山下宗純さんより  はじめまして  2001,8,6,

       ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
はじめまして。
アンケートを送ろうとしましたが、うまくいかないので、メールにします。

とても興味深く読ませていただきました。
また、このような試みはとても有意義なものと感じました。
さらに、あなたのお人柄にも感動しました。

私は、仏教の宗派にも属していません。
ただ、キリスト教徒が聖書を読むように、
木津無庵「新訳仏教聖典」(大法輪閣版)を、ずっと読んでいます。
各宗派の考え方と、偉い学者の先生方の考え方が、
私の中に入ってくるのを、少しでも避けながら、
仏教を学びたいと思っているからです。

今後もがんばってください。
応援してます。
ただ、私は仏教の専門知識がないので、何のお役にも立てませんが。
みなさんとの質疑応答はとても難しい内容で、
私には何のことだかわからないことが多いです。

これは、単なる応援メールです。
そんな価値がないとは知りつつ、
私のメールを公開しないようお願いします。

(以下略)

(曽我注記:何度かやりとりの後、仏教に関連する部分だけ掲出することにご了承頂きました。)


山下宗純さんへの返事

                            2001、8、7、

 応援メール、ありがとうございます。

 強がってはいるものの、2600年の仏教の歴史は広く深く、実に多様な展開があり、それに比べると私の仏教解釈は浅薄で味も素っ気もないもののように感じられることがしばしばです。釈尊のお考えのエッセンスに当たらずとも遠からざるところに、私は向かっているのでしょうか? それともとんでもない勘違いをしているのか? 歩いているうちにやがて分かると信じて歩き続けるしかないのでしょうね。

 木津無庵「新訳仏教聖典」(大法輪閣版)、私は読んだ事がありません。このところよく皆さんにおもしろそうな本を教えて頂くのですが、怠けぐせがついてちっとも読み進めません。
 ただ、いろいろな宗派や様々な先生方、私をはじめとする変な奴等の言っている事は、お避けになるより、読みかじり聞きかじって比較された方がいいと思います。如何に相容れない様々な見解が同じ仏教の名の元に流通しているか。それを見渡す事で、正しい仏教が自ずと浮かび上がってくると思います。
(一部略)

 今後ともよろしくお願い申し上げます。是非またご意見ご感想ご批判ご質問、お聞かせ下さい。

                             曽我逸郎


山下宗純さんから

                          2001年8月9日
曽我逸郎 様

ご指摘ありがとうございます。
謙虚に受け止め、考えてみます。
ただ、各宗派・諸学者の考え方を、
過去一切避けてきたわけではありません。
現に、あなたのページを読んでいます。

<如何に相容れない様々な見解が同じ仏教の名の元に流通しているか。
それを見渡す事で、正しい仏教が自ずと浮かび上がってくる>
確かにそうなのかもしれません。
ある宗教の教えが時代とともに変化してゆくのは、
そうなるべき理由があるはずですから。
<正しい仏教>というお言葉を、今の時代でのあるべき仏教、
という意味でお使いなら、そうなのかもしれません。

(一部略)
過去からの伝統のある宗教や新興の宗教に対して、
興味が少ししかわかないのは、
指導者の方々の生活ぶりなのです。
全員そうだと決めつけることはよくないとは、
わかっているつもりなのですが。
(一部略)
りっぱなことを言っていても、
高価な衣をまとっていたり、
オフになればリッチな車に乗っていたり、
自宅兼寺院が超りっぱだったりすると、
それを難しい理屈で正当化されても、
「ああ、そうですか。」と、
反論する気も萎えてしまいます。
仏教もキリスト教も、はじめの頃の指導者は、
ホームレスに近かったんじゃないですか。

少し角の立つ表現になってしまったかもしれませんが、
ご容赦ください。

(一部略)

今後のご活躍を応援します。

                            以上


山下宗純さんへの返事

                         2001,8,22,
拝啓

 返事遅くなりました。先週は家族の元に帰っていて、メールを見られない状態でした。

(一部略)

