齋藤仁鐵さんより  感想(返事:密教について)  2002,1,30

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曽我様へ

はじめてメールをさせていただきます

昨日ホームページを立ち上げた者ですが
ページ内のリンク集にこちらを入れさせて
いただきましたので、御報告に参りました

当方、仁鐵と申しまして真言宗の寺で
副住職をしております。

先だって佐倉さんのページ経由でこちらに
辿りつき、初めて拝見したんですが、最初は
ビックリしました。

しかし本文を読み進めていく内に、正しい空性の理解と
現代の日本仏教に対する危惧が伝わってきまして
非常に嬉しく思い、ページを作ったら是非リンク
させていただこうと思っておりました

事後報告になり、非常に失礼かとは存じますが
一言、感想を添えて報告とさせていただきます

それでは失礼いたします

     仁鐵 拝

http://www7.ocn.ne.jp/~priest.1/


齋藤仁鐵さんへの返事

                  2002、2、7、
拝啓

 メール頂戴しました。

 リンクありがとうございます。次回更新の際、拙HP(変な言い方)からもリンクを張らせて頂きます。

 真言宗の僧籍におられるとのこと。私は、学生時分とぎれとぎれながら某臨済宗のお寺に通っていたので、日本仏教の中では心情的に禅に一番親近感を感じています。また、浄土には、自分は本当にどうしようもない悪人だと透徹し全部を預けきれた方々がいらしたようで、一種の憧れを感じます。日蓮の教えはその激しさの印象の他はよく分かっていません。密教に対しては、正直に申し上げて、仏教が実在論におもねて堕落した末期の姿であると否定的にしか見ておりませんので、間違いを正して頂けたらと思います。
 私の理屈からすると、中観と密教は実在の否定と肯定で両極のはずなのですが、実際の歴史では、両者手を携えていたように見受けられるのは何故でしょうか(たとえばインド仏教がチベットに入った時のように)。ホントは近しいのでしょうか? なにかヒントがありましたら教えて下さい。

 バイクに乗られるのですか。私も乗ってました。恥ずかしながら皮ツナギを着て(そんな時代がありましたよね)、CB750F(バリバリ伝説のグンが乗ってたヤツ)とかGSX750Rで、休日の朝は妻が目を覚ます前にそっと抜け出して、県境の3桁の国道やアップダウンの県道を走っていました。
 大学の時、中型免許をとった2年目にはご多分に漏れず事故って、顔に大怪我をしました。死ななかったのがウソのようなヤバイ事故でした。数年前からは、250のスクーターですが、そいつでも一昨年のちょうど今頃転倒して左肩の関節を折った愚か者です。

 でもバイクっていいですね。私はどうしても攻めてしまうタチで、突っ込みのブレーキングから倒しこんでアクセルを開けながら立ち上がっていく一連の流れがきれいにつながって、センターラインや路肩の白線が鞭のように右左にしなりながら飛び去っていく、あの感覚はゾクゾクします。

 思いがけず趣味的な話を書いてしまいました。

 仁鐵さんのように、自分で仏教を学び考え伝えるお坊さまがもっともっと増えて下さればと思います。

 今後ともよろしくご教授の程お願い申し上げます。

                            敬具
齋藤 仁鐵  様
                             曽我逸郎


齋藤仁鐵さんからの返事

曽我さんへ

あやや…ご丁寧な返答をいただきまして感謝の極みです!
曽我さんもバイク乗りとは嬉しい限りです

密教と中観は一見対立しますが、中観や空を突き詰めて
考えていくと、どうしても一元論に帰結するのでは?
と、自分は考えております

果の前に因がある訳ですが、一番最初の因を想定すると
どうしても何か、こう絶対的な全一のモノを想定してしまいます
(もちろん自然発生的な因の集合から果を生じる事も考えられますが)

しかし、安易に全一のモノや絶対者を想定してしまうと、非常に
具合が悪く、如来蔵の発展型である日本仏教の現状をみるにつけ
暗澹たる気分になります

よく自分の使う例えですが、プロゴルファーが最終的にゴルフの
神髄を語ったときに

「やっぱスイングだよな〜」

と漏らしたとしても、その一言には無数の経験や思想が含まれて
います、それを理解せずに そこらのサラリーマンが言葉だけ
同じような事を言っても、単なる「戯言」でおわってしまいます

(自分はゴルフをしませんが、スポーツ全般に当てはまります)

空性のレベルには十六段階がありますが、もっとも上の精妙な
部分に於いて語られる事は密教で言うような絶対的な世界では
なかろうかと思っています

(講座大乗仏教の中で津田真一センセが二重法界について論じ
ているので参照すると面白いです一巻「大乗仏教と密教」)

しかし、空性の考察も出来ない輩に いきなりその事を伝えるのは
いかにもマズイ方法で、安易な方向に走りがちです

仏教の理解がベースに無い密教行者なんぞは単なる拝み屋と
何ら変わるところがありません

ツォンカパも相当苦心したと思います、仏教哲学をベースにした
密教の効果はやはり、思考能力や心のスピードを相当なモノに
ボアアップ出来ますが、常にベースが出来てない勘違い野郎に
悪用される危険を孕んでいます

