五十嵐さんより  生が無目的で苦なら何故自殺を勧めないのか?  2001,8,19,

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こんにちは。
はじめまして。
HPを拝見させて頂きました。
私は今まで人間として生れた目的、意義などを
見つけようとして様々な書物などをあたってみたのですが
いまひとつすっきりしないまま今まで生きてきました。
曽我様のHPを拝見して、こういった考えもあるのか!
と、目から鱗が落ちる思いでした。

それで質問ですが、確か意見交換のページに
人間(自分)が誕生した意義や目的がないのだとしたら
生きるのがめんどうだから自殺した方がいいという意見が
のっていたと思います。
なぜ、目的、意義がないのに、釈迦や一般的に広まっている
仏教は、自殺を奨励していないのですか?

私は今の精神状況では自殺しないとは思いますが、
精神的に追いつめられた時は何度も自殺を考えたことが
あります。
でも、目的や意義がないが、生老病死の四苦は避けられない
ものであるのなら、せめて老と病の苦しみをなくす、あるいは軽減
するために一刻も早い自死を選んだ方が、なんだか救われる気がします。

そういう意味で、最近は子供を作る人々に対して嫌悪感を感じます。
なぜ、苦しみを約束されている人間というものをあえて作りだすのだろうか
と思ってしまうのです。

曽我様のHPにこれらの答えが載っていたかもしれませんが、
私にはわかりませんでしたので、もしよろしければ、お返事いただければと
思います。
宜しくお願いいたします。

五十嵐


五十嵐さんへの返事

                         2001、9、6、

拝啓

 しんどい質問を頂きました。
 しんどいというのには二つの意味があります。
 まず、当たり前の事ですが、私は、仏、如来では全然ないので、このような御質問にはお答えできる資格も能力もありません。もうひとつは、私のメールがどんなものあっても、思いがけない縁となって思いがけない結果を生んでしまったらどうしようという緊張感です。直接お顔を見ながら話したとて誤解を生むのが世の常、ましてお会いした事もない方からの初めてのメールでは、とんでもない見当違いをしでかす公算が大きい。私は、自分の事として仏教を細々といい加減にこねくり回しているだけの怠け者ですし、御質問について万人に納得してもらえるような普遍的な答えは持ちあわせていません。以下は個人的な感想にすぎませんので、真に受けずどうか読み流して頂いて、粘り強く御自身で考えて頂き、その結果を私にも教えて頂ければ幸いです。

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 実は、私も、意義や目的を求めて、随分うろうろしました。
 なにから書き始めればいいのでしょう?

 ニーチェのツァラツゥストラは読まれましたか? 最初の方に三段階の変身という話があります。はじめラクダが重荷(その為に生きろといわれてきた伝統的価値)を担って進み、次にラクダは砂漠で獅子に変身し大事に背負ってきた伝統的価値を破壊する。獅子は、さらに子供に変身し、目的や価値に束縛される事なく、純粋に遊戯を楽しみ新しい価値を創造する。

 これを読んだ時、私はこう考えました。子供になるためには獅子にならねばならず、その為にはラクダとなって伝統的価値を背負わねばならないとしたら、我々は、ラクダにさえなれないのではないか? なぜなら、担う前にすでに伝統的価値が崩壊してしまっているから。
 あらかじめ伝統的価値が崩壊してしまっており、しかも新しい価値も創造されていない世界に放り出された私はどう生きればいいのか?
 いかなる指針も基準もない。右にいくのも左にいくのも前も後ろも上も下も、すべては等しくゼロの価値。あらゆる価値から完全に自由であるが故に、私は一歩も踏み出せない。
 当時この話を新左翼系のある友人に話したら、「なるほど、確かに君は、体制の作った狭い檻にさえ行き当たらんくらい全然動いてないから、そんなアホな事がいえるんやろうな」と笑われましたが、これはレベルの違う話なので、置いておきましょう。
 ともかく、当時の私は、伝統的であれ、革命的であれ、絶対的な価値を渇望していたのです。私の生に意味を与えてくれる価値。うむを言わさず私を奴隷として擦り切れるまでこき使ってくれる価値。どこかにそれはないのか? しかし、革命も宗教も労働も学問も、絶対には程遠い。
 頭では、「すべての価値は嘘なんだ。はじめから価値に束縛されていない事、ラクダと獅子の段階をショートカットできる事は、ラッキーなんだ。自由に遊びを遊べばいいんだ」と考えました。でも遊びを楽しむ事ができない。鬱々として日々を過ごしました。
 その頃、不真面目ながら禅寺にも通っていて、「随所に主となる」とか「殺祖、殺仏」という言葉に惹かれたりもしました。
 こんな状態で大学を2年留年して、いい加減疲れて、転地療法のつもりで就職し、一転して慌ただしい日々が始まり、それでも隙間の時間で同じ問題を考え続けてきました。
 客観的普遍的な価値はない。それを前提にどう生きるか?
 職人や芸術家のように、個人的であっても自分を超えた価値に没頭できればどんなにいいでしょう。でも、できない。どんな価値も疑り深い目で見る癖がついている。価値とは、脆弱なもので、ひとたび疑われたら、どんな価値でも簡単にしおれ枯れてしまいます。一見強固な狂信とて、実は強固ではなく、頼るべき価値がほころびかけていることに薄々気付いているからこそ、何とかそれを保とうとして狂しているのだと思います。

