杉浦さんより 曽我のメールへの詳細な解答 2002,4,13,
 (2/24に頂いたメールにお送りした私の返事に対する解答です。)

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曽我様:

丁寧なお返事ありがとうございます。そのお返事,また多分かなり長くなります。
なので気が向いたときに少しずつ気楽に読んでください。

 行を怠っている私には、誠に耳の痛いお言葉です。

私,失礼なことを言ったかもしれません。でもそういう意味は全然含んでおりません。さらに失礼を重ねてしまいますが,曽我様のご見識,ご理解,よい線をいっていると思います。特に,「意見交換」のご回答のやり取りなど。お人柄のよさも拝察いたします。重ねて失礼お許しください。

無礼はこのくらいにしまして,ご質問に答えさせてください。
よくおわかりでしょうが,言葉はあまり正確ではありません。
それは,それを食べたことのない人にその味を説明するようなもので,異なることを伝えているのかもしれません。でも努力することは常に出来るでしょう。

 「心を解脱した私」は、感情を持つのでしょうか? 「この世のものとは思われない心地よさ、大きな歓喜」はあるとありますが、凡夫の喜怒哀楽は多分なくなっている様に想像しますが、どうなのでしょう?

確かに,ご想像の意味では感情を持ちません。でも感情はそのままあります。
これを想像する一つの方法は,映画を見ていて熱中し過ぎていた子供が,それを単なる映画だと気付いたようなものと想像してみてください。
(移入していた)感情が以前の仕方ではないけれど,依然,それを見ているという意味では未だそこにあります。
もう一つ想像してみてください。感情がなくなったら日常生活できるでしょうか。
もしかするとできるかもしれません。
でも,そうだとしてもそれは何か究極的な拠り所といえるでしょうか。
感情(≒煩悩)が心の問題点だとして,感情がなくなった境地は安全でしょうか。
その境地があるかどうかはわかりませんが,あったとして,それは,もし感情が生じてきたら壊れてしまうかもしれない不安な境地でしょう。
生じてくるかどうかわからない感情が,そのときには見えていないからです。
それはあたかも暗闇にいるかのようなもので,何も見えていない,何も悟っていないのです。

全ての感情がそこにありながらそれが自動的に静かに消え去る境地というものは,感情が起こっても,何も起こらないことをはっきりと知っていますから,不安はないのです。今,不安が私の心の中に起こったとしましょう。その不安は,私が何か気をつけたり,抑えつけたり,判断したりする以前に,心がそれを勝手に消し去ってしまうのです。そこでは,すべてがはっきりと悟られています。そこに,盲目的でない大いなる自由があるのです。何物をも傷つけることなく,すべてあるのままにあって,なおかつそこに没入してしまうようなことのない自由があるのです。
それは凡夫の喜怒哀楽と多分同じものです。しかしながら,それによって何も傷つけられることがないのです。

もうひとつ。「この世のものとは思われない心地よさ」は心ではなく体,つまり感覚に生じてきます。また,「大きな歓喜」は自分でもよくわかりませんが,腹の底から湧き起こるもので,感情が生じる心とは別のものです。それは感情や思考から解き放たれた,自我から解き放たれた自由のもたらすものです。
存在に生じてくるというか,この世の全てが,宇宙全体が自分を祝福しているというか,神に愛される感じ,全体を包むものです。あるいはもしかしたら,それはやはり心に生じてくるもので,ただ心の通常のキャパシティを超えているので,そのように別のものと感じるだけかもしれません。

これらは常にというより何のきっかけかよくわかりませんが勝手に生じたり,なくなったりしています。一度生じるとある程度持続します。これは何の根拠もなく理由もなく生じてきます。つまり,心が自ら勝手に作り出しています。つまり,それが心の本性です。つまり,心とは何がなくとも勝手に喜んでいるのです。
そして,それが,生きる喜びそのものだと思うのです。
獲得したことに応じて喜びを得るのではなく,何も獲得しないでも喜びが初めからある。でも,どういうわけか何かを獲得することに一生懸命になるとそれがどこかに消えてしまうようです。

 他の有情はどう映るのでしょう? 慈悲がおこるのでしょうか?

