青木庸三 さんより アフガニスタン、松本氏の「縁起と法」 2002,10,20,

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曽我 逸郎 様

ごぶさたしております。メールをいただいてから夏が過ぎ、既に秋になってしまいました。ホームページを拝見すると、「半分出家」の生活に入られるということ。その支度やらでお忙しいことと存じます。

私の方は、ここ数ヶ月仕事がかなり忙しく、煩悩に振り回される生活で、結構疲れてしまいました。家では妻や娘に邪魔されてなかなか瞑想もままならないので、「半分出家」の生活に入られることは、本当に羨ましく思います。

さて、同時多発テロから1年が過ぎましたが、世間はそろそろテロとかアフガニスタン戦争を忘れ始め、次々とフレッシュな話題を追いかけているようです。最近は、北朝鮮の拉致問題でしょうか。しかし、拉致被害者の家族の方々の思いを置き去りにして、暫く狂想曲が鳴り響くでしょうが、そのうちこの問題にも飽き、世間は次の心を躍らせる話題へと飛びついていくでしょう。他人の悲劇など誰も真剣には考えていないのかもしれません。

 先日、こんな新聞記事を見つけました。

『空爆で妻子死亡、在留特別許可のアフガン人男性が自殺
旧タリバン政権下の迫害を逃れて1999年に来日し、昨年11月に法相の在留特別許可を得たアフガニスタン人のユノス・タヒリさん(30)(大阪市生野区)が10日未明に自宅マンションで首つり自殺していたことがわかった。タヒリさんを支援してきたカトリック大阪大司教区によると、タヒリさんは、米軍の空爆でアフガニスタンにいた妻子が死亡していたことが今年1月に判明し、「もう少し早く在留資格が得られれば、家族は死ななくてもよかった」と漏らしていたという。
大阪府警生野署によると、母国語で「私は生きていてもごみのようなもので、意味がない」などと記された遺書があったという。(2002年8月12日:読売新聞)』

我々は自分の周辺の人間を殺すことには非常な罪悪を感じますが、「敵」を殺すことはむしろ奨励すべきことのように考えています。一般社会で殺人をすれば極悪人扱いされますが、戦争で敵を千人殺せば英雄です。空爆で民間人が何人死のうとそれは「誤爆」の一言で片づけられてしまいますが、その背後では、言いようもない悲劇が存在しているのです。しかし、殺人者は、そのことを気にとめようともしない…
正義のためのテロで人殺しをするのと、反テロの正義のために人殺しをするのは、悪という点では全く同じですが、現代では、ある種の観念、レッテルのために残虐行為が正当化されており、その点が非常に危機的に思えます。観念の一人歩き、テロ、反テロ、テロ、反テロの連鎖…その中で人間は「生きていてもごみのようなもので、意味がない」存在となり果てているのです。

最近特に、「一切皆苦」ということが非常に実感を持って受け止められます。唯識では「三毒」として貪瞋癡の根本煩悩が立てられますが、これを私なりに解釈すれば、自我が存在するという誤った思いが野心と暴力を伴って世界を苦悩に満ちたものに変容させていく、その構造が「一切皆苦」です。世界に存在する悲劇と残虐行為は、実は、我々の自我、自分は他人とは違っているという思い、自分は他人よりも優れているという思い、優れた人間は他人を支配してもよいという思いなどから、生じているのではないでしょうか。
二千数百年前に釈尊は何を説かれたのか。現在となっては、それは謎に包まれていますが、私は釈尊は人間の自我の問題性を鋭く洞察されたのだと思っています。その問題意識は、時代を超え、近代社会に生きる我々の「一切皆苦」を照射しています。
とすれば、我々人間の自我を変容させ―これは、もちろん「滅私奉公」を意味するものでないのは当然です―人間の意識が変わっていかなければ、この腐った現代社会は変わっていかないような気がしています。

この夏は、アサンガ、ヴァスバンドゥなどのヨーガカーラ仏教を少し勉強してみました。私自身、少々ハタ・ヨーガをやっていることもあって、興味があったのですが、例えば摂大乗論などは深い瞑想体験に裏打ちされており、何とも言えない深みがあってすばらしいと感じました。十地などは現代の我々の目から見ると単なる空想にしか思えないのですが、極喜地などの記述を検討すると、現在における「至高体験」の報告例との共通性が顕著であり、実際の経験に裏打ちされているものと思われます。ただ、確かに瞑想体験は深いのですが、意識の変容と社会の変革の両者を見据えていた釈尊に比べると、社会の矛盾を捉える視点は薄いように思えました。インドにおける仏教の衰退も社会との関わりが無くなっていったためなのかと考えさせられました。