 だんだんと分かってきた事は、私は、遊びを純粋に楽しむよりも、本来はその結果意図せず生み出される筈の新しい価値の創造にこだわっていたのです。意味もなく生まれて、意味もなく時を楽しみ、意味もなく消えていく存在ではなく、何がしかの存在、ひとかどの存在、なんでもいい、なにか一目置かれる価値ある存在でありたい。そういう、まさしく我執がありました。価値とか意義に拘るのは、我執の証です。自分を価値あるものにしたい。自分には存在意義があると思いたい、、、
 私が残す美しいもの、醜いもの、価値あるもの、なきもの、そして私自身、すべて例外なく同じように霧消する。我執などそれこそ何の役にも立たない。

 価値や意義や目的にこだわるのは、我執なんだと気付きかけた頃、なぜか外の世界が見え始めました。梢に鳴る風の音、通勤途上に見上げる電線の雀、水面に踊る日の光。我執と外の世界と、どちらに先に気付いたのか。今となって思い返しても、どちらかが原因になっていたのか分かりません。我執への気付きと外の刻々の変化に気付く事は、表裏で同時に平行して進行したように感じます。それまでは、自分、自分、自分。自分の価値・意義、それだけにしか眼が向いていなかったのが、だんだんと自分の周囲のざわめきやきらめき、移り変わりにも気がつくようになりました。

 温暖化のせいか、酷暑のせいか、今年はツバメが長く留まっていたような気がします。お盆を過ぎて、群れをなしてぐるぐる回りながら空高く昇っていったので、いよいよ旅立つのか、また来年元気でな、と思っていたのに、一仕事して気がつくと、また電線にズラリと並んでいました。(それとも我が家にいた一陣は旅立って、その後どこか北からやってきた別グループが羽を休めていたのかもしれません。)
 それにしても、ツバメの渡りには何か意義があるのでしょうか。長旅をして、巣を作り、卵を産み、一所懸命餌を運び、また長旅をして、、、。
 ツバメの生活に生活を超えた目的や意義を求めてもむなしいだけです。そうではなく、風を切って翻る瞬間の身のこなし、大きく開けた雛の口に餌をほうり込んでやる瞬間、電線に並んで夕日を浴びながら羽を繕う時、そういう瞬時、時間が、かけがえのない時で、意味があるとかないとかは問題にならない、けして対象化されない生きた時間であり、それこそが他のなんのためでもない、それ自身で価値のある時間なのだと思います。

 私は、自分が我執の固まりである事にやっと気付きかけた段階です。いつか、自分が本当に無我なる縁起の現象であり、世界の様々な現象に縁を受け、世界に様々な縁を及ぼす、世界の中の世界に開かれた現象であると知ることができるなら、慈悲が働き出し、有情の苦を苦しみ、有情の喜びを楽しみ、「何故」なしにその時その時を生きることができるのではないかと思っています。

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 個人的な話を長々と書きました。

 アプローチを変えて、仏教の見方から検討してみましょう。

 ひとつの可能な答えはこうです。
 「自殺したとて、また次の苦しみの生に移るだけなのだから、自殺によって苦を逃れる事はできない。」
 通説どおりに「釈尊は輪廻を前提としておられた」と考えるなら、おそらくこれが最もまっとうで単純な答えです。ですが、HPのあちこちに書いたように、私は、釈尊の教えの核心は無我=縁起であり、突き詰めれば、無我=縁起は輪廻と相容れないと考えています。無我=縁起を徹底すれば輪廻は否定される。従って、私としては、輪廻は説明の根拠にならないと考えています。それに、輪廻を信じていない人(多分五十嵐さんもその一人ですよね)には、この答えはまったく説得力を持たないのですから。