@私は実際には誰か偉大な師に会ったわけではないのに,この法脈を伝えてきた覚者たちに深い感謝が生じます。愛を感じます。

A慈悲心は誰にもあります。しかし,他の感情や思考,自我がその自由な働きを妨げるために,慈悲心は,単なる所有愛や向上心・傲慢,ごまかしに置き換えられてしまいます。その置き換えは凡夫においては無自覚的に引き起こされてしまいます。悟りの中では,そのような妨げがなくなってしまうので,純粋にそれがあふれ出してきます。

B慈悲心と呼ばれるだろうものは自然に生じます。でもそれは何か突き動かされるような激しい感情ではなく,ふわっとしたあたたかみ,やさしさのようなものといえます。菩薩のように,「全ての衆生を救うまでは私は涅槃に入るまい」とは思いません。むしろ,「救う」などということはどうでもよく,それに執着することもありません。

むしろ,私が解脱したとしても,誰も信じることもないであろうし,理解もしないかもしれませんが,もし聞きたいという人があれば隠すこともありません。
覚者はこの世の真の認識を知ったのかもしれませんが,それはともかく,幻の世界であったとしても,自分自身はその世界との調和がより重要になります。いとおしくなります。このつまらない,生きていることを憎んで止まなかった世の中が実にいとおしくなります。異性を見ればああ美しいと思います。花を見れば輝いて見えます。音楽を聴けば陶酔します。歴史や文学を学べば深く感動します。仕事をすれば熱中して苦しんでやり遂げます。(苦しんでですよ!)
それらは全て煩悩です。煩悩がそのようにきらきらと輝くのです。本当に美しく輝くのです。全てが新鮮で貴重な美しさです。

C他の有情がどのように映るのか,いろいろな映り方がありますが,典型的なのは,皆,悟ったように見えます。全てが幸せに見えます。何か全てが大切な命を生きているということをひしひしと感じます。そして,「伴に生きている」ということを強く感じます。繰り返しますが,調和が重要な価値観になります。

ただ,常にそう見えるわけでもありません。ときには,「何とかこの境地を悟って欲しい」と見えます。そのとき私は,「悟った私と迷っている人」を明確に区別しています。感情と同じで,区別する思考がなくなりはしません。むしろはっきりと区別できるようになります。分別意識が明晰になり,意識がはるかかなたまで透き通るように晴れやかになります。自由で柔軟になります。その意識の中で,何が有情を清め,何が有情を汚し,何が本当に求められるべきものなのかをはっきりと理解します。なぜなら,自我の働きや,それがもたらすものの何たるかがよくわかるからです。

また,ときにはなんと愚かな生き方をしているのだと失望します。くだらない議論に始終し,感情の赴くままになって,自分がいかに偉いかを主張するばかりで,結局互いに傷つけ合っているだけです。そのようなものに本当に関わりたくないと思います。何かに一生懸命になっていますが,それに何の意味があるのか,と聞いてみたくなります。何が自分にとってプラスで,何がマイナスなのかを知らないので,マイナスになることばかりに一生懸命になるのです。
覚者が彼らに何か適切なアドバイスをしたとしましょう。しかし,それぞれ自分の関心に沿って解釈するだけでそれは何の助けにもならないでしょう。

しかし,それはそれでいいのだとも思います。たとえそれが地獄界や餓鬼界の生き方,修羅界や天界の薄っぺらい幸せであったとしても,それは自ら選択してそれを楽しんでいるのですから。この体験をする前には,そのような惨めで誤った認識は,正しい認識に置き換えて,救ってあげなければならないと思ったこともありました。しかし,実は地獄界や餓鬼界・・・などは実在しないのです。苦しんだとしてもそれは心の虚構で,現実ではないからです。
その代わりに実在しているのは,個人の自由な生き方です。それを尊重し,傷つけず,迷った生き方は迷った生き方のままにしておくことが,慈悲心の一つのあり方です。

