Pat Smith さんより バーチャル化・いつも化・脳の未消化便 2002,9,17,

       ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

曽我様

> メール再送ありがとうございます。今度はきちんと読めました。
>私の日本語メールは大丈夫でしょうか?

>Subject: =?iso-2022-jp?B?GyRCJVAhPCVBJWMlazI9JEokSRsoQg==?=
>(snip)
>
>     from I. Soga
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>$B$OBg>fIW$G$7$g$&$+!)(B
こんな感じでやってきましたが大丈夫、ちゃんとしたJIS(iso-2022-jp)文書でした。
受信可能だけど送信に問題ありということですね。

長くなってしまったようです。日頃書きませんので、簡潔に書けません、だらだら、くどくど、しつこく意味不明なことを書いています。適当に読み飛ばして下さい。

養老孟司 はかなり前に読んだことがあるような気がします。でも、ご紹介頂いた
(snip)
 我々はありのままを見ることができないというご指摘、同感です。

 おそらくバーチャルであろうとも、ナマの情報の洪水に溺れてなんの対応もできないでいるより、なんらかの対応ができた方が結果的にずっと有利なのでしょう。その対応がうまくいった時はそのバーチャル化は強化され、大過なく過ごせた場合は維持され、シリアスな状況に陥った場合は改変され、致命的ミスに至った場合は、その個体は死んでしまう。これを繰り返しながら生命は進化してきたのだと思います。

 私にとってひとつ気になる点は、このバーチャル世界を築き上げるプロセスが、モノ化・いつも化の基盤になっているように思え、さらにこのバーチャル化プロセスは、自覚的意識にとっては、とても手の届かないくらい深い「身体的レベル」でスタートするように思えることです。さまざまな錯覚の図で、同じ色だ、同じ長さだ、直線だ、真円だと合理的に確かめ納得してもなお、やはり錯覚は錯覚のままに見える。非常に早い段階から受容情報の変形は行われており、それが初期であるほど根深く強固で、自覚的意識の手におえないものではないかと危惧します。
 多分釈尊ですら、錯覚の図は錯覚のままにご覧になったことでしょう。

バーチャル化:
感覚器が環境から必要な情報を取り込み、生体が利用できる形式に情報変換する器官のことだとすると、感覚は情報取り込み時に感覚器で既にフィルタリングされ、デジタイズされバーチャル化されます。バーチャル化しないと利用できません。神経にはデジタルな電気信号(0 or 1)しか流せません。入力は身体(感覚器と神経系)の性能で決定(制限)されてしまいます。

簡素な器官で外部情報を取り込み、素早く反応するには必要最小限度の情報だけを取り込む (感覚器の段階ですでに1回バーチャル化が実行される)のが合理的に思えます。
(コンピュータの歴史の様に)時代を経て、環境が変化するに連れ、競争に勝つ為に(?)、あるいは環境に合わせて、感覚器官、処理回路、判断回路の機能を次第にバージョンアップさせていくのが生物として無駄が無いように思えます。

ヒトは数万年前に当時の環境(自然環境と前段階の生物の社会)に最適化されて出現したはずです。釈尊さんの環境はまだヒトが出現した時代にはるかに近かったと思いますが、ヒトは自分達の環境を自分の手ですっかり変えてしまい、他の多くの生物種を絶滅させるまでになってしまいました。それはヒトのバーチャルな脳により始めて達成されてしまったことは事実です。従って食物連鎖の頂点に立てたという点で、僕達は自分の感覚器とバーチャルな脳に(地球環境内では)不満をいう立場にはないだろうと思います。ただアメリカのカートレースに使用されているメタノール燃料の燃える炎がヒトの眼には見えず、燃え移って慌てている作業員やドライバーがただ踊っているようにしか見えないのは何か滑稽やら悲しいやらですが...

いつも化:
環境からの入力情報が増加して、情報判断部の処理能力を超えた(間に合わない)時、判断できなくなります、それでは困るので、さらに情報を少なくすることが脳にはできるようです。(重要な特性の一つ....諸悪の根源?)

(大好きな同じ映画を何回も見る場合を想像してみて下さい、何回見たら新しい気づきが無くなるでしょう...。しかも映画は1秒間に24コマ、TVは30コマの絵が次々に表示されているだけで本当は動いていません。僕達は日常の生活の各場面で沢山の情報を使っていない。使っていない情報の方が圧倒的に多い。思考判断の大事な材料の殆どを捨てています。それが忙しかったり、疲れていたり、興味や関心のない場面だったらどうなるでしょう...)僕達の脳の能力はありのままの自然をありのままに知るには小さすぎるのです。いつも化(最適な判断行動をするために処理する情報を減らすこと?)は必須の技術です。しかし、どのようにいつも化するか(減らすか)が問題になりそうです。

要するに
1)情報カットして使える(使いたい)ものだけ使う(処理速度を間に合わせるため)
->つまり、必要なもの、見たいもの、聞きたいもの、感じたいものだけを感じる。
->つまり、0まで減らすことができ、状況を無視して判断可能。
 1)感覚器単位(ヒトは視覚最優先)でカット..ヒステリー性盲や聾(普通の子に普通にみられる)
 2)同じ感覚でも着目点(重要度)が在る......ものの見方、感じ方
 3)情報カットの仕方には学習効果がある....見方、考え方が変わる、プロは素人と着目点が違う
 4)慌てると何もカットできなくなり、判断処理できなくなる(パニック症候群etc)
 5)意識で(学習で無意識に)ある程度、いつも化は変更可能(学習可能)
 6)何も意識しない時は生物特性、過去の体験(学習)により方法は自動決定される

2)使わなかった情報は潜在意識に(未整理のまま)記憶される(ようだ)が、
 1)事実として言葉(Index)で記憶されないで、(言語化するには意識化が必要)
 2)感覚、感じ、イメージ情報として記憶される。
 3)人称名詞や時間は記憶されないようです。(従って全てを自分の体験にしてしまう)
 4)従って意識はこの記憶を後日検索使用できない(随意に思い出せない)。

3)事実(状況)の判断部と心(情)の判断部は違う。
  eg.「何」か「不快なこと」が起きた。
実際の事実は不快なもので無くても、判断できなかったこと、そのコトを「不快」と判断したかもしれない。

事実は判断できず流れ去っても、心(情)はいつも判断している。従って潜在意識に記憶された情報(感覚やイメージ)にこの「情」情報が付加される(情でIndex される)。同じor類似の感覚が入って来た時、それを不快と判断してしまう。
->連想ゲーム式に「情」を使って潜在意識を検索できる(精神分析の手法?)
->時々女達がこれをやっているような気がします。記憶力が悪いはずなのに、
被害に出会うと延々と昔のコトを引っ張り出し僕を責め続けます。

4)進化のプロセスから心の判断部は事実判断部の前に位置していて、
事実判断部へ送る情報を操作したり、あとでその判断を修正してしまう(思い込み、呪い)ようだ。「合理性」の落とし穴(合理的思考は実はただの御都合主義的、利己的思考かもしれません。悩み多きヒトが考え抜いても、ピンチ時に成功できる考えに至らないことが多いのはこのせいでしょう)

5)情報カット時に採用される着目点(価値、違いや重要性)は変更可能?
状況、体験から選択される(学習)、また個体の特性(欲求)から決められる。
->いつも化システム切り替え可能?!

