小林 仁さんより  実証的真理と宗教的真理  2001,10,14,

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曽我さん

お久しぶりです.仏典・真理に関して,次のような論考を成しました.個人的には大成功の出来だと思っているのですが,客観的にどうなるのか気になります.よろしかったら僕の現在の世界観がほどよく反映されていますので,寸評をいただければと思うまのです.

URL : http://www.telnet.or.jp/~hitoshi/txt-aph/sut002.htm

- Hitoshi Kobayashi-


小林 仁さんへの返事

                      2001、11、1、
拝啓

 アフガニスタン、パキスタンの騒動が早く沈静化しますように。世界の人々が無我=縁起を知り、執着を離れ、憎しみを離れ、互いに縁起しあう無我なる現象として尊重しあいますように。

 さて「二十真理論 第1部 その基本的な考え方」拝読いたしました。
 正直申し上げて、めちゃくちゃ歯ごたえのある内容で、消化できたのかどうか分かりません。牛のように何度も反芻してようやく「こういうことをおっしゃっているのかなぁ」という感じにたどりつきました。
 確認の意味で、まず私の理解をまとめてみます。乱暴な解釈で抜け落ちたり間違っている重大な部分があるかと存じます。その部分は、再度ご指摘ください。

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 「仏教」と呼び習わされている中で、互いに相容れない矛盾した主張がなされている。
 それらの主張は、日常的あるいは科学的経験とは別次元の神秘的体験に基づく「真理」の把握に端を発した所からなされている。
 一方、哲学の立場からすれば、経験に基づくことのない直感による超越的悟りなどあり得ない。(C.S.パース)
 哲学の領域と、神秘主義の領域の間に形而上学の領域がある。
 「普遍妥当性を経験的に判別できる知識=実証的真理」と「普遍妥当性を経験的に判別できない知識=宗教的真理」という異なる二種類の真理がある。
 宗教的真理を信じる人を実証的真理によって論破・説得することはできない。なぜなら実証的真理は、《原理的に》究極的真理・絶対的真理に到達できないから。
 次元の異なるこれら二種類の真理を、ふたつながら認めよう。
 日常的あるいは科学的経験とは別次元にある宗教的真理・神秘的体験を認める立場に立たないと、偉大な宗教の微妙な世界に親しむことはできない。

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 如何でしょうか? 大筋はあってますか?

 こういう解釈に行き着きながら、実は意外だったのです。小林さんは、日常的科学的実証的な論理で神秘主義の思い込みに切り込んでいく方だと思っていました。ホームページの扉の左上に空中浮遊を揶揄するアニメーションを置いていらっしゃいますよね。
 実証的真理だけを認める立場から、神秘的宗教的真理をも認める立場に一歩譲歩されたということでしょうか。

 しかし、小林さんが二つの真理を並列的に認めても、神秘的体験に基づく宗教的真理に立つ人たちの主観においては、宗教的真理が実証的真理に対して圧倒的上位にあり、実証的真理は軽んじられ、実証的立場からすると個人的な思い込みでしかない「宗教的真理」を万人が従うべき普遍的なものとして据えています。
 小林さんが、別次元の二つの真理の両方を認めようとなさっても、彼らは別世界におり、建設的な対話を交わすことは相変わらず不可能ではないかと想像します。

 私としては、どちらにせよ対話が不可能であるならば、譲歩せず、思い込みでしかない「宗教的真理」に対しては、学的実証的立場から批判を継続すべきだと思います。そして、どうどうめぐりの不毛な水掛け論になるにしても、その対論は閉ざされた1対1の形ではなく、広くオープンな場で行われ、それによって他の人たちが第3者の視点で判定できるようにしたいと思います。そうすれば、当の対論者を説得することは難しいとしても、結果として、将来思い込みを理と信じ込まされる人の数を減らせるのではないかと思うので。

 たまたま岩波文庫の「ブッダ最後の旅」(大パリニッパーナ経、中村元訳)をめくっていたら、こんな文章が目が止まりました。(69頁)
「・・・わが弟子どもが・・・・みずから知ったことおよび師から教えられたことをたもって、解説し、説明し、知らしめ、確立し、分析し、闡明し、異論が起こった時には、道理によってそれをよく説き伏せて、教えを反駁し得ないものとして説くようにならないならば、その間は、わたしはニルヴァーナに入りはしないであろう」
 この経典を残した先輩たちは、釈尊の教えは、分析に耐えうるのみならず、道理によって説かれ得るものであり、仏弟子はそのように努めねばならない、と考えていたのです。私たちもそれにならって努力しなければならないと思います。

