杉浦さんより 禅定体験から見た無我 2002,2,24,

       ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
曽我様:

杉浦と申します。曽我様のサイト,興味深く,楽しく読ませていただきました。
現代においてもよく考えられて,道を求める人がいるのだなあ,と感激いたしました。また,対談する仕組みも作られていて,よい議論をなさっていますね。

私もまた,道を求めるのであって,それは大乗仏教ではないかもしれませんし,宗教心ですらないのかもしれませんが,それでも悩み,苦しみ,それから解脱するのです。

私もまた,最近,曽我様のようにWWW上のサイトを開設しました。
拙いサイトですが,ご覧いただければ幸いに存じます。

→ http://www.moon.sphere.ne.jp/brown/

一つ,禅定体験の話をしましょう。

私には師がありません。作法もありません。従って,それは正当のものでも伝統のものでもありません。善くもなく,正しくもありません。
しかしながら,それは明確な理解と大きな利益を与えます。

あるとき,私は,自らに対する深い絶望を伴って,いかなることでも自らの心に生じたものを観察する禅定を行っていました。
その最終的な禅定を行うまでは,何か漠然とした哲学を行っていましたが,結局自らの心には触れなかったのです。それは,自らの(そして人々の)心に「ついて」触れていましたが,他でもない自らの心には触れていなかったのです。それは地図を調べたり,道を脇から眺めているだけで決して道を歩まないようなもので,歩んでいるような気にはなりますが,実は一歩も進んでいなかったのです。

しかし,あるとき私は決意し,自らの心そのものだけに取り組みました。過去の偉人が創作した哲学説を捨て,過去の聖者が説いた教えを捨て,世の中が押し付ける価値観を捨て,自らが様々に妄想する自尊心や考えすらも捨て去って,ただ,自らの心を観察し,いかに汚れたものであってもそれをよく観察することにとどまり続けました。

それは最初のうちはうまくいかず,哲学的見解や世の中の価値観に引き戻されていきますが,やがて,それらにはあまりとらわれることが少なくなってきました。

そのようにして一ヶ月半くらいした後,苦しみは益々ひどくなるだけでしたが,やがて絶望のみに心がとどまり続けるようになりました。

このようにして私が絶望のただ中にあったとき,
ふっ,と気が付くと,「私」と呼ばれるものは「私の心」と呼ばれるものから離れていました。しかし,私は離れてなくなったのではなく,「そこ」にありました。そこにありながら私は全く心から自由でした。
心には今まで通り,あの苦しみが渦巻いているようでした。
私はそれをはっきりと認識していましたが,それでもその心から完全に解脱していました。

それから私は友達と会って,外(渋谷の街)を出歩きました。
友達と話もしましたし,色々なものを見ました。また,味わい食べましたし,喫茶店に入ってコーヒーも飲みました。
その間,それらの体験は全てはっきりとそこにありました。
なおかつ,私と呼ばれるものはそこから離れてここにありました。
それは離れてなくなるのでもなく,離れたために私だけになったのでもなく,私はそこにあって,心もそこにありました。
全てそこにありましたが,しかもなお,何物も私を悩ますように影響しませんでした。

全ての感覚は「はっきりと」していました。今までよりもはっきりとしたその感覚は,あらゆる色をはっきりと見せ,あらゆる音をはっきりと聞かせ,あらゆる味わいをはっきりと楽しませました。
というのは,それまで私の感覚は私の解釈に常に彩られ,何か曇らされていたのに対し,今は,そのようなフィルターを経ることなく,そのまま知覚されたからです。というより,むしろ私はその知覚そのものでした。それと対面して,心がそこにありました。
心には,以前なら私を様々な雑念や思考に取り込んでしまおうとして生じる活動が起こっては消滅していました。しかもなお,私はそれらの活動には全く影響を受けることがないことを観察し続けることができました。以前,煩悩と呼ばれていたものが心の領域にはありました。しかしながら,今はそれから自由で,心にはさざなみがふつふつと生じては消えていますが,私はそれらを全て観察しながら影響されないことを認識し続けていました。

そのとき,私には「私は解脱した。全ての苦悩は乗り越えられた。もはやあの迷いの生存が私を悩ますことはない。これ以上の経験はない。たとえあったとしても私はそれを求めはしないだろう」という了解が生じました。

そのとき,私にはこの世のものとは思われない心地よさを感じました。
そして,大きな歓喜に包まれました。

この禅定体験,解脱体験による理解では,無我とは,私の知覚に私の色づけがなされないことです。かつ,心に様々な「私」や「私の」という思考が起こり続けますが,それらが単に心の中で起こっている奇妙なさざなみに過ぎないと認識していることです。
それは無我とも真我とも呼ぶことができるでしょうが,とにかく心という奇妙な現象の引き起こす驚くべき虚構なのです。