6)事が終わった直後の復習、反省は未整理部分(直後ならまだ再生可能?)を使って意味づけして記憶しなおす事ができる。もしくは次回同様のことが起きた時もっと良い情報圧縮や情報のある部分に着目してもっと良い判断が可能になるかもしれない。(学習効果、ものの見方を変える)

7)考え事をしていて注意散漫になるのは極限のいつも化発動常態かもしれない。とすると、いつも化は裏返すと、ある情報に着目するための必須機能である可能性が高い。着目されなかったこと(意識化されなかったこと)はいつも化され意識から消える。

eg.テープレコーダーで静かな部屋を録音すると不快な雑音だらけ。初めて都会に出て来た時、夜中騒々しくて明け方まで寝つけなかったけど、今はとても静かです。集会場で講演者の話を録音すると雑音ばかりでちっとも聞き取れません。ヒトは心臓の拍動に合わせて全身が全方向に拍動している(振動している)はずなのに僕達にはヒトも景色もそうは見えません。車窓から風景を撮影すると手ブレでぼけてしまうので高速シャッター速度が必要。しかし眼で見える風景はブレません。
つまり現実の外界は渾沌と変化し続けるノイズの怒涛の嵐、氾濫。その中から生物は自分に必要で有用な情報だけを取り出さなければいけない。そして取り出したのが安定して静かでのどかな(弱い脳で処理可能な)世界と、少々の変化というわけです。

逆に追い詰められ、思考停止(思考の痙攣)したヒトの感覚が鋭敏になり過ぎ、御近所の騒音がうるさいと殺人に至るのはいつも化システムが合理的に機能しなくなった結果かもしれません。

バーチャル化といつも化は同じことをしています。それはノイズ除去です。その生体が不要と判断した(思い込んだ)ものがノイズになります。(その是非は別) バーチャル化は外(環境)を内(身体)に取り込む時に、いつも化は内(身体)を内(意識)に取り込む時に実行されます。バーチャル化は生物種としてのヒトの判断(変更不能)を、いつも化は個体の判断(変更可能)を意味します。

従って、ヒトの個体の正しさは、いつも化の正しさで決まります。しかし万人にとって、またあらゆる状況で「正しい」いつも化なんてものがあるはずがありません。従って「{特定の条件下で+個人的で+合目的な=合理的}な正しさ」しかヒトには存在しません。「普遍的な真理」という言葉が一体何を意味しているのかは僕には解りませんが、それは万能感依存患者に麻薬的効果の有る呪文ではないでしょうか。

従って「私は正しい」爆弾は最終兵器にはなりません(紛争を作るか大きくするだけです)。二人の「正しさ」のくい違いは両者のいつも化部分にあるはずです。無視し、捨て去ったノイズ部分に食い違いの原因、つまり問題を解決するのに重要なものが有ったわけです。ゴミ箱を覗き込み、お互いが自分にとって不都合なものを拾い上げること(利他的な心)ができない限り、問題は殺し合いでしか解決しません。利他的な心とは関係を勝ち負けではなく、引き分けに持ち込もうとする心、再帰的循環的思考を可能にするスイッチ、ヒトの関係を一方的な直線ではなく、ループに繋ぐ心のことです。
ヒトの「正しさ」は既存するものではなく、共同作業の結果、その都度作られるものです。

いつも化 は 意識化の「裏集合」、不要な意識(RAM memory)を無意識化(HD save)すること。
いつも化が問題になるのは、意識化がおかしいから
  あたりまえのコトを重要と意識せずに、
  あたりまで無いコトを重要と意識し、........(思い込み
  あたりまえのコトは意識から消えて行く、....(洗脳され
  その結果悩みが増える。....................(誰かに踊らされる
  思考と行動と結果とそれに伴う心(情)の不一致、
  問題を解決できると考えて行動したのに、解決しない、
  そして、また傍目には当然悩みが増えそうなことを自ら繰り返す。
  愚かな科学者のように、失敗すると解っている実験をひたすら繰り返す。
  再帰的思考をしていない、信念(思い込み)を使って行動している。..(単純動作型ロボット
   (まるで誰かが呪をかけて、個体の能力を奪おうとしているみたいだ...)

だから、あたりまえのコトを説きヒトの意識を再構築しようと試みる如来が出現することに必然がある。有効かどうかは別にして...。なぜなら、単純にヒトの (or ある状態の) 脳はあたりまえで無いことが、あたりまえのことよりも好き(能動選択する)に見えるという特性があるからです。

8)感覚入力情報が多すぎる環境(絶対的情報量過多、周囲の変化速度が速い、周囲にいる個体数、警戒対象者数が多すぎる、かつ、せかされる eg.都会)では、意識は疲れやすく散漫になり、弱くなり、狭くなり、いつも化は過度に起き易い。また思考的言語能力の低いヒト(eg.子供)程それが起きやすい。

その結果、外界は極端に単純化(記号化)されて意識されてしまう。つまりデジタル化が粗くなる。価値がbit化する。この悪循環は確実に起きています。

9)バーチャルな脳(思考)はいつも合理的で省エネを選択したがるようです。 (無駄なことはしない。賢い怠け者、口だけで身体は動かさない、学者)。

合理性と正しさ(正しさは幾つも在る)は別モノだけど、思考を絶対視する幼稚なヒト(呪に取りつかれている)は 合理性即正しい と判断しがち。考えの正しさ(論理)と、やり方の正しさ(実践)は別モノ。考えが正しいからということを根拠に、間違ったやり方を選択可能と考えるのはただの馬鹿(このタイプが非常に多い )。

eg.1君を愛しているから、あの娘と浮気をしてもいいよね
eg.2人生楽しく生きるべきだと思う、だからお金ちょうだい。
eg.3嫌な奴がいる ->会いたく無い ->そうはいかない ->殺そう
  非常に合理的でPositiveかつActive、無駄がない、正しいでしょ?
eg.4嫌な奴がいる ->会いたく無い ->そうはいかない (->殺すのは簡単だけどマズイ) ->しようが無い好きになろう
  非常に不合理な行動ですが...。
違いは、
1)自分の脳(思考=合理性)を絶対視するか、相対視するか、
 無駄なコト(無駄に思えるコト)ができる。無駄かどうかの判定法は何?省エネ?
2)思考法:行動の結果を考えている(再帰的循環的思考)か、いない(直線的短絡的思考)か
3)学習能力:問題を解決する能力(実践力)の違い。好き嫌いや殺しは昆虫でも可能、しかし、
 嫌いなヒトを好きになる(自他を少し変える)能力はヒトだけが持つ(しかし要学習)。

仮説:
あたりまえで無い世界で生き残るには(この仮定には病気(暗示)が潜んでいる)、
あたりまえで無いコトのほうが重要だから、あたりまえのコトは(起きても危険では無いから) どうでもいいコトとして意識から消えて行く。すると、あたりまえで無いことが、そのヒトにとっては、あたりまえに感じられるようになる(過剰適応後の錯覚?)。
or 意識には容量があり、そこがあたりまえで無いコトで満たされると、あたりまえのコトは押し流されて、意識から消えるのだろう...。
->バーチャル化のきつい脳は洗脳されやすい(呪文例:頑張らないと生き残れない)。

A)心のいつも化の方がもっと恐い。いつも化システムにより大切なヒトが意識から消えて行く。あたりまえのものは意識から切り捨てられる。無口で影の薄い微笑む親や友達は意識から消え、苦情をいう親や悪党だけが意識に残る。違うモノ、異常なモノだけが意識に残り蓄積されて行く。それも次第にいつも化され、あたりまえなものになりまた意識から押しながされ、さらにもっと異常なモノだけが残る。自分の意識の中身がどんどん異状になっていくのに、都会のヒトの脳はそれに気づかない。

B)いつも化の好きな脳を信用し過ぎると、大切な忘れたくないモノやコトを意識から追い出してしまい、環境から見方、感じ方、考え方、動き方をこっそり変えられてしまう。自分の生き方ができなくなる、忘れてしまう、洗脳されてしまい誰かの操り人形になってしまう。身も心も思考も環境に汚染されてしまう。

C)どうしていつも一握りの支配者と絶対多数の服従者がいるのか、どうして絶対多数は自分にとって不都合な少数に積極的に従うのか、どうしてヒトの悩みは尽きないのか、答えは単純にヒトの頭が(学習無しでは)悪いからです。問題を分析し、解決できるはずの思考能力を使えないからです(宝の持ち腐れ)。それがヒトの(学習無しでの)脳の特徴だからです。

