青木 庸三さんより 世界は美しく見えたか及び善悪について 2002,4,1,

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曽我 様

 桜の花に酔いしれていたかと思っていましたら、冷水を浴びせられたようににわかに寒くなり、あるいはまた暖かくなるなど、転変して止まない暴流のような季節ですね。

 先日は丁寧なご返事、ありがとうございました。たくさんの論点を頂き、どのようにまとめようかと思いつつ、考えることが多く、返信が遅れまして申し訳ありません。

 さて、曽我さんも昔山に登られたとのこと。瑣事に紛れて私はここ2年ほど山に行っていませんが、時々無性に山頂の清冽な空気を吸いたくなります。ツァラトゥストラは、「山頂の空気は稀薄で清らかだ。危険はつねに迫っている。精神は快活な悪意にみちている。ここにすべてが相呼応している」と言っていますが、山は超越的なものを象徴する何かがあるような気がします。
 先だってのお便りでは私の小さな経験をお話し申し上げましたが、確かにあの時は、トップで登っていてほとんど40メートル伸びたところで岩が崩れ、そこから確保地点よりも更に下まで落ちていきました。やや傾斜が緩かったところでしたので、何度かバウンドし、それがクッションとなったのか、両腕の3カ所の骨折と打ち身、擦過傷多数で済みましたが、当たり所が悪ければ死んでいてもおかしくなかったと思います。友人の中には死んだものもいます。落石が顔面に直撃した者やパミールで高山病にやられた者。仏教に心ひかれるのも若い時に死を身近に感じた経験があるからかもしれません。

(世界は美しいのか)
 若い頃は誰しもそうなのでしょうが、世界と自分の間に溝があると考えるようです。私もそうでした。世界というとき、おそらくそこには二つのものがあるようです。一つは人間社会としての世界。この場合の溝は、世界は自分の理想を実現するに値しない俗悪なものであるという意識です。もう一つは自然でしょうか。こんなに世界は美しいのに自分はここを死によって去らなければならない、美しい世界と自分は切り離されているという意識。前者の意識に立つと世界は堪らなく汚く見えますし、後者の意識に立つと世界は哀しいものに映るでしょう。今となっては記憶も曖昧ですが、当時の私には世界はその二つの相に見えていたのだろうと思います。

 さて、岩壁で墜ちてその後に見た世界=自然は、私には非常に美しく思えました。今でも覚えている感情は、世界と自分は切り離されていない、自分は世界の中で生かされているというものです。

 世界が美しく見えるというのはなぜなのでしょうか。

 唯識思想の三性説によれば、ものの見方(唯識ですので、それはそのまま世界のあり方ということになりますが…)は、ものがばらばらに存在しているという見方(偏計所執性)、ものは縁起によってつながっているという見方(依他起性)、世界の真実を見る見方(円成実性)の三つがあるといわれます。第三の円成実性は概念として非常にわかりにくいのですが、ヨーガなどによって縁起の法を心身ともに本当に理解すると自他の区別が消え去り世界の真実が見えて来るということなのかと思います。曽我さんも引用しておられた有名な石のたとえがありますが、金の鉱石は一見すると何の変哲もない石ころだが、よく見るとそれは鉱石であり、更に精錬すると黄金になる。この世界は苦の世界であるが、よく見ると縁起の世界であり、更に修行を積むと世界は光り輝いて見える。世界はそのままで美しい…「本来清浄涅槃」と言われるのはこんな境地なのでしょうか。
 もちろん私は悟りにはほど遠い凡夫ですが、人間は大きな危機に見舞われそれを乗り切ると世界と自分との間にあった壁が一瞬取り払われ、自分と世界とは結局同じものだという真実を観じる…それが世界が美しく見えるということなのかなと思っています。悟りを開かれた釈尊の目には世界は美しく見えていたことは疑いのないところでしょう。
 曽我さんは「すきとおった悲しみ」と書かれていますが、いい表現だと思います。「すきとおった喜び」、「すきとおった悲しみ」…私も大パリニッバーナ経はいつも手元に置いて折に触れて読んでいますが、ここに書かれている釈尊の最後の心境はそういうものだったのかなと思います。
 おそらく釈尊ならば、鈴木宗男さんや辻元清美さんがじたばたするのをすきとおった悲しみの目で見られるでしょうね。

