tom-halさんより 空と縁起と無我の相関関係(続)  2001,9,13,

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早速回答を戴き有難うございました。主題に入るまえに無門関の話を少しさせてください。
曽我さんはかつて禅の修業として、座禅をし、無門関の第一則趙州狗子の公案を考究され、またこの公案について師匠との間で問答をされていますね。公案趙州狗子は無門にとつても、”無”の世界を見出した,もつとも重要な公案であると言われています。
(趙州和尚に或る僧が尋ねた、狗=犬に仏性がありますか。州の答え ”無”)
当時あらゆる生物には仏性がある、勿論犬にも仏性があるというのが常識でした。それを和尚から無といはれて困つてしまつた。
この無は絶対無・東洋無といはれ、普通の無ではない。
普通の無とは<言葉と文字の意味ある世界>で無は有ではなく、有は無ではない。
絶対無とは、無でありながら有である世界、有でありながら無である世界、即ち<言葉と文字が意味を失う世界><無門関の世界>である。
<言葉と文字の意味ある世界><言葉と文字が意味を失う世界>については「無門関と仏像彫刻」を参照ください。
さて禅の修業は、座禅・公案の考究・師匠との問答などであり、禅の目的は(生まれながらにしてもつている人間の本来の真面目を見出すこと)また通俗的には(悟りの世界)見出すこと、<ただし私は悟りという曖昧模糊な言葉は嫌いです。出来るだけ使はないようにしています>または(無門関の世界)を見出すことです。
これは禅に限らず、すべての宗教において、その修業の方法が異なり、目的の表現が異なるにせよ、修業に研鑚し、その目的を目指すことは共通である。冗長を省みず、今まで述べてきたのは、このことを言いたかつたからです。
さて本題に帰りましょう。
与件性と要素性についてです。与件性の高いということはアンコントラブル非支配的な具象・内容が多いということであり、要素性が高いということはコントラブル支配可能な具象・内容が多いということです。
無我(の世界)は、曽我さんの自説を勝手に改変しているように見えるかもしれませんが、私にはどうしても無我(の世界)は与件性が高い、というより要素性が高いと考えます。
無門関の無(の世界)も与えられたもの、とするより努力研鑚の修業により、始めて見出すことが可能になるものと考えたいからです。
以上十分な答えになつているか、はなはだ自信がありませんが今回この位にしておきます。また是非ご意見をください。無門関についてもご意見をください。


再びtom-halさんから 2001,9,17,

曽我さんの般若経をもう一度読み返してみました。私は貴説にたいして攻撃したり、反対したり、改造したりする意図は全くありません。
空と縁起と無我の相関関係或いは相互関係というのは、空と縁起と無我の動態的な変化とか活動を表す関係と、静態的な存在とか構造を表す関係のことですが、これに拘泥される必要はありません。また私の貴説に対する意見を一切忘れてください。
空と縁起と無我は曽我さんの般若経の中枢をなすものと思はれますから、その内容・意味・関係などをもつとはつきりすることが必要ではないでしょうか。同様に空と縁起と無我と我執との関係、空と縁起と無我と解脱との関係を明らかにする必要があるのではないでしょううか。
いずれにせよ曽我さんの般若経がますます精錬化されんことを期待しています。
無門関の世界を求めると言いながら、このように言論の海に溺れるとは、全くの矛盾ですね。無門に笑われますね。


tom-halさんへの返事

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