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 角度を変えて、「宗教的真理」と「実証的真理」について、わたしなりの考えを書きます。

1)「実証的真理」は部分的であり、世界全体を対象にすることはできない。また、我々がいかに生きるべきか、教えてはくれない。「実証的真理」は、我々に使われる道具的な真理である。我々より下位にある。

2)「宗教的真理」は、我々にいかに生きるべきかを教え示す。我々より上位にある。最高の真理であるから、より下位にある実証的真理・科学的真理と矛盾があってはならない。ささいな矛盾でも、それは「宗教的真理」に対する反例であり、「宗教的真理」の無謬性を否定し、「宗教的真理」を否定する。すなわち「実証的・科学的真理」によって、「宗教的真理」は検証される。

3)仏教の最高真理は、「無我=縁起」である。「無我=縁起」は、あらゆる世俗的・実証的・科学的真理と矛盾しない。万一、自立自存し永遠にかわらぬ自性をもつものが発見されたら、それは「無我=縁起」に対する反例であり、「無我=縁起」の真理性を崩壊させる。それくらい「無我=縁起」は普遍的であると曽我は考える。
 (蛇足ながら、「世界の全体は自立自存し、「無我=縁起」という不変の自性をもつ。だから全体世界が「無我=縁起」の反例だ」というのは、反則。全体世界=宇宙は、どうやら始まりを持つらしく、無始ではない。時空誕生の「最初の一撃」(=宇宙を生んだ「縁」)については、理論物理学者の方々の研究を待たねばならないが、、。また、「世界は無自性という自性をもつ」とか「世界が無常であるということは常である」といった主張は、言葉の概念による揚げ足取りに過ぎない。)

4)仏教は、「無我=縁起」という最高真理を説くだけではなく、それに基づき如何に生きるべきかも教える。仏教の「無我=縁起」は、実証的・科学的真理と矛盾せず、かつ、我々の上位にあって我々を導く力を持つ唯一の真理である。

5)「無我=縁起」に基づく「生き方の教え」は以下のとおり。
i)我々も世界のあらゆる「存在」も、他から縁を受け他に縁を及ぼす無我なる現象である。
ii)にもかかわらず、我々は、動物的自然と人間的自然によって、「無我なる縁起の現象」を対象化し、「いつも化」し、固定的に捉え、実体視し、価値で色付けし、あるいは執着しあるいは毛嫌いしている。最も根深い執着は、自分を実体視し執着する我執である。我執によって、人は自分が価値ある存在だと思い込むか、もしくは自分に価値を見出そうとあがく。こうして人は自分と他の有情に苦を与えている。
iii)すべてが無我なる縁起の現象であることを見て、執着を吹き消し、無用な苦を生み出すことを止めよ。
iv)ただし、自分が無我なる縁起の現象であることを知るには、分別知だけでは十分でない。見るものと見られるものが分裂した分別知では、自己を見ても、それは対象として立てられた自己であって、主体の自己の無我=縁起を見ていない。
v)主体の自分の無我=縁起を知るには、学び自ら批判的に考え突き詰めていく分別知に加えて、禅定の訓練を積み重ねた上に期待される「神秘的・宗教的体験」とそれによる般若智が必要である。
vi)般若智によって、自分があらゆる現象とともに世界に生成していることを知れば、自分を超えた価値はもはや必要ではなくなり、あらゆる有情の喜びを喜び、悲しみを悲しみ、苦しみを苦しめるようになる。こうして大いなる慈悲が発動する。

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 どうでしょうか?
 『「無我=縁起」は、「実証的真理」と矛盾しない唯一の「宗教的真理」である』というわたしの主張も、やはり実証性のない個人的な思い込みに過ぎないのでしょうか?

 御批判をお願いいたします。

小林 仁 様
                      曽我逸郎


小林 仁さんからの返事

曽我さん                         2001年11月14日

お手紙ありがとうごさいます.丁寧な対応をいただき嬉しく思っています.

