齋藤 仁鐵さんより 密教 2002,3,8,

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拝啓

いや、ながらくお待たせして申し訳ございませんでした

 私の思い込みの間違いを、正して頂ければと存じます。宜しくお願いいたします。

え〜とですね、曽我さんの理解による見解ですから正すも何もないので、まあ、私見を述べさせて頂く感じになりますが、御了承ください(笑)

 私は反対に「余程突き詰めて考えないと、中観や空は一元論に堕落してしまう」と考えています。よく波と海の比喩が語られ、「その時その時の波に心を奪われず、変わる事のない海そのものを見よ」といった説教を耳にします。けれども、様々に苦しんでいる有情やそれぞれの出来事(波)こそが現実に起こっている現象であって、それを超越した海(「空性」とか「法界」とか「真如」とか)は観念に過ぎないと思います。
 全宇宙の一番最初の因を明らかにすることは、物理学の仕事でしょうが、いずれ解明されるであろう宇宙の始まりも、仏教(無我=縁起)の中に収まると信じています。よしんば第一原因があったとしても、それは既に失われており、不変永遠ではないと。つまり、少なくとも私たちが生きているこの時間においては、波を生み出すのは波のみであり、重なり合い、打ち消しあい、強め合い、ぶつかりあって、目の眩むような変化に富んだこの多様な世界が常にこの今生成しているのだと。

あれは、言い方がまずかったですな、基本としては上述の通りでして、宇宙の始まりも業によって何遍も繰り返すモノですし、無始以来ってなものですから上記の見解は全く正論です、一元論云々は失言です(笑)

行法の最終段階で感じる、個人的に主客の別が無い(ように感じる)状態をポロッと書いたモノでして、宗(主張)・因(理由)・喩(喩例)・合(連合)・結(結論)などの支分を欠いた主観の話でしたので、因明に照らし合わせれば明らかな間違いです

 プロゴルファーの独り言なら全然問題のないコメントです。でも、仏教徒はプロゴルファーではありません。プロゴルファーは、ライバルと常に競い合う身、ライバルに分かる形で自分の見出した秘訣を語る必要はないでしょう。でも仏教徒は、人々を苦から救うべき身。見出したものがあれば、小学生に算数を教えるように、懇切丁寧に工夫(方便)を凝らして分かるように説明せねばなりません。仮にそれが間違っていたとしても、了解可能な論理で説かれていれば、誰かから批判をもらってそこから学ぶこともできるでしょう。
 にもかかわらず日本の仏教界には仏教を自称しながら矛盾した言い回しを説明もなく矛盾のまま投げつけておいて「ここのところが分からんような奴は駄目じゃ」と開き直ってえらそうに胸を張る方が多すぎるように思います。
 ゴルフに喩えるなら、スイングを分かりやすく説明できるレッスンプロに憧れます。説明を聞いた人が、実際にスコアをぐんぐん縮められる(自分と人の苦を減らせる)ような、そんな優れたプロに。

まあ、仏教界の現状に対する当てこすりで書いたんであって、個人を対象にはしておりませんよ(笑)
プロ・アマの別なく基本を勉強をせんで、簡単な言葉に逃げている日仏への批判だったんですが、論旨としては上述の如しですな

ただ、ネットと違い檀家衆の相手は正論や正しい教えに関する興味が無いので、どうやって聞かせるかが難しいです

 津田先生の本は、ご指摘のものと「反密教学」「アーラヤ的世界とその神」を読みました。駒澤大「批判仏教グループ」の松本先生との金網デスマッチも手に汗握って観戦しました。再度読み返すことなく横着に不確かな記憶のみで書きますが、津田先生は、仏教よりも、仏教がそれと戦ったところのインド土着の思想の系譜に立っておられると思っています。そして津田先生の書いておられることから私が受け取ったことは、「密教は象徴を操作することで現実の行をショートカットする行の否定の教えである」というものです。しかし、一歩引いて考えてみれば、現代の日本で唯一苦行をしているのは密教のみのようにも思え、この矛盾は解決できていません。直接の行は放棄した替わりに象徴を操る行が先鋭化したということでしょうか?

