Fukada Noriko さんより 二重の現象世界構造 2002,9,25,

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 曽我様

 お久しぶりでございます。覚えておいででしょうか。昨年、一度だけメールした学生です。今もまだ、仏教学を続けています。ただし、今年で仏教学は卒業する予定です。ただし仏教の学びは今後も続けていくつもりです。
 今の私は、文献研究に埋没する日々が苦痛になってしまい、街に出て社会の空気を吸おうと考えているところです。文献研究としての仏教学は、多少の面白さもあり、また真の仏教とは何かについて考える上でも必要な作業であると思いますが、現実の娑婆世界との接点を失いかねないのも確か(私の場合はそうなのです)で、古典の世界の中で自己満足に入り浸る危険性があると考えます。ホームページを通して、自分の考え方を表明し、他の人々と意見交換をなさっている曽我さんの姿勢には、感服します。私には、それだけの力量があるのかまだわからないので、とりあえず自分で物事を見極める現場が必要だと考えています。
 さて、私の個人的な話はどうでもいいんですが、以前に生意気な意見を送ったにもかかわらず、非常に丁寧なお返事を頂いて、ありがたく感じ入りました。その後こちらから何の返信も出さず申し訳なく思っていた次第です。今日メールしたのは、久しぶりに曽我さんのホームページを見て、前にも曽我さんの考え方になにか違和感を感じていたのですが、それがなんなのかわからないので、考えていたんですが、少しだけ見えそうなので、書かせてもらいます。また生意気なことを書くと思います、お許しください。
 私は確かに、曽我さんの言う「唯現象論」には賛同です。それは、唯識思想が教唆していることと同じ見方です。ただ、現象世界は単一構造ではないように思うのです。曽我さんは、『楞伽経』などに説かれる「波と海」の喩えをご存知だと思いますが、この世界に顕れている現象は波にすぎず、その根底には不変的な海があるという説明です。これは如来蔵思想の解説によく用いられます。そうした海のような不変的世界などは、いわゆる「daatu-vaada」であると、批判仏教の方々は指摘されます。曽我さんもそのように考えていると思うのですが、そのことが、私には違和感なのです。こうした議論は何度も繰り広げられたと思うのですが、飽きずにつきあってくださいな。
 私の考え方の背景には、唯識思想が説く三性説があります。三性説では遍計所執性(執着)・依他起性(縁起)・円成実性(真如)の三種の実存形態を立てます。ここでは縁起的現象世界が、厳密に二つに分けられます。そこで、波と海の喩えをこの概念に当てはめれば、依他起性は波の世界であり、円成実性は海の世界であると言うべきだろうと思います。依他起性は識によって分別された世界なので、われわれが日常生きている概念構想の世界です。その概念構想の世界が依拠する世界が、円成実性の世界です。
 この世界を立てることによって、何か実体的なイメージを払拭できなくなると曽我さんは考えるかもしれません。しかし、この円成実性の世界を発見するか否かが、仏教の最大の課題ではないかと私は思うのです。なぜならこの世界は言語的に説明が不可能だからです。いわゆる覚の体験を通して発見される世界であるからです。だから勿論、科学的な知を用いたところで、この世界を記述することは不可能でしょう。しかし、私はこの円成実性の世界を知ること以外に、人間が超越しうる道はないと思うのです。そうした世界は、批判仏教が主張するような分析知によって解明できるのかどうか、さらに言えば、分析知で説明がつかないものは、実体概念として、あるいは非仏教であるとして、排斥できるのかどうか疑問です。
 曽我さんの仏教観には、この円成実性の世界についての理解が全く見出せません。それ故、曽我さんの仏教観は人間の分別知による現象世界の説明であって、いわば哲学の領域を出でていないのではないか、という印象を受けます。私は、現象世界の超越性という意味での円成実性の世界に宗教としての仏教を考えています。そして、直接には大乗『涅槃経』が、常楽我浄と説いた真理概念、もしくは浄土教が説く阿弥陀仏(方便法身)こそ、その超越性の表現であると私は考えます。現象世界の超越というと、「現象世界の背後にある実在」と捉えられるかもしれませんが、その超越せる何かとは、「現象している私自身と私が認識している現象世界とを支えている普遍的な関係性(はたらき)である」と私は考えています。
 かなり分かりにくかったと思われますが、表現方法がうまく見つからないので、こんな形になってしまいました。少し、aggressiv な感じのする文章がで不快に感じられたかもしれませんが、批判仏教の考え方にしても、曽我さんの考え方にしても、何か宗教性が感じられず、その当たりに何か私の違和感があるので、こうした文面になってしまいました。ごめんなさい。率直なご意見、ご批判、ご感想をお待ちしております。