もし,自分は何かを超越したい,真実を悟りたい,この無常の世界から超脱したいと望むものがあれば,彼には助けが必要でしょう。それに対して何かを隠し立てすることはありません。そのような人があれば手を差し伸べるでしょう。これもまた慈悲心の一つのあり方です。そしてそれは可能なのです。
禅者が「悟りを求めるもまた執着」ということがあります。しかしそれは正しくありません。執着してよいのです。そのような執着なしに悟りが得られることはないからです。もし,得る必要がないというのであれば,得る必要がないでしょう。もし,得る必要があるというのであれば,求めればよいでしょう。
悟りとは,何かの解釈でも,知的確信でもなく,はっきりとした体験なので,それは明確に実在するのです。それを「色即是空」とか「空即是色」とか言って遊んでいる間は絶対に成就することがありません。しかし,現実に問題を捉えて,しっかりと自己を観察していけば確実にこの世界の真実を誰でも明確に悟ることが本当にできるのです。

  >それは無我とも真我とも呼ぶことができるでしょうが,
  >とにかく心という奇妙な現象の引き起こす驚くべき虚構なのです。
 この文章で杉浦さんが「無我とも真我とも呼ぶことができる」とおっしゃる「それ」というのは、「心を解脱した私」のことでしょうか? だとすると「心を解脱した私」とは「心という奇妙な現象の引き起こす驚くべき虚構」なのでしょうか?

 それとも「それ」は「「私」や「私の」という思考」でしょうか?

私の文章が混乱していました。
「無我とも真我とも呼ぶことの出来る」という「それ」は,「奇妙なさざなみに過ぎないと認識している」現象自体をいっています。その現象が心の虚構だというのは間違いで,無我という言葉によって否定された「我」が,「心という奇妙な現象の引き起こす驚くべき虚構」だという意味です。

あるいは,言い方を換えますと,以前,「奇妙なさざなみに過ぎないと認識」せず,それに実感のある苦しみを感じていたことや,どのような認識も自我によって汚染されていたこと,そのような現象自体を,「心という奇妙な現象の引き起こす驚くべき虚構」といっています。というのは,それは虚構に過ぎないのに,凡夫においては,本当にそれが世界のすべてなのですから。

 もう一点、どのような方法で心を観察すべきでしょうか。

これは極めて重要な質問です。

恐らく目的に達するまでに数ヶ月かかるでしょう。逆に,無駄なことをしなければ,1年以上もかかるなどということはないでしょう。
(私の場合は二ヶ月くらいです。)

この目的は必ず成就することができます。なぜなら,それが心の本性だからです。何か特殊なことを心に生じせしめるのではなく,心の自然な現われを悟るに過ぎないので,それは必ず成就します。

でもそのために乗り越えるべき苦しみは存在するでしょう。
なぜなら,あなたが現在この世の全てだと認識している自我の捉えるこの世界を,ことごとく破壊してしまう過程であるので,自我はそれを妨げるからです。自我はあらゆる妨げの手段をとってくるでしょう。あなたはその裏をかかなければなりません。いかなる恐れもごまかしも相手にすることなく,しかも,他でもないあなたが悟るのですから,あなたの自我の働きをうまく用いてそれをやり遂げるしかないのです。

しかし,それがあなたを何か傷つけるなどということは何もないでしょう。
何も傷つけずそれは成就するでしょう。恐れることはありません。
自我が崩壊してしまっても何も傷つけられることはなく,狂うこともなく,ただそれらが過ぎ去った後に明確なものが顕れてくるに過ぎないからです。自我はもとから幻覚に過ぎないからです。自我が口を挟むことのないこの境地が,ここに,こうやって実在しているのですから。