 頂いたメールを読んで、成道直後の釈尊の説法躊躇を思い浮かべました。成道を成し遂げた釈尊は、五週間の瞑想で解脱を味わわれた後、「縁起は深遠で見がたい。縁起を説いたとて理解するものはおらず、執着を捨て去るものはいない。疲れるだけだ。何もしたくない」と思われました。
 普通に想像すると、成道を遂げたら、例えば「一切有情が安楽に暮らす仏国土をつくる」とか、なにか大きな目標に向けてスタートするのが普通だと思いませんか? しかし、釈尊の思われた事は「何もしたくない」という事でした。唯一釈尊が為そうかと頭に浮かべられたのは、自分の悟った事を教え伝えることでした。しかし、それにもこだわっておられたとは思えません。簡単に諦めようとなさったのですから。もし悟りを教える事を絶対的な価値・目的と考えておられたなら、人々の器の貧しさによけいに意欲を燃え立たせるか、逆に絶望して呻吟されたことだろうと思います。
 つまり、成道を遂げた釈尊は、私や五十嵐さんが問題にしているような自分を超えた目的や意義や価値は、おそらく持っておられなかった。あらゆる目的・意義・価値から自由だった。自分を超えた目的・意義・価値を立てないという意味で、仏教はニヒリズムである言っていいでしょう。誤解を受けそうなので慌てて付け加えますが、価値を求めつつ見つけられないので「どうせ世界に価値なんかないんだ、俺にも価値はないんだ」とすねているかつての私のようなニヒリズムではなくて、価値などに頼らず胸を張って真っ直ぐに立つニヒリズムです。先に書いたように、仏教からすれば、価値とは、それによって自分に価値を与えようとする我執の産物です。
 「何もしたくない」と考えている釈尊の前に梵天が現れて、「衆生の中には理解できるものもいる。どうか教えを説いて下さい」と懇願し、世の中を見渡した釈尊は、悟りを理解できるものもいる事を認めて説法を開始され、その後はひたすら一途に教えを説かれます。これは、価値や意義を認めてのことではなく、価値や意義に根拠を持たない慈悲の発露だと思います。

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 「あたりまえ、、」HPの小論集「釈尊成道の過程」で、苦を3種類に分けて考えました。

 1:生理的な苦。痛み・空腹・渇き・暑さ・寒さ、、、など。その時々の直接的苦痛。
 2:世俗的な苦。損得、嫉妬、恨み、虚栄心、驕り、競争心、、。
 3:実存的あるいは宗教的苦。真の自己・究極の目的・絶対の価値を求めつつ見出せない苦しみ。あるいは100%完璧に宗教的でいることのできない自責。意義ある生を求める苦悩。老病死への恐怖。

 「釈尊成道の過程」では、老病死を生理的苦としましたが、今回、老病死に伴う時々の直接の苦痛は生理的苦として、老病死への恐怖は実存的宗教的苦とした方がいいと考えました。
 五十嵐さんが「生きる事は苦しい」とおっしゃるのは、1の苦でしょうか、2でしょうか、3でしょうか?
 おそらく、1ではないでしょう。
 生理的苦をなくすことは、多分不可能です。釈尊ですら晩年背中の痛みに苦しまれました。しかし、世俗の苦や実存的宗教的苦は、無我を知り、縁起を知り、執着を吹き消す事で、なくす事ができると信じます。
 そして、無我を知り、縁起を知り、執着を吹き消す事ができれば、自分のことばかりではなくなって、外の世界が開け、生成し流転する縁起の世界に生きる有情たちに柔らかな眼差しを向ける事ができるようになると思います。それは、苦に転ずる事のない、透き通った悲しみの混じった、ささやかな喜びだろうと想像します。時には突き刺す慈悲の痛み悲しみとなることもあるでしょうが、、。
 外の有情を見る事だけでなく、自分の身に起こる事にも同じ喜びを感じる事ができるのではないかと思います。ありふれた日常を楽しみ、慌ただしくこなしていく仕事を楽しみ、死でさえその過程を楽しみ味わいつつ死んでいく。そういう境地があり得るものと想像します。残念ながら今の私には程遠いレベルで、とても自然な無理のない文章でそれを書き記す事はできませんが、、、。

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 私見をまとめます。
 生にも世界にも、目的や意義はない。目的・意義を求める事は、我執である。生理的以外の苦は、無我を知り、縁起を知り、執着を吹き消す事でなくす事ができる。無我を知り、縁起を知り、執着を吹き消す事は、同時に外へと目を開かせ、慈悲をもたらしてくれる。目的や意義なしに、縁起を楽しみ慈悲を以って生きる事が仏教の生き方である。

 おしまいに釈尊の最期の言葉を写しておきます。
 「もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成なさい。」
 中村元訳 ブッダ最後の旅 大パリニッパーナ経 岩波文庫

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 治療途中の歯の角に舌が当たってひりひりする痛みに悩まされながら。

                           敬具
五十嵐様
                             曽我 逸郎


五十嵐さんからの返事   2001、9、6、

曽我様

こんにちは。
お忙しい中、ご親切にメールを頂きまして
どうも有り難うございました。

私はまだ仏教経典などを読み込み
自分なりに思考した事が非常に少ないため
今の時点では曽我さんのお返事に、自分の意見を
もって返答する事が出来ません。

今は竜樹がまとめた仏教論にも惹かれる一方で
やはり釈迦の本意に尤も近いであろう
と思われる原始仏教の経典(その名前すらも
しらないのですが)を頭をまっさらな状態にして読んで
みようと思っている所です。
単語一つ一つの使い方が不正確かもしれませんが
どうぞお許し下さい。

面識のない私のためにご丁寧な回答頂きまして
有り難うございます。
自分の中で、回答が見つかったら
またお返事いたします。

まずはお礼まで

五十嵐


五十嵐さんへの返事   2001、9、7、

前略

犀の角として、あせらずじっくりと歩んでいって下さい。
またメールを下さい。お待ちしています。

                        草々

五十嵐さま
                    曽我逸郎

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