 noriko


Fukada Noriko さんへの返事  2002、10、4、

拝啓

 またメールを頂けてうれしいです。前回はつい感情的なメールをお送りしてしまい、以後ずっと気になっておりました。

 大学を出て就職されるおつもりでしょうか?
 残念です。
 とやかく言う立場にないことは重々承知しておりますが、私自身の学生時代と重なるのです。

 自己紹介のページにも書きましたが、学生時代の私は、自分になにがしかの価値がある筈だと信じて、それを実現してくれる価値・目的を捜し求めました。しかし、学問も宗教も革命もそれに値するとは思えなかった。いくら問い求めても、客観的絶対的に価値ある価値などあるはずもなく、疲れ果てた私は、
 「問いの立て方が間違っているのかもしれない、一度社会に出て視野を広げよう。そうすればこの問い自体が意味を失うかもしれない」
 そう考えて就職をしました。
 確かに、今その問いは意味を失っているのですが、それは「実社会」での様々な経験によるのではなく、ひとりで細細と続けてきた仏教の勉強のおかげです。

 学生のうちは、自分が井の中にいて外には広大な荒海が広がっているように想像しがちです。しかし、実際は外に広がっているのも沢山の井戸、あるいは蛸壺にすぎません。何かの職業を選び、ある業界に入り、ある会社に就職したとしても、別の井戸に移るだけです。場合によっては、井戸より狭い金魚鉢かもしれません。ある世界(井戸)でやり手といわれる人がいても、実際はそこでの狭い範囲の人間関係に頼っていたり、ローカルルールに堪能なだけというケースがほとんどです。
 経験や視野を広げられるか否かは、どこにいるかではなくて、その人個人の活動と観察眼・分析力によるのだと考えます。
 第一、大学は、現実の「娑婆世界」との接点がないほど浮世離れしたところでしょうか? 「娑婆」に劣らず生々しい人間関係やら権力構造やら利害関係に満ちているように想像しますが、違いますか? 大学も娑婆の内でしょう。
 主題の文献学も、職業として学問として成果をアウトプットする際には一定のルールや制約があるでしょうが、文献を読む時は、学としての厳密さに加えて、深田さん自身の思いや想像力をこめて向き合っている筈で、それはいわば、先人の思想を追体験することであり、「娑婆」ではけして得られぬことだと思います。
 文献だけでは不満足なら、研究手法にフィールドワークを取り入れるのも手かもしれません。アフガニスタンやチベット、スリランカの現地調査、さまざまな修業実践、ターミナルケアの現場での活動、、、いくらでも研究の巾を広げることは可能な筈です。

 ホームページをお褒め頂きましたが、もし私が大学に残って、自分でそれなりに原典に向き合える力があれば、こんな事はしていなかったかもしれません。私は間接的にしか学べていない訳で、いつも不安な頼りなさがあります。賛同や質問や批判を頂き、それを手応えにしたくてパソコンに向かっているのだと思います。それにまた、プロフェッショナルな学問の世界で、私のような書き方が認められる筈もありません。

 大学を出て20年と少しの時間が過ぎました。その間、多くの人に出会い、沢山のことを経験し、多くのことを教えられ、学び、それなりに成長しましたが、根っこのところで私を教えてくれてのは、やはり釈尊の教えだと思います。
 生まれた瞬間に有情は死に始める。生きていることは、刻々と死につつあること。だとすれば、変な慮りや気遣いで回り道を続けることはもう止めて、まっすぐ歩くべき道を歩こう。そう考えて、実は今月末にようやく会社を辞めることにしました。
 かつて仕事場と家庭が一体であった頃、出家は、家庭と仕事の二つの雑事を同時に捨てることだったわけですが、私の場合は、仕事だけを捨てる訳で、自分では気取って「半分出家」と呼んでいます。僅かな蓄えを頼りに、畑なんかもやりながら、足るを知る生活でなるべく長く食いつなごうという魂胆です。
 ご立派なことを言いながら、根がナマケモノですから、休み休みのスローな歩みでしょうが、それでもこれまでよりは仏教に向かう時間は増やせると思います。

 個人的なことを書きました。こういう人間がいることを知って頂きたかったのです。私以外にも、同じような方法で仏教を学ぶ人はいると思います。現代の日本で、仏教に学ぼうとすれば、お寺には当てにできる人は少なく、文献学者の方々こそが頼りなのです。

 深田さんには、唯識であれ、なんであれ、対象領域を厳密な学として深く深くマイニングして頂き、その成果を我々にも提供して頂くような、そんな仕事を続けて頂けたらと願います。