ヒトの思考能力(再帰的循環的思考)は生得的な能力ではなく技術です(もちろん天才はいます)。ヒトの利他的な心(引き分けに持ち込み共存しようとする心)は生得的な能力ではなく技術です(もちろん天才はいます)。
学習しなかったヒトの思考は直線的短絡的思考に、
学習しなかったヒトの利他的な心は家族、血縁、所属集団内でのみ有効で、
それを超えた所では利己的な心のみです、つまりチンパンジーのレベルに退行します。(臨界期つまり学習可能期間の有無は不明。
注 :チンパンジーは最も危ない類人猿です)

D)時々、脳を整理して「自分」の基準で意識を再構築する必要があります。

E)呪文:
大丈夫、あたりまえのコトを、あたりまえにやれば、あたりまえに生きていける。

しかし、これだけでは「あたりまえが」理解できない単純で無邪気なヒトには役にたたない危険な呪文になってしまうかもしれませんね。そこで、さらに念押しして、

注意書き1:あたりまえのコトを...とは、
全生物の基本能力「相手(状況)と融合し、自分を少しだけ変える」を使い続けること。

生物は原生生物からヒトに至るまでこれしか問題解決能力を持っていません。
そして何故か問題を解決できないくせに、ヒトだけがこの能力を使いません。
素直に観察するとき、問題を解決したくない としか解釈のしようがありません。
つまり、彼の問題は、思考の問題ではなく、心の問題で止まっていることです。
まだ、問題を自分で解決しようという心境に達していないようです(心理攻撃をくらい心が破壊され、降参した?赤ちゃんに退行して母親の救済を待っている?この人達を救おうと企てたのが大乗?)。

注意書き2:...あたりまえにやれば...とは、
「相手(状況)と融合し、自分を少しだけ変える」ための技術が 思考と心 です。
思考と心の技術のレベルがどれだけ高いか、その技術をどれだけ習得し、使いこなせるかでそのヒトとその未来(問題発生後の世界)が決まります。

注意書き3:...あたりまえに生きていける。
必ず成功するとは限りません(あたりまえですね)。成功する確率が高まるだけです。確率をもっと高くしたかったら、自分の技術(思考と心、身体ももちろん)を磨く、そして頼りになる仲間を増やすことです。自閉、孤立は問題解決の視点から見ると無意味です。勿論心のエネルギーを回復するには必須です。しかしその期間は長くないはずです。

バーチャル化、いつも化のプロセスは感覚器の入力信号処理部から、意識の前に位置するはずです。もしもバーチャル化プロセスが数段在り、その内、後の幾段かは無意識(心の関与)や意識の命令を受けているとしたら、それがいつも化システムである可能性が高い。その命令を変える(見方を変える、無意識を操作する) ことができたらどうなるでしょう。ありのままの世界は知らないほうがいいと思いますが(器官が破壊されるから)、ちょっと違う別の世界やよりリアルに近いバーチャル化情報を直感的思考(イメージといったほうがいいかな) として体験することができるかもしれません。天才や芸術家は随意的に考えを止めてより多くの感覚を意識できる、もしくは常人とは異なる意識化 (いつも化)方式を持っているのかもしれません。彼等は思考ではなく感覚、直感を多用しているようです。バーチャル化のステップは数段あり、その内いつも化システムは意識に近い最後方に位置しているんじゃないかと思っています(勿論根拠はありません)。

意識の命令を変える方法は意思(考え方)かもしれませんが、意識の命令や無意識の命令を止める方法は意思ではないはずです。その機能を止めて、心(潜在意識)を開いてそこへ降りて行く方法はそう、意識する(考える)のを止める(坐る、見ない、見る etc.)だろうと思います。それに成功した時、確かに何か面白いことがおきそうです。

痴保老人や脳障害児(知恵遅れを伴う)に見られる天才(絵画、音楽、数)、サヴァン症候群はこの一例かもしれません。アスペルガー症候群(自閉症)もかなあ...釈尊さんも普通の賢いヒトでは無く、自閉症の天才だった(金ボンだから生活の心配も無く、日常的に、閉じこもり、今に比べると極めて少ない環境からの入力をさらに減らし、思考に集中できた)のかもしれません。

紀元前五世紀頃は東西の両世界で現代の哲学、宗教、科学の基礎を作った偉人達が沢山出現した時期です。もしかしたら、瞑想法やリラックス法の発明がキーポイントかもしれません。瞑想は身体、心、思考を再構築し、健康にし、機能を高めた。普通のヒトがゴミ箱としか考えていない潜在意識(知恵の宝庫)にアクセスして凄いことに閃いたのかもしれません。

ヒトの脳はヒトだけがもっています。ということは最も新しい生物組織(機能)ですから、解剖学的にも個体差が大きいはずです。また未熟な状態で生まれ、生後に機能しながら解剖学的に成長発達していく臓器です(筋肉のことを想像してください。使わないと組織や臓器は発達しない)。12才頃でも脳は解剖学的には80%?程度の仕上がりです(眼や耳の感覚器だってまだ完成されていません)。思考(心)回路は生後の環境の影響を強く受け、個体差がさらに大きくなるはずです。損傷を受けたり、発達停止したりもするでしょう。思考や心は身体能力以上にいろんな意味で個体差が強いのかもしれません。身体はヒトだけど、思考は類人猿で心は爬虫類とか...。

{類人猿レベルの思考、利己的な心、家族や血縁や所属集団に対する利他的な心}は類人猿のレベルで完成しているはずですから、ヒトは子供でも簡単にさほど努力せずに使いこなせるはずです。しかし、

ヒトレベルの思考は言語同様に生得的なものではなく、生後の学習訓練により使い方をマスターしなくてはいけない技術です(素質は遺伝するが能力は遺伝しない)。また、

{非家族、非血縁、非所属集団(ボノボから)、非ヒトに対する利他的な心}は生後の学習訓練が必要です。利他的な心が思慮分別能力と相関があるように見えるのはそのせいでしょう。

利他的心の素質を多く持っているヒト(先天性善人) は野蛮な社会の中で屈折してしまうかもしれません。利己的なヒト達の中で利他的なヒトはいつも我慢を強いられるからです。周囲の環境と上手につきあっていけない、自己も他者も肯定できないヒトに育ってしまうかもしれません。
日本の社会では思考(記憶だけ?)は猛特訓されがちですが、利他的な心は馬鹿扱いされるか、我慢することだと教育(洗脳)されがちです。意識の記憶領域は不足し、思考は利己的に一層傾き、利己的な心の道具になり下がるのはあたりまえのことでしょう。(思考のブレーキを破壊し、思考の暴走を許す)

 多分釈尊ですら、錯覚の図は錯覚のままにご覧になったことでしょう。

正しい入力なしには正しい出力は期待できない、ですか?

生物、コンピュータ、自動車等身体をもつ機械はその身体の能力以上のことはできません。彼等の正しさは制限されています、ある範囲内でのみ正しい出力を期待できます、条件付き正しさしか持ち得ません。もしもっと正しい出力をしたかったらもっと正しい入力(センサー)を手に入れる必要があります。非生物機械では身体のバージョンアップは日常のことですし、遺伝子操作された生物はそれに相当するのでしょう。

ヒトが生物としてその不満足な身体で正しく行動する(生物としての目的=生存?)ためにはバーチャル化といつも化は必須だったのでしょう。しかしその代償としてヒトの正しさは条件付き、制限付きになってしまいました。しかし、その条件、制限内では正しく行動できるということです。 もっと正しく行動したいなら、その使い方、全ての制限事項を知る必要があります。ヒトにできないコト、間違い易いコト、状況 etcを熟知する必要があります(無理or困難?)。
その制限を超えた時でも経験則を作り、集め、使えます。
ヒトの思考の結果は検算できない限り「正しい」と信じ込まないことです。そして、ヒトの社会の中には検算できることは何も無いのです。あるとしたら、それは「利他的な心」を使って検算することです。

