白川さんより 曽我の覚りへの態度  2002,2,8,

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こんにちは。 初めまして、白川と言います。
もし宜しければ、お聞かせいただきたいのです。

曽我さんは、覚りが何であるかお知りになりたいのでしょうか?
それとも、覚りの世界をご自身に顕現されたいと思っておられるのでしょうか?

- 以上 -


白川さんへの返事

<返信メールを何度かお出ししましたが、なぜか届かず戻ってきてしまいました。これを返事とさせて頂きます。白川さんが読んで下さればいいのですが、、>

                       2002、2、17、
拝啓

 メール拝受。返事遅くなり申し訳ありません。

 白川さんはどう考えておられます? <覚りが何か知ろうとする>のと<覚りの世界を自身に顕現しようとする>のと、どちらが正しいあり方か?

 私は、普段あまり「覚り」という言葉を使っていません。「覚り」という言葉の意味を仮でも決めておいたほうがよさそうですね。
 白川さんの意図しておられるのであろう「覚り」をわたしの言い方で言うと、「自分を含めたあらゆる物事が、無我なる縁起の現象だと本当に知ること」です。「本当に知る」とは、モノを対象化して分けて知る分別知ではなく、世界と自分を分けない、自分を対象化しない、特別な宗教的体験によるところの般若智で知ることです。それによって執着が消え、自分と人に苦をつくることがなくなり、慈悲が発現すると考えています。

 ですから、白川さんの表現にそって言えば、<覚りが何か知る>のと<覚りの世界を自身に顕現する>のとは、実は同じことであるはずだと考えます。

 ただ、名詞には危険な落とし穴があって、十分に気をつけていないと、あたかもそれが外に対象として実在するような錯覚に陥ってしまいます。「覚り」という言葉が「覚りという実体」を妄想させ、外に求めさせる。<覚りが何か知る>という言い方には、そういう危険性があると思います。もっというと、「覚り」という名詞ではなく、先に私が言い換えたように動名詞「〜本当に知ること」で考えていきたいと思っています。

 白川さんのご質問に戻って、私はどうしたいのか、というと、先に書いたとおり、「自分を含めたあらゆる物事が、無我なる縁起の現象だと本当に知って、執着を消し、自分と人に苦をつくることをなくし、慈悲を発現させたい」と考えています。

 でも「今は何をしているのか?」と問われれば、分別知で戯論をこね回しているに過ぎません。けして分別知による仏教の学習を貶めているわけではなく、正しい分別知による探求は絶対に必要で、それと、体験的な般若智の両方に努めるべきだと考えているのですが、実際にはほそぼそと前者しかできていません。白川さんは、この点を問題提起してくださったのかもしれませんね。座る努力も始めなければ。

 ご指摘ありがとうございました。今後ともご意見ご批判を宜しくお願い申し上げます。
                                敬具
白川様
                                曽我逸郎

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