青木 庸三さんより 認識と行動、善と悪 2002,3,4,

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 はじめまして。青木と申します。年は45歳ですので、ほぼ曽我さんと同年代かと思いす。

 私は、思うところあって昨年の秋ぐらいから仏教の勉強をしております。般若経関係で参考になる文献がないかなとインターネットで検索しておりますと、曽我さんの「あたりまえのことを方便とする般若経」のホームページをふと見つけ、つい、惹きつけられて読ませていただきました。

 まず、自ら経典を作るというには全く気付かなかったアイデアで、大変新鮮でしたし、大いに意義のあることと本当に感心しました。自らの言葉で語ることは、思想を再び自分の手に取り戻すことだと思います。曽我さんの論文には大いに感ずるところがありました。多くの人が意見交換で様々な意見を述べられておりますが、同じ気持ちであろうと思います。思い起こしますと、若い頃は、「人生とは」という問題を自分なりにいろいろと考えていたように思いますが、最近はそんなこともすっかりなくなって、坦々と日常をやり過ごしているだけになっていました。人生も後半戦に入り、「そんなことでいいのだろうか」と疑問を持っていたのですが、同世代の人たちが真剣に考え、思考のやりとりをしているのを拝見し、「やはりそれではいけない」と思い始めました。より深く仏教を勉強したいという気になっております。このようなご縁を与えていただいた曽我さんのご労苦に対して深く感謝しています。
 このようなホームページを開設されていますと、様々な方々からたくさんのメールを受け取られており、これを読んだり、また、考えてみたり、あるいは返事を出してみたりと、大変ご苦労されていると思います。この上に不勉強な私がとんちんかんな意見を述べても何の益するところもないような気もしますが、これも何かのご縁ですので、ぶしつけながらこの論文などを読んで考えたところをメールにしたためさせていただきました。

 まず、なぜ、今、仏教かと言うことですが、現代社会を見ますと、日本においても、「ムラ社会」は大きく変容を遂げようとしています。共同体の殻から個人が追い出され、自己が裸のまま世界と向き合わなければならなくなってきた時代に入ってきたのだと思います。それは一面では非常につらい社会です。朝起きてから夜寝るまで肥大した『私』には、世の中の全てが自分になじまない、耐え難いものに思えるでしょう。昔風に言えば「疎外」の世界、仏教的に言えば「苦」の世界そのものです。
 「…世の人は浅はかで心卑しく、急ぐ必要のないことを争い求める。この烈しい悪と苦痛のさなかで、人々は、日常の営みに身を苦しめ、はたらき、自分の生活にあくせくしている。身分の高い者も低い者も、貧しい者も富める者も、老いも若きも、男も女も、ことごとく皆、金銭・財貨にこころをわずらわす。持てる者も持たざる者もその憂き思いにかわりはない。うろうろと愁え苦しみ、心配ばかり積み重なり、心は追いまわされて安らぐときがない。田があれば田を憂え、家があれば家を憂え、牛や、馬や、六種の家畜や、男女の召使いや、金銭・財貨や、衣服・食物や、家具などを憂える。思いや憂いが重なり重なって人々はため息をつき、憂え戦くのだ。横合いから思わず、水火や、盗賊や、怨みを抱く者や、債権者にそれらの財物は、焼かれ、流され、奪われて、消え失せ、散り失せ、こすれ砕けて滅びるのだ。毒ある憂いは心を悩まして離れる時がない。怒りを心中に結んで、憂いと苦悩は離れることがない。心も固くなり、考えも硬直してほどける時がない。あるいは砕かれて、身がほろび、命が終わる時、人々はこれらのものを捨てて行かなければならぬ。誰ひとり従って行く者はいない…」(無量寿経から)
 経典の中の言葉は、私には、自分のことを言い当てられたようにリアルに響きます。自己の問題、自己と世界の問題、生死の問題、して苦しみの問題を徹底的に追求した仏教思想は、少なくとも私には、どんな哲学よりも自分の目の前にある問題を考えるためのかけがえのない思想です。
 前世紀は、米国を中心とする物質文明が花開き、我々の生活を豊かにしてきたのですが、今世紀に入り、その行き詰まりも明白になってきたように思います。既に前世紀末から物質文明を反省し、精神世界を考えようとする潮流が世界のあちこちで強くなってきています。精神世界の老舗であり、滔々たる大河のような仏教思想は、精神世界に目覚めた、これからの人類に新たな道を指し示すような気がしています。
 ところが、仏教界の現状はどうでしょうか。経典はすばらしいものとは言っても、作られた時代がいかんせん古く、現代に合わない部分もあります。また、後代の教理によって歪められた部分もあります。当然、現代に沿った形で仏教思想を語らなければならないのですが、そんな試みは感じられません。現代の仏教界は、全く生命を失っているように思います。
 このような中で、自分の言葉で仏教思想を再編成してみるという曽我さんの試みは、仏教思想を現代の我々に取り戻し、これからの時代を生き抜いていくために、一つの重要な実験ではないかと思います。「地球レベルで考え、個人レベルで行動する」というのが、新たな潮流の合い言葉ですが、曽我さんのような試みが、あちこちで行われることにより、今世紀において仏教思想の復権がなされることとなるのではないでしょうか。私自身勇気づけられましたし、これからも期待しています。