(善悪の問題)
 あれから善悪の問題を少々考えてみました。なぜ「善悪」の問題にこだわるのかと申しますと、昨年の同時多発テロが契機になっています。事件発生の当初、私も非常に怒りを覚え、報復は当然と思ってしまったのですが、さて現実にアメリカ軍の攻撃が始まり、無辜のアフガニスタン人が「誤爆」で死ぬのを聞くと、さてこれでよいのか、と疑問に思ったのです。
 イスラム過激派にとってはツインタワーの爆破は善であるが、アメリカ人にとっては悪である。アメリカ人にとっては報復は善であるがアフガニスタン人にとっては必ずしもそうではない。善と善、正義と正義のぶつかり合いが大きな悲劇を生んでいるのではないか…しかし、現実に「善」を振りかざして殺人を正当化するようなイスラム過激派(あるいはアメリカ合衆国、イスラエル…)にはどのように対処すればいいのか。
 「実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むことがない。怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である」(ダンマパダ)と仏教では教えています。テロ事件後、仏教の各派が声明を出していますが、浄土宗がこのダンマパダの句を引いて報復反対の声明を出したのが目立つぐらいで、全体に腰が引けたものが多く、また具体的な行動は見られなかったように記憶しています。

浄土宗:http://www.jodo.or.jp/jodo/report/beitero.html
浄土真宗:http://www.hongwanji.or.jp/2001/info2001/010926.htm
真言宗(豊山派):http://www.buzan.or.jp/news/0110/index2.html
同(智山派):http://www.chisan.or.jp/
日蓮宗:http://www.t3.rim.or.jp/~nichiren/news/news.html#010918
曹洞宗:http://www.sotozen-net.or.jp/omimai.htm

 仏教思想では善悪の問題は、どのように捉えられているのでしょうか。
 初期経典を見ますと、有名な七仏通誡偈が目にとまります。「すべて悪しきことをなさず、善いことを行い、自己の心を浄めること、――これが諸の仏の教えである。」(ダンマパダ)とあります。もちろん、ここでは善とは何か、悪とは何か、という定義はないのですが、同じダンマパダのすぐ近くに、もろもろのブッダの教えとは、「罵らず、害わず、戒律に関しておのれを守り、食事に関して量を知り、淋しいところにひとり臥し、坐し、心に関することにつとめはげむ」とありますので、曽我さんのおっしゃるように皆が分かっている一定のルールを守ろう、守る事が善で、守らないことが悪である。悪いことをせずに、善いことをすることが、心を浄化し、涅槃へ導く第一歩なのだと説いたのだろうと思います。

 空の思想では、むしろ、善悪に拘泥することは執着であり、捨て去るべきだということになります。金剛般若経では、「求道者はものにとらわれて施しをしてはならない」としています。「施しをすること」は善ですが、経典ではそれにとらわられてはならないと説いています。善をなし悪を捨てることは当然として、それにとらわれない心が重要と説かれています。

 唯識思想では、善悪はある意味プラグマティックに捉えられており、善とは将来楽をもたらすもののことであり、悪とは将来苦をもたらすもののことですが、要するに、こころを浄化するのに役立つものが善であり、そうでないものが悪であるところの煩悩とされています。善の心を起こせば阿頼耶識に善のポイントが、悪の心を起こせば悪のポイントが貯まるというわけです。阿頼耶識に善のポイントをたくさん貯め、心が浄化されると、永劫の時間がかかるにせよ、究極的には仏菓が得られるというわけです。
 ただ、「若し人、正しく善心を起こすもまた此の識(末那識)あり」(摂大乗論)とされていますので、善心を起こす場合にも我癡・我見・我慢・我愛の四つの根本煩悩を伴う末那識がそこに働いていることが指摘されています。善行はいいことだがそれにとらわれるのは煩悩である。般若経の思想を噛み砕いて説明しているだけで結局同じことを言っています。

