たかたんさんより 「空」と「無」 2002,7,2,

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曽我様

こんにちわ。

「空」と「無」について曽我さんの見解をお伺いしたくて
メール差し上げました。

私はこれまで「空」と「無」を同義にとらえておりましたが、
仏教関係のホームページや書籍などを読むと、
「空」と「無」は一緒ではないという見解が多いですね。

これは、「無」を「有」に対する「相対無」として
捉えているからなのでしょうか?

それとも、「無」は「有」と「無」を超えた「絶対無」であるけれど、
それでも「空」とは別物と言う意味なのでしょうか ?

私は「無」もまた「空」と同じように 「有即是無 無即是有」であり、
「全ての原点としての充実したゼロ(絶対無)」であって
「虚無(相対無)」ではないと捉えているのですが、
曽我さんのご意見もお聞かせいただけます ?

                      たかたん


たかたんさんへの返事

           2002、7、16、
拝啓

 申し訳ありません。前に頂いたメールに返事を出さないまま、次のメールを頂いてしまいました。実は先のメールに返事を書きかけていたのですが、中途で文章がとり散らかってしまい、中座してしまっておりました。返事をお出しせねばならないメールの一つとして、時々に思い起こしていたのですが、そのままになってしまい、すみませんでした。
 このような不誠実な私に、またまたメールを賜り、恐悦いたしております。

 今回頂いたメールを読んで、すぐに最初のメール、「過去の事実は永遠ではないか」というご質問を思い出しました。それは「たかたん」というお名前でつながったというより、先のご質問と今回のご質問の背後に同様のものの見方があるように感じたからです。

 それはどういう見方かというと、現実に起こっている現象を抽象化し捨象しておいて、新たに創り出した概念を対象化する見方です。私のいつもの言い方で言えば、「いつも化」の一種だと考えます。

 はじめにもらった「過去の事実は永遠ではないか」というご質問で考えてみます。

 たかたんさんのお考えは、上座部仏教で有力であり龍樹菩薩が論敵とした説一切有部の三世実有論、「過去・現在・未来は、思考の対象となるから実在する」とほとんど同じだと思います。手軽なところでは、梶山雄一「空入門」(春秋社)の42ページあたりから概説がありますので、ご一読下されば幸いです。前回とりちらかってしまったメールでは、この辺のことを書き始めて失敗したので、今回は深入りせず、以下に自分なりの考えを書きます。

 釈尊が紀元前500年頃に北インド周辺に生まれ教えを説かれたということは、間違いなくあったに違いありません。娘スジャータがやせ衰えた釈尊に乳粥か何かを差し上げたということも、多分起こったことでしょう。では、釈尊がマヤ夫人の脇の下から生まれたというのは? 天上天下唯我独尊は? 生まれたばかりの釈尊の未来をバラモン達が正しく予言したというのは? 四門出遊は? 梵天勧請は? 様々な経典に書かれた釈尊の様々な行い・説法はすべてそのとおりに起こったことなのか? どれが事実あったことで、どれは後から付け加えられたお話でしょうか? 逆に、釈尊の身に起こった様々な出来事、おっしゃった言葉、すべてが漏れなく正しく今に残っているのでしょうか?

 「あたりまえ、、」HPの小論集、「人無我を説く方便の試み。その1:縁起」の「縁起の図」をご覧になって下さい。縁は、厳密に見れば、時間的・空間的に隣接して作用するのであって、けして時空を飛び越えて働くことはありません。たかたんさんと私が遠く隔たりながらメールをやり取りし、縁を与え合っているように見えますが、実は我々の間に、キイボードに始まるパソコンや回線やホストコンピュータがあり、それらの間を信号が行き交っている。同じように釈尊のお言葉や振舞いも、覚えており語る人がおり、聞き伝え語り継ぐ人がいて、文字にされ、翻訳され、保管され、発見され、出版され、、、しなければ、我々に届くことはない。しかも、その過程で多くの情報が失われ、様々な外の影響が入り込んでいるのです。釈尊の魂に直接語り掛けられたなどという人が稀に現れますが、思い込みかはったりに過ぎず、あり得ないことだと思います。