ヒトが類人猿よりも優れている点は3つ、
1)再帰的循環的思考、2)長期記憶の容量、そして3)非所属集団にたいする利他的な心です。能力が高いヒトが欲張りなのはあたりまえです、その能力を利己的に使うヒトが欲張りなのはあたりまえです。高い能力を利他的に使う時にのみヒトは欲張りとは呼ばれません(これ大乗?)。ヒトの欲望を抑制することは至難の技(生理に逆らうこと即ち不可能)でしょう(思考能力が高いからだし、また誰が自分を抑制したがるでしょう)、しかし抑制され矮小化された利他的な心を育てることはもっと容易かつ生理的なことのはずです。
宗教が犯した失敗はこれだと思っています(宗教は権力者の利己的な心を満足させる道具にすぎなかったようです。国民の欲望を抑制することは権力者にとって有利だが、利他的な心を成長発達させることは権力者にとって不利or利益がない。それは権力構造を変えてしまうかもしれないからです)。

身体を持つ生物(機械)が万能ではあり得ないのはあたりまえのことです。そこで、自分が実現できる正しさ以上の正しさを希求するヒトは神や超人(宗教)を発明しました。特殊な身体を持つ神は特殊な超能力を持ち、身体を持たない神は万能です。どうやら正しさを好む脳、特に万能を求める脳は肉体(自然、あたりまえのこと)を無意識に否定する(どうでもいいこと化する)傾向があるようです。正しく生きるために、世を捨て、自分の人生を捨て、女とも結ばれず、子も作らず、生命の連鎖を自ら断ってしまう。しかしその生き方は明らかに正しく無い(有能なヒトが自分の人生を小さく小さく縮めてしまった)。脳が「正しく生きる」ために身体の欲求(身体が「正しく生きる」)をどうでもいいこと化してしまった。呪じゃ呪じゃ!!心が呪われておる。

しかし身体(現実)側はそんな脳(思考)に呆れ返っていることでしょう。現実のあたりまえの世界(自然)に折り合いをつけて実存する身体(リアル)、そんなあたりまえのことを拒否し自分の正しさを主張するバーチャルな思考。そして、思考はヒトを自然から切り離し、ヒトを人工物、都市に封じ込めます。都市の中でヒトは幼稚な万能感に浸り、自分が生物であることを忘れることができます。そして自分には身体があること、制限があること(正しさ、能力、寿命)を忘れてしまいます。都市には死体しかリアル(自然)はありません。ヒトは死体を嫌悪し、恐怖し、ヒトは死を肯定できず、死を予感させる老を肯定できません。ヒトは自分の制限(リアル)を肯定できず、身勝手な思考 (バーチャル)へ逃避し続けます。正しさを好む脳(=万能を信じ込む脳=子供の脳)はあたりまえのことを嫌う傾向があるようです。(自分にとっての)正しさを好み追求した脳は、自然(あたりまえ)を否定した結果、結局間抜けな脳になってしまいます。あたりまえのことを受け入れるには脳(心)の成熟が必要なのですが、脳 (思考)はそれを拒否します。不合理だからです。あたりまえのことは合理的かつ不合理なこと、つまりループだからです。単純な思考 (バーチャル)は直線ですが、自然(リアル)はループです。ループは直線からできていますから、バーチャルはリアルのほんの一部です。ループを受け入れる心(利他的な心)を育てないと、思考(バーチャル)はループを理解しません。再帰的に循環する思考には至りません。

何故か東洋の真理はいつもループで、西洋の真理はいつも直線です。
何故か東洋は利他的(ループ) で西洋は利己的(直線)に見えます。アメリカの思考はループを信じていないようです。敵を殺せば殺す程確実にループは廻り自分が殺されることを理解できないようです。アメリカ人は賢いはずなのにいつも馬鹿に見えます。

子供(や未発達な脳)があたりまえのことを、あたりまえのこととして、受け入れることができないのは、あたりまえです。未発達なため処理能力が低く、バーチャル化といつも化システムを最大限に使わざるを得ない思考の結果はより個人的なもの(バーチャル化が粗雑) で、よりあたりまえのものではないからです。あたりまえのものではない考えから外を見れば、外が間違っているに決まっています。自分を信じ込めば信じ込む程、二者択一式にどちらかが間違っています。逆に、あたりまえのものではない(正しく無い、変、嫌い、なまいき)と拒否、攻撃された時、子供は変質し始めます (心の防衛反応発動)。若い子供(中学生まで?)はまだ二者択一式しかできないようすです。しかし、論理的には四者択一が正しそうです。そして子供も外も共に少しづつ間違っているのがあたりまえの話でしょう。自分を信じきっている賢いコドモはそんなあたりまえのコトがまだ理解できません。

そして小学生の頃の万能感が破壊されて行く中で、思春期にヒトはその血筋に対応した呪い(思い込み=超自我)を受けいれてしまいます。
意味がなくては生きられない....誠実さオタク..undefined
目的がなくては生きられない....正しさオタク..知りたい
強くなくては生きられない......能力オタク....勝ちたい
愛されなくては生きられない....人気オタク....愛されたい

しかし、自分の脳を疑ってかかるのは難しいことかもしれませんね。それはヒト(特に子供)にはヒト式思考より古い心システム(心で思考=判断している)があるからです。思考の基礎は生存と直結した認知判断機能です、それを信じられないとしたら、それを頼りに健気に生きて来た賢い子供の心システム(特に旧式の利己的な心)は自己防衛反応、強い警戒心、不安、恐怖、絶望を発令するでしょう(成長発達途中の子供が変性する、壊れる原因です)。従って同時に心のサポート対策が必要です。
この点からも、落ち着ける安全な場所で、心を休め、過熱した思考を止め、潜在意識界に流れ去った情報を再利用しつつ再考する方法は{身体、心(利己的+利他的)、思考}を再統合しつつ何か(新しい見方、感じ方、考え方、動き方) を「自ら気づく(心で思考し実感する)」のにとても良い生理的な方法だと思います。

 仏教では真如ということを言います。それが諸法実相という意味ならあり得ない事です。すべて有情は物理的・生物的に制約された形でしか世界と触れ得ず、それぞれの仕方で世界をバーチャル化している。諸法実相は観念的幻想です。如来とは本来「諸法実相に達した人」という意味ではなく、「無我=縁起という自分の如」を知った人という意味に違いありません。世界の如は幻想で、自分の如(無我=縁起)をこそ知るべきなのです。

理屈の上ではそうなりますね。しかし、ヒトも何かの刺激で昆虫の様に変態し、全く違う感覚器をもつようになるかもしれませんよ。解脱すると眼が白くなったり、Third eyeが開いたり、無駄毛が何かのセンサーに変わったりしてもっと世界を知る超人的能力を獲得することができるかも知れませし、いつも化システムが飛躍的にバージョンアップされるのかもしれません。

 間違いを恐れず読みかけのオートポイエーシスの考えを一部分だけ切り取ってあてはめてみます。
 おそらくこうしたバーチャル化は、比較的低次の小さな構成素サイクルが機械的・盲目的に作動し続けて、情報の変容を行っていることに由来するのでしょう。その他たくさんの構成素サイクルが加わり、組み合わさり、組み替えられて、様々なハイパーサイクル(小さなサイクルが縁となって別の小さなサイクルが起こり、それが繰り返されて再び元のサイクルが引き起こされ、結果生み出される一段大きな縁起の輪)が発生し、さらにそれらが縁起によってより高次のサイクルを形成し、何段にも複雑に入り組んで積み重なった結果、自己意識や執着や自由意志や後悔のような人間的現象が創発してくるのではないか。
 もしこれがそんなに的外れでないとしたら、仏教の解脱というのは、比較的高次の(後発の)ハイパーサイクルの組み替えではないでしょうか?
 勿論こんなことを本気で主張するためには、視覚や聴覚などの感覚がどのようなプロセス、システムで受容され、伝達され、変容されていくのか、記憶の仕組み、いつも化の仕組み、シミュレーションの仕組み、などなど脳内の複雑な仕組みが解明されるのを待つ必要があります。これらの情報処理サイクルの重層的仕組みが解明され、執着がおよそどのレベルで発生するのかが分かれば、仏教的解脱がどのレベルまで溯っての変革であるのか見えてくるかもしれません。