 つまりこうである.検証手段を持っている知識のことを,実証的真理(empirical truth) とよぼう.一方,そうでない宗教的知識のことを,宗教的真理(religious truth) とよぼう.どちらが劣っているとか優れているとかの問題ではない,文脈の異なる真理の並存を堂々と認めようではないか.〜『二重真理論』本文より

私はこの論考で,宗教的真理というものを前面に押し出し,それと実証的真理との間に広がる溝・私自身が抱え込んでいた問題を発展的に解消した(つもり)です.曽我さんがおまとめになられた大要にも眼を通しました.概ねあっています.その一方で本文では自分の表現したかったことの半分も表現できていないとも感じていますし,曽我さんからご返信を頂き,やはりここだけは補足しておくべきだなとの意を新たにしました.曽我さんとは,そのことについてお話できればと思っています.

ここでは簡単のため,問題を大項目に分けました.

1. 別次元の二つの真理の両方を認めようとも,神秘的体験に基づく宗教的真理に立つ人たちの主観はかえられない.彼らは別世界におり,建設的な対話を交わすことは相変わらず不可能である.どちらにせよ対話が不可能であるならば,譲歩せず,思い込みでしかない「宗教的真理」に対しては,学的実証的立場から批判を継続すべきだ.(曽我さん)これについて.

2. どうどうめぐりの不毛な水掛け論になるにしても,その対論をオープンな場で行うことによって,他の人たちが第3者の視点で判定できるようになる.当の対論者を説得することは難しいとしても,結果として,将来思い込みを理と信じ込まされる人の数を減らせる.(曽我さん)これについて.

3. 「宗教的真理」は、我々にいかに生きるべきかを教え示す最高の真理であるから,より下位にある実証的真理・科学的真理と矛盾があってはならない.(曽我さん)これについて.

4. 仏教の最高真理は、「無我=縁起」である.「無我=縁起」は,あらゆる世俗的・実証的・科学的真理と矛盾しない.万一,自立自存し永遠にかわらぬ自性をもつものが発見されたら,それは「無我=縁起」に対する反例であり,「無我=縁起」の真理性を崩壊させる.(曽我さん)これについて.

5. 仏教は、「無我=縁起」という最高真理を説くだけではなく,それに基づき如何に生きるべきかも教える.(曽我さん)これについて.

6. 『「無我=縁起」は,「実証的真理」と矛盾しない唯一の「宗教的真理」である』というわたしの主張も,実証性のない個人的な思い込みに過ぎないということになるのか?(曽我さん)これについて.

とりあえず,ひとまず論点は以上のようなものでよろしいでしょうか.よろしければ少しづつ私見を交えて対話を進めていきたいと思っています.これでよろしかったら,お手数ですが確認のご返信をお願いします.それでは.

小林 仁


小林 仁さんへの返事

                    2001、11、15、

 お返事頂戴しました。

 すみません、1番につきましては、以下のとおり訂正させて下さい。(カタカナが訂正部分)

「1. 別次元の二つの真理の両方を認めようとも,神秘的体験に基づく宗教的真理に立つ人たちの主観ヲカエルコトハ非常ニムズカシイ。彼らは別世界におり,建設的な対話を交わすことは相変わらずホトンド不可能である.シカシ対話がホトンド不可能でアルトシテモ,ワズカデモ可能性ガアルナラ、譲歩せず,思い込みでしかない「宗教的真理」に対しては,学的実証的立場から批判を継続すべきだ.」

 誰しもが自性無き縁起の現象の身、変わる可能性はあります。思い込みの強い神秘主義者の人も、考えが変わる可能性はある。(私だって考えを変える可能性がある。)僅かなりともその可能性を信じなければ、対話も批判もできないと思います。そういう思いで、完全に不可能だと切り捨ててしまわず、僅かでも可能性が残る表現に変えさせて下さい。

 その他は、まとめて頂いたとおりで結構です。

 わくわく、どきどき、びくびくしながら メールをお待ちしております。宜しくお願いします。

小林 仁 様
                                曽我 逸郎


小林 仁さんからの返事

曽我さんへ                        2001年11月19日

お手紙ありがとうごさいます.丁寧な対応をいただき嬉しく思っています.

