦と無我や縁起とは結びつかないのでは、というご意見に対しては、以下のように考えます。

 我々の苦の原因は、我執です。
 ・・・「もの(自分も)は不変の価値を備えた<存在>であり、プラスの価値を持つものを獲得し、マイナスの価値を持つものを排除し、自分を守り拡大せねばならない。」
 このような先天的な我執の反応の繰り返しが私たちです。
 しかし、本当は、執着の対象も、我々自身も、そのような<存在>ではなく、無常にして無我なる縁起によるところのそのつどの現象です。無常にして無我なる縁起によるところのそのつどの現象を、不変の価値を備えた<存在>として、執着し、獲得しよう、排除しようとするから、一切皆苦となる。よく観察して、無常=無我=縁起に気づき、我執による自動的反応を改変せよ。そうすれば一切皆苦のあり方を改めて、涅槃のあり方となる。

 苦の原因は、無常=無我=縁起に気づかないことであり、無常=無我=縁起に気づき、それを自分のこととして納得することによって、苦の生産を停止できるのです。

 これが釈尊の教えではないかと考えています。
                                  敬具
ニック ネーム様
          2005,7,3,            曽我逸郎


ニック ネームさんから  2005,7,4,

ご返事をいただきありがとうございます。さっそく返信をいたします。
今後とも定期的に貴HPを見させていただき、また自身に生かしていきたいと思います。

さっそく返事を添えさせていただきます。

>涅槃には、勿論、苦を深める一時的な快はないし、怒りや妬みや恨みなどもないはずです。でも、心を痛めたり、穏やかな満足はあると思います
以上のことや以下の具体例を見ると、「苦」の超克や消滅というものは一種の段階的な境涯論のようなものであると捉えられると思います。「苦」や「煩悩」や「無明」と言われるものが自身の境涯によって消滅させ、また乗り越えられるものであるということと捉えてよろしいのでしょうか?
もしもそれが正しいとすると、そのためにはどのような行動や考え方が必要とされるのでしょうか?曽我さんが言われているように、「苦」の問題は避けようとしても中々抜け出すことができないものです。正しくその境涯に至る道を釈尊の弟子たちは追及し、ある意味では仏教の歴史そのものが「苦」からの離脱の問題の追求そのものと言ってもよいほどです。(禅定や苦行、写経や称名念仏など)
曽我さんはこれら実戦方法のうちで、どれが最も「苦」を超克していく上で相応しいものであると思われますか?
もしくはこれ以外で有用な方法を提示できる可能性があると考えられていますか?
>我々の苦の原因は、我執です。
 ・・・「もの(自分も)は不変の価値を備えた<存在>であり、プラスの価値を持つものを獲得し、マイナスの価値を持つものを排除し、自分を守り拡大せねばならない。」
 このような先天的な我執の反応の繰り返しが私たちです。
「苦」の問題が突き詰めていけば「我執」に行き着くことには賛成です。結局それら「苦」の原因を自身が作り出していると考えられるからです。また「苦」を作り出す自身とは自我への執着を前提としていることにも同意します。
しかしここで問題があるとすれば、そのような我執=苦の原因を先天的(アプリオリ)に認めていいのかということであると思います。
もしそれを認めるとなると、いのち(のようなもの)には悪の部分と善の部分の二種が本来同居していることになるように思われます。それが宇宙的な「いのち(のようなもの)=無常、無我、縁起性のもの」であったとしても同様です。
無常や無我、縁起といわれるものそのものが問われていきそうですが、本来的に善悪二種のものが同居していると考えていいのでしょうか?その中で悪の部分を消し去ることが涅槃なのでしょうか?しかし本来的(先天的)であればそれら悪の部分を消し去ることは出来ないように思われます。縁起ではなくなるからです。この問題は僕自身解決しておらず、今後も追及していくことですので、考えが聞ければ幸いです。

返事はいつでも結構です。大変に難しい問題であると考えますし、以後のやり取りの中ででも関わっていくと考えます。


再び曽我からニック ネームさんへ  2005,7,18,

前略

 返事が遅くてすみません。
 早速に。

 >「苦」や「煩悩」や「無明」と言われるものが自身の境涯によって消滅させ、また乗り越えられるものであるということと捉えてよろしいのでしょうか?
 正しい努力(精進)によってそれを成し遂げよ、というのが釈尊の教えだと考えます。
 >そのためにはどのような行動や考え方が必要とされるのでしょうか?
 戒定慧の三学。もう少し詳しくは、八正道。まず、言葉によって正しい見解を学ぶこと。そのつどの自分という反応を整え、良い癖をつけ、静かな落ち着いたものにすること。自分という反応をよく観察すること。言葉で学んだ見解を自分という反応の観察において検証すること。無常=無我=縁起を自分のこととして腹に落ちて納得すること。
 >我執=苦の原因を先天的(アプリオリ)に認めていいのか
 我執は、生命という「自分を守り育てようとする強い傾向」に根ざし、それが進化発展した結果生まれた反応です。すなわち、我執は極めて自然な反応です。それゆえ万人が共有しており、抜きがたい反応です。
 >宇宙的な「いのち(のようなもの)=無常、無我、縁起性のもの」
 >無常や無我、縁起といわれるものそのもの
 無常=無我=縁起は、我々が接し考えるすべて(我々自身も含む)に共通の性質です。「無常や無我、縁起といわれるものそのもの」が存在するわけではありません。無常にして無我なる縁起の現象を超越する「存在」は存在しません。「宇宙的ないのち」というような「超越的存在」を想定することは、梵我一如型の思想であり、釈尊の教えとは相容れないと考えます。

 無常にして無我なる縁起の現象に縁起する無常にして無我なる現象である我々は、生命の本質である自分を守り育てようとする反応が高度に進化した結果、自分に有利な現象・不利な現象をカテゴリー化して、変わらぬ価値をそなえた実体として捉え、そのつどの現象である自分をも実体視し、それらの仮想実体に執着しています。そうすることが自分を守り育てることに結果的に有利に働いてきたので、そのように進化してきたのです。この進化は、目先自分を守り育てることには有利でしたが、苦を生み出しました。
 現象を実体視し執着するから苦がうまれる。現象を現象であると正しく見て納得することで、執着は解消される。そのように考えます。

 このことは、「善悪の問題」というより、正しい見方か間違った見方か、の問題です。現象を存在として間違って対象化し執着することが苦の原因です。現象を現象として正しく見ることが「覚り(誤りに気づくこと)」です。ただし、自分を現象として正しく目の当たりに見ることはきわめて難しい。我執は、あらゆる執着の中で最も根強く抜きがたい自然な反応ですから。

 以上、少々はしょりすぎかもしれません。ご不明の点は、扉ページの「Googleサイト内検索」でキィワード検索していただければ助かります。
                                草々
ニックネーム様
         2005,7,18,                曽我逸郎

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