 さて、このように仏教思想を自分のものとして考えていくとき、自問自答のようになってしまいますが、「認識」と「行動」、「善」と「悪」の問題をどう考えていくのかということが、自分自身、大きな課題となっています。もちろん、認識、行動、善、悪といっても、それらは言葉だけのものであり、その実体はない。全ては変化するものであり、一回限りの現象として美しく輝くのだ。仏教思想を「言葉」だけで捉えれば、そうなるかもしれません。しかし、曽我さんがいみじくもおっしゃっていたように、「中途半端に頭だけでこれを考えれば、自堕落で無批判な全肯定の論理に堕落する危険性」(99年2月の池田さんとのやりとり)があるわけです。

 これは私の勝手な理解なのかもしれませんが、仏教は、全ては変化するものであるという「理」を頭で理解するとともに、それと同時に正しい生活を「体」で実践するという、認識と行動とのバランスがよくとれた教えなのではないでしょうか。
 私の小さな経験を申し上げるのも恥ずかしいのですが、私は学生時代、ロック・クライミングをやっておりました。あるとき、不注意から40メートルほど転落し、幸い助かりました。そのとき、超高速で動く思考の早さと、九死に一生を得た後に眺めた山の美しさ、荘厳さは、今でも印象に残っております。そして、世界は美しい、そして自分はその美しい世界の中で生かされている、これからはそのような自覚を持って生きようなどと、私はすっかり「悟った」したような気分になりました。実際にはそれから20数年、全くの凡夫そのものの生活を送っております。あのときの「悟り」は遠い世界での出来事のようです。このつたない経験から考えますと、やはり一瞬の「悟り」は単なる生理現象であり、本物の「悟り」には、正しい認識と正しい行動を一歩一歩積み重ねていくことが必要なのではないか、などとつらつら思っている次第です。
 そう考えますと、やや飛躍しているかもしれませんが、この世界のことについて、単なる認識をするのではなく、どのように考え、どのように発言し、どのように行動するのか、ということは、重要なのではないかと思っています。曽我さんが、臓器移植の件について発言されていましたが、その当否はともかく(私自身は臓器移植には否定的ですが)、様々な問題について、仏教思想という見地から発言していくことは大切なことと思います。