初めのうちは日常生活をしたままでよいでしょうが,最後のほうは仕事などは手につかないと思います。ですから,数ヶ月(2から3ヶ月か)先に2週間から1ヶ月くらい社会活動を休める時期をつくって,そこからさかのぼって期間を計算し,その時点から始めるのがよいと思います。
(もちろんこれは必須ではなく,よほど精神力のある人ならそんなことしなくても大丈夫でしょう。)

方法は,一言で言いますと,「我」を「心」から追い出せばよいのです。
だから徹底的に我を追い立てて心のどこにも安住させないように追って追って追いまくるわけです。

私の発想は,自分の心を徹底的に観察して何がどうなっているのかを完全にはっきりとみてやろうと。そして何もかも理詰めで完全に分析,分解,破壊して心が苦しみを生み出す構造を理解力によってメカニカルに断ち切ってしまおうとしたわけです。

自己観察をはっきりとすれば心が自然に浄化されていきます。そしてより深層にある心の微細な動きがわかるようになります。でもさらにそれをはっきりと観察していきますと,その気付きの力は心の動きを制御できるようになっていきます。
さらに進みますと,不断の気付きによって心の動きがほとんどおさまってしまいます。そこから進歩が感じられにくくなりますが,苦しさが一層ひどくなっていきます。生きる気も死ぬ気もなくなります。絶望します。その状態でしばらく待っていると,それは向こう側からやってきます。繰り返しますが,なぜなら,それが心の本性だからです。

もう少し細かく見てみましょう。

@自分の心を観察するといっても,見たくないものが多くあるでしょう。でもそれを逐一全て自分の心に生じてくるものとして見ていきます。

自我は苦しみの観察を始めると邪魔しようとします。恐れを引き起こさせ,それを見ないようにさせます。でも恐れを恐れないで丁寧に見ていきます。
なぜなら,恐れは恐れに過ぎず,それ以上のことを引き起こしはないからです。
つまり,いかなる恐れが起ころうとも,恐れる必要のあるものなど初めからどこにもないのです。

あるいは恐れではなくて,嫌悪を起こすかもしれません。自分はこれではいけないと思ったりします。でもそれも,自分の中の嫌な心と,それを嫌悪している心の両方を,はっきりとただ観察します。

A自分が孤独であることを知る必要があります。人はみなある日突然に孤独に死ぬために生まれてきます。死ぬときには本当に孤独です。誰も代わってはくれません。
でも孤独なのは死だけでしょうか。いや,あなたのことをありのままにわかってくれる人なんているでしょうか。では逆にあなたは誰か他の一人のことでも完全にわかってあげられるでしょうか。いや,完全でなくてよい,たった一つのことでも本当にわかってあげられるでしょうか。

あなたは,本当に重要な仕事を成し遂げようとすれば孤独です。誰も賛同しないかもしれません。賛同してくれたように見えても本当の心はわかりません。
本当に賛同してくれたと仮定しても,いつか急に離れていくかもしれません。
その仕事が単なるデューティーなら離れていった人に対して腹を立てていればそれでよいのかもしれません。でもそれが自分にとって本当に重要な仕事なら,腹を立てている場合ではありません。一人敢然と困難に立ち向かわねばなりません。
そのやり方が間違っているかもしれないという疑念が自らあったとしても,それを成し遂げるとき,非常に孤独です。人は舞台に立つとき孤独です。
体験は孤独です。心は孤独です。

そして,この修行も実に孤独なのです。誰が理解するでしょうか。単に気違いだと思われるだけです。だから本当は修行なんて止めておいた方がよい。それでも,自分にとっては大切なことだから,どうしてもごまかしきれない何か(=苦しみの実感)があるから自己観察の行を進めるしかないのです。

