知樹さんより  三法印、空   2002,1,18,

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 私は大学院で植物の分子生物学関係の勉強をしているものです。
 ざっと半分くらい読みました。

 私も大学に入学してからそれなりに仏教関係の本、特に原始仏教の文献研究に関するものを読みまして、仏教も本質的な所は科学的な批判に耐えうると思っていました。あなたの書くように、昔の人に対する方便を現在人に対しても同様に行う、多くの現代仏教(実はあまり知りませんが)に違和感を感じていたところです。

 私は周りの知り合い(理系が多い)に仏教の三法印を説明するのに、
 「人体のみならず、この宇宙にある全てのものは物理法則に従い生成死滅します(つまり諸行無常)。ここでこの法則から逃れる方法はどの存在も持っていません(つまり諸法無我)。このことが分かれば、自分がしてきた人生の選択の全てが物理法則に従う必然的なものであり、過去を後悔しても無駄だと言うことが何の疑問もなく理解できるはずです、そうなれば今を受け入れることが当たり前になる(涅槃寂静)。」
 という具合に説明してきましたが、無免許で医療行為をするブラックジャックのような気分です。とりあえず専門家の批判を仰ぎたいので、ご意見をお聞かせ下さい。

 ちなみに私は「空」というものはエネルギーでも時間でもなくて、「物理法則(質量保存の法則、作用反作用の法則・・・)などの法則で生み出されるこの世界」と考えるのが分かりやすいと感じています。

 知樹


知樹さんへの返事

                  2002、1、29
 拝啓

 メール頂戴しました。ありがとうございます。

 専門家などと呼んで頂きましたが、そんな代物には程遠く、医者の比喩にならえば、一介の病人が皆さんの意見を参考にしながら自分なりの養生法を模索しているに過ぎません。体系的に仏教を学んだわけでも、きちんと修行したわけでもありませんし、、。
 以下は、その程度の素人の暫定的な解釈としてお読み頂いて、また問題提起をいた だけると幸甚です。

 では三法印について。

 まず、諸行無常については、私も同じ理解です。

 諸法無我については、同じことなのかもしれませんが、私としては少し違う表現で考えています。

 無我とはアートマンがない事。アートマンとは、そのものをそのものたらしめている独立自存の不変の本体です。つまり、諸法無我とは、「すべての存在には、独立自存の不変の本体はない」という意味だと考えます。独立自存の不変の本体とは、例えば、魂、護持せねばならないとされる国家の国体、男らしさ・女らしさ、富・名声・地位などなどで執着されている価値、机の机実体、茶碗の茶碗実体、、、といったものです。茶碗は独立自存な不変の茶碗実体をもたないから割れてしまえば茶碗でなくなる。机は机実体を持たないから、叩き壊して薪にできる。座布団を頭に敷けば枕になる。エネルギーが素粒子になり、様々な素粒子が、ぶつかりあり、分裂し、組み合わさり、またエネルギーになり、無限に変異していくのも、種が芽を出し成長し花を咲かせ実をつけるのも、生物の進化も、無我なればこそ可能になる。

 そして、この事を別の角度からとらえたものが、縁起、すなわち「すべての存在は、他から縁を受けて生まれ、変化し、他に縁を与え、いつか終息する現象である」という見方です。ですから、無我と縁起は同じ事を言っており、個々の現象に注目した表現が無我、現象から現象への関係から述べたものが縁起だと考えています。

 無我=縁起こそが、釈尊の教え(仏教)の核心であり、また同時にあらゆる科学的な検証にも耐える客観的な真理だと思っています。ですから、輪廻など昔の方便を現代に持ち出すと仏教を捩じ曲げる結果になるし、現代には現代にふさわしい方便がある筈で、現代の我々には科学も有力な方便として使えると思っています。この点は、おそらく知樹さんも同じ意見をお持ちのように感じました。アフォーダンスとか創発とか認知科学とか脳科学とか、そういった新しい科学の見方が、無我なる現象である「私」が縁を受けて如何に自己意識を持つに至り我執を抱くのか、戯論にせよ理解を深めてくれそうで、細々と勉強しています。全然はかどりませんが、、

