萱谷 和之 さんより 空について 2002,10,22,

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拝啓

大変詳しい考察を加えていただきありがとうございます。
            

「sunya」の時代的な変遷は、曽我さんが綿密に検証されておられる通りで、大筋よろしいのではないでしょうか。
ただ、大乗がなぜ「空」を実体化させたのか、ということに関しましては、私は曽我さんとは異なる意見を持っております、私の考えは後ほどお話いたします。

次に「空性」についてですが、これに関しても曽我さんと少し意見が違うのかもしれません。
「sunyata-空性」は「sunya」を名詞化しているという点で、その時点ですでに変質しています。たとえそれが動名詞であろうと同じことです。「空であること」と言ってしまうとそれは「空」に枠をはめたのと同じです、「空」を固定化したしたとも言えますし、定着化させているとも言えます。後の時代のあからさまな実体化とは異なりますが、明らかに「実体化の始まり」です。 初期仏教の立場から言えば「空」はあくまでも「空なり」です。

立川武蔵氏の著作は読んでおりませんが、曽我さんの要約を拝見して荘子の一文が浮かびましたので引用しておきます。
                               「有なる者あり。無なる者あり。いまだ始めより無あらざる者あり。いまだ始めよりかのいまだ無あらざるもの有らざる者あり。にわかにして有無あり、しかもいまだ有無の果たしていずれか有にしていずれか無なるやを知らず。」(有るということが有る。無いということが有る。無いということさえ、もともと無いということが有る。また無いということさえもともと無いということ、それさえもともと無いということが有る。〔事物の始原をたずねれば、果てしもないのだが、現実世界では〕にわかに有無の対立が生まれることになる。そしてその有無の対立は〔要するに相対的なものだから〕どちらが有でどちらが無だか分からない。---金谷 治 訳)
色と空の関係は、有と無の関係によく似ております。有は本来、無と対立するものですが、やがて無の方に引き寄せられていきます、すなわち無が有を生む源泉であるという考えです。そして最後には有は無と一つに重なります、それが「有無の果たしていずれか有にしていずれか無なるやを知らず」です。

大乗の「空」と荘子の「無」の違いに対する私の考えを言っておきます。大乗の「空」から無自性という衣を取り去れば、それは荘子の「無」と同じものです。
「空」に有無の対立はありません。「色即是空、空即是色」です。荘子の「無」にも有無の対立はありません。「有無の果たしていずれか有にしていずれか無なるやを知らず」です。
一方、荘子の「無」に自性、無自性の概念はありません。少なくとも無自性は絶対にありません、荘子は根っからの自性論者です。
                          「空」は無自性という衣を着せられた為に、とてつもなく巨大なものに変貌しました。私などは、荘子の「無」だけでも持て余しているのに、それに無自性までくっ付いているのですから、とても手におえません。

最後に、個人的な見解を述べさせてもらうなら、「空」は本来、釈迦の思想とは何の関係もありません。「スッタニパータ」に出てくる一度だけの「空」は、単に「虚妄である」という意味で使われているにすぎず、それ以上のものではありません。「空」に特別な意味を持たせてはなりません、また特別な意味を求めてはなりません。
釈迦の思想は、「縁起」に始まって「縁起」に終わる、そのように思っております。

次に大乗が「空」を実体化させた理由について私の考えを述べます。

宗教や神話は、この世界の始まりから終わりまでを語るものが殆んどです。
終末について語るものは、それほど多くはないのかもしれませんが、世界の始まりについて語らぬ宗教や神話は、まず無いと言っても過言でないでしょう。
これに対して、釈迦の思想の範囲は限定されております。釈迦の思想には、世界の始まりだとか、この世の終わりだとか、あの世だとか、そういったものは一切ありません。釈迦が思索の対象とされているのは、私たちが現実に目の当たりにしているこの世界であり、「生・老・病・死」など身近な事象を対象とし、また外に向かってというより、内へ向けての思索です。   これが釈迦の思想の、大きな特徴と言えると思います。
   