自己の死を見つめることは非常に鋭い洞察を呼び起こします。人の死,人間の死,生命の死ではありません。自分の死です。その違いをはっきりとわかってそれを観察するとき,本当に観察しています。本当に観察しているかどうかはどうやって見分ければよいのでしょうか。それは,自分の心に聞いてください。心が非常に痛むはずです。観察を続ければ続けるほど痛みは増すはずです。それが正しく観察が出来ており,修行が進んでいる状態です。

B自分が無力であることを知る必要があります。私は生きて,一体何事かを成し遂げるでしょうか。何かそれは意味あることでしょうか。誰か人を救うのでしょうか。そんな大げさでなくとも,少しでも安心させてあげられるでしょうか。
できるように思えてもそれは本当でしょうか。思い込んでいるだけではないでしょうか。
目の前に腹の立つやつがいます。あなたは彼にそれをやめさせることができるでしょうか。それは彼にとって善いことでしょうか。彼の反発を受けることなく温和にやめさせることができるでしょうか。彼があなたの指摘を受けて深く謝罪し,腹の立つ行為をやめたとして,それはただ彼の気が弱かったからではないでしょうか。彼の気が強ければどうなったのでしょうか。間違ったこととわかっていても謝らなかったのではないでしょうか。謝らないのはよしとしても,腹の立つことをやめてもくれず益々ひどくなってしまうのではないでしょうか。
社会を変えることができるでしょうか。それは敗北的な自己満足に終わってしまうのではないでしょうか。

何か間違ったことが大きな慣性力を持って動いているような気がしますが,それを少しでも止めたり方向を変えたり出来るでしょうか。そしてそれは本当に正しい方向だったのでしょうか。あなたは何が正しいことなのか本当に知ることができるでしょうか。あなたの愛する人の気を惹くことが出来るでしょうか。
死期を知ったり,伸ばしたりできるでしょうか。朝寝坊して,急いで会社に行けば間に合うでしょうか。いらいらすれば何かが改善するでしょうか。何かすっきりとしない頭はよく眠れば十分すっきりするでしょうか。病にかからない体を作ることが出来るでしょうか。運命を変えることはできません。
死や病,老い,別れ,失敗,災難,それらは生きている限り約束されています。
それらに対して人は無力です。

C自分が罪人であることを知る必要があります。何か一つでもちゃんと戒律を守れるでしょうか。いつでも自分が一番だと思っていませんか。自分が偉いと思わないとき,自分は駄目だと卑下慢に陥っていませんか。そのどちらでもないときはほとんどないでしょうが,そのときは単に怠けているだけではないでしょうか。そしてそれらのことははっきりとした事実であるのにそれから目を背けたいと思っているでしょう。単に目を背けていても問題が解決するわけでないと知っているはずです。でもそれをごまかして知らないふりをしていませんか。ごまかさなくても,それが恐ろしくて直視できていないのではないでしょうか。そのように内省的な気分がいくらか続いたとしてもすぐに他人のせいにするのじゃありませんか。あいつもそうだ。おまえもそうだ。みんなそうだ。そうやって自分のことは忘却しているのではないでしょうか。そうやって日常はちっとも自分のことなんて理解していないのではないでしょうか。自分で自分のことを制御できず,直視もできず,ただ他人がよいとかわるいとか判断して,裁判しているだけではないでしょうか。

あなたは他のやさしい人々からどれだけのことをしてもらったのでしょうか。多くのことを与えられてきたのではないでしょうか。一方,あなたは彼らに何かをしてあげたでしょうか。それは十分だったでしょうか。そうしている今も,世界では飢えた人々が今日も誰からも見向きも去れずに死んでいきます。また,争いごとで互いに心底憎しみ合って,あるいは恐れ合って,殺し合いをして死んでいきます。そのようなこととは無関係にただ安住しているのではないでしょうか。
空調の効いた快適な部屋で,おいしいものを食べて,それでいて何か不満に思って,何かを罵っているのではないでしょうか。それともそれはみんないっしょだからといってごまかすのでしょうか。罪の意識も持てないほど罪深い人なのでしょうか。

