Libraさんより 梶山先生のお考えについて(岩井均臣様のご意見に) 2001,10,10,

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曽我逸郎様

前略

 ご無沙汰いたしております。

 HPをリニューアルしましたのでお知らせいたします。

NOTHING TO YOU
http://www.be.wakwak.com/~libra/
http://fallibilism.web.fc2.com/
 (07,9,23, URLの記載を変更。)

 誠に勝手ながら、「あたりまえのことを方便とする般若経」にもリンクをはらせて頂きました。前回の曽我さんと私との対話の記録も「曽我逸郎さんとの対話」と題しまして「雑記」のコーナーにアップさせて頂いております。

曽我逸郎さんとの対話
http://www.be.wakwak.com/~libra/z010.htm
http://fallibilism.web.fc2.com/z010.html (07,9,23, URLの記載を変更。)

 さて、今回「意見交換のページ」にアップされていた岩井均臣様のご意見を読ませて頂きまして、少し思うところがありましたので書かせて頂きたいと思います。

業報輪廻は仏教思想ではないということは大変重要だと思い、曽我さんに梶山先生の本を紹介した手前自分でもいろいろ読み返してみました。そしたら梶山先生は幾つかの論文ではっきりと「業報・輪廻の理論は説一切有部を中心とする小乗アビダルマ仏教独自の思想であって、釈迦牟尼自身の仏教や大乗仏教には決して見られないものである。」と断言されています。(浄土真宗教学研究所紀要第五号業問題特集、「業報論の超越」より)。また同じような内容の論文が「仏教と差別」という題で、創価大学・国際仏教学高等研究所・年報の第一号と第二号に、二回に分けて発表されています。
(岩井均臣様、http://www2s.biglobe.ne.jp/~i-soga/excha094.html)

 梶山先生は、『空入門』の中で、『因縁心論』の

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この世よりかの世に微塵ほどの事物も移り行きはしない。そうであれば輪廻の輪は誤った分別の習気によって生じさせられたものである。

(梶山雄一『空入門』、春秋社、1992年、p. 191を参照)

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を引かれて、

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龍樹は有部よりも一歩も二歩も進めて、この世からかの世へは微塵ほどのものも移りはしない、といいます。

(同上、p. 193)

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習気とは習慣性、潜在的な印象のことです。輪廻の観念は人の誤った判断にほかならない、というのです。

(同上、p. 196)

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 輪廻は夢のようなものです。夢はない、とはいえません。悪夢に苦しんでいる人にとっては、これほど深刻な事実はないでしょう。しかし夢から覚めたときに、人はそれが現実でなかったことをはじめて知るのです。それと同じように、私たちが迷いの生存を生きているかぎり、輪廻は事実です。しかし、さとったときにはじめて、私たちは輪廻が存在しなかったことを知るのです。

(同上、P. 196)

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などと言われており、ここでは輪廻転生説が批判されているようにも見えますが、「アーラヤ識と業報・輪廻」という御論文(岩井様が紹介されている「仏教と差別」の続編)の中では、

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 しかし、われわれは、アーラヤ識が無限の過去から、瞬間的な存在の継続的な流れを成し、変化し、発展し続ける下意識であることを忘れてはならない。はたして、『摂大乗論』は汚染を転回する正見としての世間を超えた心は、極めて清浄な法界から流れ出た、聞くことの熏習を種子として生ずること(最清浄法界等流正聞熏習種子所生)を語り始める。法界(dharmadha ̄tu)は法性(dharmata ̄)・真如(tathata ̄)、あるいは空性(s'u ̄nyata ̄)などと同義のものとして考えてよく、あらゆる存在の根源であり、宇宙的な真理の世界である。具体的には仏身あるいはその教法を意味する。それらは法界の起動したものであるからである。その法界から流れ出た真理、その教えを聞くことが、なお汚染されているアーラヤ識のなかに、染め付けられ、植え込まれた種子として、あたかも乳と水とが共在するように、汚染と共在する。聞熏習の種子は仏陀の法身の種子である。

(「アーラヤ識と業報・輪廻」『創価大学・国際仏教学高等研究所・年報』第2号〔1999年3月〕、p. 16)

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と言われており、唯識学派の上のような考えを「アーラヤ識という潜在意識を導入することによって、説一切有部の業論・輪廻の固定的・実体的な理論をみごとに解消した」、「仏教最高の哲学」(同上、p. 18)と言われています。
 しかしながら、このように「あらゆる存在の根源」を説くものが「仏教最高の哲学」だなどとは私にはとうてい思えません。梶山先生の言われる「業報論の超越」というものの正体は、実際には「非仏教(実在論)への転落」なのではないかとさえも思います。

