森田義彦さんより 教育に関する意見 2002,3,30,

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森田と申します。
ホームページを見て、メールいたしました。

今日は、教育に関してひとつご協力をお願いしたく、どうぞよろしくお願いいたします。

教育の分野で、今一番取り入れなければならないことがあると思います。

それは、創造主である神の存在です。
神の存在は、ダーウィンの進化論によって完全に否定されたかに思えます。
しかし、ダーウィンの進化論でさえ、実は、神の存在を物語っているのです。
進化論によると、生物はみな、ある一つのDNAから、突然変異と自然淘汰の累積・分岐によって生まれてきたことがわかっています。
また、突然変異は、あらゆる変化が可能だったわけではなく、遺伝子が出来る過程で可能なものに限られていました。
ですから、どんな生き物でも出現が可能だったわけではありません。
このひとつのDNAから派生が可能だった生き物たちが今の自然の調和を作り出しているのです。
自然の調和には、眼を見張るものがあります。生き物とその食物との両方の存在。例えば、蝶と花の蜜。食物に届かなかったものは淘汰されてしまったにしても、なぜ、蝶のストローのような口があって、それがちょうど届く花びらのまんなかに、その食物である蜜があるのでしょう。それらが別々に進化してきたことを考えると、この二つの関係は当然のことでは決してありません。
また、進化によって生き物が得た「眼」というものが、光に対して完全に機能するカメラのような構造になったこともそうです。最初のDNAによっては、途中までしか進化できなかったり、違う方向にしか進化できなかった可能性が十分あり得たことを考えると、眼の存在は非常に不思議です。
これらがなぜ完成できたのか。すべての種の起源である最初のDNAに、その可能性がすべて秘められていたとしかいえません。最初のDNAが存在したことはあきらかですが、このDNAは偶然できた代物だったでしょうか?
このDNAの存在は、創造主、すなわち神の存在を証明しているということです。これは、宗教的な話ではなく、科学的な話です。宗教や国境、人種の壁を超えて、すべての人が共有できる話です。耳や、肺や、消化器官、みな同様です。
とくに繁殖器官は、それを通して繁殖ができなければ進化もできなかったわけで、進化論の累積淘汰を議論する以前の大前提になっているのです。
最初のDNAの出現、それは、創造主である神様の存在を物語っています。

創造主である神様が、この天地を創造され、神様によって我々人間を含むこの世界が生かされている、という関係が成り立ちます。
では、神は、なぜ、この世界を創造されたのでしょう。それは、愛したいがゆえ、愛の対象を得たいがゆえでした。
それは、私たちが生きていて、満足を得ることが出来ることから、あきらかなことです。私たちが満足を得るものは、すべてこの宇宙に存在しており、それは神が配慮しておいてくれたとしかいえないからです。
すなわち、神様の、愛したいという、愛が動機となって、世界は存在しているのです。

教育や社会のなかで、いま最も強調するべきなのは、「創造主である神様の愛」だと思います。
「生きる力」、それは、自分が神に願われて存在するようになったことを知るところから生まれてきます。
創造性や主体性が重要視されますが、それらを得たとしても、はたして行くべき目的地はどこなのか、それを明確にする必要があります。
それは、神様の絶対的な愛を知って、神様のように人々を愛することができ、また、限りない幸福感に満たされながら生きる、完成した人格だということです。

私たち人間一人一人は、神様の子供であり、神様の愛の対象だからこそ、尊いといえます。現代社会においては、人の命や自分の命を粗末にする悲しい出来事が多いですが、それらをくい止めることのできる明確な理由はここにあるといえるでしょう。
自然は、神様が私たち人間のために創造してくださったものですから大切にしなければならないといえます。
家庭は、神様の愛を学ぶところです。親子が、夫婦が、兄弟が、ほんとに仲良くなるためには、神様の愛を学ぶことが一番です。
また、創造主である神様の愛を知った家庭が構成する社会こそ、真の平和を得ることができるようになるでしょう。
神様の愛によって自分が生かされたことを知れば、人の為を考えることができるようになるからです。
宗教戦争は、創造主である神様に対する理解不足からくるものです。神様の愛を正しく理解することこそが、真の世界平和をもたらすでしょう。