それは,直接体験による以外に知られることがありませんが,
それはあり得ないものでも,全く得られないものではなく,
ただ,「このようにすればこのようになる」という必然によって実際に人々は獲得することができるのです。


杉浦さんへの返事

               2002、3、29、

拝啓

 メールありがとうございます。お返事遅くなりました。

>他でもない自らの心には触れていなかったのです。
>それは地図を調べたり,道を脇から眺めているだけで
>決して道を歩まないようなもので,歩んでいるような
>気にはなりますが,実は一歩も進んでいなかったのです。

 行を怠っている私には、誠に耳の痛いお言葉です。確かにいろいろな人の書いたものを読んだり引用したりこねくり回したりしているのは、指で地図をなぞるようなもの、一歩も進んでいないのかもしれません。
 私としては、たまたま現れた山によく確かめもせずにとりついて、道を失って行き倒れたり、間違った山のてっぺんで最高峰に登ったとはしゃいだりしないために(末法の世、縁だけで「仏教」を選んで、自分の不幸ばかりか、人に災いをもたらすケースが如何に多いことか)、まずはじっくりと地図を読むこと(分別・戯論による学習)が必要だと考えていますが、確かにそれだけで終わっては滑稽です。一応の仮説は得たのですから、そろそろ歩き始める(行を始める)時かもしれません。勿論、今の仮説が最高峰であるという自信はありませんが、歩き出してみる事で景色も変わり、その過程で繰り返し地図と引き比べていけば、地図の読み方も深まり、きっと目的とすべき山も具体的な姿を現してくるでしょう。

 すみません。ここで言う行とは、勿論、十二支縁起の第2支でも、五蘊のひとつでもありません。分別による学習に対する、身体的な訓練のことです。「あたりまえ、、」本文では、座る練習、見つめる練習、見ない練習、山に入る事を書きました。学生の時は、確かに自覚的にそういう練習をしていましたが、就職してから20年来、ほとんど行的な事はできていません。
 まずは座る事を再開しないと、、。私の考えている行は、ほとんど定(戒定慧の)に近いものです。正しい定によって、慧が開けてくるのではないかと希望的に考えています。ゴミに気付いたら拾うとか、電車で席を譲るとかも、気持ちを柔軟にしてくれる立派な行だと思っていますが、そういう日常生活の中の行とは一線を画した、行のための行、慧のための行を、そのために時間を設けてきちんと行わねばとは思っておるのですが、、。

 杉浦さんは、自分の心を観察されたとの事。おそらくそれは、行であり定であったのだろうと思います。しかし、残念ながら、体験のない私にはなかなか想像ができません。メールの内容は、非常にユニークだと感じました。特に、自我意識に染められた不安定な心は残ったまま、そこから解放された「私」が、心の影響を受けることなく、しかも以前よりはっきりとした感覚をもつという、この「心と私の並立」には、興味を覚えました。

 いくつか質問させて下さい。

 「心を解脱した私」は、感情を持つのでしょうか? 「この世のものとは思われない心地よさ、大きな歓喜」はあるとありますが、凡夫の喜怒哀楽は多分なくなっている様に想像しますが、どうなのでしょう?
 他の有情はどう映るのでしょう? 慈悲がおこるのでしょうか?

>それは無我とも真我とも呼ぶことができるでしょうが,
>とにかく心という奇妙な現象の引き起こす驚くべき虚構なのです。
 この文章で杉浦さんが「無我とも真我とも呼ぶことができる」とおっしゃる「それ」というのは、「心を解脱した私」のことでしょうか? だとすると「心を解脱した私」とは「心という奇妙な現象の引き起こす驚くべき虚構」なのでしょうか? それとも「それ」は「「私」や「私の」という思考」でしょうか?

 もう一点、どのような方法で心を観察すべきでしょうか。

 宗教的体験を知らない私には示唆的な内容でしたので何度も読み返しましたが、これらについてもう少し突っ込んで教えて頂ければ幸甚です。

 本当に、きちんと時間を取って座らないと、、、。
 宜しくアドバイスをお願い致します。

                           敬具
杉浦様
                             曽我逸郎


杉浦さんからの返事

4月13日、杉浦さんから詳細な御返事を頂きました。別ファイルでアップしましたので、「意見交換のリスト」に一旦戻って、お読み下さい。

意見交換のリストへ戻る  ホームページへ戻る  前のメールへ  次のメールへ