 もう一つの「善悪」の問題はやっかいです。「善」も「悪」もその実体はない、というのが、模範解答なのでしょうが、そうは言っても、仏教の実践体系は、善行をなすことに重きが置かれています。「善」も「悪」も等価値、どちらにも意味がないとしたら、悪の実践体系による悟りの道もあってもよさそうですが、それはない。「善行」をやると心が落ち着くからというのも説明にはなっていないでしょう。
 また、私たちは、どんなものにも「美」を感じるわけではなさそうです。「町から来た娘」は自然に対して限りない美しさを感じ、不肖、私も死にかかって後見た山の姿に「みずみずしい永遠」の美を感じたのですが、そのような時、仮に「鈴木宗男」氏の驕った顔が眼前にあったとして、それをも美しく感じるのでしょうか。私には自信がありません―それは冗談としても、悟りの際には、世界の全てのもの、例えば殺人の光景のようなものまでもが美しく感じられるのでしょうか?―どうもその辺は怪しく思えます。悟ったことがないので何とも言えませんが。
 どうもこの辺の認識と行動、善と悪との問題が、いつも頭のどこかにひっかかっています。先日、何十年かぶりにカラマーゾフの兄弟を読み返して、ドストエフスキーは、生涯、膨大な小説を著しながら、結局、この問題に解決が付けられなかったように思いました。仏教思想の場合、この辺の問題は、「因果応報」のようなプリミティブなものから「一切衆生悉有仏性」まであり、何かもやもやとしています。凡夫である私に解決が付けられようもないのですが、やはりどうも考えざるを得ません。「あたりまえ...」では、この辺の問題は余りふれられていなかったような気がしますが、いかがお考えなのでしょうか。

 最後ですが、はじめてお出しするメールにもかかわらず長文になってしまい、大変ご無礼をいたしました。読み返しますと、自分勝手な駄文に赤面の限りです。ただ、私にいろいろと考える機会を与えてくれた曽我さん及び不可思議なるご縁に対しまして改めて感謝いたしますと思います。また、曽我さんのこれからのご活躍をお祈りするとともに、今後も何かのご縁があることを願っております。どうもありがとうございました。

 青木 拝


青木 庸三さんへの返事

              2002、3、21、

拝啓

 返事遅くなりました。
 過分なお褒めを頂き恐縮です。

 岩登りをされるのですか。40メートルというとザイル丸々一本分ではありませんで したっけ。よくぞご無事で。
 実は私も中学の頃から山をやっていました。大学でも一年だけ山岳部にいました が、根がナマケモノ故にその頃通い始めた禅寺と両立しがたく、以来遠ざかってしま いました。当時、某ゲレンデで進退極まって、片足がカタカタとミシンを踏み始め、 眼下をのんびりと過ぎる電車を視界の隅にしながら、上で確保してくれている先輩に 「ザイルアップ!ザイルアップ!」と叫んだことなど思い出しました。

 さて「認識と行動」「善悪」「美」について問題提起を頂きました。先に「善悪」 +「美」について、最後に簡単に「認識と行動」について私見を書きます。宜しくご 批判下さい。

*「善悪」について

 おっしゃるとおり、仏教は「善とはなにか」を正面から問う宗教ではないと思いま す。仏教を根本のところで方向づけているのは「苦」ではないでしょうか。善を追求 して自分を高めようとするのではなく、苦を苦しみ、その原因を探り、苦をなくす術 を見つけようとするのが仏教だと考えます。

 仏教における「善悪」と聞いて、三つの事が思い浮かびました。
 ひとつは、浄土真宗の「悪人正機」です。でも、親鸞のいう悪とは、誰が何を言お うと断固として実行する(織田信長的?)悪というより、ちゃんとしようとしながら できない人間的弱さを言っているような気がします。
 浄土の教えは、私の考える本来の仏教(無我=縁起)からはかなり逸脱していると は思いますが、「本当に自分はどうしようもなく駄目な人間だ、仏に救って頂く価値 もない」と芯から感じ入って、すべてをすっかり預けきれた人には憧れを感じます。 「私は毎日千回念仏を唱えている」「私ほど深く弥陀を信じている者はいない」など と、ついつい人間は我執から慢心を起してしまいますから。
 話がずれました。親鸞の言う悪は、善悪というよりむしろ人間の弱さを見つめてい るのだと思います。

 もうひとつ「善悪」で思い浮かんだのは「戒」と「律」です。文献学的にきちんと 実例を挙げて説明する能力がないので、これも印象に基づくばかりですが、戒律も、 善悪を問題にしているというより、個々の修行者と教団の平安を保ち、落ち着いて しっかりと修行に入れる状態にするためのルールだと考えます。静かで安定した状態 で無我と縁起を学ぶ事が大切であって、善とは何か、悪とは何かを追求することは、 修行者の間に無用な議論や軋轢を生み、修行者の中に葛藤を引き起こし、かえって修 行の妨げになる。ものを盗るな、嘘をつくな、酒を飲むな、そういった具体的なルー ルに留め、それ以上善悪の問題には立ち入らないのが仏教の考え方だと思います。