松本氏の「縁起と法」も読ませていただきました。刺激的な論考だとは思いますが、正直言って相当の違和感を感じました。

松本氏の仏教理解を示す部分を、私の主観によって抽出しますと、おおよそ次のようなものがコアになっているように思われます。
『結論から先にいえば、私は仏教とは無我説であり、縁起説であると考える。…私の言う縁起とは、第一に十二支縁起である。』(縁起について)
『私が強調しなければならないのは、「諸法」の全く危なげな、時間的な中ぶ らりんな性格なのだ。…それは足下に深淵を望(臨)むようだ。』(縁起について)
ここでは仏教思想の本質は「縁起説」とされます。そして、その「縁起」とは、華厳で語られるような空間的なものではなく、あくまでも時間的なものとして捉えられます。人間は、その時間的な縁起の中で仮設されたものであり、本質において危機的な要素を有する不安定なものであるとの認識が語られます。
そして、仏教とは、この縁起の法を理性によって認識するものであり、実践は非仏教的であるとの理解が語られます。
『仏教の最終目的は解脱であると言われている。しかし、仏教を理解する上で、これ以上の誤りもないであろう。何となれば、解脱という考え方は我を実在視する我論に基づく非仏教思想、または反仏教思想だからである。さらに解脱だけではなく、涅槃という考え方、禅定の思想、そして心を重視する思想も、これらはすべて、我論に基づく非仏教思想なのである。』(解脱と涅槃)
『「大品」の縁起説を厳密に考えるならば、釈尊にとって”無明”は滅したとはいえない、と解するのが自然であろう。…そしてこのことが、”縁起”とは、一個の知的で明確な”哲学”であり、死守すべき“信条”(dogma)であり、あるいはさらに言えば、いわば憧れとしての“信仰“にしかすぎない、ということを意味するのである。』(実在論批判)

縁起説を理性によって認識すれば野心と暴力を携えた残忍な自我は消滅するのでしょうか?私にはそうは思えません。理性は不完全なものであり、その不完全な理性によってある種の概念を信仰しても、その信仰は自我をさらに強化するものにすぎないでしょう。「仏教は本来このようなものであった」、「これこれが仏教である」、「これこれ以外のものは仏教ではない」等の議論は、意味がないばかりか、むしろ有害であると思います。
「無我」、「十二支縁起」とはどのようなものでしょうか?私はこれは釈尊が体験された言語では表現できない「至高体験」を仮に言葉で言い表したものであると思います。
このような「至高体験」は、様々な言葉で語られていますが、その内容は非常に共通点が多いものです。前述の摂大乗論では、「…法の根源によく通暁し、如来の家に生まれるものとなり、自己があらゆる衆生と等しいとの思いを得、あらゆる菩薩と等しいとの思いを得、あらゆる仏陀たちと等しいとの思いを得るのである…」とありますが、基本的には、1自分と他の一切のものとは異ならないとの気付き、2そのことが大いなる喜びであるということが他の「至高体験」と共通するパターンを有しています。
自我を超える―仏教的に表現すれば、「無我」の真理を悟るのは、思考による操作ではなく、サマタ−ヴィパッサナーやディアーナからサマディーに至る瞑想によってなされるものです。無我とは自我を前提としてそれを超える進化したある種の心的状態と考えられ、松本氏が「解脱という考え方は我を実在視する我論に基づく非仏教思想、または反仏教思想」とするのは、全くの誤りでしょう。自我=エゴは現実にそこに存在し、プラスの側面ではそれによって人間は世界を認識し、世界を変えることができるようになっているのですが、マイナスの側面ではその野心と暴力によって世界を破滅の縁に追い込もうとしています。無我は自我がない状態ではなく、自我を前提としてそれを超克する自我の進化形態と考えるべきであり、これを自我がない状態と同一視するのは、カテゴリー・エラー(ウイルバー)であろうと思います。

もう少し書きたいこともあるのですが、ややまとまりがなくなってきました。今日はこの辺にしたいと思います。

「半分出家」前の俗世との別れも何かとお忙しいことと存じます。また、改めてメールしたいと存じます。それでは、また。

                           10月20日
                           青木庸三 拝


青木庸三 さんへの返事 2002,11,18,

拝啓

 返事遅くなりました。

 「半分出家」というのは、会社のみんなから「どうして辞めるの?」と何度も訊かれて、説明に困って使った言葉なので、あまり真面目に受け取っていただくと困ります。単に「仏教の勉強にもう少し時間を割くために、めんどくさいことから逃避する」くらいの意味にすぎません。過剰に「仏教的に」解釈して、プレッシャーをかけることは、どうかお控え下さいませ。

