谷 真一郎さんより  悟りへの道程としての意識の中間層  2001,8,20,

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 お元気ですか。
 夏休みを利用して、宮崎県の綾という所へ照葉樹林を見に行こうと思っていたのですが、あいにくの台風で大阪からのフェリーが欠航になってしまい、自宅でウツウツと過ごしております。お盆休みが終われば毎日お仕事の曽我さんから見れば「なにをいい気なもんだ」と思われるでしょうが……
 で、この機会に、過去二回いただいた曽我さんからのメールの議論に、お答えしたいと思います。例によって書き出したらずいぶん長くなってしまいました。曽我さんの文章からの引用を複数いたしましたが、曽我さんの文章の中での順序と違っておりますことを御容赦下さい。

(曽我さん)
『普遍的な「悟り」』は下にあるのか、上にあるのか?
「中間層」の下にある「clear light」は『普遍的な「悟り」』なのでしょうか?
 悟りとは、「そこに帰るべき本来の自然なあり方」なのか、それとも反自然・人工的な成果なのか?
「中間層」の下には「clear light」があるのでしょうか?
 動物は始まった時から一貫して自分の利害・都合に即してのみ世界に対処してきたのだろうと想像します。
 だとすると、無我を見、縁起を見る仏教の教え(=clear light?)は、けして元に戻ることではなく、新しい見方を前に構築することではないかと感じます。
 自然の問題に関連付けて言えば、人間的自然を否定して動物的自然に戻ることが悟りではなく、動物的自然の後に人間的自然(執着とか倒錯とか悔恨とか)があり、(反省や発心や努力・研鑚を経て)人間的自然を新しい方法で克服することが仏教の教えだと思います。

(谷)
「自然」の問題については、前回の私のメールの一部分を再掲します。
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……他の動物の場合と違って、人間は「自然のままに」まかせておけば個体生存のための合理性を逸脱して果てしなく欲望に耽ったり、仮構された「自己」なるものの防衛のために殺し合ったり、生殖とは全く遊離した性的倒錯に陥ったりするわけです。釈尊の言われた「苦諦」も、人間の陥ったそのような「自然的」状況のことであろうと思います。
 ですから、「苦」からの脱却のためには何らかの「反自然」的な作為が必要になるのが道理です。(引用終)
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 おそらくこの部分は曽我さんの見解と一致していると思います。ただ、私はこの部分からただちに、「悟り」は「人為」として「上」にある(帰還ではなく達成としてある、想起ではなく創造としてある)とは考えないわけです。
『意識と存在の謎』という本にシンプルな形で述べられているような構造(表層−中間層−深層)は、結局は「存在」の範疇なのですが、さしあたっては「心理」の範疇として読むことができます。あの本には宗教文献からの引用はほとんどありませんが、地上にある諸宗教の、まさに最大公約数的なものを出している、と私には思われます。
 あの本以後に「チベットの死者の書」を読みましたが、そこに書かれている死後の意識の旅も、「表層−中間層−深層(clear light)」という構造に対応しておりました。ユングは、最下層(「死者の書」では下から二番目に対応)に集合無意識を置く彼の精神分析理論と「チベットの死者の書」の内容上の対応関係に気づいて、「死者の書」をおおいに宣伝しました。また、薬物によってごく一時的に「深層」に達することができる(ヒッピーだけでなく、多くの「未開人」も実践しています)のですが、その経験者は、「チベットの死者の書には、本当の事が書かれている」としみじみと語ったと言います。
 もちろんここで、「死者の書」に登場する多神教的な諸仏・ダキニの形象がチベットという伝統に制約されていることが問題となるのですが、その問題(伝統・風土の特殊性と悟りの普遍性)については後で触れます。
 話を『意識と存在の謎』に戻しますと、この本の内容のレベルにまでシンプルにすれば、人間存在の(動物を含めてではありません)「普遍」になんとか「さわっている」のではないか、と思うわけです。つまり、動物から人間に変化した時(「本能がこわれた」時)に前述の三層構造が成立し、それ以来、人間はその三層構造に則って、執着や倒錯を解除する技法を開発してきたわけです。ちょうど、自然に対して人工的に働きかけるためには自然法則に則ってする事が必要であるように。

(曽我さん)
「民族的土着的な超越的なもの」について
 しかし、自覚的意識の前段階で我々の見方・感じ方を規定しているものというと、それは執着にほかならないのではないでしょうか。だとすれば、「民族的土着的な超越的なもの」は、やはり、釈尊の教えにのっとって、自覚的に批判検討を加え、解体すべきではないでしょうか?