 仏教思想では善悪の問題に悩むよりもこの眼前にある苦をどうするかというのが課題であり、善悪は、二次的な取り扱いしか受けていないと言うことができるのではないかと思います。むしろ、善行をなすのは当然の前提として、絶対的な善悪の概念にとらわれるというのはかえって執着となり、迷いの原因となることに注意が喚起されているかと思います。つまり自分が善と考えることに執着すれば悪を為す可能性があるということですので、世界に蔓延する善と善の対立=自己に執着する心を解決するためには相当有効な考え方だと思います。

 テロの問題に帰りますと、結局、仏教国日本においても、テロに報復するのは正義であるとばかり、アメリカに追随して状況対応的にアフガニスタン攻撃に参加するに至ったわけです。そこには悪を見つめる深い考察はなかったように思います。現代は、物質万能主義と自分中心主義(自分を善とし他人を悪とする考え方)が結びつき、これと逆の仏教の哲学はほとんど世の中にアピールする力がないのかもしれません。しかし、千数百年仏教を信奉してきた日本人として、この問題に対して自らの言葉で語ることができなければ余りにも淋しい気がします。結論は出ていませんが、私自身は、現在ではやはり報復は何ももたらさないのではないかと思っています。

 不幸なことにアフガニスタンには大きな地震が起こり、多数の人が亡くなったようです。この悲劇に対し、国際社会、そして日本はどのように対応するのか。戦争を仕掛けた時ほどの関心を持つのか、問題意識を持って見ていきたいですね。ある人間なり、ある国が主張する「善」、「正義」が、実際の行動によってどの程度の覚悟であるかが分かるような気がします。

 曽我さんは行が足りないと謙遜されていますが、そうではないと思います。ホームページを開設し、私のような凡夫からの手紙に丁寧な返事をするのは立派な菩薩行ですね。なかなかできないことと観じています。
 私も「行」が足りない人間で、毎朝家族が起きる前にヨーガをやっているぐらいです。日常生活は、通勤電車の中で押されたとか、仕事がうまくいかないとか、煩悩を刺激することばかりで、そんなときには「また瞋が生じているな」などと煩悩の生起を努めて客観的に見るようにしていますが、凡夫の身ではなかなかうまくいかず、憤怒に我を忘れることもしばしばです。また、お酒も好きで毎日のように飲んでいますので、夜は「行」などできませんし、酒の上での失敗は数知れません。反省は尽きません。

 ところで曽我さんは唯識を敬遠されているようですね。三島由紀夫さんが豊饒の海で取り上げたので、唯識というと輪廻転生を根拠づけるものだとか、あるいは心の実在を説いたとか、そのような見方(「有形象唯識派」)もあり、日本においてはむしろそれが主流なのですが、「阿頼耶識理論」は空を悟るための方便であり、最終的には阿頼耶識の実在も否定されるべきものとする考え(「無形象唯識派」)もあります。私自身は、唯識は空の思想を頓悟できない凡夫のためのガイドブックのようなものであり、後者の考え方が正解かなと思っています。そういう意味で凡夫のための思想として、実は非常に気に入っています。

 いろいろと他に書きたいこともありますが、相当長くなってしまいました。新年度も始まり何かと忙しい日々が続きますが、煩悩に心を燃え立たせないように気を付けたいと思っています。

 また、いろいろと教えてください。それでは、この辺で。どうもありがとうございました。

    4月1日
                              青木 庸三


青木 庸三さんへの返事

                    2002、5、8、

拝啓

 返事遅くなり申し訳ございません。

 早速に頂いたメールで思った事を書きます。

 >「山は超越的なものを象徴する何かがある」

 確かに、唸り逆巻きながら岩稜を乗り越えていくガスの渦や、雲海に荘厳に登る朝日、そぼ降る雨をまといながら聳え立つ杉の巨木など、日常性を超越した「なにか」に出くわし、全部の気持ちを掴み取られるような経験が山ではしばしば起こります。
 頂いたメールに自分自身の体験を思い起こして「ウンウン」と肯きつつ、しかし同時に、こんな屁理屈も考えてしまいました。

 「縁起の現象を超越したなにか」を構想してはならない。もし構想するなら、それは妄想分別である。唯識用語をもじっていえば、円成実性ではなく偏計所執性なのだ。縁起の現象の背後に超越的ななにかがあるわけではない。山で起こる事は、永遠不変の超越者との出会いではなく、「いつも化」が綻んで現に今起こりつつある生の縁起の世界を垣間見て自己存在の虚構性に気付きかける経験、それが山で起きることなのだ、、、、と。