 そもそも、「輪廻の理論」と「無我の教え」とが矛盾≠キるものであるということは、梶山先生御自身が、同論文においてお認めになっておられます。

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 輪廻はブッダの時代における沙門(苦行者や瞑想者)たちのあいだで論争の的であった。われわれは仏教の最古の経典から、ブッダが、行為とその果報との因果関係を強調したことは推理できるが、ブッダ自身が輪廻の理論を受け入れたかどうかを知ることはできない。というのは、現存する経典は数多くの後代の挿入を含んでいるからである。
 少なからぬ数の現代の学者たちは、ブッダは輪廻の理論を教えたはずがないと考えている。というのは、それは、輪廻の主体を否定している彼自身の「無我」(霊魂の無存在、ana ̄tman)の教えと矛盾しているからである。また、欲望と無知(無明)の克服である解脱、涅槃はこの世においても達成される、というブッダの理想とも相容れないものであるからでもある。それにもかかわらず、ブッダ亡きあとの仏教の教団はみな、個体存在はその前世における善あるいは悪の行為の果報として幸福あるいは不幸な生まれ方をする、という形での輪廻の実在性、事実性を主張した。このような状態の中で、仏教徒は、(1)永続する実体としての霊魂をもたない有情が、いかにしてこの世で死んで次の世に再生することができるのか、(2)無常な、ただちに消え行くはずの善悪の行為が、いかにして未来において幸福あるいは不幸な状態を作ることができるのか、という疑問について論じ合わねばならなかった。

(同上、pp. 3-4)

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だとすれば、「明瞭に異なれる二つの思想を調和させるということは、もともと不可能なことであって、問題となり得べきものでない」(和辻哲郎)のではないでしょうか。ブッダの「教えと矛盾」し、「ブッダの理想とも相容れない」ものを、梶山先生が「仏教最高の哲学」などと言われていることが私にはさっぱり理解できません。曽我様や岩井様のご意見をお伺いできれば幸甚です。

                                草々

    2001年10月10日           Libra(藤重栄一)

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○参考資料

輪廻思想と無我思想の調和は不可能(和辻哲郎)
http://www.be.wakwak.com/~libra/070.htm
http://fallibilism.web.fc2.com/070.html (07,9,23, URLの記載を変更。以下も同様)

釈尊は輪廻転生説を否定した(小川一乗)
http://www.be.wakwak.com/~libra/077.htm
http://fallibilism.web.fc2.com/077.html

波と海のたとえ─たとえ話の危険性(小川一乗)
http://www.be.wakwak.com/~libra/073.htm
http://fallibilism.web.fc2.com/073.html

五蘊無我説─有身見の否定(小川一乗)
http://www.be.wakwak.com/~libra/074.htm
http://fallibilism.web.fc2.com/074.html

「自性」の否定─『根本中論偈』の「自性の考察」(小川一乗)
http://www.be.wakwak.com/~libra/086.htm
http://fallibilism.web.fc2.com/086.html

輪廻思想は仏教本来の思想か(舟橋尚哉)
http://www.be.wakwak.com/~libra/078.htm
http://fallibilism.web.fc2.com/078.html

三時業説批判(角田泰隆)
http://www.be.wakwak.com/~libra/079.htm
http://fallibilism.web.fc2.com/079.html

輪廻説は仏教ではない(Libra)
http://www.be.wakwak.com/~libra/z006.html
http://fallibilism.web.fc2.com/z006.html

タツノコさんとの対話(Libra)
http://www.be.wakwak.com/~libra/z015.htm
http://fallibilism.web.fc2.com/z015.html

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Libraさんへの返事

                     2001年11月27日
Libra様  CC:岩井均臣様

拝啓

 返事遅くなり、申し訳ありません。このところ長めの出張やら、残業やら多くて、じっくり考える時間がとれませんでした。(毎回いろんな理由を挙げて言い訳しています。)

 Libraさんに挙げて頂いた参考資料、すべてプリントアウトいたしました。岩井さんからも、「アーラヤ識と業報・輪廻」を含む梶山先生の論文を4点お送りいただき、あわせて読んで、正直な所、勇気づけられました。これまでいろいろな先生方の本を読み齧ってつなぎあわせてきた私の仏教理解を、頂いた沢山の論文は大筋で承認してくれているように感じましたので。
 特に「輪廻と仏教は相容れない」という考えに関しては、お二人に輪廻論者と戦うための武器を弾薬庫に山のように積み上げて頂いたような気持ちです。

