谷 真一郎さんより  最近の読書から  2001,11,25,

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曽 我 逸 郎 様
                        from 谷 真一郎

 秋になって、中国仏教の研究に入っています。
 アカデミズムに届かないレベルとはいえ、7年前に岩波文庫の中村元訳の原始仏典を通読する事から始めた読書が、断続的にここまで来て、たとえば中国天台について書かれた文章の中に日本の最澄や日蓮の名前も散見されますと、長い旅の末に、故郷の香りがかすかに漂う所まで帰ってきたような気がいたします。
 とはいえ、故郷に帰って終わり、というのではなく、日本仏教こそが、私の本当に勉強したいこと、老いを迎えるにあたっての心の糧としたいところです。特に平安末期から鎌倉初期の、覚悟を決めた無数の念仏聖たちが全国を遊行して歩き、鎌倉仏教の祖師たちが、天台本覚思想を止揚するという課題を抱いて次々と山を降り、己の道を「選択(せんちゃく)」する、という時代の諸文献にこそ、私の求める「普遍につながる特殊(仏教)」を見つける事ができるのではないか、と思っております。
 袴谷・松本両氏の「批判仏教」の方向と、私は逆を行きます。つまり、仏教を理論・教説として捉えるか、精神史的事実の堆積として捉えるか、の違いです。袴谷氏は本覚思想を(インド・中国・日本それぞれの)土着思想の混入ないし土着思想への屈服妥協と捉えましたが、その同じ事実を、私は、それぞれの土着的伝統の上での「悟り」のありかたの違いとして捉えます。その違いは言語(象徴)レベルのものであり、精神の最も深層に降りた時には帰一するということ、前回のメールに書いたとおりです。松本氏が「仏教ではない」と言って批判する叡山天台の修行者も、華厳の徒も、それどころか(松本氏がおそらく「外道」扱いするであろう)山岳修行者もシャーマンも、歴史的事実として、「悟り」と呼んでよい精神的達成を得ています。
 「ある人が『悟る』」というのは宇宙の中でのひとつの「出来事」です。仏典の中にもしばしばそのように描かれています。
 その「出来事」が起きる条件は、まず第一に、当該の地域にあって歴史的・伝統的な洗練と淘汰を受けた教義・修行法が存在すること、次に、その流れの中にあって本人が(現代の葬式仏教のような)日常性に頽落せず、超越的なものを指向し続けていく、ということ、シンプルなこの二つに尽きるものと思われます。
 アジア各地や日本の仏教が、紀元前のインドで発生した仏陀の教えとあまりに違っている事を、松本氏であれば嘆き、批判するでしょうが、私は、本当にたいしたものだ、と思い、自分がその流れの中にいる事を嬉しく思います。
 インド以外のどの地域でも、仏教は最初は外来の、しかも貴族階級の異国趣味のようなものから始まっているはずです。ところが、(もちろん「変質」しながらですが)一般の人々の中にしっかりと根を降ろし、精神文化の中心になりました。北はモンゴル、西と南はスリランカ、東は日本、この巨大な三角形の中に膨大な数の仏教寺院があり、仏像があり、遺跡があり、各国の言葉でお経が唱えられています。何か権力が働いていて無理に仏教を信仰させられ、だから面従腹背で内実は仏教ではないものにしてしまった、というのではなくて、自然にひろまり、かつ自然に「変質」していったのです。
 こういう「変質」であれば、自分もその流れの中に在る者として、上記の2条件のみに留意して、後は、伝統を同じくする先人の歩みを信頼していきたいと思っております。
 何か情緒に流れたような文章になってしまいましたが、今はまだ天台思想の学習中です。だんだんわかってきた事を書きます。
1.「天台=法華経」「華厳=華厳経」というように1対1に結びつけるとかえって見えなくなる部分が多いということ。まず「教相判釈」(中国に将来された多くの仏典をすべて仏説と見なした上で、それらの全体を秩序づける作業)という中国仏教特有の思想課題があります。天台は法華経を、華厳は華厳経を最高位に位置づけた上で、最高位を含む大乗仏典の全体に依拠して論を立てているのです。
2.三論・天台・華厳等の論書は、中国における一種のアビダルマであり、インドのアビダルマと同様、経典から離れて思索することが許容されています。つまり、天台の論書は法華経の解説書ではなく、華厳の論書は華厳経の解説書ではありません。
3.ところが、(解説書のみの読みかじりで生意気な事を言いますが)中国の論書は、論理ではなくほとんど文飾によって成っている、と言ってもよいほどです。教説や悟りの低いレベルから高いレベルへと次々説明してゆくのですが、それらの間に内的・必然的な関連はなく、レストランのメニューの「魚ディナー」「肉ディナー」「肉と魚ディナー」「スベシャルディナー」「ウルトラスペシャルディナー」という調子で、だんだんと高級な効能書きを並べていくだけです。日本の研究者はこの文飾にまともにつきあって(ふりまわされて)、なんとか「理論的に」理解しようと(この作業を「会通(えつう)」と呼ぶそうです)しておりますが、空しい努力に思われます。
 「経相判釈」作業が盛んに行われた南北朝期は、中国の文化史上で最も文飾的傾向の強かった時期ですから、仏教の論書もそのようになってしまったものと思われます。唐代になるとそのような文飾傾向が批判されて、「不立文字」を唱える禅宗が盛んになる、という道筋になるのではないか、と想像します。中国禅宗はまだ勉強してないので、あくまで想像ですが。
4.「法華経」という、絶対に避けて通る事のできない、難物の、敢えて言えば「危ない」経典があります。これは現代語訳を読んだ他、かなりあちこちの方向から読んだり考えたりして、一応、(変な表現ですが)蛇の頭の上をまたぎ越した状態です。しかし、これから日本仏教の研究の中でも、「法華経」の「方便品」「法師品」「神力品」等はくりかえし(逃げずに)参照していかなければ、日本仏教の深い所は絶対に掴めないと思います。