 さて、先のメールにもお返事を書かないままで、頂いた問題提起を溜めてしまいました。

1)南方上座部の瞑想

 私は某臨済宗寺院での座禅しか齧った事がなく、そこでは「何も頭に浮かばない事が定」と習ったように思いますので、青木さんが書いておられる「無意識を言語化する」という瞑想は、意表を突くものでした。リンクのページで紹介している「少林窟道場」でも、「頭に浮かんだ事や行為を意識化せよ」と教えていたのを思い出しました。同じことを言っているのか、あるいは全然別の趣旨なのかもしれませんが。

 無意識を意識化するとき、無意識に働き出している自分か、それを観察する自分か、どちらが本当の自分でしょう? いや、くだらない問題の立て方なのかもしれません。普段わたしは、自分を考える時、「主体の自己」対「対象化された自己」というワンパターンを当てはめて考えてしまっています。無意識を意識化するというケースでは、どちらの自己もある意味主体の自己であり、どちらも本当の自分のように思えます。つまり、私はひとつの私ではなく、そのつどのいくつものシステム、サイクルが重なり合って発現している複合的な現象なのだ、と思いつきました。なにをいまさら当たり前の事を、とお思いでしょう。そして、こんなふうに屁理屈で自分を考えても、それでは全部が対象化された、本当ではない自分にしかすぎません。プラクティス、プラクティス。行をしなければ。行によってのみ、主体の自分の無我が見えてくる。

2)テロと戦争について

 アフガニスタンからイラクに世間の耳目は移りかけています。しかしアフガニスタンでは相変らずたくさんの人が苦しみ・悲しみ・恨みの中にいます。それにまた、世界のあちこちで注目されない紛争がつづけられ、たくさんの人が知られないまま亡くなっているでしょう。おっしゃるとおり、世間は飽きやすく、苦しみは世界にあふれています。

 争いの場で拡大再生産される憎しみ・恨みの背後にも、また、争いの土台となっているグローバル化した経済の支配・搾取の構造の背後にも、現象を実体視して執着するという無明があると思います。執着を原動力とする競争システムに導かれた世界から、無我と縁起と慈悲に導かれた世界へと、パラダイムが替われば、文化の多様性を喜び、尊重しあい、戦争も南北問題も環境問題もみんなうまくいくと思うのですが、悲しいかな、あまりにナイーブな夢物語にすぎません。タリバン達に無我と縁起を説いても、「アラーは実在する」と殴り殺されるかもしれませんし、、。

 ただ、いくら「聖なる戦争」「善なる戦争」と叫ばれ、世間の風潮がそれに染まる事があっても、一人一人の兵士やその家族にはきっと「正しい戦争」への疑念は残るはずだと思います。喜んで人を殺し、喜んで死ねる人は少ないと思いたい。人を殺さねばならない理由、死地に赴かねばならない理由。戦争に参加させられる人は、皆疑念を抱きながら、自分を無理やり納得させるか、疑念から目をそむけるかしか道がなくなるのだと思います。
 だから、世間の危険な風潮を風潮の段階で押しとどめるべく、一人でも多くの人に、無我の教えを知ってもらい執着を自覚してもらい、縁起の教えによってすべてが繋がっている事を感じてもらえるよう、細々とでも問いかけて行く他はないと、無力感を抱きながらも、思おうとしています。

3)批判仏教 VS 至高体験

 私は、松本史朗先生をはじめ、批判仏教グループにずいぶん刺激を受けました。一番の影響は、歴史的に仏教と呼ばれて来たものを、すべて仏教の発展展開、仏教の内と認めるのではなく、何が本当の仏教か見極め、仏教を名乗る反仏教を削ぎ落とそうとする姿勢です。

 実際、仏教を名乗り、仏教を装ういかがわしい集団が多すぎます。「正統」な日本伝統仏教の寺も、先祖供養・水子供養・現世利益、人の執着心につけこんで金儲けをしているところが非常に多い。こういう状況では、まずは何が正しい仏教か、釈尊の教えとはどういうものだったのか、自分自身の戯論・分別でしっかりと狙いを定めねば、とんでもない間違いに陥りかねません。

 とはいえ、批判仏教グループに全面的に賛成しているというわけではありません。
 青木さんもご指摘のとおり、批判仏教グループが、合理的分析知によるアプローチがすべてだとし、行や定を否定している点には同意しかねます。 1)に書いたように、合理的分析知では、対象化された自分しか問う事ができず、真に仏教が教える事は、主体の自分の無我・縁起を知る事だからです。

 とはいえ、至高体験を過剰に待望するのも、また危険ではないかと思います。
 青木さんがそうだというのではなくて、宗教に興味を持つ若い人達の間にみられる傾向です。旅に出ても人は見たいものしか見ないといいますが、特別な体験についても、その体験から学ぶというより、多くは体験したい体験をしているのだと思います。そして、それを解釈したい解釈で解釈する。心や精神と呼ばれるものも、縁起の現象であり、条件を整えてやればたやすく非日常的状態にできるようです。
 私としては、至高体験を至高体験であるがゆえに目指すのではなく、あくまで自分の無我=縁起を本当に知るために、戯論寂滅の、分別知を超えた、般若智が必要だと考えています。