 三つ目は、慈悲です。慈悲は、一見善行に近いように見えますが、自分が世界に開 かれ、世界の個々の現象の苦に共感した時に自然に発露する感情だと思います。です から慈悲も善悪とは関係がないと考えています。

 以上、仏教の体系の中では善悪という概念は重要な位置を占めていないのではない かという私見を書きました。だからといって仏教が劣った宗教だとは全然考えており ません。苦の自覚に始まり、苦の原因に執着を見、執着を吹き消すのに無我と縁起を 発見し、慈悲にまで行き着いた仏教は、最高の世界観であり最高の宗教だと考えてい ます。
 巨大な山塊のような仏教のこと、私の見ているのは麓の薮の一部に過ぎません。仏 教における善悪について、重大な事を見落としていれば、是非ご指摘をお願いしま す。

*「美」について(あるいは週刊誌的に「鈴木宗男の顔」について)

 実は、世界が美しいか、美しく見えるのかは、私にとって長らく重大な問題であり 続けています。

 釈尊にとって世界は美しかったのでしょうか?
 入滅の迫った釈尊は、世界は美しいとおっしゃったようです。(岩波文庫「ブッダ 最後の旅 大パリニッバーナ経」P66、88〜92)でも、菩提樹の下で覚りを開かれた 時、そして教えを説き広めておられた時、世界は美しいと感じておられたのでしょう か? もっと端的には、大切に布にくるまれた赤ちゃんを見た時、釈尊は顔をほころ ばせられたのか、それとも「また苦しむ者が増えた」と暗澹たる気持ちになられたの か? ひょっとしたら後者ではなかったのかという疑念がなかなか拭い去れません。

 今の私の仏教理解の仮説では、無我を知り、自分が世界の中に世界と共に生まれ縁 起する現象だと知り、世界に開かれた時、世界はそれまでとはまったく違った新鮮な 美しさで現れる筈だと考えています。しかし、病気や犯罪や戦争や差別や貧困やいじ め等、世界に苦は満ち溢れ、それらもすべて縁起の現れだ、美しいと肯定していい筈 はありません。
 稚拙な比喩で恥ずかしいのですが、今はこう考えようとしています。家族や親友に 対するように、全体を愛しつつ欠点は欠点として認識する。世界の全体は受け入れつ つ、その欠陥も見つめる。宮沢賢治の作品のように、変化する世界の美しさにおのの きつつ、そこで苦しみ滅んでいく有情たちに心を痛め、なんとかしようとあがくよう な、そんな人でありたいと思います。(あぁ、はずかしい。本当の自分は楽をする事 ばかり考えているナマケモノなのに。)