行の放棄と言うか圧縮技術ですかな?

 密教は修行や仏教理解の速度を速める」という解説は以前にも耳にしたことがあります。でも、もし密教が象徴操作の技であるならば、それがどのようにして修行や理解の速度アップになるのでしょうか? 修行者の集中力を高めるからでしょうか?
 ボアアップやターボチャージャーや、さらにはジェットエンジン、ロケットエンジンも、速度アップの技術として納得できます。ですが、密教は、私にとってSFに登場するワープのようなもので、物理法則と整合する仏教とはまったく異種の、本当に可能か大いに怪しい空想の航法なのですが。
 今の私の考えでは、密教は顕教に対立する言葉ではなく、仏教に対立する言葉であるといえば言い過ぎでしょうか。

手をヒラヒラさせて理解できるのなら、全く苦労しません(笑)
密教の行のシステムは、あくまで集中の為のテクニックでしてスピードUPではありますがワープではありません。

人間の身体の方は物理的限界がありますが、心の方には限界が無いと捉えておりまして思考スピードを象徴化によって短縮させて、同時に善因を薫習させて行くので基になる考え方や知識がなければ単なる盆踊りですな

仏教の基礎も知識も無い人間が、密教の行法をやっても無意味どころか常見に陥るだけですが、残念ながらその類がゴロゴロおります(笑)

あくまで手段に過ぎないんですが、表面だけをみるとかなり危険な教えであることは疑いようがありません。故にゲルク派で言われるように、外は声聞・内は密教ってなコトになります。

これを、秘密だの閉鎖的だのと批判するのは大間違いだと思っております。掲示板の教えて君に、細部に渡って指導しても無駄なのと同じコトで理解の度合いも、考え方も解らない人間に対しては、距離をとって見極めなければ却って害になるのは上記の如しといった所でしょうか

2〜3の例をあげるのも面倒なので略しますが、個人的な見解はこんな所です

<中略>

言葉は思いに届きません、縁在ってお会いできるコトを願っています

取りあえずはこんな所です それでは 失礼いたします

仁鐵 拝


齋藤 仁鐵さんへの返事

                      2002、3、21、
拝啓

 返事遅くなって申し訳ありません。

 檀家衆の相手は正論や正しい教えに関する興味が無い

 私も時々駅などで、必ずしも満ち足りている様には見えない若者をながめながら、自分には彼らに仏教に興味を抱かせる力があるのかと自問して、自分の無能さに気が萎える事があります。私の場合は、「いつか縁あってホームページを覗いてもらえた時、なにがしか参考にしてもらえるようにしておこう」などと言い訳を繕って自分の無能さをごまかすのですが、仁鐵さんの場合は、本当の仏教に興味がなく別の事(世間体とか、しきたりの消化とか?)を求める人たちに、仏教の土俵で毎日向き合わねばならないのでしょうし、悩みの多い事だろうと推察致します。

行の放棄と言うか圧縮技術ですかな?

密教の行のシステムは、あくまで集中の為のテクニックでして
スピードUPではありますがワープではありません。

人間の身体の方は物理的限界がありますが、心の方には限界が無いと捉えておりまして
思考スピードを象徴化によって短縮させて、同時に善因を薫習させて行くので
基になる考え方や知識がなければ単なる盆踊りですな

 行を欠く私には想像の及ばぬ世界です。座らねば座らねばと言いながら、いつまで も口ばかりで我ながら情けない。
 縁あればいつかお会いして、密教の行について差し障りのない範囲で教えて頂けれ ば、私も大変うれしいです。

 <一部略>

 それでは、また。
                          敬具
齋藤 仁鐵 様
                        曽我 逸郎

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