 もし、過去の事実が永遠に、つまり今でも存在するのであれば、どんなにいいでしょうか。釈尊に質問はできないまでも、釈尊がどういう状況にどう対応され、どうおっしゃったのか、今でも直接見て聞くことができるでしょうから。釈尊の物腰や表情や声の響きに触れられたらどんなにすばらしいでしょう。
 ですが、本当に残念なことに、過去の事実は今には残っていない。だから私たちは、過去の釈尊に接することができません。

 たかたんさんが、「過去の事実は永遠ではないか」と考えられたのは、様々な過去の出来事(無我なる縁起の現象)の個別性を抽象し捨象し一般化して得た概念を実体化されたからではないでしょうか?
 個々の現象の個別性を捨象し抽象し一般化すること(いつも化)は、動物が進化の過程で獲得し精緻化してきた能力であり、外の状況への対応を効率化し迅速にし、生き残る上で必要な術でもありました。しかし、人間にまで至っては、マンモスの牙のごとく過剰進化に達し、そのつどの現象を、永遠に変わらぬ価値(プラスの、あるいはマイナスの)をもつ存在として実体化し(現象の「もの化」)、執着し憎悪し、その結果、自らと他とに苦を生み出すようになってしまいました。(最大、最強の執着は我執です。)
 仏教は、本来、我々の執着する対象が、実は無我なる縁起の現象であって、永遠の存在ではないことを教え、執着と憎悪を解消する教えでしたが、人間という動物種に根づいた実体化傾向は根深く、本来それと戦うべき仏教においてさえ、真如、法界、法身、如来蔵といった概念の実体化が行われてきました。

 今回メールを頂いた「空」と「無」についても、おそらく同じ事が言えると思います。

 まず無については、私自身も無を対象化し実体視した覚えがあります。目的や価値に悩み、なかば病的な状況にあった学生の頃、「にぎやかな繁華街のイルミネーションの向こうで、暗黒星雲のような無が、黒々ととぐろを巻いている」というような文章を書きました。

 しかし、釈尊に始まるインドの仏教においては、無はあまり重要な言葉ではない様に思います。無は、無我や無明というように他の言葉とくっついてそれを否定する形(すなわち無の本来の意味)では重要な意味を成しますが、無単独では、せいぜい「有無の二辺を避けよ」という教えにおいて、捕らわれるべきでない考えとして否定的に扱われるくらいではないでしょうか。(蛇足ながら、有無の二辺を避けた立場とは、無我なる縁起の現象として世界と自分を見ることだと思っています。)

 ところが、仏教が中国に至ると、たとえば趙州和尚の無に始まる無門関のごとく、無が肯定的なニュアンスをもつようになります。老荘思想の影響かも知れません。そして、たかたんさんのおっしゃる絶対無は西田哲学の言葉でしょうか? 西田哲学には、禅の影響が強く現れています。

 老荘思想にも西田哲学にも疎いので、無についてはこれくらいにします。いずれにせよ、無は、本来の仏教においては、さほど重要な概念ではないと思います。

 一方、空は大乗仏教の最も重要な概念の一つです。その本来の意味は「自性がないこと」。我々が普段Aだとして捉えているものには、Aとしての自性(本質・実体)はない。すなわち、今たまたま我々がAととらえるような仕方で縁によってしばらく現れているに過ぎない。ですから、空と無我と縁起は同じ事を別の角度から言っている言葉です。
 空は、本来述語なのです。「Aは空である、Bは空である、一切は空である」というように、常に主語があって、それが空である、というのが正しい空の理解です。空を対象化して名詞(主語)にして考えてはいけない。人間として沁み込んだ性で、私たちはつい対象化し実体化してしまう。「あたりまえ、、、」本文において、私が空を力、エネルギーとして説明したのも典型的な過ちの一例です。

 質問に対する答えになっていないとお感じかもしれません。私としましては、質問への答えよりも、質問の背景の方を考えてみたい、考えて頂きたいと思い、このようなメールになりました。
 「あたりまえ、、」HP意見交換の01,10,7, 佐藤 守さんのメール「空とは何ですか?」のやりとりもご一読下されば幸いです。

 このメールが答えにならずとも、たかたんさんがなにか発見されるきっかけになればうれしいです。
 また是非ご意見ご質問をお寄せ下さい。(頂いたメールに)どのように返事を書くか、あれこれ考える中で、自分の考えが整理され、不十分なところが分かり、新しい発想があります。是非また率直なご感想を頂きたく、宜しくお願いいたします。

                        敬具
たかたん様
                         曽我逸郎

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