岩井 均臣さんより  はじめまして  2001,9,25,

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大変楽しく「あたりまえ」の般若経を読ませていただきました。感想として大乗仏教の根本立場である、「縁起」している世界はダイナミックに変化し続け、あらゆるものはとどまることがない、とどまることのないものに固定的な「我」はない。だからあらゆるものは現象にすぎず、本来「空」であると。しかし本来の変化し続けている世界を私達は「言葉」によって固定づけ、分別し「苦」をまねく。だから実践論として禅定の習修によって分別の世界を離れよ、苦悩する衆生と共に菩提を目指せ。と言うことが物語り仕立てで語られているのだと思いました(違ってたらごめんなさい)。説としてはとりたてて変わった仮説とは思いませんし、初期インド大乗の思想そのものだと思います(申し訳ありませんが新鮮味は感じませんでした)。しかし曽我さんの求道の過程がありありと伝わってきました。経典には非仏教的要素がたくさんまぎれこんでいて、批判的に読み、自分自身の問題意識をしっかりぶっつけていく姿勢には敬服いたします。私としては曽我さんが明らかにされている初期インド大乗の思想が現代日本の苦悩している衆生にどう伝わり、理解されていくのか、また私自身の救いとなりうるのか深く考えています。いくら素晴らしい教えでも私の拠り所とならないのなら「絵に描いた餅」となってしまいますから。中国や日本の祖師方も大変な思いで釈尊の教えによって悟り、救いを実現しようと求めていき、名も無き仏弟子一人一人の足跡がまさに仏教の歴史なのだと思います。私も曽我さんもまだ機縁の熟していない人達もみんなが主体的に仏道を歩み続けることが大切だと思います。またメールします。大阪府 浄土真宗本願寺派僧侶 岩井 均臣(31才)


岩井 均臣さんからの追記 2001、9、26、

「輪廻」を明確に否定されている仏教学者はほとんどいないとのことですが、文献批判が中心の仏教学では輪廻否定は困難と思います。もう当然ご存知の書物と思いますが、「空」思想と「輪廻」「浄土」「廻向」に詳しいものに、梶山雄一先生の人文書院からでている、空の思想、菩薩ということ、輪廻の思想、「さとり」と「廻向」の4冊と中公新書の般若経などがあります。ではまた。


岩井 均臣さんへの返事

                            2001,10,1,
 拝啓

 メール拝受致しました。有難うございます。
 本職の僧侶の方からのメールは初めてです。

>説としてはとりたてて変わった仮説とは思いませんし、初期インド大乗の思想そのものだと思います(申し訳ありませんが新鮮味は感じませんでした)。

 そうですよね。アンケートでも「正統的」といっていただきましたし、私自身も、仏教のあるべき流れからそうはずれていないところに乗っているつもりではあるのですが、「仏教」と言われる流れは、あまりに広く多様で、自分の思っていることは本当に大きく間違っていないのか、不安です。上のように言っていただくと、少し気がやすまります。

 要約していただいたことも、まさに私の考えているとおりです。ほんの少し違うところは、分別についてです。自分の無我・縁起を知るには、研鑚の果てに分別を超えた体験(「主客未分」から「主客対消滅」に言い換えて、さらに「意識の指向性停止体験」と最近では言っているのですが、まだしっくりする言葉を見つけていません。)が必要だと思っていますし、分別を離れる禅定の訓練をしなければならないとも思っていますが、あわせて正しい分別で行けるところまで教えに迫っていく努力も大切ではないかと考えています。なんてえらそうに言いながら、特に禅定の訓練は全然出来ていないのですが。