 さて、では、Libraさんが問題提起された、梶山先生の論文「アーラヤ識と業報・輪廻」について、感想を書きます。

 私もLibraさん同様、何個所か異議を唱えたくなる箇所がありました。主に唯識の主張に対してです。そして、そうした唯識の考えを賞賛されているいる梶山先生にも、あれ、と感じました。
 実は私は梶山先生の講義を受けたことがあり、本も随分読み、私の仏教の勉強の最初の先生といってよい方ですし、私などには何も言えることのない大先生ですが、感じたことをそのままご報告して、Libraさん岩井さんはじめ、皆さんの御批判を頂こうと思います。

 最初に、Libraさんが「アーラヤ識と業報・輪廻」から引用された個所を恣意的に抜粋します。

 「アーラヤ識は無限の過去から、瞬間的な存在の継続的な流れを成し、変化し、発展し続ける下意識である。汚染を転回する正見としての世間を超えた心は、極めて清浄な法界から流れ出た、聞くことの熏習を種子として生ずる。法界は法性・真如、あるいは空性などと同義のものとして考えてよく、あらゆる存在の根源であり、宇宙的な真理の世界である。」

 この<アーラヤ識>を、<いまだ低レベルの我々自身の霊>とし、<法界>を<霊界>と読みかえて見て下さい。かつてメールを下さった何人かの心霊主義の方々の主張とほとんど同じになってしまいます。<清浄なる根源・宇宙的真理と、それを分有するけれど不完全であり輪廻しつづける我>という構造はまったく同じではないでしょうか。心霊主義の方々は、けして「無我」を認めず、「あらゆる世俗的自我は我ではない(非我である)が、本当の我(霊)はある。それを高めていく事が修行であり、我々の為すべき事である」と主張する有我論を主張しておられます。 梶山先生は 「アーラヤ識は、霊魂のような実体とは似ても似つかない存在である」と書いておられるのですが(同論文、「創価大学・国際仏教学高等研究所・年報」第2号P15)、私にはかなり似ているように思えます。
 もしも「阿頼耶識は常に変化しているから実体ではなく無我である」というなら、心霊主義の霊も、あるいは向上しあるいは堕落する存在であり変化する点では阿頼耶識と同等です。「瞬間的な存在の継続的な流れ」という表現も、縁起を意識しつつも心情的には実在論を引きずっているように感じます。私もLibraさんと同様、阿頼耶識をはじめとする唯識の見方は、実在論的傾向が強いと考えます。少なくとも実在論的誤りに人を導きやすいものであることは間違いありません。

 また、同論文に、梶山先生は、唯識における空について、瑜伽師地論を訳しておられます。(同年報P10。以下、曽我なりの要約)
 「BがAに存在しない時、AはBとして空であると正しく見、そこに残されている「余れるもの」はあると如実に知る。物質という仮説された言葉の本質は存在せず空であるが、言葉の仮説の基体は「余れるもの」として存在する。存在しないものをありと妄想せず、実在するものをなしと否定せず、如実なる真如を「云い表し得ない実在」としてありのままに知るならば、これこそ正しく洞察された空性である。」
 更に要約すれば、<言葉によって対象化されたものは空であるが、その基体として言葉によっては言い表し得ない真如が実在する。>と唯識は主張しているようです。

 唯識は、中観の空を「すべてを否定する悪取空(間違った空理解)」だといって批判します。しかし、私には、唯識は中観の空を理解できておらず、唯識の方が空を反対の方向に悪取しているとしか思えません。唯識においては、「空」でさえ、名詞化され、対象化され、実在化されていきます。「空性は存在する。」「ここに余れるものがあるが、それはここに実在する、と如実に知る。」というように。(同年報P11、中辺分別論と世親の注釈の梶山先生の訳文より)
 最近、竹村牧男「唯識の構造」(春秋社)を読みましたが、真如や阿頼耶識などが究極の存在として実在する、といった表現がいくつもでてきました。そしてしばしばその後には、「ただし、言葉の仮説でそういうのであって、本当は空であることを忘れてはならない」というような注釈が付け足されていました。まるでこの注釈をつければ、空と正反対の事をどれだけ言っても許されるかのように。しかし、いくら注釈をつけようが、実在化の傾向は否定しようもない。勿論最初は、「云い表し得ない実在」をなんとか言語化しようとする試みだったのだろうとは思います。しかしそれが時を経て、対象化、実体化、絶対肯定のみが増殖し、真如・法性などの仮説の観念が実体視されるに至り、すべては真如の現れ、反映であるとして、他の有情のあらゆる悲惨も自分の欲望・執着も、世の中に現れたなにもかも一切合財を肯定する論理への道が開かれていったのだと考えます。
 釈尊が「無我=縁起」を発見され執着を吹き消す術を見出されたのに、有部は「認識の対象は、過去・現在・未来を問わず実在する。因果が時間の中で成り立つためには、物事は過去・現在・未来を通して実在せねばならない」として、実在論に堕落しました。それを中観は空によって正しい釈尊の仏教に引き戻そうとしたのに、唯識が再び実在論に走り、以降の大乗仏教は、何もかも許し全肯定する論理に堕落し、宗教としての生命を失う結果になった。「仏教」の歴史は、<無我=縁起、空>の側と、実在論(真如、仏性遍在論)の間の綱引きだったと思います。そして、残念ながら正しい仏教が優勢であったのは、釈尊の時代と、龍樹を中心とする中観のピークの時期の2回だけで、「仏教」の歴史のほとんどは、実在論=反仏教でしめられているような印象を持っています。(本当に印象に過ぎないので、文献学的に証明せよ、といわれたら困ってしまうのですが、、)