 「実社会」にでて、雑役に紛れながら勉強を続けるのは、やっぱり大変ですよ。仏教に向かう時間がたくさん取れる生活が可能なら、その方がいいのではないかと思います。いかがでしょうか。よけいなお世話かもしれませんが、一度ご検討下されば幸甚です。

 そういう訳で、私の方は、引越しやらいろいろな手続きやらでしばらくばたばたしそうです。海(円成実性)については、落ち着いてから改めてまとめますので、しばらくお時間を下さい。

                           敬具
Fukada Noriko 様
               2002、10、4、
                           曽我逸郎

追伸:新しいメールアドレスをつくりました。soga@dia.janis.or.jp です。今のbiglobeの方は、転居後多分使えなくなりますので、今後のメールは新アドレスにお願いします。お手数かけます。


Fukada Noriko さんへの返事(2通目)  2002、10、18、

拝啓

 前回はおせっかいなメールをお送りしてしまい、失礼いたしました。人事だと思って無責任な、とお怒りの事と存じます。御許し下さい。

 今回はきちんと仏教について返事を致します。

@円成実性について

 頂いたメールを何度か読み返しましたが、正直に申し上げて、円成実性を具体的なイメージにして捉える事ができません。

>「唯現象論」には賛同です。
>現象世界は単一構造ではないように思う

 これらのnorikoさんの文章からすると、円成実性も現象であるとお考えのようです。

 ですが、一方で、以下のようにも言われています。

>この世界に顕れている現象は波にすぎず、その根底には不変的な海がある
>現象世界の超越性という意味での円成実性の世界
>超越せる何かとは、「現象している私自身と私が認識している現象世界とを支えている普遍的な関係性(はたらき)である」

 すなわち「円成実性は、現象でありながら、不変的であり、現象世界を超越している」と主張しておられるように思います。
 しかし、私にとっては、現象である事と、不変的である事、超越している事とは、矛盾する概念なのです。現象とはすなわち、無我であり、縁起によって発生し変化し終息するものです。現象は無常です。現象世界とは、私や有情が生きている「この世界」であり、「この世界」の他に世界はないと考えています。つまり、波だけが揺らめきぶつかり合っていて、海はないのです。

 norikoさんのおっしゃる「普遍的な関係性(はたらき)」というのも、よく分かりません。もし「現象と現象の間の普遍的関係性」をおっしゃっているなら、おそらくそれは「縁起」でしょうし、そこに新たに超越的な何かを予感させる「円成実性」というような言葉を敢えて導入する理由が分かりません。

 ***

A宗教性について (あるいは「超越的なもの」について)

 私の考え方には宗教性が感じられないとの感想を頂きました。
 これは、正直に言って、予想される感想です。宗教をどう捉えるかの問題だと思います。
 norikoさんは、おそらく「超越的なものが宗教には必要だ」とお考えなのではないでしょうか。「世俗に対して超越を立てるのが宗教である」というような定義を、私もどこかで読んだような覚えがあります。確かに世間で言う「宗教」には当てはまる定義かも知れません。広辞苑で「宗教」を引いても同じような主旨が書いてありました。

 しかし、釈尊は超越的なものを説かれる事はなかった、と思います。説かれないどころか、否定しておられた。ですから、「超越を説くのが宗教である」と定義するならば、本来の仏教は宗教ではなかったことになります。

 釈尊が超越的なものを否定しておられた事の論拠としては、ズルをして、佐倉さんのホームページから以下をコピーさせてもらいます。

 比丘たちよ、わたしは「一切」について話そうと思う。よく聞きなさい。「一切」とは、比丘たちよ、いったい何であろうか。それは、眼と眼に見えるもの、耳と耳に聞こえるもの、鼻と鼻ににおうもの、舌と舌に味わわれるもの、身体と身体に接触されるもの、心と心の作用、のことです。これが「一切」と呼ばれるものです。
 誰かがこの「一切」を否定し、これとは別の「一切」を説こう、と主張するとき、それは結局、言葉だけに終わらざるを得ないだろう。さらに彼を問い詰めると、その主張を説明できず、病に倒れてしまうかも知れません。何故か。何故なら、彼の主張が彼の知識領域を越えているからです。 (サンユッタ・ニカーヤ 33.1.3)
http://www.j-world.com/usr/sakura/replies/buddhism/buddhism35.html

 (これは、99年1月に私から佐倉さんへお送りしたメールに対するお返事の中で頂いたものです。佐倉さんへのメールの中で、私は主客未分について書いていますが、今は少し考えが変わっています。佐倉さんは、もう1年以上サイトの更新をなさっていません。どうされたのか心配です。)