 それから、提起頂いた、今苦しんでいる衆生に何ができるのか、という問いかけも、重く受け止めています。
 先日会社の後輩に仏教を教えて欲しいと言われて、酒を飲んだのですが、「それってあたりまえのことですよね」と言われました。私としてはあたりまえのことを方便にして私の思う仏教を語りたかったわけですが、方便の枝葉だけで、肝心のところは全く伝えられなかった訳です。自分の無能さを改めて思い知りました。
 彼の場合は、悩みとか苦しみとかを解決したいというよりも、単なる知的興味だったのだろうと思いますが、それでもむこうからアプローチしてくれるならまだしも、日々の生活に不平や不満を持ちながらも仏教になんの興味もない人達に対してなにかできるのかと自問すると、全く無力です。
 せめてできることは、行き詰まった時に回答を与えてくれる可能性のひとつとして仏教を検討してもらうきっかけになることぐらいだと思っています。私のホームページは、私自身がヒント・導きを受けるためのものではありますが、縁あって立ち寄っていただいた方が仏教にもっと興味を持って下さるきっかけになればうれしい限りです。他にもできる事はあるのでしょうが、世俗の雑務もあってなかなか思うにまかせない現状です。

 ご推薦頂いた梶山先生の本は、実は結構読みました。仏教に興味を持ち始めた頃、立て続けに読んで、今ではあまり自覚はありませんが、その後の紆余曲折はあるものの、私の仏教の最初の形は、梶山先生による部分が大きいのかもしれません。もう一度読み返してみると、見落としていたことがたくさん見つかるかもしれませんね。

 浄土の教えは、不勉強でほとんど知らないのですが、仏教の発展展開として、原点からはかなり遠いところまで到達しているという印象を持っています。それが、正しい発展なのか、逸脱なのか、断じる能力は私にはありませんが、自分を実存的に問う宗教的な深さとしては、仏教の中でも最も深いもののひとつではないかと思っています。
 仏教の中の私とは別の視座から今後もご意見ご批判を頂けるとありがたいです。

                                  敬具
岩井 均臣 様
                                  曽我逸郎


岩井 均臣さんからの返事 01,10,2,

早速の御返事有難うございます。業報輪廻は仏教思想ではないということは大変重要だと思い、曽我さんに梶山先生の本を紹介した手前自分でもいろいろ読み返してみました。そしたら梶山先生は幾つかの論文ではっきりと「業報・輪廻の理論は説一切有部を中心とする小乗アビダルマ仏教独自の思想であって、釈迦牟尼自身の仏教や大乗仏教には決して見られないものである。」と断言されています(浄土真宗教学研究所紀要第五号業問題特集、「業報論の超越」より)。また同じような内容の論文が「仏教と差別」という題で、創価大学・国際仏教学高等研究所・年報の第一号と第二号に、二回に分けて発表されています。もし曽我さんがお手元にお持ちでなく、読みたいとお思いならコピーして送りますので連絡して下さい。
 私自身は浄土真宗の僧侶であるにもかかわらず浄土教は仏教であるかということが課題で「縁起・空・無我」と「極楽浄土・阿弥陀仏・絶対的救済」がどう関係しているのか、それが自分の生き方にどう関わっているのか究明したいと思っています。正直にいうと私も曽我さんと同じように初期インド大乗の思想が仏教の正統だと思っていますが浄土真宗の教学ではあまりそんなことは重要だと見られていません。そのあたりの問題を研究されているのが梶山先生であり、駒沢の袴谷憲昭先生の「法然と明恵」などかと思っています。
 分別について曽我さんのいう「正しい分別で行けるとこまで教えに迫っていく努力」というのは袴谷先生が強調されていますね。私などは仏教は「無分別」をめざすものとばかり思っていましたが、袴谷先生の本には、「正統」と「異端」をはっきりと区別し、「異端」を捨てるのが仏教の智慧だと書いてあり初めは戸惑いました。しかし確かに無分別などと言い出すと何が仏教で何が外道なのかわからなくなり、全く非仏教的な思想が仏教の中に紛れ込みその区別さえできないようになって、果てはオウム真理教のように悪業を作らさないためには殺生も可能という論理が出てきてしまいます。だから正しい分別をする努力は大切なことだと思います。
 釈尊が説いた教え、大乗の菩薩が目指した理想、親鸞が求めた世界、これらに通じるものこそ、私達の苦悩を転じ菩提を実現させて下さることが可能だと考えているところです。ではまた。南無阿弥陀仏、合掌

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