* 「正しい仏教」と「時代」について
 私は、正しい仏教とは無我と縁起の教えであって、それは、時間も場所も超越した普遍的なものだと思っています。極端に言えば、人間とコミュニケートできる宇宙人が現れて、彼が自分で突き詰めて考えてくれるなら、彼にも理解可能な教えだと思います。
 ただ、釈尊の教えそのものは超時代的・超地域なのですが、それを分かりやすく伝えるための方便は、聞く人の時代と地域に、あるいはその人毎にふさわしいものがあり、それを選ぶ事が重要ではないかと考えています。「あたりまえ、、」は、私の考える「正しい普遍的仏教」を、現代にふさわしい方便で説明してみようとする試みです。
 また、私は、「仏教」といわれたり自称するものの中には、ただ方便が独自なだけではなく、教えそのものが仏教と異なるもの、すなわち反仏教がたくさんあると思っています。しばしば「仏教の山は巨大でどこから登り始めても最後には同じ頂きにたどりつく」といわれますが、嘘だと思います。方便の違いだけならそうでしょうが、反仏教の山にとりつけば正しい頂きには行き着きません。
 「無我と縁起こそ正しい仏教だ」という私の主張も、果たして正しいのか? それもこれも一切合切含めて、疑り深くじっくりと批判的に見て頂ければと思います。

(一部略)

* お寺
 確かにお寺は変ですね。友人が京都の外れのお寺を継いだのですが、祇園(スダッタ長者が釈尊に寄進した僧園ではなく京都東山の)での宴席の話をするので、そんなとこにいくのかと尋ねたら、石屋(墓石屋)の接待だといっていました。(友よ、断片的に変な話だけ持ち出してごめん!)
 どの宗派にしても、人々に一番身近な筈の末寺では葬式と法要しかしていないし、せっかくのお経も呪文のように唱えるだけで仏教の教えを語る事もない。最近はだんだんと説法めいた話もするようになっているようですが、仏教というより大抵は世俗の道徳のレベルで、尊敬できるお坊さんに出会える事はめったにありません。死んだ人のフォローだけを片手間にやって、本業は幼稚園や駐車場や別の仕事というリッチなお寺が多いと私も感じます。
 RY(曽我注記:山下宗純さんが最初使っておられた名前)さんのご意見に私もまったく同感なのですが、ただ、でも、十把一絡に否定するのではなく、意見を聞くに値する方々もいらっしゃるので、できるかぎり個々に判断するよう努力していきたいと思います。金持ちにも軽蔑すべき人と尊敬すべき人がおり、貧乏な人にも軽蔑すべき人と尊敬すべき人がいます。そしてさらに、軽蔑されてきた人がいざという時尊敬すべき行いをし、尊敬されてきた人がいざという時軽蔑すべき行いをするという事もしばしば起こる事で、評価を決め付けてしまうと、それは一種逆向きの執着のように思います。

 なんだか脈絡のないメールになりました。すみません。
 また是非ご意見をお聞かせ下さい。

                                  敬具
RY様
                                曽我 逸郎


山下宗純さんから

                          2001年8月24日
曽我逸郎 様

メールありがとうございます。

(一部略)

<「仏教」といわれたり自称するものの中には、ただ方便が独自なだけではなく、教えそのものが仏教と異なるもの、すなわち反仏教がたくさんあると思っています>
私も感じます。
「・・宗」ではなく「・・教」と名乗るべきだよなあ、と思うものがあります。

<正しい仏教とは無我と縁起の教えであって、
それは、時間も場所も超越した普遍的なものだと思っています>

「無我と縁起」という概念が妥当する状態(世界)のみは無常ではないという、
矛盾は生じませんか?

各派が生じたのは、生じる理由があったのではないですか?

世尊のそのときどきの言葉は、
その瞬間での世界のたくさんの縁によるものではないですか?

その後の各派の主張も、
本当に世尊が説いたことを少しは含む伝承を含む
その瞬間での世界のたくさんの縁によるものではないですか?

曽我さんのおっしゃる<正しい仏教>のメルクマールは?