 「そんな屁理屈こそが、生の体験からはそれこそ一番遠いのではないか?」
 こう批判されるかもしれません。確かにごもっとも。ですが、私としては、身体の芯まで沁み込んだ「いつも化」を削ぎ落とすには、鋭い屁理屈の刃が必要ではないかと思っています。ちょうど、物理学で相対論や量子論が日常的常識を壊してくれるように。

 山で生の現象を垣間見てせっかく「いつも世界」が綻びたにもかかわらず、その綻びさえも「いつも化」してそこに「超越的なもの」を妄想してしまう、それくらい「いつも化」の世界固定化力は強いのだと思います。

 すみません。自問自答のままごちゃごちゃと書きました。もう一度整理してまとめます。

 下界の日常生活ではめったに出くわすことのない体験が山ではしばしば起きる。それは、「現に今起こっている生の縁起の現象」に接する事である。その時、「これはありふれた石」、「これはいつもの樹」といった日常的な固定化され個別対象化された見方は中断され、個別化できない無数の縁が重なり連なり、現に今起こっているあるまとまった一つの出来事として状況が迫ってくる。そのまとまりは、範囲を特定できない広がりをもってめくるめく進行し、その広がりは、見つめる私に生々しく迫ってくる。自分自身も、その中で起こっている個別ではない出来事なのだという感覚、あるいは気分が立ち起こり、その結果、日常意識では自分を一貫した存在として妄想分別している我執が揺さぶられる。
 これが「山の体験」なのだと思います。

 現に今起こっている縁起の現象の向こうに、もし「超越者」を妄想するなら、それを「真如」と呼ぼうと「法界」と呼ぼうと、無我を知るせっかくの機会を遠ざける事になるのではないかと恐れます。

・・・・さらによけいな事を書き加えます・・・・
 無我・縁起を知る過程について、私の考え方は、外の対象の無我を先に知って、それを自分の無我を知る事に拡張するというものです。ですが、仏教の伝統では、まず人無我を知って、その後法無我を知るのが順序とされており、この点がずっと不思議だったのですが、最近杉浦さんから頂いたメールではたと気付きました。気付いてみれば、あたりまえの事のようですが、仏教の修行の本筋は「この私」の自己観察を突き詰める事であり、その結果我執を破り、自己の無我を知るのではないか。十二支縁起も五蘊、十二処なども、けして人間一般の抽象的分析解説ではなく、「この私」のつどの具体的心の動きを観察するためのツール、ガイドなのだろうと思います。
 禅の影響か、私は、定を数息観のような「無念無想」的なものに限定して考えていました。ストレートに自己観察する事が修行の原初的な形だったでしょうし、今でもそれが本道であるべきなのだろうと、最近やっと思い始めています。
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 >「若い頃は、、、」

 私の場合は、「若い頃」は、「あたりまえ、、」の「町からきた娘」のように意味・価値の問いに苦しんでいました。
 学生運動の闘士だった訳では全然ありませんが、当時、運動が凄惨な内ゲバに陥った後、やっとベトナム戦争が終わって南北統一されたと思ったら、ベトナムがカンボジアに攻め入り、中国/ベトナム国境でも紛争が起こり、カンボジアではポルポト派による大量虐殺の疑惑が浮かびあがり、「世界の労働者・農民は、国家・民族を超えて結束する筈ではなかったのか!」とナイーブにもうろたえて判断停止に陥った、そういう時代の雰囲気に影響を受けていたのだろうと思います。
 腰砕けの学生活動家の残党と新興宗教の勧誘が徘徊する大学で、我執ばかりが強い私は、ご立派なはずの自分をご立派にしてくれる価値を求めながら、どんな価値にも価値を見出せず、歯ぎしりしながら、芸術家や職人のように理由なく自分の価値に没入できる生き方に憧れていました。