 この「一切」についての教えは、現象世界が一切であり、超越的なるもの(背後世界)は言葉による概念構想に過ぎないとして否定していると考えます。

 では、仏教は宗教ではないのか? 否、宗教です。宗教の捉え方が違うのです。
 「人を苦から救う教え」、それこそが宗教だと思います。
 仏教は、世俗的・日常的な見方・考え方の誤りを正し、その事によって苦を生み出す事を止めさせる教えです。
 「ものには永遠不変の実体があり、執着(or 嫌悪)すべき価値がある」 これが、誤った世俗的・日常的な見方・考え方です。それに対して釈尊は無我と縁起を説き、ものに実体はなく、執着(or 嫌悪)すべき価値はない、と教えて下さった。

 「超越的なもの」を立てるのは、ものに実体があるとする世俗の見方が、生き長らえるために変異・変態したものだと考えます。洗練された執着です。従って、「超越的なもの」を立てる思想は、反仏教であると思います。

 また、現代世界において、「超越的なもの」と立てる思想が、対立や憎悪を煽り立て、おびただしい苦を引き起こしている様を見て、「苦から救う教えこそ宗教である」と考えると、「超越的なもの」を立てる思想は一面反宗教ではないか、とさえ思えてきます。

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B分別知について

 これについては、少し誤解なさっているようです。
 私は、般若智を全否定するものではありません。それどころか、ある時点で般若智が必要であると要請しています。その理由は、本当の自分、つまり対象化されたノエマ自己ではなく、主体として働いているノエシス自己が無我であり世界の中で縁起していることを知るためです。分別知では、いくら自己を考えても対象化されたノエマ自己にしかならず、ノエシス自己はけして捉える事はできないのですから。
 しかし、安直な「般若智」の導入にも警戒しています。似非仏教、反仏教の蔓延る末法の世、自分が本当に正しい仏教に向かっているのか、まず分別知で十分に検証する必要があると考えるからです。
 詳細は、「あたりまえ、、」HPの意見交換、00年7月20日の「いってんさん」、02年7月28日の「tom-halさん」とのやりとりをご覧になって下さい。

 ひとつだけ感ずる事を申し上げますと、唯心を説き外境を否定する唯識の筈だのに、norikoさんが分別知では届かないとおっしゃる円成実性や世に言われる真如は、世界という外の対象であるようなニュアンスを感じます。「外の対象ではない、自分を含んだ世界の全体である」と反論されるのかもしれません。一方、私は、般若智で知るのは、自分の無我=縁起であると考えています。つまり、世界の中で縁起している無我なる自分。「自分を含んだ世界」か、「世界の中の自分」か。両者は一見微妙な違いのようですが、どちらを捉えようとするかで、その人の「仏教」は大きく違ったものになるような気がします。

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C唯識への譲歩

 これは、頂いたメールへの返事ではなく、最近思っている事です。オートポイエーシスの本を読んでいて、ふと浮かびました。オートポイエーシスのどことどうつながるのか、と問われても、困ってしまいますが、、。

 以前の私は、「人は外界から刺激を受け、人間として様々な制約の中でバーチャル化・いつも化しつつ、刺激に反応しながら生きている」と考えていました。間違っているという訳ではないでしょうが、「外からのインプットがありそれに対してアウトプットしている」という見方は、あまりに単純であったと感じ始めています。

 実は、私の母は、随分痴呆が進んでしまって、テーブルクロスや洋服などに手紙を読んでしまいます。大抵は学生の頃の手紙のようで、自分でお話を作っているというより、手紙の文章がどこかから沸いて出てくるらしく、手紙の内容にひとりで腹を立てたり、照れたりしています。時々は「これは何て字だろう? 分からんわぁ」などと言っています。

 こんな様子を見ていて思ったのは、我々の脳はある程度閉じた箱になっていて、外部からの刺激よりも遥かに多く、内部で反響し続ける信号に満たされているのではないかという事です。私自身、例えば通勤電車の中の自分の様子を思い返してみると、そうです。
 健康な人においては、内部を駆け巡る信号と外部からの刺激が、電波時計(或る時間毎にラジオ信号を受信して自動で時刻を合わせる時計)のように時々に噛み合って一定のシンクロ性を保っているのに、私の母のような場合は、視力の低下その他で外からのインプットが質的にも量的にも落ちており、またおそらくは、シナプスの接触不良やショートやらも併発して、内部信号だけがぐるぐる空回りしているのでしょう。

 唯識の唯心説は、脳のこのような(半)閉鎖性を捉えていたのだろうと思います。外境否定は行き過ぎだと思いますが、、。

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 またしても、取り止めのない思い付きになってしまいました。
 是非また、手厳しいご批判をお送り下さい。
                               敬具
noriko様
           2002、10、18、       曽我逸郎

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