 つまりこうである.検証手段を持っている知識のことを,実証的真理(empirical truth) とよぼう.一方,そうでない宗教的知識のことを,宗教的真理(religious truth) とよぼう.どちらが劣っているとか優れているとかの問題ではない,文脈の異なる真理の並存を堂々と認めようではないか.〜『二重真理論』本文より
URL : http://www.telnet.or.jp/~hitoshi/txt-aph/sut002.htm

私はこの論考で,世間ではなにかと偏見のある宗教的真理というものを前面に押し出し,それと実証的真理との間に広がる溝,そして私自身が抱え込んでいた問題を発展的に解消した(つもり)です.曽我さんがおまとめになられた大要にも眼を通しました,概ねあっています.ご安心なさってください.その一方で自分の表現したかったことのいくつかが表現できていないとも感じています.今回は,そのことについてお話できればと思っています.

ここでは問題を大項目に分け,勝手ながら引用の順序を変えさせていただいております.

(考察)

では考察に入ります.

1. 「宗教的真理」は、我々にいかに生きるべきかを教え示す最高の真理であるからより下位にある実証的真理・科学的真理と矛盾があってはならない.(曽我さん)

2. 仏教は、「無我=縁起」という最高真理を説くだけではなく,それに基づき如何に生きるべきかも教える.(曽我さん)

宗教的真理が如何に生きるべきかも教えるものなら,仰る通り,それが実証的真理と矛盾があっては,その宗教的真理は達成不能な生き方を教えるものになるとは思います.たとえばそれはガラス細工の製作過程を考えるとわかります.ガラス細工を手際よく作ろうとするなら,その作業によって物理的な仕事がなされる以上,物理的なガラスの特質に通じていなければなりません.それはたとえばガラスを色づけするとき,酸化コバルトを加えれば藍色,酸化マンガンを加えれば紫色,酸化第一銅を加えれば赤色,酸化第二銅を加えれば金・緑色となるガラスという物質の法則性です.この点についてある巨人は

 「人々は仕事を成功させようとするならば,自分の考えをかならず客観的外界の法則性に合致させなければならない.もし合致させなければ,実践において失敗する.」『世界の名著64 孫文・毛沢東』p.249

と述べています.ここで毛沢東の言葉を私が選んだことに他意はありませんが,この点についてはそのとおりだと思います.あるいはこうともいえます.ガラスを色づけするとき,酸化第一銅を加えて青色を出すというのはおかしな話なのです.いや,酸化第一銅を加えることそれ自体は可能ですが,その場合,そのガラスが青色を出すとは考えにくいということです.(もっとも私は専門家ではありませんので,実際にはできるのかもしれませんが・・・)同様に,頭痛なのに歯医者に行く,寒いのに水風呂に入る・・・このような例は幾らでも思いつきます.

そこでこのことを一般化していえば,

 「客観的外界の法則性に合致するものは実現可能である,客観的外界の法則性に合致しないものは端的に実現可能でない」(仁)

ということができると思います.

だからある宗教的真理が達成可能なものであれば,実証的真理にも合致している必要性が出てくると思います.なぜならば,客観的外界の法則性は言明の形をとる実証的真理として定式化されますから,実証的真理に合致しないといった種類の宗教的真理は端的に達成可能でないと考えられるからです.そして以上の考え方は第三者的にも妥当なものだと思うので,誰にでも快く賛成してもらえると私は期待しています.

しかしながら,そのように整理しつつも,私はここで新たな視点を提起したいと思います.達成可能なものだけが宗教的真理ではないとの視点です.つまり,

 「虚構や理想としては成立可能だが現実にはおよそ実現不能な存在や生き方を教える」,

あるいは

 「存在例が疑わしい理想や虚構を理想・虚構それ自体としてつきつける」

と宗教的真理の有する面を見逃してはいけないのではと思うのです.つまり,「魔法の薬を加えるならガラスは何色にも変る」といった場合,「達成可能か否か」という合理精神は一旦棚上げされていると思うのですね.(微笑)それは,「煩悩の火を吹き消した状態」と表現される「涅槃」のイメージであったり,六道を輪廻して衆生を救済するといわれる「菩薩」のイメージであったりしますが,それらを目標として目指すことが現実に達成可能か/およそ実現不能な生き方かどうかは埒外だというわけです.心頭滅却すれば火もまた涼しなどという状況は現実にはありえませんが,理想・虚構をそれ自体としてつきつけるという点では有効な言明だと私は思います.そして,宗教的真理の有するこうした理想や虚構としての側面は正しく押さえられるべきなのと私は考えています.