オートポイエーシスって知らなかったのでちょっとwebへ出かけて読んでみましたが、みなさん何とも難解な日本語を操る方々ばかりで良く解りませんね。(^^;

まるでアメーバの様に自在に変化する自律したシステム(生物モデル)のことですね。個人的にはバーチャル化は安価で幼稚なパーツですませたいという自然の要請(コストパフォーマンス)だろうと思っています。いつも化はちゃちなCPUで判断するための要請(現実を切り取ってそれで判断する)だろうと思います。 どう切り取るか、その極一部から全体をどう上手に推定するかをマスターするには成長発達して技術を身につけることが必要でしょう。

僕には解脱というのは「釈尊さん的いつも化」システム(見方、感じ方、考え方、動き方、生き方、つまり釈尊さんの哲学)のことだとしか考えつきません。釈尊さんは超人ではなくヒト=哲学者だとした場合です。ヒトにそれ以上のことができるはずもありません。もしも彼が神仏魔ならいかようにも考えることが可能ですが...。

あたりまえのこと(自然)をあたりまえのこと(当然)として受け入れることができたら、ヒト(生物)は自然の一部に溶け込み一体化し「正しく」生きていけるのは、あたりまえのことです。あたりまえで無いヒトの思考を捨て、あたりまえで無いヒトの社会から出て、あたりまえの世界(自然)に暮らせば、あたりまえの=「正しい」人生をヒトはあたりまえなこととして生きてしまうのはあたりまえのことです。ヒトは生物なのですから今述べた「生物のあたりまえの法則」からはずれたら調子が悪くなるのはあたりまえのことです。

まず環境が在って生物が発生するわけです、少々の不適合はあると思いますが、基本的には環境に適合できる変化型 (生物)だけが現存しているはずです。ヒトのバーチャル化、いつも化システムがどのようであろうと問題ないはずです。もし問題があるとしたらそれはヒトが自ら作り出したヒトにとってあたりまえで無い(ヒトのバーチャルな脳にとってはあたりまえな)社会環境内に、もしくはヒトが有意に破壊しあたりまえで無くなってしまった自然環境内にあるはずです。
そんな環境を作ったのはヒトの思考ですからヒトの思考をまず疑るのあたりまえのことです。超お偉い先生方の思考を疑るのは気が引ける謙虚なヒトでも、自分の思考を疑うことはできるでしょう。

あるタイプのヒトは「正しさ」に呪われているようです。「正しいことは必ず通る、成功する」を信じ込んでいるようです。「正しい」コトを考えるコトができるはずのないヒトの脳を持つヒトが、そんな呪縛にかかってしまっては、生きにくいのはあたりまえのことです。「思い込み」は心(潜在意識)に書き込まれていて、ヒトの見方、感じ方、考え方、動き方を無意識的に拘束し、いつも化システムに影響を与え、結局ヒトは「正しさ」からさらに遠くなってしまいます。求めれば求める程、遠くなるのは、求めるモノ or/and 求め方が間違っているのが普通です。

確かに社会はおかしいし世の中もおかしい、しかし自分も少しはおかしいはずです。いやそれでも自分は「正しい」と今、返事をしたヒトは、自分で自分がおかしいことを証明したことになります。「正しい」ヒトやコトやモノはヒトの世界には在りません(理に叶った沿ったコト等はあるでしょうが ...)。「正しさ」合戦に持ち込めば、「正しさ」を理解できない(理解しないと決意した)側が勝つのはあたりまえです。まんまと敵の罠にはまったわけです。ヒトの問題が解決するのは両者が問題を解決する気になった時だけです。互いの利他的な心が機能しているときだけです。その実現のために、両者が「相手と融合し、自分をちょっとだけ変える」決心をした時だけです。コトの「正しさ」とは直接関係在りません。「正しさ」は問題を解決する心や技術のほうに向けるべきです。
相手をその気(自分を変える気)にさせるには「どう相手と融合し、どう自分をちょっとだけ変えるか」を考え付いた生物だけが問題を解決できます。

個(部分)が全体に影響を与えつつ、同時に全体が個(部分)に影響するのが生体ですから、解脱までしなくても、ものの見方、感じ方、考え方、動き方がちょとだけ変われば、それらは互いに影響をしあい、個も全体も(内も外も)すっかり変わってしまうでしょう。(考えが変わると気持ちも顔つきも行動も変わり、友達も増えたり減ったりしてしまうように...)

釈尊さんが生きた時代と僕らの時代はすっかり変わってしまいましたが、彼の生き方を実行することはまだ可能でしょう。16で結婚して、38になったら(子も16で結婚するから孫は6才)田舎の過疎地に引っ越して夫婦だけで自給自足の農業を始める。60になったら子(38)が跡継ぎにやってくるとか...
しかし「都市の中でどうヒトとして健康に生きるかを説いてくれる如来さん」、「あたりまえで無いことをあたりまえに変える方法を具体的に子供にも解るように説く如来さん」が欲しい!
しかし、「あたりまえのことをあたりまえのこととして説く如来さん」つまり「あたりまえだと思い込んでいることが実はあたりまえではないことを説く如来さん」の方法のうち坐るをマスターするだけでかなりいけるんじゃないかという気になっています。(有り難うございます)

仏教的解脱がどのレベルまで溯っての変革であるのか見えてくるかもしれません。

僕も野次馬的興味がありますが、教祖様方および宗派の方々が圧力団体を形成して研究が法律で禁止されるかもしれませんし、教祖様能力測定器なんか作って、その結果を学会やWebで公開したら暗殺されてしまいそう...(^^

 勿論そんな事が分かったからといって、執着を生み出すサイクルをロボトミー手術で物理的に切断すれば解脱できるなどと考えている訳ではありません。重層的に入り組み絡み合い幾重にもフィードバックのかかった脳のネットワークを外から物理的に組替えることは不可能です。ドーパミンなどの脳内物質やその他の条件によっても信号の流れ方は変化し、サイクルの構成が刻々と変わっていくそうですから。

医学的方法で解脱可能かも知れませんよ。同時に思考能力や言葉を失うかもしれませんが、もっと局所的で繊細な手術法を考案できれば新ロボトミーで永遠に。ただ、いつも正しい学者風の有機体コンピュータ「涅槃号」になるのか、陽気でポップな横町の神様になるのかは解りません。もしも脳内物質でコントロールされている回路なら薬物で好きな時に好きなだけ好きな期間解脱できるかも。
そのうち危険なテロリストを無理矢理解脱させて仏さん化するプロジェクトがアメリカで動き出すかもしれません。大幅な経費節減に繋がりますから。
恐いけど彼等ならやるでしょう。利他的な心が欠損した合理性原理主義者ですから。

 執着を生み出すサイクルを組替えて無我=縁起を知るには、やはり伝統的な戒定慧しかなく、その実践の先の般若智に期待する他はないと考えます。
 自覚的意識による分別知では、外の対象の無我=縁起を知り外の対象への執着を吹き消せても、自分の無我=縁起には届かず、我執をなくす事はできないだろうと思います。

執着を生み出すサイクルは知恵(考え+気持ち:利他的な心)で制御できないのですか?(利他的な心は我慢することではありません、その証拠に、我慢し続けるヒトはいつか必ず利己的なヒトになってしまいます。我慢する心は見返りを無意識に期待するようです。江戸時代以降?の日本の悪習です。)

自分や自分の脳の機能の全てを信じるな、ではなくて、信じ込むな。もしも貴方が誠実なヒトで、なんの問題も抱えていないならいいけど、そうでないなら疑って疑って疑え。誰か(先祖?)の催眠術にかかって(洗脳されて)いるかもしれない。宗教家、政治家、教師、親、友達、恋人、特に学者の言うことには注意しろ。何かを信じ込んだら、すぐに裏返してみる癖をつけろ。ではダメですか? 我執=呪いと置き換えてみるのではダメですか?

eg.
生きるのには意味が必要だ。<裏>意味なんか無くったって生きていける。
まじ?
君以外の多くのヒトが何の意味も無く生きているように見えるけど...
誰か意味のある人生を送っているヒトを知っているの?
知らないよねぇ...
人生の意味って何?
解らないよねぇ...
ということは、君だけは生きるのにその解らないモノが必要だってこと?
それって誰かが君の動きを制御するためにかけた呪文じゃないの?