いまの子供たちは、真理を求めています。相対的な価値観や損得勘定では納得しません。神様の愛という絶対的な価値観の提示がこれからは必要です。また、大人も同様です。大人にとっても神様の愛を学ぶことは非常に有益です。
政教分離ということがいわれますが、特定の宗教や宗派に偏ることなく、自然や人間を創造された神様の愛を科学に基づいて説き、道徳に結びつけることは、可能であると考えます。

ブッダも、神の啓示によって、仏教の教えをひろめ始めたと聞きました。

ぜひどうぞ、ご理解とご協力をよろしくお願いいたします。

森田義彦

神の実在を証明し、神の愛と心情を伝えるサイト
http://member.nifty.ne.jp/mru/go/


森田義彦さんへの返事

                         2002,4,7,
拝啓

 メール頂戴しました。ありがとうございます。

 「人の命や自分の命を粗末にする悲しい出来事」に心を痛め、それをなんとかしようと模索しておられる事、感じ入りました。

 ですが、そのために「創造主である神の存在」に賛同せよ、とおっしゃるなら、「残念ながら、」と御断わりせざるを得ません。
 わたしのホームページは、どの程度読んで頂いたのでしょうか? 「すべては時間の中で生まれ変化し終わる無我なる縁起の現象である。」 この考えは、繰り返し何度も私のホームページのいたるところで述べたつもりです。すべてがそうであって、例外はありません。縁起を超越した永遠の存在(神)は、構想であり、実在しない、というのが私の考えであり、仏教の考えだと思います。

 仏教は、一切皆苦と教えます。世界は、全知全能の神が愛を込めて創造したとするには不完全・不条理であり、すべて有情は苦しんで生きています。仏教の考えに沿うとこういう見方になるかと思います。

 では、神の存在を否定すると「人の命や自分の命を粗末にする」ようになるのでしょうか?
 仏教では、苦の原因は執着あるいは無明だと教えています。無我・縁起を知らず、無我なる縁起の現象を対象化し、固定して捉え、勝手な価値を盛り付け、執着する。ここに苦が生まれる。縁起の外に超越的な永遠の神を構想する事は、変化を恐れ永遠に執着することです。
 無我・縁起を見て執着を吹き消す、自分を実体のある存在だと捉えること(我執)の誤りに気付く、それによって、自分と他に苦を与える事が減り、ともに縁起する無我なる一切の有情への慈悲が働き出す。つまり、永遠の神とは相容れない無我・縁起の教え(仏教)こそが、真に苦を抜くことができると考えます。

 「ブッダも、神の啓示によって、仏教の教えをひろめ始めたと聞きました。」と書いておられますが、なんのことをおっしゃっているのでしょう? 梵天勧請でしょうか? だとすれば、多分誤解されています。梵天は、キリスト教の神のような超越的な存在ではありません。
 神の啓示によってではなく自らの努力で解脱された釈尊は、それを教え広める事をためらわれました。「これを理解できるものは誰もいない。このまま誰にも説かずに死のう」と。それに対して梵天が現れ、「理解できるものも少しはいる。どうか教えを説いて欲しい」と懇願します。これが梵天勧請です。つまり、梵天は、いってみれば狂言回しのような役割で、釈尊の内面の葛藤の文学的表現にすぎません。

 進化論について書いておられますが、森田さんとは別の視点で、わたしも生物進化の過程には興味を持っております。動物は、環境が afford してくれる潜在的利用可能性を手探りで試行錯誤しながらそれを顕在化させて進化してきた。陸上での生活が困難な状況に追い込まれた哺乳類の一部が、海や湖が魚などの餌を afford してくれることを見出し、水が afford してくれる「その中を泳げるということ」を最大限利用できるように進化していき、その結果ビーバーやアシカやイルカは、今あるような姿になったのだと思います。花と蝶も、互いに互いが afford するものを利用しあいながら、同時並行的に進化して、結果おっしゃるような姿になった。
 つまり、様々な「縁」が綾なし紡ぎ合わさって進化が進んでいく。進化も縁起の現象だと考えています。
 そして、一部の人々が肉体とは別次元にある「心霊」の活動だとする感情や努力や宗教心でさえも、肉体的な進化の過程と同じ一本の直線上に実現した縁起の現象だと考えています。(念の為申し添えますと、こういう考えが、人間の精神的活動を貶める見方だとはまったく思っていません。)

