青木 庸三さんより 南方上座部系のヴィパッサナー瞑想 2002,5,12,

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 お便りありがとうございます。

 連休中はいかがお過ごしでしたか。私は、この連休中に南方上座部系のヴィパッサナー瞑想の手ほどきを受けましたが、非常に素晴らしい体験でした。曽我さんは「行」についていろいろと考えておられると思いますので、私の体験と考えたことを少々ご紹介したいと思います。

 ヴィパッサナー、vipassanaはvi=明瞭に、passana=観ることで、vipassana bhavanaは通常はヴィパッサナー瞑想と言われていますが、実際は「明瞭に観る訓練」という意味であり、非常に単純に言えば、現在、「私」に生起するダルマ、つまり、身体感覚、感情、思考…を解釈を入れずに観察し、諸行無常を頭だけでなく、心の奥底から実感するという実践です。
 ヴィパッサナーは、古来から仏教の修行法として行われてきたようです。「止観」は、samatha vipassanaの漢訳ですので、「観」とはまさにヴィパッサナーの修行であり、また、後で述べますが、大乗における三学の戒定慧の「慧」、六波羅蜜の「智慧」は、いずれもヴィパッサナーのことであると思われます。

 具体的には、スリランカから来られているスマナサーラ長老のご指導を受けさせて頂きました。

 ご承知のように、上座部仏教では、すべてのダルマは刹那に生じ、刹那に滅すると説きます。一切は瞬間瞬間に変化し、不変なるものは何もない、諸行無常です。我々が普段「私」と考えているものも、瞬間瞬間に生起する心所のつながりに過ぎないのですが、我々はそれを「私」と誤認し、これに執着することによって、苦が生まれると説きます。上座部におけるヴィパッサナーは、自分が実は心所の束に過ぎなかったことを観ずることにより、無分別智を発動させる仕掛けだろうと思います。

 方法はシンプルで、ヨガのように呼吸とシンクロして体を動かすと言うことはしませんし、一切の観想手段、例えばイメージ、マントラなども用いません。具体的には、手を上げるとしますと、手をゆっくりと上げながら、その時に一番強い感覚、思考に気づき(sati)、ラベリングします。ラベリングとは、satiを言語化する作業です。手を上げているときは、最も大きい身体感覚は、手を上げていると言うことでしょうから、その身体感覚にsatiを入れ、心の中で声を出さずに言語で「手を上げます」とラベリングして、それを継続します。

 また、座っているときは、通常は最も大きい身体感覚は呼吸でしょうから、腹の膨らみ、縮みに、「膨らみ」、「縮み」とラベリングして実況中継しますが、足に痛みが生じたときは、「痛み」とラベリングし、頭の中にイメージが現れたときは「妄想」というラベリング、何かしらの感情が出てきたときには、「楽しさ」、「悲しみ」などというラベリングをするわけです。

 ここでのポイントは、感覚に気付いてそれにラベリングするということであって、手を上げます、腹が膨らみます・縮みますという掛け声、先入観が先にあってはならないということです。

 私が指導されたのは初心者向けのヴィパッサナーで身体の感覚に注意し、ルーパ(色)の動きにsatiを入れるということですが、ルーパへのヴィパッサナーが上達すると、ヴェーダナー(受)、サンニャー(想)、サンカーラ(行)、ヴィンニャーナ(識)の生滅も観察できるといいます。

 座る瞑想の時は、座って目を閉じて「吸います」、「吐きます」と3回深呼吸をしてから、「待ちます」と自分の中に何かが生じてくるのを待つのですが、このときは無意識をいじることとなるので、終わるときには、再び「吸います」、「吐きます」、「終わります」と3回深呼吸をしてから終わるようにと指導されました。これは意識が向こう側に行ったきりにならないようにするためだということです。座ると、サンニャー、サンカーラの働きが強くなりますで、それだけ危険なのでしょう。

 意見交換のページで、杉浦さんが実践されたのは、まさにこのヴィパッサナー瞑想の一種だろうと思われますが、主としてサンニャーとサンカーラの生滅を観じられていますので、私見では相当危険な方法に思えます。やはり、アビダルマか唯識で個々の心所や悟りの理論を勉強した上で、ルーパの生滅を観じるところからはじめるのが無難と思います。また、上座部でのヴィパッサナー瞑想の前には、必ず礼拝・三帰依・慈悲の瞑想を行いますが、このようなプロセスも必要だろうと思います。幸い、杉浦さんは預流果を得られたようですが、この方法では追いつめられた自我が自分を破壊する行動に出る、つまり発狂や自殺を引き起こしてしまう可能性がありそうです。

 さて、私は長年、六波羅蜜の「智慧」の位置づけがよく分からなかったのです。つまり、六波羅蜜は、菩薩の修行方法とされているのに、通常の解説書などを読むと、前の五波羅蜜を修習することにより、自ずと現れてくる智慧などと説かれていますが、これだと「智慧」は修行方法ではなく、修行の到達点になってしまうからです。
 長老の指導を受けた後、連休中、世親菩薩の「摂大乗論釈」(玄奘訳)を読んでいましたら、釈に、「又此れ皆生死を解脱せんが為なり。此れ復云何が能く解脱を得るや。熏と覚と寂と通との故に解脱を得る。謂ゆる聞に由りて心に熏習するが故に、思に由りて覚悟するが故に。奢摩多を修するに由りて寂静なるが故に。毘鉢舎那を証するが故に由りて通達するが故に、能く解脱を得るなり。」とあるのを発見しました。これと六波羅蜜の部分を照らし合わせますと、サマタ=禅定、ヴィパッサナー=智慧となります。つまり、六波羅蜜は、布施、持戒、忍辱、精進を修し、サマタとヴィパッサナーにより菩薩の悟りが得られるという構造であると理解できます。
 六波羅蜜についての私のこの解釈はどこの本にも書いてありませんが、おそらく間違っていないと思います。戒定慧の定と慧もサマタとヴィパッサナーなのでしょう。

 また、南方上座部系のヴィパッサナーは、説一切有部のようなアビダルマを理論的背景としています。私は、説一切有部とはシャム双生児のような唯識を学習していましたので、それほどの違和感はありませんでしたし、ピュアな感じで好ましかったのですが、禅とか浄土、法華を背景とする人には、相当違和感があると思います。

 「批判仏教」の本のご紹介ありがとうございました。取り寄せて読んでみたいと思います。頂いたメールについていろいろとご返事をしたいところもありますが、今日は取り急ぎヴィパッサナーの体験記をご報告するだけで止めたいと存じます。

 それではまたメールいたします。

                         2002年5月12日

 曽我 逸郎 様

                            青木 庸三 拝


青木 庸三さんへの返事

10月20日に頂いた青木さんの次のメールにまとめて返事をお送りしました。一旦意見交換のリストに戻ってお読みください。

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