<評価を決め付けてしまうと、それは一種逆向きの執着のように思います>
「逆向きの執着」という言葉の意味は、正直よくわかりません。
雰囲気的にはなんとなくわかって、たぶんそうだ、と思えるんですが。

あんまり曽我さんを煩わせないように、とは思っているのですが、
ちょっと気になったもので。

お時間のあるときに、教えてください。

(一部略)
                            以上


山下宗純さんから

                         2001年9月24日
曽我逸郎 様
                          山下宗純

ごぶさたしています。
お元気で活躍しておられますでしょうか。

(一部略)

ところで、ホームページを開設しました。
無料ページなので、広告がうっとおしいのですが。
http://page.freett.com/ry/(曽我注記:リンクのページから飛べます)
お時間のあるときに、お出でください。
かなり、独断が入っています。
「ここはへんだ。」など、
謙虚に聞く耳をもちます。

曽我さんのページへリンクをはらせていただきました。
コメントに間違いがあれば、言ってください。
最優先で修正します。

お忙しいとは存じますが、
ご教授のほど、よろしくお願い申し上げます。

                             以上


山下宗純さんへの返事

(曽我注記:山下さんは私と同じ名古屋にお勤めで、昼食をごいっしょしました。アフリカ音楽のDJをなさっていたそうで、ワールドミュージックにも造詣の深い方でした。)

                        2001、10、13、
拝啓

 先日はありがとうございました。久しぶりに楽しい昼食でした。

 教えて頂いたミリアム・マケバ、さっそく買い求め、懐かしい声を聞きました。ただ、パルコに一枚だけあったのが2000年制作のCDで、彼女も年を取ったのか、あるいは南アの政治状況が好転して角が取れたのか、十数年前に買ったテープよりも押し寄せてくるパワーは落ちているような気がします。彼女の一番脂の乗った時期はいつでしょうか? 一番聞きたい「アルタコンチヌーア」も入っていなかったので、もう少し古いCDで、それの入ったのを探してみようと思っています。

 さて、では、肝腎の仏教の話題に移ります。
 ホームページ拝見しました。山下さんにはマゾの気があるのか、どうも批判を望んでられるようなので、わざと辛口の味付けをします。お口に合えばよいのですが。

 まず最初に、感心したのは勉強量です。これは端的に参考文献の充実ぶりを見ても明らかです。私の知らない仏教史上のエピソードも教えて頂きました。
 ただ、文体は、敢えて昔の出来事の外面だけに終始し、釈尊や弟子の方々の内面には踏み込まないようにされているようにも感じました。釈尊や弟子の方々というより、山下さん御自身の内側を読まれないようになさっているのかもしれません。山下さんにとっての仏教、これまで仏教に何を教えられ、今仏教に何を問おうとなさっておられるのか。これだけ勉強を続けてこられた山下さんですから、単なる知的興味だけではないと思います。そのあたりにも踏み込んで頂ければ、読む側の私たちにとっても、山下さんにとっても、もっと刺激に充ちたものになるのではないかと思いました。

 (このあたりで、粗塩をひとつかみ加えます。)

 「お釈迦様の教えは、実は、とても簡単です。」と書いておられて、その「教え」を「ゴーダマ・バガヴァットの法(法=ダンマ=ダルマ)」のコーナーに箇条書きで書いておられます。箇条書きというスタイルのせいなのでしょうが、羅列的であって体系性にはやや欠ける面があるように感じました。
 箇条書きの一番に、
「1. 基本は心(心=チッタ=ナマス)だと認識する」
を置いておられます。
 仏教の「基本は心」とお考えなら、それを出発点として全体のつながりをつけて頂いて、体系的な仏教の樹を描いて頂けたらと思います。体系どうしを戦わせ、研鑚し合うことによって、仏教理解を深めあうことができると考えています。

 私にとって仏教の第一原理であるところの無我(=縁起)についていえば、山下さんは、どちらかというと無我ではなく非我と考えておられるようです。そのことはいいのですが、以下のような主旨の御発言には疑問を感じました。
 <無我の主体はなにか等の問いを論じていく中で、仏教は難解になった。釈尊御自身は難しい論戦には参加していない。だから、こういった無用の難題にかかわる必要はない。>
 私は、釈尊は、先生のように振る舞っておられるのだと思います。
 「さあみんな、どう思いますか、どう考えますか。あなたたちが自分、自分、と呼んでいるもの、それは何ですか? みなさん、考えて下さい。」
 生徒である私たちは、先生から問題をもらったら、一所懸命考えて、一所懸命考えた結果の自分なりの答えを提出しなければなりません。
 「先生は問題を出されただけで、答えはおっしゃらなかった。答えがあるなら、先生は教えて下さっただろう。教えて下さらないということは、答えはないということだ。クラスの他の連中みたいに議論しても無益だ。先生に習って、答えを出さないのが正しい答えだ。」
 これは果たして正しい態度でしょうか? 難解でなければならないといっているのではありません。でも難解にならざるを得ない場合は、難解を恐れてはなりません。自分とはなにか、それぞれが自分のスタイルで主体的に懸命に考えていかねばならないと思っています。