毎日毎日,他の生命を傷つけなければ生きていけないのではないでしょうか。あなたが歩く道には小さい生命が生きています。それを踏みつけて毎日を過ごしています。毎日三度も食べる食事は全部他の生命を殺した結果のものです。

これらのことは運命で仕方ないと思うのでしょうか。一方,自分に降りかかる不幸に関する運命は否定してしまうのではないでしょうか。それについてはきっと他の道があったのでないかとか,あいつのせいだとか思うのではないでしょうか。

自分の罪深さをとことん洞察してください。

Dこのような洞察が深まってくると次第に恐れのみに心が専注していくでしょう。しかし,恐れずまだまだ続けていかなければなりません。このようなことをしても無駄だと思うかもしれません。初めは何かきらめく可能性のようなものを感じたが,恐れに飲み込まれてやめてしまいたくなるかもしれません。みんな迷ったままだからそれでいいと自分をごまかしてしまうかもしれません。いっそのこと死んでしまえば全て解決すると思うかもしれません。本当は解脱や悟りなど虚言に過ぎないと思うかもしれません。

これらの恐れが引き起こされることは,すべて極めて正常なことなのです。
それどころか,どんどんそれが強まってこなければなりません。
強まっても耐えられるほど心が浄化した時点で,さらにそれは強まります。
その時点から,さらに恐れが強まっても耐えられるほどにさらに心が安定すると,さらにそれは強まります。

ちなみに,このころ,あなたは,かなり強い「煩悩を焼き払う炎」を手に入れているでしょう。いかなる心の動きが生じたとしても,それに注意を向けるだけで生じた煩悩を立ちどころに破壊してしまうことが出来るはずです。

Eこのようにして行き場のない,完全な絶望の中にただ留まりつづける必要があります。なぜなら,このようにして,思考や感情が望みを失った境地を,意識的に実現させることができるからです。

Fしかし,たとえそのような境地に完全に到達したとしても,苦が極限大に大きくなっただけで,最悪の境地に過ぎないでしょう。それを地獄というのです。
なぜなら,あなたは自我から逃れようとしているからです。
つまり,「ここ」から逃れようとしているからです。
しかし,転げまわってここから逃れようとしても,動いた先が既にここなので,そこから逃れることはできません。私のいる場所は常にここなので,転げまわって苦しむが,逃れることはできないのです。

Gしかし,それは何らかの外的契機を伴って,ある日突然やってくる でしょう。

ふっと気が付けば,自我が心から完全に離れていることに気付きます。
今まで激しく渦巻いていた激流は,心の領域にあります。
私はそれを見ているかのようですが,それから全く自由です。

HFからGへの過程は私にもよくわかりません。それは向こう側から やってきます。こちら側から意識的に赴くことはできないのです。
ただ,Fの絶望の中に留まって待つしかないのです。

Iなぜそうなっているかといいますと,要するに,心の凝り固まったカルマの力を解きほぐすのには時間がかかるからです。また,それを解きほぐすには,絶望の力が必要です。しかし,それは必ず解きほぐすことができます。
要するに,肩が凝っていたのです。よくよくもんで解きほぐしてやればよいのです。しかし,もまなければほぐせませんし,それにはしばらくの間続ける必要があります。しかし,必ずほぐれるのです。

以上が,不思議な神秘的な方法や,無理なこと,激しい苦行,何かの儀式に自己を預けてしまうのではなく,自ら着実にそれに到達するための私が発見した方法です。

私は,これを読まれた方で,道を求める方なのであれば,どうか,目を覆ってしまうのではなく,自らそれを体験していただきたいと思います。
そのときには,私の示した,感謝や解脱,心の本性というもの,調和なるもの,それら全てのものに対する理解がはっきりと生じてくるでしょう。
そしてそれが成就すれば,また,あなたの縁ある人に,それを説いてください。
そして自由に生きてください。


杉浦さんへの返事

すみません。まだお出しできていません。しばしお時間を。

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