今の、君の人生には意味が無いと確信しちゃったってこと?
君がそう考えた(信じ込んだ)理由があるはずだ。何があったの?
それは思考(事実)の問題ではなく、心の問題(思い込み、呪だ)じゃないの?
友達や大人達から万能感をくじかれた賢い子供の過剰にバーチャルな脳 (幼稚で単純で自分勝手な脳)が違和感(挫折感)をそんな高尚っぽい呪の 言葉で表現(自己防衛=知性化しようと)しているだけだ。

ひっかかるな!超危険、人生を棒に振るぞ!
人生の問題を説く方法は全ての生物で、そしていつも同じだ。
相手(状況)を変えたかったら、
「相手(状況)と融合して、自分をちょっぴり変える」ことだ。
eg.思い込み=呪の言葉を裏返して、10回声に出して唱えてみることだ。

泣いたり喚いたり脅したら、相手(状況)が君に都合のいいように変わってくれると信じてるの?
君は超能力者なの?
感情を使って相手を操作する方法はダメなヒトや子供がその保護者に向けて使う幼稚なテクニック。
相手が保護者でない場合には、 感情操作で君が使えるのは「誠実な応答」作戦だけだ。これは一生使わないといけない。

さあ、知恵を絞って「相手(状況)と融合して、自分をちょっぴり変える」いい方法を探そう、
安全で静かな場所で、閃くまで瞑想するんだ。(考えちゃダメ、考えると知恵が萎む)

大変だと思いこんだことが、実はどうでもいいことだったと気づくかもしれないよ。

もしかして君ボノボの子孫かい?
  オランウータンの子孫は何故か人生には正しい目的が必要なようです。
  チンパンジーの子孫は何故か楽しい人生と恋つまり幸福が必要なようです。
  ゴリラの子孫は何故か支配できる自分用の手下が必要なようです。

バーチャル化が強い幼稚な脳の最大の特徴は
  「万能感」及びそれに対する嗜癖(依存)だと思います。

(怠け者のくせに)万能感を持たせてくれる、増大させてくれるモノ(者物)が好き。
スペースシャトルを含めあらゆる乗り物、お金、核爆弾、大量破壊兵器、化粧品、勃起薬やちんこ増大器を含む健康関連商品、思想、科学、宗教、商品、TV番組の開発販売戦略は全てこの線上にあるように見えます。
いわゆる、夢のある商品ってやつですね。
そしてそれらはますますヒトの万能感を増大し続けます。但しその万能感は実体を伴わないバーチャルな感覚、そうバブルです。バブル経済はヒトそのものです。しかし、その万能感に相応しい現実(心技体)は存在しません。

ヒトの万能感を意識しておかないと、あたりまえのことをあたりまえに説く如来はその方便の売り込みに失敗するかもしれません。(ヒトの生理に逆らう方法は広く普及しにくいからです)

思考能力が小さいため、バーチャル化が強く、幼稚で低能な子供っぽい脳程、万能感に浸る能力が高いようです。頭がいい、思考能力が高いと思い込んでいる(学校の成績が良かった、社会で成功した)ヒトの万能感はいかほどのものでしょう。そんな脳が(利他的な心なしで)自省、自制、謙遜、譲歩することなど不可能かもしれません。
ヒトの悩みとは
  バーチャル化のきつい単純な脳、
  (バブルな万能感)、
  (自惚れ屋の脳を持った低レベルな発達段階のヒト)が
  失敗し挫折した(自分の実力に気づいた)時生じる不安(失調、不適応状態)、
  およびその二次的随伴症状。
と要約できるのかもしれません。
ヒトがその悩みから解放されるには、ヒトとしての成長を待ち、その万能感をどうにかするしかない様子だからです。具体的には
見方、感じ方、考え方、動き方を少し変え、入力情報を増やし、処理能力をあげ、阻害因子(思い込み)を除去し、思考能力を再帰的循環的思考レベルまであげ、利他的心を成長させる、ことのように見えるからです。万能でないあたりまえの自分を、あたりまえのコトとして、あたりまえに受け入れ、あたりまえに暮らすことができるようになったとき、その悩みは消えるように見えるからです。

こう考えると、類人猿からヒトへの進化は中途半端で大失敗だったようです。他の多くの生物種を巻き込んでヒトは地表を食い尽くして自滅するでしょう。地球は次の進化型を既に用意しているのでしょうか。

 しかし、ここにも疑念があります。般若智と思いこみは区別できるのでしょうか? 対象化のない知、あまねく知る知は、知と呼ぶに値するのでしょうか? 脳は、外からの刺激よりもはるかに多く、脳内の重層的サイクルを駆け巡り拡散し反響する信号に満たされているようです。てんかんや統合失調症(旧名「精神分裂病」)の患者さんが感じる事があるという「真実の世界に触れた」実感や、いわゆる「宗教的体験」(=意識の指向性停止体験≒般若の瞬間?)は、おそらく生の外界に触れたのではなく、脳内信号の爆発的反響・共鳴なのかもしれません。ハイパーサイクルの組換えという結果を考えると、外に開かれる体験というより脳内の爆発的共鳴と考えた方が筋は通りやすいようにも思えますが、それがどうして般若智になり得るのか? 般若智は、病気の症状や思い込みと、どう違うのか、、、?

区別できそうですが、状況は深刻です。感じ、知り、悟る、そして解脱するのも脳の仕事です(脳を信じることができるならば)。マイクロ電極刺激なんかで意識的に、脳腫瘍、脳外傷、エピレプシー患者、精神病患者、臨死体験etcで偶然に判断スイッチを押すことが可能でしょうし、それはそうと「確信される」でしょう。般若智自体は記憶していない(再生できない)けれど確かにそれを知った触れた所有したという確信は持つでしょう。もしもそのシナップススイッチがあるイメージ群を保有している神経群と短絡している時にはその明瞭で不可思議な(=未整理な)イメージを(現実として)同時に実体験するでしょう。そして疑い様もなくそう確信することになります。それがヒトの脳です。
「そんな自分を疑う自分」が意識されていない限り、脳で起きたことは「現実」として確信されます。そして「そんな自分を疑う自分」を眠らせてしまうのが詐欺師(催眠師、洗脳師、宗教家) のテクニック(言葉=暗示)です。

何十年か前にカナダの脳神経外科医が手術室で露出した脳の表面に電極を当てたら何が起きるかを被験者に質問するという実験をしたことがあるそうです(古典的な脳野の研究。脳自体には知覚がないので、有意識実験が可能なんだそうです)。側頭葉刺激でとても不思議な幽体浮遊や宗教的ストーリーのある光と天然色のビジュアルが見えたそうですが、前頭葉は刺激しなかったようです。

理屈の上では、知るには知るモノが必要です。知るモノ無しで知るには、
1)気づかなかったけれど既に知っていた(意味づけが変わった)、
2)意識できない潜在意識と交流した(意識した)。脳の全神経回路に電流が流れた時、ヒトは何か(自分)と一体感を持ち、すっきりするのかもしれません(脳の肩凝りがとれた)。その何か(自分)を全宇宙と呼びたかったヒトがいただけかも知れません。それくらいにその何か(自分)は予想を超えて大きかったのでしょう。

# 意識監督が自分の都合で勝手にカットしてしまった未公開フィルムを見た。そこには謎を解くシーンが映っていた。(実際の映画でもよくあることです)
# 「知らないはずのことを知った」は「知っているはずなのに知らなかったことを知った(思い出した)」?
# 生物の部分は全体と繋がりたいと欲求し、全体は部分と繋がりたいと欲求する。
 病んだ思考や心ユニットは全体を無視し、ユニットに閉じる、しかし
 START: 身体 ->心(利己的) ->思考 ->心(利他的) ->知恵(潜在意識) ->Loop to STARTと循環した時、ヒト(自分)は落ち着き、いい気分になり、大胆にちょっとだけ変わる。
 そのちょっとだけがヒトに決定的な差となって現れる、
 新しい見方、感じ方、考え方、動き方を(心から確信できる形で)獲得したからです。

  >般若智は、病気の症状や思い込みと、どう違うのか、、、?

