tom-halさんより 無門関と仏像彫刻 2002,7,28,
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ご無沙汰しております。と言つても意見交換の皆さんの論説は殆んど皆読んでいます。
曽我さんの誠実なお人柄により多くの論客が仏教の諸説について熱心に討論していることは、全く素晴らしいことです。
ところで曽我さんにお願いがあります。それは私の「無門関」ついての考えを取りまとめましたので、これを本欄の皆さんにご覧戴きたいということです。
URLは http://www5c.biglobe.ne.jp/~tom-hal/ です。
またBiglobe/Yahoo/Google/Lycosの検索で「無門関と仏像彫刻」でもご覧いただけます。
無門関は私の生涯の愛読書です。恐らく多くの禅の修業僧を苦しみ悩ませた無門関の謎は私にとつても興味深々というところです。
言葉と文字をすべて否定する、不立文字、百非の無門関の世界を、言葉と文字によつて論じようとするこの矛盾をいかに克服すべきか。
是が出来れば無門関の世界を見出す事が出来るかもしれません。
tom-halさんへの返事 2002,8,20,
拝啓
2通目のメールに返事をお出ししないまま、3通目のメールを頂いてしまいました。様々な経験を積んでおられる大先輩に対して礼を失してしまい、申し訳ございません。
ホームページ再度拝見しました。温かみのある仏、菩薩などのお顔やお姿に、改めてお人柄を感じました。リンクのページでご紹介させて頂きます。
さて、禅仏教について思うことを書いてみます。無門関の内容に関しては、語るほどの知識も体験もありませんので、ご容赦ください。
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仏教は、確かに、分別的な知(識・ヴィジュニャーナ)の及ばぬ「こと」(「もの」ではなく)を想定し、ヴィジュニャーナではない方法でそのことをプラジュニャー(般若)すべきであると教えてきました。
ヴィジュニャーナとは、「区別するという仕方で知る」ことです。(般若と識の対比については、平川彰著作集第1巻「法と縁起」(春秋社)第5章、四、(三)般若と識、をご参照下さい。わたしの書いていることはウケウリ+勝手な拡大解釈です。) ヴィジュニャーナの及ばぬこととは、ですから、区別できないこと、すなわち、世界と自己のふたつであると考えます。なぜなら、「区別するという仕方で知る」とは、世界の中で、世界を背景として、何かを対象化し切り出すことですから、世界と、対象と、それに加えて切り出す主体(自己)の三つが必要です。しかるに、世界は全体であり、それをそこから切り出すべき背景を持ち得ず、よって区別できません。また、自己については、一見自己の対象化はたやすいことのように思えますが、それは対象化され「いつも化」されモノ視された自己(ノエマ)に過ぎず、何かを区別し対象化しながら働いている主体の自己(ノエシス)という現象は、どこまで追いかけても逃げて行き、けして区別し対象化することができません。
ヴィジュニャーナは、日常的世間的な知のあり方です。対して、プラジュニャーは「遍く知る」こと。特定の対象について区別して知るのではなく、世界と自己とを、ともに縁起する無我なる大きなひとつながりの現象として、対象化することなく知る智だと考えます。
仏教の悟りとは、世界と自己を同時にひとつのこととしてプラジュニャーすることだと思っています。その智の内容は、本来言葉の届かぬことですが敢えて日常的世間的な言葉で表すなら、
「あらゆる執着の対象(なによりも自分という我執の対象)が、実体構想の結果であったことを知り、無我である現象が縁起によって生み出され、変化し、終わり、他の現象を生み出して、世界がめくるめく展開していく様を見、自分もまた世界の中で縁起する切り離し得ない現象であると知り、執着が吹き消され、同時に、ともに縁起するあらゆる有情への慈悲に包まれる。」
これが釈尊の教えだと考えます。
余談ですが、「世界と自己を同時にひとつながりのこととして般若すること」を、伝統的に「主客未分」と呼んできたのだと思います。主客未分という言葉には、なにか主客が分かれる前に一体であった状態があったかのようなニュアンスがあるとのご指摘を受け(1999年2月27日の池田政信さんのメール)、以来この言葉はの使用は止めています。一時は「主客対生成・主客対消滅・主客対再生」という表現をした時期もあり、また最近は「意識の指向性停止体験」なる造語を作りましたが、あまりにもこなれぬ言葉で、ほとんどまともに使えていません。単純に「般若の瞬間」くらいの表現に留めておいた方が、ややこしい問題に足を踏み入れなくてすむのかもしれません。
本題に戻ります。