ですから,たとえば曽我さんが

3. 別次元の二つの真理の両方を認めようとも,神秘的体験に基づく宗教的真理に立つ人たちの主観をかえることは非常に難しい.彼らは別世界におり,建設的な対話を交わすことは相変わらずほとんど不可能である.しかし対話がほとんど不可能であるとしても,わずかでも可能性があるなら,譲歩せず,思い込みでしかない「宗教的真理」に対しては,学的実証的立場から批判を継続すべきだ.(曽我さん)

といった観点において,「六道を輪廻して衆生を救済するといわれる菩薩のイメージ」が実証的真理・科学的真理と矛盾すると仰られるといわれるとしたら,(仮定)私はこう答えたいと思います.

 「そうした存在例が疑わしく現実にはおよそ実現不能な生き方であることはある程度認める.しかしながら,私はそれを信じている.なぜなら,私はそれを価値あるものと認識しているからで,別にそれが達成不能であってもかまわない.」

同様に,私が次のように本文で述べたのは,そう私が考えているためです.(笑)

 どちらが劣っているとか優れているとかの問題ではない,文脈の異なる真理の並存を堂々と認めようではないか.神秘体験はこの文脈に成立する.そして神秘体験が成立するこの文脈があってはじめて,偉大な宗教が有する微妙な世界に親しむことができると僕は正しく思うのだ.〜『二重真理論』本文より
URL : http://www.telnet.or.jp/~hitoshi/txt-aph/sut002.htm

同様に,

4. 仏教の最高真理は、「無我=縁起」である.「無我=縁起」は,あらゆる世俗的・実証的・科学的真理と矛盾しない.万一,自立自存し永遠にかわらぬ自性をもつものが発見されたら,それは「無我=縁起」に対する反例であり,「無我=縁起」の真理性を崩壊させる.(曽我さん)

5. 『「無我=縁起」は,「実証的真理」と矛盾しない唯一の「宗教的真理」である』というわたしの主張も,実証性のない個人的な思い込みに過ぎないということになるのか?(曽我さん)

すべての宗教的真理が実証性を有すものでないこと/その必要がないことは,上の考察からおわかりいただけたと思います.

6. どうどうめぐりの不毛な水掛け論になるにしても,その対論をオープンな場で行うことによって,他の人たちが第3者の視点で判定できるようになる.当の対論者を説得することは難しいとしても,結果として,将来思い込みを理と信じ込まされる人の数を減らせる.(曽我さん)これについて.

これはいいことだと思います.「当の対論者を説得することは難しいとしても,結果として,将来思い込みを理と信じ込まされる人の数を減らせる.」というのがいいですね.このやりとりをご覧になった読者に何らかの良い影響を与えられたら嬉しいです.

以上をまとめます.

(まとめ)

 宗教的真理が如何に生きるべきかも教えるものなら,それが実証的真理と矛盾があっては,その宗教的真理は達成不能な生き方を教えるものになる.しかし,達成可能なものだけが宗教的真理ではないし,或る人----たとえば私----がそれを達成不能であってもかまわないと考えている現実がある.(仁)

以上になります.この考察が曽我さんのご期待に添えるものになったかどうか少々心配ではありますが,ひとまずここで筆を置きたいと思います.なお,私はあたりまえのことを口に出しているつもりで,形而上のことに口出しをしているつもりはありません.(笑)そうした向きがありましたらぜひご指摘なさってください.