(谷)
 私は、前述のように悟りは「下」にある、という立場をとりますので、悟りに至る道は、表層の日常的意識から下に、何層も深く掘り進んでゆく、というイメージになります。その際、下の層に進めば進むほど内容は抽象的・普遍的なものとなっていくはずです。『意識と存在の謎』の内容として私が紹介したところの「中間層」は、まさにそのような旅で横断してゆく中間層です。
 もっとも、正確に言えばこれは中間「諸」層であって、おおざっぱには中間上層と中間下層に分けられるでしょう。個人の芸術表現の源泉となるようなイメージのるつぼが中間上層、彼の所属する共同体(社会・民族)によって用意されているもの(ユングの言う集合無意識)が中間下層です。中間上層が中間下層に大きく依存していることは見やすい道理ですから、両者を併せて中間層と呼んでもよいわけです。
 また、この中間層は、表層とともに、言語(シンボル)が支配する領域です。
 そして、中間層のその下に、民族性・土着性・風土・伝統・集合的シンボル体系・云々、にとらわれない(換言すれば、それらを「超越した」)、根元の領域があると考えられます。この根元の領域は、もはや言語(シンボル)の支配を離れています。
 人は例外なく、何らかの具体的な民族性・土着性……云々の中に存在します。彼の「悟り」への旅は、意識表層から出発して、彼の生まれ落ちた民族性・土着性……云々に染められた意識の中間諸層を横断する旅です。旅の途上で、風景はしだいに具体性を失って抽象的・普遍的なものとなるはずです。
 あるいは、こうも言えます。中間層はシンボルの領域ですが、旅が進むにつれて、彼の出会うシンボルはしだいに含意の深い、大きなシンボルになるのです。
 最後に彼は、人生全体、「世界」全体をあらわすシンボルに出会うでしょう。たとえば空間的には世界樹・六道(輪廻のフィールド)・須弥山・他界、等(はやりの言葉で言えばコスモロジー)。時間的には「最初の男女」「原初の大災害」「父殺し」「森を切り開き、大地に鍬を入れるという『集合的原罪』」「ある者が自己自身を供犠する(自己犠牲となる)ことで世界全体が救済されたという事件」「母なるものとの分離と再会」等々。これらは世界中の民族の成文化された神話や、「未開」な種族の言い伝えとして、しばしば共通に見られるものです。つまり、その地域に即した具体的なシンボルによって描かれながら(たとえば世界樹は日本では杉であり西洋では樅です)、その含意するところは人類共通のものなのです。
 従ってこれらのシンボルは、いわば中間層と「悟り」の世界とのボーダーであって、シンボル(言葉)の支配がここで終わる、ということを示しているのです。
 また、時間・空間の支配もここで終わります。なぜなら、これらのシンボルが含意している内容は、まず第一に空間的には自分の家と外部の関係であり、自分たちの村と外部の関係であり、(それに擬制して作られたのでしょうが)国家と外部の関係であり、要するに「入れ子」状になっているからです。次に時間的には、それは人類史であり、民族史であり、自分の部落の歴史であり、自分個人の生誕から死までの過程でもあり、ということで、これまた「入れ子」状になっています。
(時間や空間の「入れ子」構造が何故合理的なものとして納得されるのか、という問題については、西田幾多郎の「述語論理」が最も雄弁に解明していると思われますが、ちょっとここでは省略します。)
 シンボル(言葉)・時間・空間の支配を超越して、その下にあるのは、自分もなく対象も無い、具体化される何者もないというてんで真に普遍的な、「悟り」の世界であると考えられます。
 こういう「旅」を経ずして、いわば飛行機で空港という点から点へ飛んでしまうように「悟り」の世界へ至る、ということは困難に思えます。前回のメールでも書きましたように、世界のさまざまな文明に属する人々は、その風土(という特殊性・具体性)に見合ったさまざまな「聖なるもの(ハイデガー流に言えば存在者)」を通じて、普遍的な「聖そのもの(存在)」に迫っているのです。
 つけ加えて言いますと、意識の最も深層にまで行き着かずとも、彼の意識の自覚の射程の中に中間下層までが含まれれば、かなりたいしたものであろう、と思います。現象学の用語で言えば彼の「生きられる世界」の全体が、シンボル体系として彼のもとに把握されるのですから。これは伝統的社会で尊敬された「賢者」・「シャーマン」・大小の「預言者」の境位です。私としては、自分の一生の間にこのレベルの入り口にまで達することを、ひそかに念じているのですが。