脳から見た時、同じようなものに思えます。苦しい修行の末に獲得するという状況が僕なんかには脳の機能不全を誘発しようとしているように見えます。そんな苦しい修行を始めるにはそれなりの強い動機があるわけですから、朦朧とした意識の隙間を埋めるために脳が好きなように好きなものを幾らでも合理的なイメージとして見せてくれそうに思えます。低栄養がもっとも怪しい。(脳はブドウ糖しか使えませんし、ブドウ糖は体内に沢山貯蔵できません)身体を痛めつけて意識レベルを落とし何かを体験するやりかたには賛成できません(心がのんびりしていない!)。練習すれば見たい夢を見れるそうです。大事なのは何を体験したかでは無く、体験した後にそのヒトがどう変わったかをチェックすることだろうと思います。
もしもその人が修行の末あたりまえのヒトになり、そんなあたりまえな自分を、あたりまえのように受容できるなら、それでいいのでしょうが、神がかったら多分妄想幻覚でしょう。しかしどちらも自分の体験を確信するでしょう。

あたりまえになるはずです。以降の行動が自然なこと。自然と一体化していることで判別可能?自然と一体化しているヒトは他者とも一体化できるでしょうから友達の数が増えそうですね。喧嘩は必要ないでしょう。目を見ればわかりそうです。

思い込みが妄執ならヒトの感じ方、見方、考え方、動き方に良い影響は与えないように思います。友達の数が減りそうですね。自分を確信している分支配的になり喧嘩は増えそうです。目つきが悪そうです。

キリスト教の預言者は分裂気質のヒトが多いと聞いています。本物の分裂病のヒトの場合はさてどうしたものでしょう。そのヒトの語る般若智を検討するしかないのでしょうね。しかし常人が検討する余地のないもの、自然みたいにありのまま受け入れるしか無いものが般若智だとしたら困ってしまいますね。真実を語る狂人ですか...しかし分裂病の原因が対人関係だとしたら、原因が消失するから、病気は治ってしまうんじゃないのかなあ、そんな気がしますが...

しかし話し手と語られる言葉の真偽とは関係が無い。言葉の魔力に打ち勝てるヒトにとっては話し手が誰かは関係のないことでしょう。高名な学者や政治家先生だって平気で嘘こきますから(文字表現は同じでも前後の文に仕掛けをして、その文の意味をすり替えてしまう)。君子危うきに近寄らず、さりとて、虎穴に入らずンば虎子を得ず、むつかしいですね。

僕には金髪のアンチゃんがクチャクチャナゲットなんか喰いながら、姉さんといちゃつきながら、テレビを見てげらげら馬鹿笑いの最中に突然解脱したなんていう話のほうが(あり得ないことだだけに)真実味があります。

兎は二種類の便をするそうです。下痢便とでかい毒掃丸みたいな球形の固形便です。兎は消化機能が未熟で食べ物を十分に消化できないので、一度排泄した消化不良便をもう一度食い、二回目にやっと消化吸収できるようです。

ヒトは柔らかい身体の餌を探す能力や食べる前に調理して消化しやすくした後に食うという裏技を開発したので、自分の便をもう一度食う必要がないのでしょう。小さな子供や惚け老人が便に魅惑され、便の性状を記録するのに食い物に例えると直感的に分りやすい(できたてカレー便、ホワイトクリームシチュ−便、もずく便、苺ジャム便)のには生物学的進化の歴史が関係しているのかもしれません。

もしヒトが未熟な思考しかできない幼稚な思考回路しか持っていない生物だとしたら、兎みたいに思考の餌を二度食い(多分もっと)する必要があるのかもしれません。もしくは直感や潜在意識下のイメージの助けを総動員して消化する必要があるのかもしれません。

もし考えがヒトの便で、もしヒトが思考の餌は二度食いしないと消化不良で病気になるというあたりまえのこと(?)を知らない(忘れている)としたら、ヒトの脳は下痢便で満たされ年々不健康になっていくのかもしれません。だとすると脳を健康に保つ方法は三つ、

1)自分の消化機能に合った噛み砕かれた思考の餌だけを食う、だめなら
2)頑張って自分で消化する、だめなら
3)ちゃんと便を脳外に排泄する
健康な脳を持っていると自覚しているヒトはいいとして(?)、悩みにまみれた脳を持っているヒトの指針になるかもしれません。糞まみれの脳を掃除しよう。

ヒトが少数で、自然界の中で、自然界でとれる思考の餌を食べている間は問題が少なかったような気がします。答えも自然界にあったからです。「正しい」考えは必ず生物としてのヒトに御利益(生存)をもたらすものとして検算できたからです。思考する切実な目的があり、明瞭な結果があった。考え過ぎることはなかった、間違いようもなかった?
正しかろうが間違っていようが言い争う必要はないだろう、それで別に誰が死ぬわけでもない、が口癖のヒトもいます。

しかしヒトがヒトの社会の中で、ヒトが作ったものを餌(偽餌もしくは未消化便)として食べ始めたとき、ヒトの脳(思考)は臭くなったように思います。検算できないからです。自然の世界以外に「正しいこと」など無いからです。自然界の正しさは「あるがまま」です。ヒトがどう考えようと自然はあるがままにそれを「正しいと」受け入れるしかありません。地球温暖化をどう否定しようと、それが事実なら、正しい学者の出現を待たなくても、いつかヒトは否定できなくなります。

ヒトは自然な肉体と不自然な脳(思考)を持った中途半端です。脳(思考)の不自然さは、周囲を自然で取り囲まれていないと、すぐに自分が正しく、自然が正しくないと主張し始めることです。ヒトは無意識に(思考の指令を受けて)周囲から自然を排除してしまいます(都市に吸い寄せられる、or 田舎を馬鹿にし都市を讃美する)。多分バーチャル化が何段も行われ、自然から遠ざかり過ぎた(簡略化しすぎた)。またメモリ−領域が拡大し、内部に外部のミニチュアを持ってしまった(身勝手で都合のいい世界を内部に作りあげてしまった)。合理性を好む(そのくせ overworkでお疲れの)前頭葉がそれと一致しない、従って自分を否定するリアルを嫌がるのかもしれません。これって頭が悪いってことですよね。思考を先天的に(?)停止させる能力を持つ(臭い自分の思考の臭いを感じる)ヒト以外は都市化された自分(脳)に疑問を持つことができません。しかしただ漠然と疑問を持つだけでは不安神経症患者になってしまいます(心が警戒警報を発令する)。

おかしな自分の考えが自分を傷め続けているのに、それに気づかない、おかしな生物、それがヒトのようです。何も考えていないように見える兄さんや、姉さん、偉いおじさん達は思考回路が終始暴走し続けている(信じ込んでいる)のでそう見えるだけです。信じ込むこと(思考が痙攣している)は傍目には思考停止に見えます。ヒトは始めたり、終わったりが随意にできないと、外部からは、何かしているとは、観察できないでしょう(実際彼等は自分は考えていると主張します)。脳(思考)が自分の異状に気づくにはヒトの世界の外に基準(or 鏡)が、もしくは思考の暴走を一時停止させ、リセットさせる強い心理的ショック(WTCテロや神戸の地震 etc) が必要なのでしょう。何かに熱中してます症候群の若者は修験者のように身体を激しく揺り動かすことで、忘我の領域に達し、思考の暴走を一時的にせよ停止さようとしているのかもしれません。メタルハードロッカーは現代の修験者なのかもしれません。彼等は末香臭いかマンコ臭いかの両極端です。