 鈴木宗男の顔については、おそらく今の我々の感覚は、逆執着というか、偏見に染 まっていて、実際以上に醜く見ているのではないかと思います。何も知らない異国の 人に彼の様々な表情の写真を見せれば、「表情変化の激しい不細工な東洋人」としか 感じないでしょう。私の写真と評価は半々でしょう。けして彼を肯定している訳では ありません。ただ、彼を我々とはまったく異質な悪の塊だと見て攻撃するのは、週刊 誌的自己満足に陥る危険があります。(週刊誌関係の方、すみません。)我々誰もが もっている傾向を思い切り歪に引き伸ばすと彼になる、我々も彼とはつながってい る、そういう視点も持たないといけないと思います。
 「地元のため、国民のため、世界の人々のため、俺は必死に働いてきたのだ。」お そらく彼は、内心でまだ50%位は(もっと?)そう思っているのではないかと想像 します。おそらく(直接逢った事もないので、全部推察です)意識下の出世権力慾と 功名心を土台に、自分の意識では、地元のため国民のため世界のため、励んだのだと 思います。問題は、何が真に地元のため国民のため世界のためになるのか、そのため にはどういうプロセスを取るべきなのか、合理的に突き詰めて考えることをせず、た だ「地元のため国民のため世界のため」というお題目(日蓮宗的な意味ではありませ ん)だけを唱えて「こんなに働いている俺がもっと力をつければ、もっと地元のため 国民のため世界のためになる。その為には、金が要る、地位が要る」そう考えて、目 的(地元のため国民のため世界のため)と手段(金・権力・地位)がごちゃ混ぜにな り、目的はいつしか免罪符に過ぎないものになり、あらゆる手段が正当化され、手段 が目的化し、肥大化していって、様々な間違いをしでかしたのだと思います。
 「地元のため国民のため世界のため」は、彼の正当化であって、意識下の本当の欲 望は、ちやほやされ、びくびくされる権力の喜びにあったのだ」そう分析する事は可 能だし、多分当たっているようにも思いますが、なにぶん意識下の事、そんな分析よ りも、彼を反面教師として我々は脚下を照顧すべきだと考えます。
 意識下までなんとかしろというのは、世俗を生きる身には過分な要求でしょうし、 意識下の出世慾や功名心が社会によいものをもたらすこともあるでしょう。せめて気 をつけるべきは、目的によって手段を正当化することはできないという認識、いかな る目的(お題目、免罪符)のためであれ、殺すな、盗るな、嘘をつくな、人を苦しめ るな、といった基本的ルールは守らねばならないという事だと思います。これらは、 戒律とまでは言わず、人の基本的なルールであり、これを破ればバランスを失い、平 安を欠く事になります。戒が三学の一番最初に据えられているのは、よく考えられた 指導・修行のシステムだと思います。
 などとえらそうに言いながら、私も、気付かぬまま、どこかで人を傷付け苦しめて いるのでしょうね。宗男氏のごとく。脚下照顧。

*「認識と行動」について

 頭での理解と体の正しい生活の実践、「認識と行動」のバランスが大切だとのご意 見、誠に耳が痛く、まったく同感です。
 先程、大パリニッバーナ経を繰っている時、こんな経文に目が留まりました。
「戒律とともに修行して完成された精神統一は大いなる果報をもたらし、大いなる功 徳がある。精神統一とともに修養された智慧は偉大な果報をもたらし、大いなる功徳 がある。」P25
 私には、戒もなく定もなく般若の智慧もありません。ただ分別の戯論をこね回して いるだけ。分別も必要であることは違いなく、戒定慧でいえば、戒と定の間くらいに くるのではないかと思っていますが、おっしゃるとおり分別ばかりではバランスを欠 いています。 最近、行について問題提起のメールを受ける事が多く、私に欠けてい るところを皆さんよく見ておられると反省しています。日々の行いを正し(飲酒戒は 守る自信がないけれど)きちんと座ることもしなければと思い続けながら、堂々巡り の毎日です。
 すみません。長い目で温かく見守ってやって下さい。

 長々と書きました。こういう点が見えてないんじゃないの、とか、なんでも問題提 起を頂けると幸甚です。
 では。

                             敬具
青木 庸三 様
                         曽我逸郎

追伸:さっき散歩に出たらツバメが川面を飛び交っていました。今年初めてみまし た。なんだかうれしいです。


青木 庸三さんからの返事(2002、3、22、)

曽我 様

 青木です。丁寧なご返事ありがとうございます。

 私のちょっとした思いつきに対して心のこもった考察を加えていただき、恐縮しております。本来ならば早急にご返事を出さなければならないのですが、多岐にわたる論点をいただき、整理に時間がかかりそうです。

 最近、個人的に唯識を勉強し始めておりますが、煩瑣哲学を繰り広げていく一方で人間の果てしない煩悩の暗さを洞察するその思想に魅了されております。世親菩薩は一方では浄土論も顕されており、究極の認識は他力へと向かうのかな、などと思う昨今です。

 曽我さんは、唯識は余りお好きではないようですが、提起された問題点をそちらの方からも考えてみたら面白いかなと思っています。

 小生、昨日は満開の桜に誘われて都内のどぶ川のほとりを浮かれて歩いていました。満開の桜を見ると何とはなしにぼーっとするような気持ちになるのは何ででしょうか。そちらではツバメが飛んでいるとのこと。青空の中、さぞかし爽やかでしょうね。

 また、メールを差し上げたいと存じますが、今日のところは、お礼まで。
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 青木 庸三

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