(曽我さん)
 ともかく『良くも悪くも内容豊かな「中間層」』とは、活発発地な生命力の場なのか、それともどろどろの執着の束縛の場なのか? 私は、後者のような印象を持っています。外の現実の変化する縁起の世界こそ活発発地な場なのですから、どろどろに濁った執着のフィルタは、なるべく透き通らせるようにしたいと思います。

(谷)
「中間層」をどう価値づけるか、という問題は、人生観としての「一切皆苦」の問題に重なるように思われます。一昨年の5月にお送りしたメールに、私の「苦」観のアウトラインを示したものを引用させていただきます(こういう時にワープロソフトは便利です)
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 まず、「苦」は「苦あれば楽あり」というレベルの苦A(生理的な快苦はこれに含まれます)と、執着によって生じる苦Bがあり、「一切皆苦」という時の苦は苦Bです。次に、苦Bには、自己存在の有限性(死にかかわる問題群)に恐怖する苦Baと、他者や外的対象への執着に由来する苦Bbがあり、前者が四苦、後者が愛別離苦以下、ということになります。原始仏典で「〜は我にあらず、我所にあらず」という形で出てくる時の、我に関する苦がBa、我所に関する苦がBb、という形で対応するのではないかな、と思います。
 さて、苦Bbの原因となる他者や(多かれ少なかれ他者に媒介されて自分の前にやってくる)外的対象物は、3月7日のメールで書きましたように、最初から「意味」という契機を免れません。つまり認識イコール執着なのです。従って、苦Bbに対する「対治」としては、対象認識の外側からそれに並置するかたちで、「しかし、それは縁起して有るものであり無常である」という認識を心に刻んでいくことになるはずです。「執着する自己」を消去するのではなく、「執着する自己」のかたわらに「執着を批判する自己」を置くのです。「四念処」というのはおそらくそういう修行法です。「身は不浄なり」「受は苦なり」「心は無常なり」「法は無我なり」ということを観想することで、日常の意味的諸存在に対する執着を外側から中和ないし削減していくわけです。美人の小野小町が死んで、腐乱して、野犬に食われて、白骨になって……という続き絵の絵解きを写真で見たことがありますが、あれだって、泥臭いやりかたではあれ女性に対する執着を多少減らすことにはなります(よね)。
 一方、苦Baの方は、自己存在が有限の枠の中に入っている(だからこそ自己存在なのですが……)ということ自体に由来する苦です。換言すれば、「自分」というものがいつか終わってしまう、自分の身体にはその「終わり」に向けての刻印がしだいに打たれていく、ということへの苦です。従って、この苦に対する「対治」としては、たとえ一時的ではあれ、自己存在が有限の枠から放たれ(従って自己存在ではなくなり)、「世界」と同一となっているという体験が有効であるわけです。この場合、「世界」は他者を介せず、直接にその全貌を開示して彼を抱き取らねばなりません。以前のメールで「存在そのものの露呈」と呼んだ経験のありかたがこれです。私は山が好きなのでここでどうしても大自然の景観や森林を前にした経験が思い出されてしまうのですが、曽我さんのいわれるように、「細部に宿る神」の姿が雨音やコーヒーの湯気の中に顕れることもあるでしょう。(引用終)
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 私の考えでは、中間層は、曽我さんの言われる「活発発地な生命力の場」「どろどろの執着の束縛の場」どちらでもあり得るわけです。