要するにヒトの思考の神経回路は暴走し易くできているようです(心臓同様に思考は直接生存に関係する部分が進化したモノだから止めてはいけない、従って強いブレーキ機構を持っていない)。当然その安定化技術が必要です。eg.安全な場所で感覚を減らしてぼ〜〜〜〜とする、とか。そして遅くとも2500年以上前から本格的なものが既に在るというわけですね。宗教家達がそれを銭儲けor 勢力争いのために隠してしまったようです。

身体が不調なら身体の餌が悪い、心が不調なら心の餌が悪い、思考が不調なら思考の餌が悪い、と単純化してみるのもいいかもしれません。都市で生産される疑似餌ばかり食っていては調子も悪くなるでしょう。
そんな時は1ステップ前の生活、類人猿に戻ればいいかもしれません。自然の中で、類人猿の身体の餌、類人猿の心の餌、類人猿の思考の餌をしばらく食って類人猿の生活をしてみればいいのかもしれません。
もっともヒトがどの類人猿出身かで餌は違うかも知れません。曽我さんの文面からは森の学者オランウータンっぽい。とすると、果実、孤独、無(睡眠)です。僕はボノボ出身ですから、野菜と果実、稀に肉、女系家族、ひと工夫です。

ヒトの社会(脳が作った世界)では、条件をきっちり設定しないと、正しいさ合戦は無意味になります(条件としては見えにくい、隠された、あたりまえすぎて意識から消え去ったものを残らず見つけだすことが大切でしょう)。

ヒトの生活が豊かになる(飢え死する可能性を実感できない程度に) につれ、まっとうな思考の目的を無くし、ヒトの思考は暴走するしかないのでしょう。普通のヒトは自分の思考にブレーキをかけることができないからです。思考の糞の排泄路は心に開いてる気がします。哺乳類以降の思考は心と一体化してしまい、思考に心が入り混じります。心と思考を切り離し、別々に評価し、総合判断できるヒトは少数派です。殆どのヒト(僕も)は「考えている」間にいつの間にか「念って」しまっています(思考が欲求に食い荒らされてしまう)。逆に思考の糞も心を汚します。
A type)思考がおかしくなり、心がおかしくなり、感覚器がおかしくなり、ついに身体がおかしくなる。
B type)心がおかしくなり、思考がおかしくなり、感覚器がおかしくなり、ついに身体がおかしくなる。
考え過ぎのヒトは、思考を停止し、心を使って調整しましょう。
感じすぎのヒトは、心を停止し、思考を使って調整しましょう。
感覚器までおかしくなったらプロにまかせましょう(病気です)

僕は
釈尊さんがしたことは
ヒトの糞まみれの世界から離れて、ヒトの糞に汚されていない自然の中で、思考にブレーキをかける方法を使って、
糞まみれの脳をクリーニングにした、
それでもこびりつき残った少量の未消化便を頑張って消化したら、
完全消化して何も残らなかった、(あたりまえのこと)
残ったのは、再構成され少しバージョンアップされた脳神経組織だけだった。
おかげで脳の調子がうんと良くなり、勝手に爽快な気分になった。
なんだ、うんこが脳に詰まってただけだったんだ。
それだけだと思いますよ。
何故ってそれは自然なこと(あたりまえのこと)だからです。
もしも彼がヒトならね...

数万年前まで猿に近かったヒトが考えることを、マジで凄いことのはずと真剣になる、これ(万能感)こそがヒトの脳の最大の奇妙な特性でしょう。
普通の脳は自分を生き物(猿のちょっと進化型)だとは考えたくないようです。
生き物だと認めるヒトもヒトは猿のすごい進化型だと思い込んでいるようです。
しかしチンパンジーとヒトの遺伝子は1%ちょっとしか違わないそうです

ヒトという生き物の飼い方マニュアルを誰か出版してくれないかなぁ。
1)はじめに、そして種類
ヒトは心と思考が肥大してしまったせいでとても飼うのが難しく、下手するとすぐ発狂します。ヒトは大勢で群れて生きるのが好きな種と小さい群れで生きるのが好きな種がいます。両方の種を混在して飼う時にはそれなりの注意が必要です。
また性格、性質、顔つき、体型、得意なこと、嗜好性、活動性もそれぞれ異なり、それにより大きく四種に分けられます(移行型あり)。
従って飼い主との相性、複数で飼う時には他のヒトとの相性の問題がいつも起きます。飼うスペースの大きさにも関係します。
万人向けの汎用の種類はいません。従ってヒトを飼う目的と世話係りをしっかり決めないと種類の選択に失敗し、結局、飼い主もヒトも悲惨な目に会います。失敗しない為にはヒトについてしっかり前もって学習する必要があります。
2)健康、餌 時々自然に連れ出して散歩させてあげましょう、最上の精神安定剤です。
時々お寺に連れ出して瞑想させてあげましょう、極上の精神安定剤です。
調子が悪い時はすぐに病院へ連れて行ってあげましょう。
病気でないなら、餌かうんちの問題でしょう。
身体も心も思考も餌とビタミンが必要です。特に心の餌とビタミンは重要です。
身体も心も思考もうんちをします。そしてヒトは何故かみんな便秘がちです。
身体も心も思考も時々浣腸してあげましょう。
釈尊さんの教えを思い出しましょう。(最古のヒトを正しく飼うためのHowTo本)
それでもダメなら、場所を上手に移動してあげましょう。誰かと相性が悪いのです。
云々...

・・・・・・・・・・・・・・・・

 すみません。調子に乗って未消化な思い付きばかり書き連ねました。勘違いが多々あると思います。ご指摘ください。何なりとご意見頂ければ、問題点を見つける手がかりになりますので、何かお考えありましたら、是非ともチクリと刺激して頂ければ幸甚です。

どうです?僕も曽我さん以上に調子に乗って「翌朝の冷めたカレー便」をばらまいてみました。僕は若い頃は宗教に関心があったような記憶があります。駅の前でよく宗教団体のヒトが近寄って来たものです。しかし最近はむしろアンチ宗教団体(アンチ宗教ではない)です。
宗教哲学(話のスジ)はなんとなく解りますが、僕には宗教が何なのか解りません(同様に文学も解りません)。キリスト教は好きです、何故なら明瞭に「私のいうとおりにしたら永遠の命をあげよう」と書いてあるからです。僕はそんなものいらないので、従ってキリスト教徒ではありません。曽我さんのページで(日本の?)仏教徒も永遠の命を欲しがっているらしく、そうとは思ってもみなかったのでびっくりしました。多分、宗教哲学は思考が、宗教(文学)は利己的な心がその読者なのでしょう。

宗教はいつも一人の宗教家(心屋)と言うよりは哲学者(思考屋)が作り、その死後集金マシン ->軍隊(ヤクザ) ->国家(政治家)へと堕落しながら拡大するように見えます。

最近ではタリバンがそうでしたね。真面目な学生がごろつきになってしまった。

どこかの僕の好きなタイプの怪しいページに

新約聖書、特に紀元一世紀以後に創作されたヨハネの福音書の記述の多くは、紀元前一世紀頃出版された仏教の「ダンマパダ」や、更に経を集めた「ウダナヴァルガ」に掲載されている物語と共通する。
逆に
大乗仏教の経典のひとつ法華経は、キリスト教(ローマキリスト教ではなく、エジプトのイクナトンからミトラス教の流れを教義とするシリア教会の教え。景教?)の福音書の漢訳との説があります。大乗仏教はどうもシリアの商人達と深い関係があるようです。

だそうです。そうかもしれませんが、どうでもいいことです。
同じページに、旧約聖書から解析抽出された瞑想法の要点だそうです。
瞑想奥義その1 物質的・享楽的な世界から離脱せよ。
瞑想奥義その2 こころから憎んでいるひとを許し、そのひとが困っている時、施しをしなさい。
瞑想奥義その3 肉食をやめなさい。
瞑想奥義その4 日常生活を遮断する場所を設けなさい。
瞑想奥義その5 断食をしなさい。
瞑想奥義その6 あなたの現在から過去まで遡る想念をしなさい。
(独り心理分析みたいな感じですね...)

以上でした
P.Smith
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Pat Smith さんへの返事

すみません。まだお出し出来ていません。

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