密教の行法は、あくまでも手段であって目的では無いんですが
その辺をごた混ぜにしている輩が、高野山にも掃いて捨てる程
いるのが悲しい限りです…

中観のボディに密教のエンジンが最上だとは思うのですが
難しい話でもあると思います

とりあえず、自分の見解としてはこんな所です

それでは、またページの方にもお邪魔させていただきます

       齋藤 仁鐵 拝


齋藤仁鐵さんへの返事(2通目)

拝啓

 ご多忙のところ恐縮です、密教について教えて頂きたく、、。
 前のメールにも書きましたとおり、密教については、まともに勉強しないうちに否定的な思い込みが染み付いてしまっています。ですので、すみません、以下には揚げ足取りのような書き方が混ざるかもしれませんが、怒らないで下さい。私の思い込みの間違いを、正して頂ければと存じます。宜しくお願いいたします。

>中観や空を突き詰めて考えていくと、どうしても一元論に帰結するのでは?

 私は反対に「余程突き詰めて考えないと、中観や空は一元論に堕落してしまう」と考えています。よく波と海の比喩が語られ、「その時その時の波に心を奪われず、変わる事のない海そのものを見よ」といった説教を耳にします。けれども、様々に苦しんでいる有情やそれぞれの出来事(波)こそが現実に起こっている現象であって、それを超越した海(「空性」とか「法界」とか「真如」とか)は観念に過ぎないと思います。
 全宇宙の一番最初の因を明らかにすることは、物理学の仕事でしょうが、いずれ解明されるであろう宇宙の始まりも、仏教(無我=縁起)の中に収まると信じています。よしんば第一原因があったとしても、それは既に失われており、不変永遠ではないと。つまり、少なくとも私たちが生きているこの時間においては、波を生み出すのは波のみであり、重なり合い、打ち消しあい、強め合い、ぶつかりあって、目の眩むような変化に富んだこの多様な世界が常にこの今生成しているのだと。

>「やっぱスイングだよな〜」

 プロゴルファーの独り言なら全然問題のないコメントです。でも、仏教徒はプロゴルファーではありません。プロゴルファーは、ライバルと常に競い合う身、ライバルに分かる形で自分の見出した秘訣を語る必要はないでしょう。でも仏教徒は、人々を苦から救うべき身。見出したものがあれば、小学生に算数を教えるように、懇切丁寧に工夫(方便)を凝らして分かるように説明せねばなりません。仮にそれが間違っていたとしても、了解可能な論理で説かれていれば、誰かから批判をもらってそこから学ぶこともできるでしょう。
 にもかかわらず日本の仏教界には仏教を自称しながら矛盾した言い回しを説明もなく矛盾のまま投げつけておいて「ここのところが分からんような奴は駄目じゃ」と開き直ってえらそうに胸を張る方が多すぎるように思います。
 ゴルフに喩えるなら、スイングを分かりやすく説明できるレッスンプロに憧れます。説明を聞いた人が、実際にスコアをぐんぐん縮められる(自分と人の苦を減らせる)ような、そんな優れたプロに。

>津田真一センセ

 津田先生の本は、ご指摘のものと「反密教学」「アーラヤ的世界とその神」を読みました。駒澤大「批判仏教グループ」の松本先生との金網デスマッチも手に汗握って観戦しました。再度読み返すことなく横着に不確かな記憶のみで書きますが、津田先生は、仏教よりも、仏教がそれと戦ったところのインド土着の思想の系譜に立っておられると思っています。そして津田先生の書いておられることから私が受け取ったことは、「密教は象徴を操作することで現実の行をショートカットする行の否定の教えである」というものです。しかし、一歩引いて考えてみれば、現代の日本で唯一苦行をしているのは密教のみのようにも思え、この矛盾は解決できていません。直接の行は放棄した替わりに象徴を操る行が先鋭化したということでしょうか?

>密教の効果はやはり、思考能力や心のスピードを相当なモノにボアアップ出来ます

 「密教は修行や仏教理解の速度を速める」という解説は以前にも耳にしたことがあります。でも、もし密教が象徴操作の技であるならば、それがどのようにして修行や理解の速度アップになるのでしょうか? 修行者の集中力を高めるからでしょうか?
 ボアアップやターボチャージャーや、さらにはジェットエンジン、ロケットエンジンも、速度アップの技術として納得できます。ですが、密教は、私にとってSFに登場するワープのようなもので、物理法則と整合する仏教とはまったく異種の、本当に可能か大いに怪しい空想の航法なのですが。
 今の私の考えでは、密教は顕教に対立する言葉ではなく、仏教に対立する言葉であるといえば言い過ぎでしょうか。

 勝手な思い込みを書き連ねました。お時間のゆとりのできた時に誤りを正して頂けるとありがたいです。今後とも宜しくお願いいたします。

                              敬具
齋藤 仁鐵 様
                              曽我逸郎

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