 (ここでさらにカレーパウダーを大さじ一杯。)

 もう一点、心について、私が最近考え始めたことと相違があると感じたのは、
 「自分の心から執着・我執を取り除き、真の心に到達します。」
というお考えです。
 確かに、仏教には「心は本来清浄であるのに、言葉や執着がそれを乱し汚している。元々の清浄な状態に戻ることが解脱・悟りであり、それによって苦を脱することができる」と考えるひとつの有力な流れがあります。しかし、「今は歪められている本来の正しいあり方」を想定する考えは、無我の教えが否定している実体論的思考パターンではないでしょうか。
 我々は、時に応じ縁に応じてさまざまなあり方をしています。それらは、すべてその時々のあり方であって、時間的にも構造的にもどれが本来的だとか、どれが後から客塵に汚された非本来的あり方だとか、そういう区別はあり得ない。そういう意味では、すべてのあり方は横並びです。
 勿論、苦を拡大再生産するあり方と、苦を吹き消し苦を抜いていくあり方の区別はあります。この区別にならって言うなら、私たちは、過去一貫して苦を拡大再生産してきたのであって、かつて一瞬たりとも「天然自然の清浄なるあり方」などなかったのではないでしょうか? (このあたりに関してはHPの小論集、「人無我を説く方便の試み。その2:動物進化と自己意識の発現」も御一読下されば幸いです。稚拙で未消化な内容で恥ずかしいのですか、「本来清浄な心」など、系統発生上も個体発生上もどこの過去にも位置づけることはできないという私の思いを理解して頂けるのではないかと思います。)「本来清浄な心」は、言葉による単なる観念上の想像物にすぎません。
 苦を吹き消し苦を抜いていくあり方は、過去にあったのではなく、自分という現象の現象の仕方を一瞬一瞬整えていく努力を続けていくことによって、未来に実現すべきものだと考えます。苦を吹き消し苦を抜いていくあり方は、「さかしらなはからいを捨てれば自然に回復される本来的清浄心」ではけしてなく、努力を積み重ねて未来に実現し努力を続けて維持する人工的なあり方だと考えます。

 「はからいを捨てて本来の自然な清浄心を回復することが仏教だ」とする解釈が躓きの始まりで、その延長線上には、自分の動物的自然=欲望と人間的自然=執着を容認肯定し、他人の苦は「縁起の定め」と等閑、座視する大乗仏教の「最も進化した姿」があるのではないでしょうか? 大乗仏教の内包するこの落とし穴が、大乗仏教が(ほとんど)滅びてしまった原因であるような気がしています。

 満足頂ける辛さだったでしょうか?
 またご意見お聞かせ下さい。
 いい音楽の聞ける飲み屋にもごいっしょして頂けるとうれしいです。
 ではまた。

                               敬具

山下宗純様
                              曽我逸郎

追伸:頂いているメール、仏教に直接関係ない部分は割愛しますので、HP「意見交換」に掲出させて頂けませんか? 宜しくご検討下さい。


山下宗純さんから

                          2001年10月13日
曽我逸郎 様
                            山下宗純

いろいろなご指摘、ありがとうございます。

ミリアムマケバは、確かに、新体制の発足後、
変ってしまったような気がします。
やはり、アパルトヘイトへの闘いの真っ最中のころの方が、
パワーがあったと思います。

体制への闘いのパワーは、フェラクティの音楽にもあります。
特に、70年代の演奏が、力強いです。
彼のレコードは何百枚も出ていて、CDも、たくさん出ています。
彼の音楽をたくさん聴いていただければ、おわかりになると思いますが、
どれがいいかというのは、人それぞれなのです。
私は、No Agreement が好きですが。