 ご紹介頂いたホームページもすべてではありませんが、拝見いたしました。
 正直に申し上げますと、愛の神とおっしゃりながら、従わないものへの断罪・追求の言葉(多くは聖書の引用でしたが、、)が散見されるのに違和感を感じました。特に、以下の文章にはびっくりしました。

 「人類の父母となられたイエスが韓国に再臨されることが事実であるならば、その方は間違いなく韓国語を使われるであろうから、韓国語はすなわち、祖国語(信仰の母国語)となるであろう。したがって、あらゆる民族はこの祖国語を使用せざるを得なくなるであろう。このようにして、すべての人類は、一つの言語を用いる一つの民族となって、一つの世界をつくりあげるようになるのである。 」

 縁起の教えは、多様性を喜ぶ教えです。ある言語のくぐもったような柔らかい発音や、別の言語の飛び跳ねるようなリズムなど、さまざまな言語がそれぞれ特徴を持ち、それらとつながった様々な音楽があり、様々な生活があることは、楽しい事だと思います。
 もしも、多様性を否定して「神の(への?)愛」のもとに統一しようとされるなら、Noといわざるを得ません。

 以上、せっかくメールを頂戴しながら、反対の考えばかりで申し訳ありません。
 できましたら、私の考え方もご理解いただけたら、うれしいのですが、、、。

                              敬具
森田義彦様
                            曽我逸郎


森田義彦さんからの返事    2002、4、9、

曽我様

森田です。

ご返事ありがとうございます。
私も仏教の教えは多くの人々に生きる希望を与えた素晴らしい教えであると思います。
また、仏教の教えは、創造主である神を否定はしていないとも思います。
「世界は、全知全能の神が愛を込めて創造したとするには不完全・不条理であり、すべて有情は苦しんで生きている。」というのは、神に対するなぜという疑問であって、否定にはならないと思います。
キリスト教では、堕落ということを説きます。それが人間が苦悶する原因となったとみて矛盾があるでしょうか。
こんなことをいうと、キリスト教の方が正しいといっているのか、と思われてしまうかもしれませんが、キリスト教だけでも不足していると思います。
キリスト教が創造主である神を見つめた教えであれば、仏教は、神から命を授かった人間を見つめた教えであると思います。
縁起、因縁というのは、原因と結果ということを言われていると思いますが、自分とこの世界が存在することに対する原因は神の創造の動機にあると思います。

進化論については、動物が模索しながら進化してきたように捉えられがちですが、実際はそうではありません。動物は、与えられた肉体に感謝して生きているだけで、それ以上のことは考えていませんし、考えても肉体は変化しません。
進化を与えた原因は動物自体にはないのです。
遺伝子のなかには目や耳が出現する可能性がすべて最初から含まれていたというのが、進化論研究の結論です。
耳が鼓膜で空気の振動を捉えている構造も、目がレンズで光を捉えて映像を結んでいる構造も、動物自身が考えたのではありません。では誰が考えたのか?
だれだと思いますか?

梵天勧請については、神はいないとする立場から解釈すると、釈尊の内面の葛藤の文学的表現としか捉えられないかもしれませんが、ブッダは実際に神と対話したんだとおっしゃるかもしれませんよ。その可能性も否定はできないと思います。

この世界に平和と幸福をもたらすために、協力していきませんか?
私たちはみな、象(真理)を求めている盲人のようなものだと思います。
さまざまな角度から真理を求めるものどうし、協力しあっていきたいと思います。


森田義彦さんへの返事2

 すみません。まだお出しできていません。しばしお時間を下さい。

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