 三つ目の涅槃寂静については、正直なところ、私には程遠いレベルなのでよくわかっていません。おっしゃるとおり諸法無我(私のいつもの言い方では無我=縁起)を正しく知る事によっていきつけるあり方だろうと想像します。
 では、無我=縁起を知るとどうなるのか。
 想像を膨らませると、それまで不変の価値を持つ実体だとして執着(or 憎悪)してきた対象が、時間の中で変化していくしばしの無我なる縁起の現象だと知る。執着(or 憎悪)がなくなる。そして、外の対象のみならず、自分自身も無我なる縁起の現象だと知り得た時、世界の他の一切の現象と共に生成していることに気付き、外に開かれ、我執がすっかり消え失せ、本当の慈悲が発動し、とらわれのない大きな気持になれるのではないかと想像しています。そういうあり方が、おそらく涅槃寂静でしょうか。

 しかし、自分が無我なる縁起の現象だと本当に知ることは、極めて困難です。なぜなら普段の分別知(ものを分ける事によって成り立つ知)で自分を見ても、それは自分を世界の中に対象として分けて切りだすことであって、見られる自己とは別の見る自己がどこまでも残り、本当に自分を見ることにはならない。分別知とは別種の智、見られる自己と見る自己・自分と世界が対立していない戯論寂滅の智が必要で、それこそが般若の智でありましょう。般若智を知るためには、論理的思考を突き詰めた先に、それとは別の次元の、正しく座り瞑想する事など肉体も含めた自己の全的訓練によってもたらされるある種の宗教的体験(意識の指向性停止体験)も必要なのだろうと思っています。そう思いながら、根が怠惰なもので、ちっとも座れていませんが、、。

 以上、三法印について思う所を書きました。

 頂いたメールと私自身の文章を読み返して、若干付け加えます。

 実は、涅槃寂静という言葉にはあまり共感を感じていません。
 知樹さんが書いておられるとおり、涅槃寂静には「今を受け入れることが当たり前になる」ような感覚があります。苦しむ有情を前にしながら、一人静かで落ち着いた観照的あり方に引きこもり、「すべてはこれでよし」と手をこまねいて自足しているような。
 実際の私は自分の世話ばかりに追いたてられ、それさえも手が回らず人のことは何もしないでいるのですが、賢治の「雨ニモマケズ」のように、時々の様々な現象に直面して、人の苦しみをけしてそのまま肯定せず、人のためにおろおろとうろたえつつ走り回るような人間であれたらと思います。「雨ニモマケズ」は、私にとって、到達不可能でも、目指すことはできるはずの菩薩のお手本です。(だったら本気で目指せよ、、、ごめんなさい、、)

 もう一点、空について、
 「「空」というものはエネルギーでも時間でもなくて、「物理法則(質量保存の法則、作用反作用の法則・・・)などの法則で生み出されるこの世界」と考える」というご指摘を頂きました。おそらく「あたりまえ、、」本文の空に関する<注>に対するご批判かと思います。ご批判を頂いてこんな言い訳は礼を失すると知りつつ書きますが、あの「空=エネルギー=時間」というオモイツキは、ほとんど酔っ払いの戯れ言ですので、まじめに取り合わないで下さい。最近は「空」という言葉をだんだん使わない様になってきました。他にもHPを更新していく間に見解を改めた例はたくさんあって、考えを変えた部分は書き改めて常に最新の考えで全体を統一すべきかとも思いましたが、そうするとなんども全体を改めねばならないかもしれず、また、一度書いたことを消すのはなんだか昔の自分をホッカムリするようでもあり、当面は整合性のなさについては開き直って、過去を修正しないまま新しい見解を付け足していっています。皆さんから頂いたご意見ご批判によって教え導かれている度合いが圧倒的に大きいので、自然と「意見交換のページ」が最新の見解の表明の場になっています。空についての現在の考えは、たとえば意見交換の01、10、7、佐藤守さんや、01,10、14、小林仁さんとのやりとりをご覧になってください。

 是非またご意見ご批判を頂きたく、宜しくお願い致します。科学の視点からの提言・批評もお聞かせ下さい。

                                  敬具
知樹様
                              曽我逸郎

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