さて、辛口の批判は、確かに求めています。
仏教に限って言えば、私のまわりに、
私に対して辛口批判をしてくれる人が、いませんので。
(一部略)

読んだ本の量と、知識とは、比例していないと思います。
一度しか読んでなくて忘れてしまったことが無数にあります。
理解できていない箇所が膨大にあります。
消化不良の箇所も、膨大にあります。
それらの部分は、知識として私に残っていないのですから。

<釈尊や弟子の方々の内面には踏み込まない> のは、意図的です。
未だに、内面が、わからないからです。
(一部略)

内面に関わらない態度で、
内面の記述から、自分の内面をさぐられるのを、避けているのは、
当っています。
「お釈迦様の教え」教団の開祖、などと誤解されないように、
留意しているのも、事実です。
従って、読む人を引き込むような記述は、あえて避けています。

「ゴーダマ・バガヴァットの法(法=ダンマ=ダルマ)」は、
付け足しの、目次のようなつもりでした。
執筆中の「ノート」で、体系的にあるいは時間的に、
きちんとさせようと思っていました。
この「ノート」のアップは、まだまだ先になります。

世尊は、<自分とはなにか>ではなく、
自分は何をすべきか、を説いていたと思います。
自分とは何か、という問は、
後世に、無記というテーマがまとめられたときに、
本当は入れられるべきだったのが、
たまたま、その時代には、バラモンの思想のレベルが上がり、
仏教も、それに対抗する必要があり、
論じることを、避けられなかったため、
無記には入れられなかった、と思います。
いまの私たちには、バラモンに対抗する必要はありませんから。

私の言う「真の心」とは、仏性ではありません。
無数の因の中に、執着方向の因が少なければ、
縁起により、そのときどきにあらわれる心が、
より真の心に近づきます。
縁起を超えた、本来の心などというものは、
考えられません。
汚い衣を脱ぎ捨てるように、執着を取り去れば、
本来の心が、そこにあらわれるのではなく、
汚い衣を脱ぎ捨てるように、執着を取り去れば、
そのときの心の因に、執着が含まれない、という意味です。
仏性や如来蔵を、私は否定します。

縁起を究極まで詰めれば、何も成り立ちません。
以前のメールで書いたように、
縁起の妥当する世界そのものが、一時のものとなります。
縁起の理論そのものも、変らざるをえません。
従って、世尊は、そのレベルには、縁起を説いていません。
世尊は、これに準ずるレベルで、自我を考えていると思います。
非我・無我の主体である自分が、
最後に残るかどうか、はじめにあるかどうかは、
世尊にとっては、無記です。
仏性という意味の自我ではなく、縁起の世界での自我、
これが、世尊の扱う「心」です。

今回の曽我さんのご指摘は、だいたい理解できました。
その上で、私の考えが、曽我さんの考えと、
表現としては、かなり違っているものの、
逆に、近い部分が多いのではないかと、思いはじめました。

私も、縁起が根本と考えています。
ただし、究極まで適用すると、「人間万事塞翁が馬」となってしまう。
世尊の言うように、自分が正しいと思うことをするしかない。
無数の因のうちの制御可能なものの質を向上させ、果を向上させる。
無常は、縁起の一面の言い換えにすぎない。
無我・非我については前述のとおりです。
私は、非我=真の心≠仏性、と思います。

まだまだ辛くしていただいてかまいません。

音楽を聴きながら飲める店は、少し知っています。
ただ、ランチではお互い難しいですよね。
仕事の後や、休日に、お時間があるときには、お知らせください。

意見交換のページと、リンクのページの件、ありがとうございます。
ぜひ、よろしくお願いします。

(一部略)

私のホームページは、できるだけ頻繁に、
「雑記」を更新していくつもりです。

またときどき、お寄りください。

                            以上


山下宗純さんから

                     2001年10月14日
曽我 逸郎 様
                        山下宗純

昨日はメールでのご教授、ありがとうございました。
ご指摘を受けた私のサイトの「教え」のページを改良しました。
わかりやすくしたつもりですが、
ただ、たくさん勉強している人向けのものではありません。
お時間のある時に、お読みくださると、ありがたいです。

さらなる激辛のご批評を、期待しています。
                         以上

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