4)自我と無我

 無我とは、「無我の境地」といった心理状態でも、解脱後の心的状態でもないと思います。無我は、「自分をはじめとするすべてに恒常不変自立自存の本体はない」という教えです。ですから、今私の目の前にあるマグカップもキイボードも無我です。縁によって今そう呼ばれる形で現象しているけれど、今も縁によって変化しつつあり、縁によっていつか壊れる。つまり、無我は縁起と同意です。仏教は、自我が無我であったと気付かせる教えです。

 自我は、動物が食うか食われるかの日々を生きぬくために長い進化の過程で獲得したシステムだと思います。そのつどの外界の獲物や天敵を対象化し、いつも化し、価値づけて、すばやく対応するシステムを獲得した動物は、そのシステムに更に磨きをかけ、外界のみならず自分もモニターし、自分の対応を反省・改良するシステムをつくりだしました。自我とは、このシステムによって創発された現象だと考えます。自我は、けして物として存在するのではありませんが、確かに機能している仕組みです。自我システムは、恐ろしいほどうまく機能しました。その成果は、地球に満ち溢れ、思いのままに振舞う我々人類のありさまに見ることが出来ます。
 こうして人類は、最強・無敵の地位を得ましたが、けして幸福にはならなかった。それは、進化の過程で培ってきた「いつも化」で自我を恒常の確固たる存在と考え、それに執着する(我執)ようになったからです。有限なる現象であるのに、無限を求め永遠を求める。得られないものを求めて、争い苦しめあう。自我システムは、非常に有効だったけれど、弊害も大きかった、それを矯正するのが釈尊の教え(無我=縁起)だと思います。「自我は無我なる縁起の現象であった」と気づく事によって、執着を解消し、「いつも化」に踊らされる事なく「いつも化」を道具として使いこなし、すべての現象が縁起で連なって起こっている事を知り、慈悲が発動する。
・・・・・小論集のページ「人無我を説く方便の試み。その2:動物進化と自己意識の発現」と、意見交換01,4,7,の谷真一郎さんとのやり取りにも関連したことを書いています。ご一読頂ければ幸いです。

5)インドにおける仏教衰退の理由

 この問題は、あまり真剣に考えた事がありませんが、漠然とこんなふうに思いました。
 釈尊の教えは、この現象世界の奥に超越的「真実世界」を認めなかった、すなわち反インド的であった。しかし、次第にインド土着傾向の侵入をゆるし、現象を超越する「真理世界」を語り始め、密教化し、ついには土着的宗教であるヒンズー教に飲みこまれていった、と。
 もっというと、仏教の衰退はインドだけの事ではありません。仏教(無我=縁起)は、「いつも化」という人間・動物の「自然な」環境対応の仕方に反する教えであり、正しく継承するのは至難の事のようです。人々は、知らず知らず「いつも化」に誘導されて仏教を理解し、現象世界の背後に超越的真実世界を構想し、自分の中に持続的な本体を夢想するようになった。現在、仏教と呼ばれている考えの大半は実は仏教ではなく、実質的に仏教は世界中で衰退してしまったと思っています。
 釈尊が説法を躊躇されたのは、もっともな事だったと思います。

 一方で、青木さんの提起された、「仏教は自分の意識の問題にばかりかかずらわって、社会的問題に目を向けなくなったため衰退した」というご指摘は、耳の痛いものです。世の中がすこしでも良くなるように、悪い方向に進まないように、ややこしいことに巻き込まれる事を恐れず、発言すべきことは発言していく。世間に対する影響力は非常に少ないとしてもゼロではない。悪しき風潮が我が物顔でのさばりだす前に、ひとりが声を上げれば、わずかでも賛同者が出て、少なくとも悪しき風潮に全体が染め上げられるという状況にはさせない。そういう覚悟が必要でしょう。

 などと偉そうに書いたものの、今は朝で、昨晩はここにアフガニスタンやイラクで起こっている事について思う事を書き連ねたのですが、やっぱり消しました。テロは良くない、事前防衛攻撃は良くない、経済支配が、文化侵略が、、、と意見を述べ、議論を戦わすのは、私の役割ではないような気がしてきましたので。

 おっしゃるように世界は苦にあふれていますが、無能なわたしには、その苦のすべてに手を差し伸べて、解決する事はとても出来ません。心を痛めつつ、できることはやりながら、迂遠でも、釈尊の教え、無我=縁起について考え、問うて行くしかないのかな、と思います。それだけが、微力な私に可能なほんのわずかな貢献です。

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 はなはだ歯切れの悪いメールになりました。お許し下さい。

                            敬具
青木庸三様
               2002,11,18      曽我逸郎

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