                  大本山ヒマラヤ寺 館主 小林 仁
                  http://www.telnet.or.jp/~hitoshi/


小林 仁さんへの返事

                          2002、1、4、
拝啓

 返事遅くなってしまいました。

 年末年始、如何過ごされましたか?
 私は、テレビでアメリカの心温まるクリスマス映画を眺めながら、自分の「無我=縁起」という仏教理解の<身も蓋もなさ>をあらためて感じておりました。私の「無我=縁起」は、この映画のように人を暖かい気持ちにさせ、ゆるし、結びつけ、勇気づけることができるのだろうか?
 「無我=縁起」の理解に徹底して、底を突き破れれば、ひょっとすると可能かもしれない。でも、確実にそうなれるとは言い切れない。少なくとも、現状でははっきりと「否」だ。だとすれば、私の「無我=縁起」は、宗教としてダメなのではないか、、、。
 いやいや、こんなものは所詮映画産業の金儲けエンタテインメント、プロの脚本家と演出家の手になる計算されつくした感動販売のきれい事。宗教として見てはいけない。それが証拠に、これを生産し楽しみ消費する社会は、冬の砂漠を裸足で暮らす人たちに、仲間に向けるほどの暖かい眼差しを向けていないではないか、、、。
 相前後して一部分だけ見たアフガニスタンのドキュメンタリーと引き比べることによって<心温まるクリスマス映画>を貶め、それによって自らの「無我=縁起」の<身も蓋もなさ>を弁護しようとしていました。
 それにしても、こたつで焼酎を飲みながらこんな事を考えている私は、どれだけ立派なところにいるのでしょう? 冬の砂漠を裸足で生きる人たちの力になることもなく、だれひとり暖かい気持ちにさせ、ゆるし、結びつけ、勇気づけることもできないのに。

 せめて身の回りの人たちにきちんと感謝できる自分になろうと、それだけを思った次第です。

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 さて、では、<どうどうめぐりの不毛な水掛け論>に終わるかもしれませんが、頂いたメールで思ったことを書きます。

 「宗教的真理は、最高真理であるから、実証的真理・科学的真理とも矛盾があってはならない。同時に、宗教的真理は、いかに生きるべきかを教える」
 私のこの主張に応えて、小林さんは、宗教的真理の達成可能性について論考して下さいました。

 しかし、小林さんの挙げておられる例は、ガラスの着色にせよ、毛沢東にせよ、歯医者や水風呂にせよ、どれも道具的な真理だと思うのです。なにかの目的があって、そのために役立つ真理。だからこそ、その目的の達成が問題にされる。
 ですが、釈尊が発見され、教えて下さった「無我=縁起」は、最高真理であって、なにかのための真理ではない。勿論、「無我=縁起」を般若知で本当に知る、つまり自分(ノエシス)の無我=縁起まで知ることによって、<永遠の存在を錯定し対象化し執着すること>がなくなり、結果、自分と人とに無用な苦を作り出すことがなくなるというオマケ(御利益?)はついてくると思います。苦の滅が我々の発心の目的でもありました。
 でも、「無我=縁起」を知ることができたら、その時には、苦の滅はどうでもいいことになっているだろうと思うのです。「無我=縁起」は、苦の滅というような目的にも縛られない、それのみで完結する純粋な真理だと思っています。
 大乗の菩薩が、涅槃(=苦の滅)を拒否して、有情のために苦なるこの世に留まろうとするというのも、苦の滅がもはや目的としての意味を失ったからでしょう。同時に、菩薩においては一方では「無我=縁起」に導かれた新しい生き方が発動していると考えます。

 先のメールで、「「無我=縁起」は、如何に生きるべきかを教える」と書きました。ですが、その生き方を実現するために「無我=縁起」を知るのではありません。つまりその生き方が先に目的としてあって、それの達成のために無我=縁起が必要だとか要請されるという訳ではありません。「無我=縁起」を知った後、結果的に、オートマティカリィにその生き方(先のメールの(5)に書いたような生き方)へ導かれると考えます。

 しかし、その生き方は、厳密には「達成不能」であろうと思っています。漸近線のように無限に接近可能かもしれないが、永遠に達成不能な生き方。
 現象を存在として対象化し固定化し執着するのは、我々のDNAに染み付いた動物的・人間的自然なのですから、無我=縁起に導かれた生き方は、ほとんど自己の全否定であって、極めて達成困難、ましてやその生き方を一瞬も外れずに持続し続けることは、おそらく釈尊においても不可能だっただろうと思います。逆にいえば、釈尊が気持ちの揺らぎを持たず、例えば舎利弗の死別さえも縁に従って去っていくだけだと惜別を感じなかったなら、そんな釈尊は、もはや石と等しい無情なる現象であり、凡夫を教え導くことはできなかったでしょう。釈尊にも友の死を惜しみ悔しがる気持ちがあり、それを御自身で懸命にコントロールされていることを感じたからこそ、人々は釈尊を師と仰いだのだと想像します。
 私にとって、理想でありかつ親近感を感じることのできる菩薩像として、賢治の「雨ニモマケズ」があるのですが、実のところ、私にはとても「慾ハナク、決シテ瞋ラズ」 「アラユルコトヲジブンヲカンジョウニ入レズニ」という様にはなれません。といって開き直ってしまうのではなく、一進一退であろうとも時々でも思い返すように努め、せめて理想を意識することはなくさない様にしたいと思っています。いつか自分の無我=縁起をきちんと知ることができれば、ぐんと理想に近づけるのかもしれないと想像はするのですが、戯論をこねくり回している今のレベルでは、こんなところでの右往左往が現況です。しかしながら、この「達成不能性」は、けして「無我=縁起」の真理性を損なうものではないと思います。