 中間層が意識表層の経験との間のキャッチボールをくりかえすだけでは、まさに「どろどろの執着の束縛の場」になります。通常は意識表層のみしか自覚されませんから、そのキャッチボール自体も意識にとっては闇の中です。唯識はそのキャッチボールのプロセスを解明しています。
 しかし(ここで、唯識批判のポイントとされた「意識にとっての『外部』」という問題が最も先鋭的に出てくると思うのですが)、意識表層の外部(地層の例を延長すれば、地面表層のさらに上にある空中)からやってくる何物かが機会因となることによって、このキャッチボールは中断されます。中間層は、「活発発地な生命力の場」となるわけです。
 すなわち、「落花飛葉(と仏典では美しく言われるが、人生で遭遇する切実な諸体験)」によって従前の意識が強くゆすぶられた場合(=独覚)、あるいは、「聞薫習」によって意識の外部から何物かが「生きた知識」としてもたらされた場合(=声聞)、表層の意識経験は苦Bとして反省され、中間層はそのような苦の根拠として初めて対象化(自覚)されるわけです。
 そして、まず第一に、苦Bbに対する「対治」は、その共同体において自明とされている意味体系への反省・捉え直しとしての、まさしく「賢者の知恵」となるわけです。(木村敏氏によれば、その反省に適合的な気質が、「自明性の喪失」「微分的変化(兆候)への敏感さ」を特徴とする分裂気質です。)
 次に、苦Baから目をそむけない勇気は、意識の深層を横断し、自分という個の時間的・空間的被限定性を超えた「存在そのものの露頭」を求めることになるわけです。(それに適合的な気質が、てんかん気質ということになります。)ところがここで論点が分岐します。
 A「存在そのものの露頭」、換言すれば「世界そのものの露頭」、に直面している時の個は、「我を忘れて」いるその限りにおいて、一挙に「悟り」の世界にいます。そんな事を言うのは「悟り」の安売りだ、と思われるならば、「無我」という事を思い出してください。聖地に立って「存在そのもの」に直面し「我を忘れて」ている彼と、「我に返」って日常の世界に戻った彼との間に、何之誰助という人格の連続性を求める必要はないわけです。
 Bしかし、「存在そのもの」を非日常的な一時の経験にとどめず、彼の人格に帰属した連続的な何物かとして獲得したいのであれば、その場合には上述の「横断の旅」が必要になるわけです。これが広義の「行」です。「行」は「知」(=般若)の助けも必要とするわけですから、必ずしもてんかん気質オンリーで行けるものではなく、まず自明性から脱却した分裂気質が必要条件としてあり、次に彼のてんかん的素質の大小によって「どこまで行けるか」が決まる、といえましょう。
 ここでAとBとの間にある明らかな論理的矛盾が、中観の空を承認した上で唯識という学問を構築せざるをえなかった「苦渋の問題意識」である、と私は考えるわけです。
 「外の現実の変化する縁起の世界こそ活発発地な場なのですから」という曽我さんの言明に対しては、それを「活発発地」と捉える(浄化された)意識以前に客観としての「活発発地」があるのだろうか、と、先日の酒場でと同様、あくまでからんで(失礼)みたいと思っております。
 「『意識−対象』複合」こそが(あるいは強調して、「『意識−対象』複合」だけが)、フッサールの言う「現象」であり、ハイデガーの言う「存在者」である、と私は考えます。そして、そのアイデアは西洋哲学ではカントの「物自体」というアポリアの突破でしたが、仏教では唯識の「『見分−相分』複合」として、つとに常識化されていたのです。

 では、大変長くなってしまいましたが、今日はこれまでとさせていただきます。暑さまだ続きます。お体大切に。草々


谷 真一郎さんへの返事

すみません。まだお出しできておりません。

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