 <一部略>
 年が明けたら、一杯どうでしょうか。お互いの方向がやや違ってきていますが、最近の読書内容のレクチャーでも、お互いおおいに勉強になると思うのですが。
 では、お元気で。 草々


谷 真一郎さんへの返事

                          2001年12月5日
拝啓

 メールを頂戴しておりながら、返事が遅く、申し訳ありません。

 実は、10日ほど前からウィルスメールの集中攻撃を受けております。毎日複数のウィルス添付メールが届きます。見覚えのあるアドレスも散見されますが、ほとんどは見ず知らずのアドレスです。幸い本文のない添付ファイルだけのすぐそれと分かるいかにも怪しいメールなので開けずに調べてみたら、どうやらすべてW32.Badtrans.B@mmというウイルスのようです。大学時代のクラブの同報メールにアドレスを登録しているので、おそらくその中にウィルスがはびこってしまっているのでしょう。
 自分も罹ってしまったかとあせりましたが、某社のネット上のウィルスチェッカーで診断したところ、大丈夫との判定を頂きましたので、遅くなりましたがようやくお返事をお送りします。

 「お互いの方向がやや違ってきていますが、」と書いておられるとおり、谷さんと私の目指す所の違いが段々と目立ってきました。

 間違っていたら申し訳ありません。谷さんは、<「超越的なものを指向し続けていく」その究極で「精神の最も深層に降りた時」、「特殊(仏教)」を超えた「普遍」に逢着できる>とお考えで、それを実現されようとしておられるのだ、と思っています。

 一方、私は、「超越的なもの」はなく、「無我なる縁起の現象が無我なる縁起の現象に縁を及ぼしながら、滅し起こり移り変わっていく、実(ジツ)のない表層の現象の縁起の連なり」として世界を見ようとしています。実も蓋もない興ざめな世界観とお感じかもしれません。でも、これが冷徹な(事実に即した正しい)世界理解であり、ここにこそ「無我なる縁起の現象」である我々の救済があると考えています。そしてこの世界理解は、釈尊のみが為し得て仏弟子にさえ引き継ぐことが困難であった、人間の世界への自然な向きあい方に反する、極めて稀な唯一無類の発見だったと思っています。
 この仮説を深め検証するために、仏教文献学の成果のお相伴にあずかることの他に、二つの事をやれればと思いつつなかなかできずにおります。ひとつは、認知科学とかオートポイエーシスとかアフォーダンスとか動物進化の過程とか、科学の新しい成果を引き当てて人無我を裏付け、人無我に関する分別知を深めること。もう一つは、座ることを自分に習慣づけること。

 御自身の信ずる所に従って仏教の歴史を着実にたどっておられる谷さんと成果を交換し刺激しあえるような自分でありたいのですが、上のふたつとも思うにまかせず、我ながら歯がゆいありさまです。

 こんな状況ですので、谷さんから一方的に刺激を頂くばかりになると思いますが、また一杯お付き合い頂ければ幸いです。年内はちょっとばたばたしておりますので、年が明けてご連絡いたしますので、お時間を下さい。

 では、また、どうぞ宜しくお願いいたします。
                                 敬具
谷真一郎様
                                曽我逸郎

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