 まわりくどい文になってしまいました。直截にまとめます。
 ・「無我=縁起」は、最高真理であり、実証的真理・科学的真理にも矛盾しない。
 ・「無我=縁起」が導く生き方は、厳密には達成不能かもしれないが、無限に接近可能である。

 (達成不能にして無限に接近可能な理想的生き方については、「あたりまえ、、」HPの意見交換、2000、10、12、「ユキオさん」のメールへの返事の「5)4つの状態と戒」(長いやりとりの一番最後です)も見て頂ければ幸いです。)

 一方、空中浮遊や、自分の過去生を思い出すという智(宿住随念智)や、有情の輪廻している様をありありと見るという智(死生智)などは、実証的真理・科学的真理に矛盾し、(無我=縁起にも反し、)達成不能な、単なる思い込みでありマチガイであると考えています。

 如何でしょうか、小林さんと私は、光のあて方が違うだけで、実は同じ事を見ていると感じるのですが?

 又ご意見をお聞かせ下さい。

                                   敬具
小林 仁様
                             曽我逸郎


小林 仁さんからの返事

曽我さんへ                        2002年1月10日

お手紙どうもありがとうございました.

お久しぶりです.寒い日が続きますね.曽我さんはお元気でしたか?私は実家に帰省して大掃除を手伝ったりしました.ほんと昨年は暗いニュースが続きましたよね.

 曽我さんからのご返信について

ごめんなさい.(笑)私自身の気持でいえば,曽我さんの否定されておられるかもしれない「宿住随念智」や「死生智」が成り立つような世界「も」私は信じているんです.本当に.(笑)その一方,どのような意見であっても,「客観的外界の法則性に合致するものは実現可能である,客観的外界の法則性に合致しないものは端的に実現可能でない」,との意見には客観性があると受け取っていますから,今回は以上を折中して,次のような議論を成してみました.

(本論)

「ある一信念は,それが客観的外界の法則性に合致したものなのかどうか実証的に確かめられるが,それが実証的見地以外の法則性に矛盾したものかどうかはその実証的見地からは確かめられない.」(仁)

どういうことかといえばこういうことです.まず,ご指摘いただいたような,「自分の過去生を思い出すという智(宿住随念智)や,有情の輪廻している様をありありと見るという智(死生智)」が成り立つのは,仏典という一種の形而上的な世界においてであり,この現実世界で第三者的にみられる現象ではないことから,これが実証的・科学的な真理に含まれないことは曽我さんにもご納得いただけると思うんです.

しかし,それは即座に「自分の過去生を思い出し,有情の輪廻している様をありありと見,彼らを救う者となろう」「有情は輪廻している,彼らを救う者となろう」といった信念が無効であることを意味してはいないと思うんです.少しご説明しますと,そうした信念がありえるのかどうかについて私たちがいえることは,それを決定する実証科学的な手段がどうやらなさそうだということや,実証科学的な手段を持たない一信念というものは,天地がどうひっくり返っても実証的・科学的な真理には含まれないということだけでしょう.そして,そればかりか,それらの信念が客観的外界の法則性に反すると最終的に証明されないかぎり,それらの信念は有効である,という合理的な物の見方が一方にあります.

たとえば,いつか日本一の植木職人になりたいと思っている若い職人がいるとします.彼はそうして夢をいだき,日々技術習得に勤しんでいるとします.その場合彼の信念は有効だといえるでしょうか.同様にして,「自分の過去生を思い出し,有情の輪廻している様をありありと見,彼らを救う者がある.私もそのようになろう」として----まあそこまで極端に考える方は少ないと思いますが(笑)----日々暖かい気持で他人に接しているものがいるとします.その場合彼の信念は有効だといえるでしょうか.