先ほど「始まり」について語らぬ宗教や神話は皆無と言ってもいい、と申しましたが、釈迦の思想には、この「始まり」の部分がありません、釈迦においては「始まり」は「無記」の領域に属することがらとなります。
要するに、釈迦の場合はいわゆる思想、哲学であって宗教ではありません。宗教は信仰の対象となるべきものがありすが、釈迦の教えの中には、そのようなものはありません。最初から宗教という体裁をとっておりません。したがって「始まり」もなければ「終わり」もありません。
釈迦が「信仰をすてよ」と言われているのは、文字通りの意味です。ご自身、信仰や宗教を説いているつもりは全く無いのですから。

「始まり」・「始め」がないと言うことは、人間には耐えがたいことのようでありまして、何事を考える際にも必ず「始まり」・「始め」から考えます。途中から考え始めるということは、まずありません。途中から考え始めますと、何か忘れ物をしてきたようで、どうにも心が落ち着きません、人間の精神構造はそのようにできているようです。

荘子を例に考えてみましょう。荘子の場合も宗教ではありません、思想、哲学です。しかし「始まり」に関する記述はちゃんとあります。
「無」です。「無」が荘子における、世界の「始まり」に相当する部分、と考えられます。
荘子は無神論者です。「自然=自性」を説く以上、神(真宰)を認めるわけにはまいりません。したがって、「始まり」に神を置くことはできません、「神」に代わるものとして、荘子が置いているもの、それが「無」です。荘子が「無」というものを万物の根源に置いている最大の理由は、実はここにあると考えております。

大乗が「空」を実体化させた、理由も、まさにこの目的の為だと私は考えております。
意識的か無意識的かは、確かには言えませんが、おそらく無意識的に釈迦の思想に欠落している部分を補おうとしているのだと思います。そういう意識が働いていると考えます。

有神論者は「始まり」に神を置くでしょう、無神論者は神に代わる超越的な、なにかを探さなければなりません。仏教においては、それが「空」なのだと考えています。

新しい思想が生まれ、それが宗教へと発展していく過程において、必ず宗教らしい体裁を欲することとなります、「始まり」が無いと体系化された宗教、という体裁にはならないのです。少なくとも、当時の人はそのように思っていたはずだ、と考えています。
このように考えてみますと、大乗が「空」を取り込んだということも、あながち非難はできないでしょう。「空」を取り込んだことによって、宗教という体裁が整い、一般にも受け入れやすいものとなったのではないでしょうか。単に大乗が「利他」を説いただけでは、その後の仏教の興隆が、今日のようなものであったか疑問です。

曽我さんが、ついつい名詞的「空」を考えてしまうのも同じ理由です。曽我さんが、「あたりまえのことを方便とする般若経」の中で語っておられる「空」は、「始まり」そのものではないでしょうか。「・・・空は力だ。存在の要素を吐き出し、呑み込み、結びつけ、引き離す。世界を生み出し、世界を変える。・・・」(「あたりまえのことを方便とする般若経」より)。
曽我さんが空性を考えている時、あなたの意識は「無記」の領域に向かっています。そのことにご自身、気が付かれていないだけです。縁起するこの世界に対して空性を唱えておられるわけではありません。したがって釈迦の思想に何の影響も与えません。
「始まり」について考えたり、語ることは何の問題もありません。考えることの方が自然であり、当然のことでしょう。私だって考えます。

「無記」の領域に属することは、どこのどなたが何を考え、何を語ろうと、釈迦の思想に何の変更を与えるものでありませんし、変更を与えることなどできはしません。
私も曽我さんも「無記」の領域で自由に遊ばせてもらっているだけのことです。ただ曽我さんが、龍樹の呪縛に囚われて、「空 即 無自性」を引きずったままに「空」を「始まり」に置かれるのであれば、本来の釈迦の思想を追究する者としては、多少問題があります。そうであるのなら、この際ぜひ龍樹を乗り越えてください、それでこそ「あたりまえを方便とする般若経」が真に生きてくると思うのですが・・・。

念願の田舎暮らしを始められるそうで、おめでとうございます。
実り多き日々となられますよう、お祈りいたしますとともに、心よりエールを送らせていただきます。引越しやら何やらで、お忙しいことと存じます。お疲れを出されませんように。

敬具

曽我 様
                               萱谷 和之

追伸
近日中に縁起論を送らせていただきます。そちらの方を読んでいただければ、もう少し私が考えていることが、はっきりすると思います。


萱谷 和之 さんへの返事  

すみません。まだお出しできていません。しばらくお時間を下さい。

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