 ところで、先の梶山先生の訳の、「BがAに存在しない時、AはBとして空である」とか「基体」とかの表現は、どこかで読んだ覚えがある、確か、松本史朗先生の「縁起と空」(大蔵出版)の筈だとページを繰ってみると、P337に梶山先生の訳と同様の内容が、まったく逆の否定的評価で書かれています。「超基体(B)の無・非実在性の主張とは裏腹に、必然的に基体(A)の有・実在性を強調することになり、唯識思想においても、如来蔵思想においても、”むなしさ”とは似ても似つかない実在論と楽天主義を生じてきた」(松本)
 松本先生のこの論文「空について」は、梶山先生の空解釈に対する批判から始まっています。「縁起と空」は、梶山論文の10年程前に本になっているので、「アーラヤ識と業報・輪廻」を書かれた時、梶山先生はご存知だったろうと想像しますが、ここでは言及されていません。梶山先生の側から松本先生の主張を論評した論文はどこかにあるのでしょうか?
 また、仏教における差別の原因について、梶山先生が業報輪廻、特に業報を問題にされるのに対し、松本先生はじめ批判仏教グループは、天台本覚思想や如来蔵思想などの根源実在論が差別を生み出したとしています。ここにも意見の対立があるのですが、どこかで相互批評はなされているのでしょうか?
 はじめに書いたように、梶山先生は私の最初の先生です。一方松本先生は、お会いした事はないけれど、数年前に本を読んで以来大きな刺激を受けているので、最近の先生といっいい方です。今は松本先生の影響を受けすぎているような気もするので、梶山先生の側から松本批判の論文があれば是非読みたいと思っています。

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 読み返してみると、唯識への文句ばかり言いたててしまったようです。
 世界がどうあるかについてはともかくとして、我々が世界をどう見ているかについては、唯識から学ぶべき点も多いように実は思い始めています。「刹那滅しながら直前までの行いの業を引き継いでいく阿頼耶識」という考えは、そのまま受け入れはしませんが、我々のあり方について考えるヒントを与えてくれるかもしれません。「無始以来輪廻しつづける阿頼耶識」という考えは頂けませんが、生まれてから死ぬまでの間は、縁を受けて変化しながら個別性も維持していくそのつどの現象なのですから、それを阿頼耶識のような実体化の誤解を招きかねない言葉を使わず、しかも、発心も可能な主体性を有する現象として考えることは可能でしょうか。否定ばかりではなく、批判的であれ学べる点は学んでいこうと思い始めています。

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 最後に、もうひとつ、もしご存知なら教えて下さい。「創価大学・国際仏教学高等研究所・年報」第1号の「仏教と差別」冒頭に、梶山先生は、「<個人的・人間的な倫理の批判と動植物や自然環境をも含む宇宙的な立場からの新たな倫理の確立>について講演をしたが、その出版は機会を待って行いたい」と書いておられます。その論文は、もう出ているのでしょうか?
 津田眞一「アーラヤ的世界とその神」(大蔵出版)で、「大乗は自然礼賛的だが、釈尊の仏教は反自然であり、両者は相容れない」という考えを読んで以来、自然をどう見るべきか気になっています。私は、今でも動物や植物や自然を見ることが好きですし、若い頃悪い状態を抜け出せたのは、自然へ自分を開くことによってだったと思っています。しかし、それは、釈尊の仏教に反する実在論的万物肯定論につながっているのか? 私の仏教理解は釈尊の仏教に反するのか? 梶山先生が自然をどう考えておられるのか、参考にしたいと思います。もしご存知でしたらお教え下さい。

 ご意見ご批判もまたお聞かせ下さい。宜しくお願いします。

                                  敬具

                                曽我逸郎

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