私は,それらの信念が何らかの手段によって実現不能であると最終的に証明されないかぎり,それらの信念は有効であると思っています.もっといえば,この現実世界においての実現や達成が疑わしい形而上学的な諸信念についても,それが最終的に実現不能と証明されないかぎり有効だと思うのです.

詳しく言えば,前回にみたとおり,「客観的外界の法則性に合致するものは実現可能である,客観的外界の法則性に合致しないものは端的に実現可能でない」を踏まえる必要はあるでしょうから,その場合,形而上の諸信念は実現可能であるかそうでないかのどちらかになります.その場合,その信念が実証的見地からの検証も反証も共に不能であるとしたら,いえることはこうでしょう.

   「信念には客観的外界の法則性に合致しないものもあるだろうが,実証的見地以外の法則性に反するかについては,その実証的見地からは確かめられない.」

ある信念が実証的見地以外の客観的法則性に反するかはこの段階では何もいえない,
だから態度を保留にして宗教の成立する曖昧な部分を残しておこうというのは,科学的・実証的な態度とも競合しない穏便な態度だと思います.どうしてこう議論がややこしくなるかといえば,経典や精神世界の教えというものはそもそもそれを信じるところに成り立つ一世界観という面があると思いますので,その記述を何らかの部分で信じるのなら,実証的見地以外の客観的法則性といったものが存在するのかといえば,「ある」と「信じるしかない」と思われるためでした.

さて,ではなぜ私はこのようにひどく回りくどい言い方をしたのでしょうか.その一つとして,曽我さんがユキオさんとの対話のなかで仰っしゃられていたように,「私は、大乗仏教によって仏教に導かれました」というのが私のどこかにもあるようです.初期仏教のテクニカルタームをこまめに定義していけば,釈尊時代にあったような仏教のプリメティブな姿に接近できるかもしれませんが,曽我さんの「冬の砂漠を裸足で暮らす人たち」という言い方をもじって言えば,その教えがリストラの砂漠をいくばくの収入でどうにか生きる人たちを力づけるとは思えません.

家を捨て放浪する修行僧になったり,一切の渇愛を絶つ修行を完成する生き方は世俗化が進んだ現代社会ではほぼ不可能ですし,「スッタニッパーダ」「ダンマパダ」などの初期仏典を虚心に読む限り,現実にはほぼ実現不能であるような消極的・反現実的・形式的な教えが多く散見するように思えます.それにひきかえ,大乗の「ぼさつ」たちが仏典の前面に出てくると,歴史的人物であった「ブッダ」は美しき理想人格の一つとして描かれはじめ,実現不能な点は変らないものの,それを読むものはその世界そのものを現実の理想的状況として受け取り,家を捨て放浪するものにはならず,よい物語を読んだ後のように,その世界を美しき世界の一つとして内面化することを覚えるでしょう.結果,その世界観・人生観は積極的・活動的であると思いますし,力がみなぎってきます.

こうした「ぼさつ」の世界観には,未来においても安心して伝えていける暖かいものがつまっていると思います.

つまりこうです.曽我さんの言い方を借りれば,「テレビの心温まるクリスマス映画」のような「人を暖かい気持ちにさせ、ゆるし、結びつけ、勇気づける」ような世界がそこにあると思いませんか.仏典に「未来に安心して伝えていける暖かいもの」を求めるとしたら,「ぼさつ」の世界観に行き着くのだと思いませんか.(笑)

(まとめ)

長くなってきましたので,まとめに入りたいですね.

今回はある一信念を,「それが客観的外界の法則性に合致したものなのかどうか実証的に確かめられるが,それが実証的見地以外の法則性に反したものかどうかはその実証的見地からは確かめられない.」との観点から擁護してみたつもりです.(笑)以上の議論に説明上の不備があればお知らせくださいませ.では失礼いたします.

(追伸)

手前勝手なことを申したかもしれませんが,私としては問題がよりはっきりしたように思います.「他人をどう救うか」の件についは,日を改めてお話いたしましょう.

                  大本山ヒマラヤ寺 館主 小林 仁
                  http://www.telnet.or.jp/~hitoshi/


小林 仁さんへの返事

 まだお出しできていません。しばらくお待ち下さい。

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