ヴィジュニャーナ(識)は、日常的世俗的な知であり、プラジュニャー(般若)より下位にありますが、だからといって、仏教は、プラジュニャーばかりを重視し、ヴィジュニャーナを否定してきたという訳ではありません。そのことは、上座部からチベット仏教にいたるまでの、わたしにとっては瑣末とさえ見えるような分析的思考に見て取れますし、なにより龍樹菩薩の中論、第24章第10頌
「世間の言語慣習に依拠しなくては、最高の真実は、説き示されない。最高の真実に到達しなくては、ニルヴァーナ(涅槃)は、証得されない。」(レグルス文庫・三枝充悳「中論」下P641)
にも明々白々に示されています。
禅風に言えば、ヴィジュニャーナで百丈竿頭までよじ登り、先端に爪先立ちして、進退窮まった頂点で、プラジュニャーで虚空に踏み出す、そんなイメージでしょうか。(中論も一面ヴィジュニャーナでどこまで登れるかの挑戦だったのではないかという気がします。)
もともとの仏教は、釈尊の教えを学習し考察し分析し、自分の理解が正しいのか常に検証し直すことを奨励してきた筈です。つまり、仏教は、本来、ヴィジュニャーナとプラジュニャーの両方を重視してきたのです。
しかし、大乗になると、分別的思考を否定する傾向があらわれます。たとえば維摩経の「維摩の一黙」にみられるように。それは、<プラジュニャーには言葉が届かない。言葉にした途端プラジュニャーはプラジュニャーでなくなる>という事実への過剰反応であったのだろうと推察します。そして、この傾向の最も極端な発展が、不立文字を標榜する禅仏教だと思っています。
(今、もう一度中公文庫「維摩経」長尾雅人訳注を見ると、同書P123「維摩の一黙」該当部分に関する注に、「この部分は最古の漢訳には欠けている。」とあります。してみると、分別的思考を否定する傾向が顕在化するのは、大乗最初期からという訳ではないのかもしれません。分別的思考の否定がどこに起源をもつのか、大乗の本質に根ざすものなのか、じっくり考えてみる必要がありそうです。)
このあたりに関しては、駒沢大・批判仏教グループ、松本史朗先生の「チベット仏教哲学」「禅思想の批判的研究」(すべて大蔵出版)が刺激的ですので、もしまだでしたらご一読下さい。「チベット仏教哲学」では、中国からの禅仏教と、インドからの中観+密教が7世紀にほぼ同時に入ってきて、両者の主張のあまりの違いに困惑したチベット王が、公開討論(サムイェーの宗論)を命じるに至った背景とその後の顛末が、文献学的に述べられています。「禅思想の批判的研究」では、禅思想を「思考の停止」ととらえており、おそらくご立腹なさるような主張が展開されています。一度対決なさるようお勧めいたします。
私は、学生時代に某臨済宗寺院でほんの短い期間ですが、参禅させていただいた事があります。その時もいい加減な態度だったし、その時お世話になった恩を裏切るようで気がひけますが、今は、ヴィジュニャーナを頭ごなしに否定するような禅の考え方には、疑問を抱いています。公案という指導方法も、全般的に言って、現在ではかなり形骸化したものになっているように感じます。
否定的な事ばかり書いてしまいました。多分私がヴィジュニャーナの側に偏りすぎているせいだと思います。座禅そのものは、プラジュニャーを開拓する技法として、実践してみる価値が大いにあると思いますし、私自身、再開しなければと思っているのですが、、。
以上、禅仏教についての感想です。
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ホームページを拝見して、ひとつ共通点を見つけました。それは脳科学へのご興味です。
唯識は心の動きを分析しましたが、惜しいかな、外境を否定するに至り、心の実体視を引き起こす危険を秘めた阿頼耶識などの構想に陥ってしまいました。対して、脳や認知の仕組みの研究は、ヴィジュニャーナには違いありませんが、唯識の過ちを回避して、我々の意識が外の世界と縁起しあう無我なる現象であること、すなわち人無我を説明する方便のひとつになってくれると期待しています。アフォーダンスとかオートポイエーシスといった新しい科学のものの見方も、人無我を世間的言葉のレベルで考えるヒントになってくれそうに感じていますが、簡単には歯が立たず時間ばかりが過ぎています。無我なる縁起の現象がどのように寄り集まって、自己意識や、執着や、努力や発心が創発されるのか? そのうち何か得るところがあれば、HP上にさらしますので、是非ご批判下さい。tom-halさんからもアドバイスや問題提起を戴いて刺激していただければうれしいです。たくさんお読みになった脳科学関連の中で、一番刺激的な本はどれでしたか?
今後ともご意見・ご批判を頂ければ幸いです。よろしくお願い申し上げます。
敬具
2002,8,20,
tom-hal様
曽我逸郎