 「すべての人は、価値を求めながら得られずにむなしく価値のない生を生きている。人間の一切の行為は、価値のない生を生きる苦しみを誤魔化すことである。すなわち、さも価値ありそうな価値をでっち上げてそれに狂信すること(革命・宗教など)、あるいは、価値の問いから目をそらし気散じに明け暮れること(パチンコ・ドライブ・麻雀・子育て・目前の仕事・立身出世など)。人間の行為は、すべてこの二つのどちらかに分類できる。これらふたつを使い分けながら、人は死ぬまでの時間を誤魔化して終わる。」
 これが私の確信でした。
 あらゆる「価値」がでっちあげで、その為に生きるべきどんな価値も目的もないなら、どう生きればいいのか? この問いが、常に眼前にある課題でした。

>自然

 当時の私は、人の手のかかわったものすべてに(乳母車にさえも)意味を渇望する叫びを聞き、どこへ行っても追い立てられました。唯一自然の中だけが、安らげる場所であり、自然によって息継ぎができました。「あたりまえ、、」本文で町からきた娘が話すとおりです。

 ですが、無我を知った時に自然がどう見えるのかについては、私は、自分の無我をまだ本当には知っていないので、正直なところよく分かりません。おそらく、それまでとはまったく違う新しさで現れるのだろうとは想像します。でも、少なくとも、釈尊が世界を美しいと称えられたとか、世界がまったく別の姿で現れたというような記述は、初期経典にはないのではないかと思っています。(唯一の例外は、大パリニッバーナ経にある、死を自覚して世界に別れを惜しまれた時のお言葉。もし他にご存知なら是非教えて下さい。)

 自然の賛美のみならず「本来清浄」といった言葉も、本当に無我を知らないうちは余程気を付けないと誤解を生む危険な言葉だと思っています。釈尊の教え「一切皆苦」と矛盾すると思いますし、無我=縁起を知る前は「一切皆苦」で、知った後は「本来清浄」だとしても、現に苦しんでいる有情の苦を捨象し慈悲を軽んじる傾向につながりかねないのではないでしょうか。

 青木さんは、「縁起の法を心身ともに本当に理解すると自他の区別が消え去り世界の真実が見えて来る」と書いておられます。また「世界と自分との間にあった壁が一瞬取り払われ、自分と世界とは結局同じものだという真実を観じる…それが世界が美しく見えるということ、、」とも書いておられます。仏教理解の方向性は、おそらく私とぴったり重なり合っているに違いありません。
 そのことは重々感じながら、「超越的なもの」や「自然の美」について敢えてくだくだしく書いたのは、私が「超越的なもの」を”過剰に”警戒するためです。縁起の現象を、真如の海にさざめく波だとする比喩がありますが、それをひっくり返して言うと、本当は、波だけがおこっていて、その下に海はないのです。重力波や電磁波のように、、。
 このこだわりは、駒沢大・批判仏教グループの本を読んで得た考えです。同グループには、「自然の賛美は、仏教の中にはびこった実体論(反仏教)から派生した思想である」とする議論もあります。特に松本史朗「縁起と空 如来蔵思想批判」(大蔵出版)は刺激的ですので、もしまだでしたら是非ご一読をお勧めします。また、松本先生が攻撃する津田眞一氏は、「大乗は自然の肯定であり、釈尊の仏教は自然の否定である。両者は二者択一の関係であり、両立不能」と主張しておられ、こちらも突き詰めて考えると示唆に富んだ指摘です。「アーラヤ的世界とその神」(大蔵出版)、「反密教学」(今手元に本がなく出版社不明)。

>仏教国日本

 残念ながら今の日本は(過去の日本も)仏教国とは思えません。
 ですが、世界でもユニークな戦争放棄の平和憲法を持つ国。仏教の無我=縁起は、あらゆる差別を否定しあらゆる他者を許容する教えであり、この理念と慈悲に基づいて、一貫性があり筋の通った外交を貫き、世界に向けて明解に主張できる国になれば、日本も世界に意味ある貢献ができるのではないかと思います。よその国のご機嫌やご意向ばかりをうかがって、報復と憎しみの拡大再生産の先棒を担ぐよりも。

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 なぜか青木さんには近しさを感じてしまい、私的な事までとりとめなく書いてしまいました。まとまりのないメール、御許し下さい。
 またご意見・ご批評お聞かせ下さい。宜しくお願い申し上げます。

                           敬具

青木 庸三 様
                        曽我逸郎

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