浦上さんから ブラフマンとアートマンの一致とは? 2001,5,24,

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始めまして。
 私は最近ブラフマンとアートマンの存在に興味を持った者なのですがふと、ブラフマとアートマンの一致は何を意味しているのかと言う疑問が浮かんできました。
仏教の唯識思想のように、世界は自己の中の識に依存しているということを言いたいのでしょうか。しかし、それではアートマンの中にブラフマンがあることになり、おかしなことになる気もします。
 まだまだ勉強不足なので、この質問自体もおかしなことなのかもしれませんが、ここの所が良くわかりません。
 教えてください。よろしくお願い致します。

                     浦上


浦上さんへの返事

                       2001、5、30、
前略

 メール頂きました。ありがとうございます。

 「ブラフマンとアートマンの一致」についてご質問頂きました。

 しかし、残念ながら私にはお答えする知識がありません。というのは、「ブラフマンとアートマンの一致」は、ウパニシャッドやヴェーダーンタ哲学の主張であって、仏教の教えではないからです。

 ヴェーダ聖典そのものは、紀元前千数百年まで溯ることができるらしいのですが、ヴェーダーンタ哲学(ヴェーダ聖典のおしまいに後から付け加えられた思想的「精髄」部分(ウパニシャッド)の哲学的展開)の完成は、意外に遅く、紀元後千年前後まで下るようです。

 仏教に登場するブラフマンは、ウパニシャッドやヴェーダーンタ哲学におけるブラフマン(中性名詞、非人格的な宇宙の最高原理)とは異なり、人格的な「一番偉い神様」(男性名詞)にすぎません。例えば、成道直後の釈尊がそのまま入滅しようとされた時に教えを説くよう懇願するような、狂言まわし的な脇役でしかありません。釈尊は、ヴェーダーンタ哲学のブラフマンのような「高邁な」「宇宙の最高原理」はお説きになりませんでした。
 アートマンについては、釈尊は、無我(アナートマン)の教えで、その存在を否定されました。
 (公平を期すために書き添えますと、アナートマンを無我ではなく非我ととらえ、釈尊は「色も受も想も行も識もアートマンではない。本当のアートマンは別にある。それを追求せよ。」と教えられたとする仏教解釈(「非我」説)もあります。しかし、私は、釈尊は非我ではなく無我を説かれたと考えています。)

 おそらく釈尊の時代、非人格的な宇宙の最高原理を説くようなウパニシャッドはまださほど発達していなかったのだろうと思います。もし知っておられたら、釈尊は、アートマン同様ブラフマン(中性名詞の)も否定しておられたにちがいありません。すべては無我なる縁起の現象であると。

 仏教本来の見地からすれば、ブラフマンもアートマンも言葉による虚構であって、存在しません。「ブラフマンとアートマンの一致」があるとすれば、ともに言葉による虚構であって、存在しない、という点であるかと考えます。

 ただし、大乗仏教に至って、真如、法身、法界といった個々の現象を超越した単一の根本原理が説かれたり、仏性や如来蔵がひとりひとりに分有されているなどと主張される(ともに仏教の中に忍び込んだ反仏教的傾向と考えています)ようになる背景には、「ブラフマンとアートマンの一致」の思想が影響しているのかも知れません。

 以上、頂いた御質問の答えになっていない事は重々承知しておりますが、ご寛恕のほどお願いいたします。

 ブラフマン・アートマンより、無我(アナートマン)・縁起を学んで頂ければと思います。

                       草々
浦上様
                         曽我逸郎


浦上さんからの返事 01、6、15、

 パソコンの調子が良くなく、
お礼のメールが遅くなってしまいました。
申し訳ありませんでした。

 詳しく説明して頂いてありがとうございます。
またご意見を聞かせて頂くことがあるかもしれませんが
よろしくお願いいたします。

                浦上

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